第六章


第六章  近づく御厨

「まあ、その前にお茶でも一服どうだい」
 飯方医師はそう言って、玄関脇に掛けてあった『本日休診』の札をドアの前にぶら下げると、ベージュ色のカーテンを一気に閉じた。ただそれだけのことで、院内が重苦しいほど暗くいびつに変容した心地がした。
 飯方が髭をしごきながら目を細めてふたりを見下ろしている。
「今日は誰にも邪魔されないようにしないとね」
「患者さんを邪魔者扱いって、それちょっとひどくないですか」
「ああ、いいのいいの。ウチみたいな病院は性質上、急患なんて滅多に来ないんだから実質邪魔者なんていないのさ」
 客人たちに先立って廊下を進む飯方が愉快そうに振り返る。
「しかし、さっきの口ぶりから察するに、御厨君は真相に辿りつけたみたいだね」
「はい、一応そのつもりです。これはきっとミステリーの名を借りた実験小説といっていいかもしれませんね。以前にボク、『1/10の悪夢』は普通の推理小説とは違うって言いましたけど、やっぱりそのとおりでした」
 第一診察室に通されたひかると沙織がベッドに浅く腰掛けると、今日も今日とてよれよれの白衣を身にまとった不良医師は、「お茶淹れてくる」と言い残し、隣りの薬剤室に姿を消した。
「ねえ、ひかる」
 飯方がいなくなったのを確かめた沙織は、だるまストーブに手をかざしているひかるにそっと囁いた。
「飯方さんも小説の中に登場してるってホント?」
「うん、ちゃんと出ているよ」
 なんでもないような調子で肯定するひかる。その表情を見る限り逼迫したものは見受けられず、ただ純粋な好奇心がうっすらと表層に浮かんでいるのみだった。
「でもさ、飯方さんと同じ名前の人なんてどこにもいなかったじゃない」
 主な登場人物の全てについては、【代理人助手】に至るまでその氏名は明らかにされている。だから、もしも飯方をモデルとした人物が登場しているとすれば、回想シーンなどということになる。回想シーンや会話の中だけに登場する人物に関していえば、ほとんど全員に名前がふられていない。つまり、この中の誰かということになるだろう。しかし、そんな沙織の推測は毎度の如く見事なまでに的外れであった。
 ひかるが、だるまストーブの上に乗った洗面器のお湯を指先で弾きながらゆったりと問いに応じる。
「同じ名前の人が出ているなんてボクは一言も言ってないよ。沙織ちゃんが飯方先生を見つけられなかったのは無理もないんだ。その名前はある法則に則って変えられていたからね」
「え、そうなの」
「そうなの。それに特徴も似ているから間違いないよ」
(特徴って……白衣とか、鬚もじゃとか? そんな人いたっけ……)
 早くもオメメが渦を巻き始めた沙織に、ひかるが100万ドルの笑顔を真正面から向けてくる。完全無欠な天使の笑みだった。ひかるに免疫のない人だったら生スマイルの直撃にきっと卒倒していたことだろう。
 沙織がひかるの袖をはっしと掴んで引っ張る。
「ねえ、ひかるはホントに【犯人】がわかったの?」
「うん」
 ひかるは自信たっぷりに頷いた。その様子から察するに相当固い決定的な証拠を掴んでいるのだろう。一緒に読んでいたにもかかわらず、なんら真相が見えていない沙織としてはすこぶる面白くない。そこで、少しでもひかるの思惑に近づこうと、「なにかヒント頂戴よ」とおねだりなんぞをしてみる。
「うーん、今までも充分ヒントはあげてきたつもりなんだけどなあ……まあ、いいか」
 ひかるは何事か考えるように視線を泳がせている。まるでたくさんあるヒントの中からどれを提供しようか迷っているふうだった。
「沙織ちゃん、これ覚えているかな。第24章で山口代理人のモノローグがあったんだけど」
「えっと、モノローグって何?」
「独白のことだよ。心の中で思ったことを書いているシーンがあったよね?」
 ああ、そういうことね、と沙織は納得し、小説の束を捲ってくだんのシーンを開いてみせる。
「あった。ここね」

―――【被害者】を個室に閉じ込めたのは、無論【犯人】の指示によるものだ。軽いジャブ、精神的に追い詰めるという目的もあった。だが、それだけではない。【犯人】は昨日、ある事柄をきっかけに自分が犯したミスに気がついた。自分の犯したたったひとつの綻びに青褪めた。だが、それを【被害者】に暴かれる心配はなかった。死人に口なし、そういうことだ。

 松本と菅野が個室に閉じ込められて火事騒ぎがあったくだりに対する山口代理人のモノローグである。
「物語終盤に差し掛かったこの場面で実に大きなヒントが提示されている。どうやら【犯人】はミスを犯してしまったらしい。だけど、この時点でそれを知りえた【被害者】は既に死亡している、とね。ここを読み解くだけでも【犯人】の正体はたちどころに露見してしまうんだ」
 【犯人】が作中で犯した唯一のミス、それがわかれば自然と【犯人】がわかるって言われても……。
(う〜っ、それがわかれば苦労ないんですけどお……)
 オメメの渦巻きに拍車がかかる沙織に苦笑をこぼしたひかるが、大サービスとばかりに人差し指を立てて追加のヒントを提示した。
「ところで、【犯人】を暴くときのポイントのひとつとして、その特徴が重要になってくるんだけど、沙織ちゃんは登場人物たちの特徴をちゃんと押さえていたかな」
(ええーっ、また特徴の話?)
 正直そう思っちゃった沙織だけれど、見た目の特徴に関してはおおよそ把握している自負があった。10人が10人とも似たようなタイプがいなくて、それぞれにしっかりとした属性があり、キャラクターの書き分けがしっかりされていたからだ。
「もちろんよ」
 と、力強く肯定する沙織。そこへひかるが次々と問題を繰り出してくる。
「じゃあ、10人の中で足が悪かったのは誰だった?」
「石田サチコさん。最年長のおばあちゃん。たしか杖をついていたよね」
 出番は少なかったけど、そこが一番の特徴だったので印象に残っている。
「じゃあ、10人の中で太っていた人は?」
「伊勢崎美結さん。松本さんからコブタとかって言われてた。ひどいよね」
 あたしも食べすぎには気をつけないとね。そう思いつつ、こっそり脇腹をつまんでみる。
「じゃあ、10人の中で方言を話す人は?」
「室町祥兵さんでしょ。関西弁で喋ってたもんね。いくらあたしでもそのくらいは覚えてるよ。ひかる、あたしのことバカにしてない?」
「いや、そんなことないって。じゃあさ、10人の中で煙草を吸っていた人は覚えてる?」
「えっと……たしかそんな人いなかったと思うけど……」
 すこぶる自信なさげに答える沙織に、ひかるが間髪いれず「正解」と言って頭をなでなでしてくる。
「うん、よく覚えてたね、感心感心。第5章で愛煙家がいないことが明記されていたよね。じゃあ次。10人の中で眼鏡をかけていた人は?」
「えっ、えっ……眼鏡の人……そんな人、いたっけ?」
「いたよ、螺子目康之。ちゃんと小説の中で黒縁眼鏡って書いてあったじゃない」
(う〜ん、まったく覚えてない。っていうか、これって何のテスト?)
 沙織の不満をよそにクイズは続く。
「じゃあ、10人の中で和服を着ていた人は?」
「へっ……和服? うんっとね、いなかったんじゃないかなあ。イメージ的には石田サチコさんだけど……」
「ぶー、不正解。正解は『不明』でした。全員の服装についてはほとんど作中で触れられていない。つまり和服を着ていた人はいたかもしれないし、いなかったかもしれない。だから『不明』が正解」
「ひかる、それ、ズルいってば」
 結局ひかるは何が言いたかったのか。肝心の結論を聞きたくてきっかり10秒ほど息を殺して待ってみたが、その口からは次の句は出てこなかった。
「あのお、ヒント終わり? それだけ?」
 あんぐり口をあけた沙織が呆けたように尋ねる。
「そうだよ。今ので充分わかったよね。一読すればはっかりわかる特徴とよく読まなければ見えてこない特徴があるってことさ」
 と、そこへお盆にカップを乗せた飯方が戻ってくる。ガラス製のティーカップに飴色の液体が半分ほど注がれていた。
「ふたりとも紅茶でよかったかな」
「はい、ありがとうございます」
 ソーサーの上で湯気を上げているカップを慎重に持ち上げ口元に運ぶひかるに、沙織はぷうっと頬を膨らませている。
「全然ヒントになってない! なんだか余計わかんなくなっちゃったよ」
 そんな沙織を楽しげに見つめるひかるが口角をあげて微笑んでいる。
「もう、しょうがないなあ、だったらこれが最後のヒントだよ。章のタイトルにもなっている共通点、ミステリー用語でミッシングリンクっていうんだけど、沙織ちゃんは作中の人物たちがそれにこだわりすぎていると感じなかったかな?」
「ううん、別に。ねえ、それってそんなに不自然だった?」
「不自然だよ。閉鎖的空間で見ず知らずの人達が得体の知れない者に次々と殺されていく『そして誰もいなくなった』のようなシチュエーションだったら、同じ人物から恨みを買っているはずだとかなんとか考えたくもなるけれど、これはそもそも殺 人ゲームで目的ははっきりしているわけだから、共通点がある蓋然性はないに等しいんだ。なのに作中の登場人物たちはやたらと共通点を気にしている。それはどうしてでしょうね、飯方先生」
 最後のほうは飯方に向けて尋ねる形となっていた。意見を求められた飯方は穏やかな表情のまま紅茶を啜っている。
「さあ、どうしてだろうねえ」
「登場人物たちが罪の告白を始めたのがそもそものきっかけだったけど、実際のところ【犯人】を告発する上ではそんなのどうでもいいことなんですよ。ボクはそこにどうしても引っかかりを感じました。もしかしたら、これって読者に対するヒントなんじゃないのかなとさえ思えてきたんです。実はちゃんと共通点が準備されていて、それを探り当てることで【犯人】があぶりだされる仕組みになっているんじゃないかってね」
「なるほど、面白そうな意見だ。詳しく聞きたいね」
 身を乗り出してくる飯方に対し、ひかるもまた飯方に体を寄せて先を進めようとする。
「作中では、人を殺した経験だとか孤独からくる破滅願望だとか言ってるけど、実はそんなことじゃなくて、もっと別の根源的な―――」
「あ、ちょっと待った」
 神妙な面持ちのひかるの鼻先に突然手のひらを突き出す飯方医師。
「やっぱり君の推理はあとで聞くことにしよう。その前に【犯人】が誰なのかズバリ教えてもらえないかな」
「だったら、その前に作者に会わせてくれませんか。ボクは今日そのために来たんだし、第一そのほうが手っ取り早いでしょ」
「なるほど、いいだろう」
 飯方はひかるの申し出をあっさり受け入れると、カップを机に置いて立ち上がり、当然のように階段へ向かって歩き出した。
 作者は飯方の患者、作者は登場人物の誰かと同姓同名、2階の病室のネームプレートが10人の登場人物たちの名前と一致。これら3点の事実から『1/10の悪夢』の作者が2階のどこかに入院していることは沙織でも容易に推し量ることができた。問題なのは、その作者がどの部屋にいるかである。
 もちろん片っ端から訪問して尋ねていくことだって可能だが、ひかるは【犯人】が誰であるか承知しているようだし、【犯人】イコール作者という結論にも達しているようなのでそこまでする必要はなさそうだ。
 ひかるは先刻の会話の中で、「飯方先生は作者が誰かはわかっているけど【犯人】が誰かはわからない。作者イコール【犯人】であることまではわかっているにもかかわらず」と意味深長な発言もしていた。あれは一体どういう意味だったのか。沙織は、気になる真相がもうすぐ明らかになるということ自体は嬉しかったが、一方で自分だけが何も気づけないままそれを甘受してしまうのもなんだか癪に障っていた。
「ううっ、さすがにちょっと緊張してきましたよ。飯方先生、今度こそ作者とご対面ですね」
「ああ、そうだね。さて御厨君、運命の選択だ。君はどの部屋を選ぶ?」
 まるで、見事一発で当ててみせろとばかりに飯方がひかるに先を行くよう促す。
 作中の館を彷彿させる左右に5つずつの扉が存在する2階病棟。
 ゴクリと唾を飲みくだし、先頭を切って第一歩を踏み出すひかる。
 規則的に床を軋ませる音が鼓膜を震わせていた。
 やがてひかるはひとつの病室の前で歩みをとめる。
「ここでいいんだね?」
 やり直しはきかないよとでも言いたげに最終確認をする飯方医師。
 唇をきゅっと結んで頷くひかる。
 飯方が白衣のポケットから鍵束を取り出して、そのひとつを鍵穴に通す。
 かちゃりと冷たい金属音。
 御厨ひかるがついにその扉に手をかける。
 その扉の向こうには、『1/10の悪夢』の作者と、すべての謎を解き明かす真実が待っていた。


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