姉弟1



     第1話  姉


 幼い僕は何も知らない。
 九つの少年が、姉との二段ベッドで見る夢は、無邪気で汚れのない真っさらな世界。
「俊助、俊助・・・」
 耳に心地よい母の声。その声は驚くほど優しく、不思議なほどに怯えていた。
 薄闇の中でゆっくりと覚醒する僕。
「お母ちゃん、明日は遊園地やな」
 母の手に握られた赤く光るもの。
 ソレハ、ナアニ?
 僕は心の中で問い掛ける。
 それは庖丁。家族のためにおいしい料理を作ってくれるステンレスのナイフ。それが今や父の血を吸いこんだ禍々しい刃。
 母の表情がよく見えない。
 でも約束したんだ。明日は遊園地。何があっても遊園地なんだ。
 そして、ゆっくりと振り上げられた凶器が僕を狙う・・・


 
 その鮮烈な記憶は、10年経った今でも、僕の脳裏の壁に焼きついて剥がれない。
 人のいい父が同僚の借金の連帯保証人になったのが発端で、ごくごく平凡な家庭は借金地獄に落ちていった。ただの郵便配達員にすぎない父に一千万もの金を返す当てなどなく、連日のように武田家の扉を叩き続ける取りたて屋に、ノイローゼ気味だった母の精神が破綻するのにそう時間はかからなかった。
 父を殺め、僕までも殺そうとし、そして自ら果てた母。
 大人たちはその責任をあっさりと放棄し、二人の子供を残して勝手に逝ってしまったのだ。
 姉は当時18歳。神戸の高校を卒業と同時に僕を連れて上京、某アパレル会社に就職し、以来ずっと僕の面倒を見続けてきた。
 そんな姉も今や人の妻。僕はもう本当に独りだ。けれども、今の僕の心は春の海の波のように穏やかで、寂しさも悲しみも憎しみも、何にもない。何も感じない。
 ただ時々ふと思うことは、あの10年前の約束。
 僕はいつになったらあの遊園地に辿り着けるのだろうか・・・?

 生きてることを苦しいと思ったことはない。
そう感じて首をくくったりする奴は莫迦だと思う。そう思いながらも、ただ闇雲に流れていく時間に、やり場のない苛立ちを覚えることもある。
 僕は決して幸せじゃないけれど、決して不幸せだとも思わない。好んで敵を作りたいとは思わないけれど、味方が欲しいとも思わない。独りで生きて行くのは結構ラクでいい。街の風景に溶け込み、そのままそこにある街の一部になれたらいいと思う。誰にも気づかれず、誰にも愛されず、ただそこにあるだけの存在・・・そんな自分を夢想してみる。
 暦は4月だがまだまだ寒く、築20年のアパート2階の6畳間でひとり布団を被っている僕は、無声状態のテレビのリモコンをランダムに変えながら、何気なく四角く切り取られた暗くじめっとした朝の景色に目をやる。
 雨雲が急速に空を覆いつくしていく・・・


 
 ノックの音で、僕の静寂はあっけなく破壊された。
 姉はいつもそうやって、何の連絡もなしにやってくる。時には夕飯を一緒に食べていったり、時には僕のいない間に掃除をしていったり、嫁いでからもちょくちょく僕の顔を見にやってくる。
 しかし、今回ばかりは様子が違った。入ってくるなり、靴も揃えず上がり込み、わんわん泣きながら、ティッシュを引き抜いては洟をかみを繰り返す。
「で、どうしたんだよ?」
 僕は半ば呆れながら、買い置きのティッシュの封を切る。それを奪い取るようにして、また資源の無駄遣いに走る姉。
「だって、だって、旦那がさ」
 泣き腫らした姉の顔は、マスカラが溶けて福笑いみたいな顔になっていた。
「浮気でもしたか?」
「アホ!そんなんやったら、即離婚や」
 がちがちの関西弁の姉が、10時10分の眉毛で大いに怒る。
「どうせ、姉さんが悪いんだろ」
 義兄は温厚柔和が服を着て歩いているような人だ。義兄もまた両親を早くに亡くして、年の離れた弟を育ててきた苦労人である。そんなこともあって姉と共鳴できた部分もあるのだろう。姉が「武田」から「麻宮」に変わって丸2年が経つが、僕の知るかぎり二人の間で喧嘩があったことはなかった。
「な、なんて言い種よ。俊ちゃんだけはあたしの味方やと思ってたのにィ」
「一体何が原因だよ」
 姉は真っ直ぐじっと僕の顔を見ると、ふいにそっぽをむいて「どうせあたしが悪うございますよ」といじけて見せた。
 全く、我が姉ながら喜怒哀楽の激しいこと。
 秒単位でころころ表情を変化させる姉を見ながら、僕は短くため息をつくと、冷蔵庫からビールを出し、姉にほおってやった。
「こんな朝っぱらから、お酒飲むん?俊ちゃん、えらい乱れた生活してるなァ」
 そう言いながらも、すでに缶の半分を一気に空けている。姉の機嫌を静めるにはアルコールを与えるのが一番だ。
「とにかく、義兄さんには連絡しとくよ。心配してるだろうし」
 携帯電話を掴み、番号を押していると、姉がきてひったくった。
「子供みたいなことすんなよ。姉さん」
「ええの」
 僕は昔からこの顔に弱い。真一文字に結んだ唇に訴え掛けるような目が僕を見上げている。そういえば、僕が姉の背を追い越したのはいつだったろう?
「けどな」
「ええから!」
 姉が強引に僕の手から受話器を取り上げる。
 いつもこのパターンだ。最後はいつも僕のほうが折れるのだ。そのあと僕は、こっそり出て行って外から義兄に連絡を取った。義兄も喧嘩の理由は話さなかったが、すまないけど彼女を頼むとお願いされてしまった。
 部屋に戻ると姉はテレビに目を向けたまま、「どこ行ってたん?」と迅いてきた。僕は「うん、ちょっと」と曖昧に答える。当然姉には僕の魂胆はお見通しだったろうが、それ以上何も言ってこなかった。


 
 午前中降り続いた雨が止み、それを機に僕らは買い物に出掛けた。姉は昔から衝動買いが好きで金もないくせに、よくしょうもない物を買ってきた。電動栓抜き器とか中国語のカセットテープとか名前も知らない昔のアイドルのTシャツとか数え上げたらきりがない。
 今日も僕がとめるのもきかず、これは安い!とかなんとかぬかして電気餅つき機をお買い上げになってしまった。この春先に餅なんか本気で食べるつもりなのか?だいたい6畳2間のどこにそんな大きなものを置いとくスペースがあるというのだ?はっきりいって大迷惑だ。

 その夜、久しぶりに姉の手料理を食べた。
 焼き鮎がきれいな器に盛られ、合わせみその汁にはナス、角豆腐が浮いている。煮物は胡麻豆腐に鶏そぼろ、漬物はキュウリのいんろう漬け。質素で古典的な献立だが姉の腕前はセミプロ級だ。
「おいしい?」
「うん、いける」
「ねえ、おいしいやろ」
 だけど、一口食べるたびにうまいかと尋ねられるのにはどうにもくたびれる。そういうことは夫婦の間でやってほしいものだ。
「あ、バイトの時間だ。行かなきゃ」
「俊ちゃん、まだあの回転寿司屋で働いてん?いいかげんに、ちゃんとしたとこ就職せな。大体いっくら不況ゆうても選り好みさえしなきゃ職なんていくらでも・・・」
「辞めたよ、あそこ。今は近所のコンビニ」
「へっ?」
「クビんなったんだ」
「なんでぇな」
「お前はクライって、さ」
 姉は頬杖をついて、風速50メートルのため息をついた。
「昔っから、内弁慶やったもんなァ、俊ちゃんは」
 僕は少しばかりムッと来て、ジャンパーを引っ掛けて立ち上がった。
「じゃあ行ってくる。適当に寝ててよ」
「ん、分かった・・・ねえ、俊ちゃん」
「何?」
 靴を履く僕の背にさり気なく問い掛ける姉。
「俊ちゃん、彼女いるん?」
「・・・いないよ」
「でも好きな娘くらいいるやろ?」
「いないって」
「隠すな、隠すな」
「別に隠してないよ。窮屈なのは嫌なんだ」
 僕はドアを開けて表に出た。寒い。なぜか姉の淋しそうな横顔が脳裏に浮かんだ。僕は思いきりジャンパーのジッパーを上げて、鉄の階段を一段飛ばしで駆け下りた。


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