はいぱ〜ず第2話



     第2話 呼、海老茶色の空が眩しいゼ

 それはそれは穏やかな朝であった。
 やわらかな春の日ざしが差し込む窓辺。
 食欲をそそる味噌汁の香り。
「きゃあ、遅刻遅刻ぅ〜」
 リボンを結わえるのももどかしく、海老茶高校の制服に着替えながら階段をぱたぱたと駆け下りてきたのは、我らがヒロイン桜吹雪17歳である。
「のわっっ!」

 ドンガラガッシャーン。

 吹雪は登場早々ずっこけた。
 そりゃあもう盛大に。
 あまりに意外すぎる光景を目の当たりにした彼女は、不覚にも迂闊にも瞬時にして三半規管がいかれてしまったのだ。
 転んだ拍子にスカートの中がコンニチハしちゃったりするが、映像でお届けできないのが誠にもって残念である。それもこれも【対象年齢フリー】と、うたっているサイトの限界であるとご理解願いたい。
「おいおい、朝っぱらから何やってんだ、吹雪」
 兄の多門がおしんこをばりばり噛み砕きながら呆れたように妹を見やる。
「お、お兄ちゃん、どおいうことよ、これわっ!!」
「吹雪もご飯食べる?」
 今度は超マイペースマミィ桜蘭子がのんびりと問うてくる。にしても、朝っぱらから和服姿とは実にあっぱれなマミィである。
「食べるも何もねえ……」
 吹雪は再び見た。
 そのおぞましい食卓を。
 桜家のダイニングキッチン。
 オーク材の角テーブル。
 4客の椅子。
 いつもと同じ席に家族が座している。
 キッチンを背にして、母蘭子が、その向かいに兄多門が。
 残りふたつの席が現在放浪中の父綿人と吹雪の指定席である。
 しか〜しッ!
「アタシの座るとこがないじゃないッ!」
 残りの2席には先客がいた。
 勘のいい読者諸兄ならば既にお察しのことだろう。
 謎の覆面男(もちろん今はしていない)如月春眠とその保護者であるラセツインとかいうとっちゃん坊やである。ちなみに彼の本名は羅刹院百虎というのだが、思いっきり名前負けしている。
 昨日隣りに引っ越してきたばかりの男たちがどうやったら我が家の朝食のご相伴にあずかれるというのだろう。
 吹雪の脳裏にそんな疑問が横切ったが、その答えはコンマ3秒で見つかった。
(この母親だ。この人なら易々と招き入れそうだ。)

『ラセツインさんのところは奥様はどうしていらっしゃるの?』
『かみさんなんておりません。恥ずかしながらウチは男ふたりのむさ苦しい所帯でして……』
『あら、じゃあ食事とか大変ですわね』
『ええ、大変ですね。そりゃあもう積極的に大変です』
『でしたらウチでご一緒しません?食事はにぎやかなほど楽しいですから』
『しかし、旦那さんとかはよろしいんですか?』
『ふふふ、ウチ、亭主はいませんのよ。ウチの亭主、放浪癖がありまして、今頃どこで何をしているのやら』
『なんと!こんな綺麗な奥様をほったらかしにして家出とは、けしからん』
『あら、やだわ。そんなこと言われるの何年ぶりかしら』
『またまたご冗談を』
『うふふふ』
『なははは』

 吹雪の空想の中でそんな会話が展開する。
 そして、それは概ね正解だった。
 そんな彼女の不愉快極まりない空想に羅刹院の言葉が割り込んでくる。
「いや、これはこれはお嬢さん、お先してますぞ」
 とっちゃん坊やは、のほほんと玄米茶なぞ啜っている。
「おい、吹雪。早くメシ食わないとバスに乗り遅れるぞ」
 春眠も野生児のようにメシをかきこみながら勝手なことをほざいている。しかもいつの間にか呼び捨てだし。
 テーブルの下でミルクの皿をなめっていた黒猫ゲンブが申し訳なげにニャーと鳴くと、猫アレルギーの多門が軽ぅく眉を顰めてみせた。
「おいおい、ゲンブくん、驚かさないでくれよ」
 まったく揃いも揃って……こいつらの神経の太さと来たら水道管なみだわ!
 握りしめたこぶしがわなわなとふるえる。
 吹雪の怒りが頂点に達するトリガーだ。
 彼女はビシッと玄関を指差して叫んだ。
「ふたりとも出てけ――――!!!」


「それにして何を怒ってるんだろうなあ、あいつ」
 通学バスの中。
 後部座席に陣取る春眠が訝しげな表情で隣りの多門に問うた。
「女の子だからな、そういう日もあるさ」
 春眠は「ふん、そんなもんか」と納得しちゃってる。
 不躾な多門のコメントに前の席で他人のふりをきめこんでいる吹雪の片耳がのわんと大きくなる。
(他人のふり……他人のふり……)
 されど、呪文のように唱える吹雪もまた傍目には決してマトモには見えない。
 そんな中、バスの運転手山田一郎がルームミラー越しに睨みをきかすも、まったくお構いなしに春眠がトンデモナイことを言いだした。
「ところで先生、俺ってどこのクラスに行けばいいんだ?」
 言ってる意味をよく理解できない多門が眉間に縦皺を2本ばかりおったてる。
「どういう意味だい、如月君。君は2年A組じゃないか。そう毎日毎日クラス替えなんてしちゃいないよ」
「いや、そうじゃなくてさ……」
 春眠が頭をばりばり掻かきながら言葉を継いだ。
「つまり、俺はこっちに転校してきてもう1年近く経つわけだろ。当然進級してるよな。今は3年生のはずだ。けど、自分が3年の何組に行けばいいかわからないんだ」
「ちょ、ちょっと待て、ゆってる意味が……」
「だ〜か〜ら〜」
 しきりと首を捻る多門の前で吹雪はいや〜な予感に見舞われていた。いや、悪寒とさえいってもいい。
 まさか、こいつ……
「ちょっとこれみてくれよ、先生」
 やっぱりだ!
 あろうことか、春眠は何もないはずの亜空間から「更新履歴」を引っ張り出してその内容をチェックしはじめたのだ。
「なっ、前回第1話からもう1年経ってんだぜ。しかも、今は春だとかぬかしながら、思いっきり冬じゃねえか。ここの時間の流れはどうも……うわっぷ」
 春眠が全部を言い終える前に慌てて吹雪が彼の口を両手で塞いだ。
(久々の登場かと思ったら、連載2回目にして早くも楽屋ネタですか?ンなもんで、これ以上ページを稼がせるわけにはいかないわッ!)
 とまあ妙な使命感に燃えて強引に話題を転じようとする吹雪。
「ねえ、如月君、部活、どこに入るかもう決めた?」
 ううむ、確かに強引である。
 吹雪はそう言いながら、後ろ足で「更新履歴」をさりげな〜く亜空間の彼方へ蹴っ飛ばしている。
 幸いこの話題には多門の食いつきが良かった。彼は細い目を輝かせながら春眠の両手をガシッと握りしめた。
「おおっ、そうだった。如月君、君の駿足を是非我が陸上部に!」
「悪いがもう決めている」
 春眠は多門の申し出をばっさり切り捨てる。
「なに?一体どこに入部するんだ」
 多門の問いに春眠は、すっくと立ち上がり腕組みをしポーズを決めたところで声高らかに宣言した。
「特殊工作部だ」
 ポカンと言葉を失う多門がきっかり10秒後に尋ねる。
「君は日曜大工が趣味なのか?」
「違う、特殊な任務を極秘裏に遂行する……だな……」
 そこへ吹雪が補足する。
「たぶん、はいぱ〜ず、とかってヤツのことよ」
「バカ、吹雪。それを言うんじゃない。トップシークレットなんだぞ、それわッ!」
 だから、みんな知ってるっちゅーの。
「しかしなあ、そんな部は海老茶高にはないぞ」
 桜多門の至極当然なコメントに思いがけず泣きそうな表情をつくる春眠。
「え、ないのか……ウソだろ?」
 ふつう、ないんですけど……
 されど春眠、まだめげない。
「だったら、戦隊部だ!それならあるだろう」
「如月君、せんたいってもしかして、コケ……のこと?」

 せん-たい【蘚苔】 
 1 コケ植物、特にその有性世代。
 2 古木・湿地・岩石の表面などに生える、普通には花の咲かない低い植物の俗称。
   コケ植物、地衣類のほか、小形の種子植物(サギゴケなど)をも含めていう。
 〜岩波書店 広辞苑第5版より〜

 くそつまらないボケをかます己が悲しい桜吹雪17の春であった……


 海老茶高校校長室では、校長の間祖厄之進がひとり悦に入っていた。
 間祖にとって校長室は密やかなプレイルームであった。
 今日は女子バレー県大会優勝旗をアイテムにしてお楽しみの真っ最中だ。
「うふん♪この先っちょがまたタマらんのだなあ……」
 チクチクチクチク。
 優勝旗の竿の尖頭を己の尻に刺して快楽に溺れている。
 紛れもない変態、ドMである。
「もももう少し冒険してみよっかなあ……」
 尻に刺した尖頭をもちびっと中央に寄せようとする間祖校長。
 期待と不安で息づかいも荒くなる。
 ああ、もう数センチで禁断の花園へ……
 間祖には確かに見えた、天国への扉が。
 そこへ天国の扉……もとい校長室のドアをノックする音が。
 コンコン。
 校長はビックウと、のけぞってあたふたと旗を元に戻し椅子に座ると、なんか知らん書類とかを読むふりをはじめる。
「入りたまえ」
 入室してきたのは、万年教頭の篠沢憲明55歳。名前も普通なら風貌もごくごく普通。取り立てて紹介するべくもない男だ。髪を七三にぴっちりとわけ、度の強そうな黒ぶち眼鏡、紺のスーツに赤いストライプタイ。これで首からカメラでもぶら下げようものならハリウッド映画とかに出てくる典型的なニッポン人の出で立ちである。
 そんな篠沢教頭がおどおどと校長の顔色を窺っている。
「校長、そろそろ朝の職員会議の時間ですが……」
「うむ、わかった」
 教頭とは対照的に日本銀行券の肖像に使われてもおかしくないほど威厳たっぷりの校長は、八の字に生やしたヒゲをひと撫でして椅子から立ち上がった。
 そして、小さく舌を鳴らす。
―――ちぇっ、いいところだったのになあ……


 同刻、生徒会室では生徒会長の竜胆豹が校庭を見おろしていた。
 彼の目には親しげな会話を交わしながら校門をくぐる桜吹雪と如月春眠の姿が映っている。実のところ、彼らは親しげな会話などではなく不毛な口論をしているのであったが、その会話の内容までは彼の耳には届いていなかった。
「あ、あいつは誰だ?生意気にも僕の桜クンと仲むつまじく登校してくるとは!」
「あれは昨日転校してきた如月春眠ですね」
 風紀委員の丁崎杏が背後から事務的な口調で答える。
「如月春眠。経歴不祥。昨日から桜吹雪さんの家の隣りに住んでいます。人間離れした脚力の持ち主で、昨日の覆面男の正体も彼だということです」
 杏が女子トイレの井戸端会議から収集してきた情報を簡潔に伝えると、盆の上に載せた熱い湯気をあげているコーヒーカップを竜胆に差し出した。
「なにィ、あの失敬な覆面男があいつだったというのか!」
「はい。2−A女子からの情報ですので信憑性は高いものと思われます」
 杏が差し出したコーヒーカップを手にとった竜胆がキリッと唇をかみしめた。
「気に食わんな……」
 やがて、竜胆はなにやら思いついたらしく、頭の上に豆電球を灯らせる。
 彼は三日月のように唇を歪めて悪魔的な笑みを浮かべた。
「そうだ。僕に良い考えがある。あいつに罠に仕掛けるんだ」
「罠……ですか?」と杏。
「ああ、そうとも。あいつを罠におとしいれる。ああいう輩にはきついお仕置きをしてやらんとな。丁崎クン、如月に放課後裏門に来るよう伝えてくれ」
 そして、校庭に視線を向けたままコーヒーカップに口をつける竜胆。
 次の瞬間、竜胆の盛大な悲鳴が学校中に轟いた。
「あぢぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜!!!!」
 竜胆のコーヒーカップから立ち上る湯気。
 その湯面がフラスコの中の湯の如くぶくぶく泡立っている。それはそれは超熱湯コーヒーであった。
 それからしばらくの間、生徒会長竜胆豹の唇がたらこ状に腫れあがっていた事実は報告するまでもない。


「失礼します」
 休み時間。校長室をノックした朱見涼子が春眠を伴って入室する。
「ああ、その子が如月君ですね」
 校長の隣りに控える篠沢教頭が涼子に訊く。
 年度の途中から編入する転校生が個別に校長に謁見するのは海老茶高校の慣わしである。
 というのも中途編入の生徒は、ぶっちゃけ大抵はワケありだからだ。春眠もまた例外ではなく、校長権限で編入試験すら受けずに転校してきたいわくつきの生徒であるが、その経緯は追々紹介することとしよう。
「まあ、どうぞ。お掛けなさい」
 間祖校長が朱見と春眠にソファーに勧め、自らも応接テーブルを挟んだ向かい側に座る。教頭は校長の隣りにちゃっかり陣取っている。
 間祖は両手を前に組んで身を乗り出して尋ねた。
「どうですか、如月君。学校の雰囲気には慣れましたか?」
 緊張をほぐさんためか、やたらにこやかに語りかける校長。
 しかし、春眠は険しい表情で校長をまっすぐに見つめて、そして唐突に言った。
「特殊工作部、作ってもいいかな?」
 ぴきーん。
 場の空気が凍りついた。快速冷凍である。
「は……?」
 教頭の頬の筋肉が瀕死の蟲のようにピクピク痙攣する。
「アンタ、校長だよな。この学校のトップなんだろ。アンタが許可すればオッケーなんだろ」
 校長は(少なくとも表面上は)落ち着き払って答えた。
「いやあ、噂以上に面白い生徒だね、君は。しかし、それは一体なんなのかね?クラブ活動のことかな」
「き、如月君、突然ナニ言ってるの。そう簡単に新しい部なんてつくれないのよ。部室だって部費だって部員だって顧問だって必要だし……」
 涼子先生が慌てて春眠を窘める。
「転校早々なんだね、君は。だいたいその特殊工作部というのは何だ。日曜大工でもはじめるつもりか」
 と、篠沢教頭は今朝の多門と同じようなリアクション。つまらん。
「なんだっていいだろ。作ってくれるのか、くれないのか?」
「如月君、君は思い違いをしている」
 間祖校長が自慢のヒゲをひと撫でして言葉を継いだ。
「いいかね。私は独裁者ではないのだ。学校というのは、とくにも私立学校というものはだね、ひとつの会社と一緒なんだよ。私の一存だけではどうにもならん。そのクラブが本当に必要なものなのかどうか職員会議にかけてだな……」
 教頭は内心思っていた。
(よくも言ったものだ。こんなワンマンな校長はそうそういやしない。だいたいがこの如月春眠というどこの馬の骨とも知れぬ青年を編入させたのだって校長の鶴の一声だったじゃないか!)
 そんな思いとは裏はらに教頭も校長に右ならえでにこやか〜な笑みを無理に繕いながら、
「校長の仰るとおりだよ、如月君。いくら我が校が自由な校風を謳っているからとはいえ、最低限のルールは守ってもらわなくては困るなあ。朱見先生もそのへんのところキチンと指導していただかないと……」
「は、はい、すいません」
 涼子先生はペコペコ平謝りで小さくなっている。
(ああっ、もう、如月君、お願いだからそれ以上何も言わないで。うう、やっぱり私、教師に向いてないのかしら。生徒ひとり満足に指導できないんだから。そう言えば田舎のお父さんも言ってたわ。オマエに教師なんて務まるはずがない。田舎に帰って結婚でもして早く孫の顔を見せてくれとかって。うーん、それもいいかもね。私にはそんな平々凡々な人生がお似合いなのよ、きっと。ああ、そうよそうよ、そうなんだわ)
 と、お約束の自己嫌悪モード発動。われ勝手に思考の海にスキューバしている涼子先生をほったらかしにして、春眠が校長に詰め寄った。
「校長、アンタはくだらねえ俗物だな」
「……な……に?」
 校長がぽかんと半口を開けると、教頭が真っ赤になって怒鳴りつけた。
「き、君、失礼にもほどがあるぞッ!」
「思ったことを言ったまでだ。部活のひとつも作ってやる権限ももたない校長なんてただのお飾りだろ。このくそ校長、似合わねえヒゲなんか生やしやがって、ブタ野郎が!」
 春眠はよっぽど自分の部がもてないのが気に食わなかったらしい。ホントは蹴りの一発もかましてやりたいところであったが、昨日の失態を一応反省しているらしく、なるべく穏便にすまそうとしていた。だがしかし、己の口に戸はたてられなかったようである。
(終わった……)
 思考の海から急遽舞い戻った涼子先生は絶望的な思いで春眠の罵詈雑言をただただ聞いていた。
(わかってないわね、如月君。校長先生の怒りをかったらこの学校にはいられないのよ。そしてその担任もとーぜん連帯責任よね、やっぱり。ああ、さよなら海老茶高校。さよなら教師生活。青春をありがとう。短い間だったけど楽しかったわ)
「おい、ブタ校長、なんとか言えよ。なにが自由な校風だ。笑わせてくれるぜ」
「いいかげんにしないかッ!」
 篠沢教頭はハンカチで汗を拭いながら唾を飛ばしている。汗のせいかちょびっとだけ彼の人工頭髪が大陸移動を試みていたが、そんなの気にしてる場合じゃない。
「朱見先生、とにかくその生徒をつまみだしてください。如月君、こんなことしてどうなるかわかっているね。処分は追ってお知らせします。とにかく即刻出て行きなさい!」
「な、なんだとお」
 あまりの横暴な言いっぷりに怒りの臨界点に達してしまった春眠は今にも教頭に掴みかからんばかりの勢いである。
 まさに抜き差しならぬ状況下。
 そこへ信じがたいアンビリーバボーな光景が展開する。
「もお、やめなさいッ!」
 ばきっ☆
「ぐえっ……」
 なにやら不吉な音とともに春眠が椅子ごと後ろにふっとんだ。
 瞬間、何事がおきたのか誰もが把握できないでいた。当の本人さえも、である。
「あ、朱見先生……?」
「ハッ!わ、私、何を……」
 どうやら、怒声とともに放った朱見涼子の水平チョップが春眠の喉笛にヒットしたらしい。
 これは全くの偶然か、ハタマタ涼子先生の秘められたるパワーなのか。
 仰向けにノビている春眠の手には黒い塊が……アデラ○スである。
「はぅ!」
 急に涼しくなったつるっぱげを抱えた教頭が、慌てて春眠の手からヅラをひったくる。
「ととととにかく、今のうちにその狼藉者を連れて出してくださいっ!!」
 信じがたい涼子のパワーにかるぅく怯えを走らせつつ、床にノビている春眠を指して命じた教頭が、帽子をかぶる素早さでヅラを己の頭にのせる。隊長、任務完了であります!
「は、はい、失礼します!」
 春眠の両足を掴み、ずるずると引きずって校長室を出て行く涼子。
 校長は未だ放心状態。そんな校長に教頭は平謝りだ。
「校長、申し訳ございません。如月君は今日付けをもって放校処分の手続きを取らせていただきますのでどうかご容赦を」
「いや……」
 校長はきっぱりと教頭の言葉を遮った。
「その程度のことで放校になどする必要はありません。なあに、私は全く気にしていませんよ。むしろ元気のいい生徒で頼もしいじゃないですか」
「いや、しかしですね。それでは他の生徒に示しがつきません」
「教頭、このことは私たちの胸にしまっておけばいい。如月君も自ら言いふらすようなことはしないでしょう」
「ええ、はあ……校長がそこまでおっしゃるのなら……いや、流石は校長先生、なんともはや、お心が広いですなあ」
 そんなおべんちゃらを残し、不承不承の態で校長室をあとにする篠沢教頭。
 ひとり残った校長がウフフンと満足げな笑みを浮かべる。
「ああ、いいぃ♪ブタか……」
------そうだ、いいぞ。もっと罵ってくれ。この私を醜いブタと罵ってくれ!
 ぬわああんと、この変態校長、春眠の罵声を快楽に捉えていたのだ。
 というわけで……
 幸か不幸か転校生如月春眠は、マゾ校長のブックマークに登録されちゃったようである。


「はっ!」
 春眠は保健室のベッドで目が覚めた。
 時すでに放課後。
「おや、お目覚めかいー?」
 ベッドの横から見知らぬ青年が声をかける。
 青年は女の子みたく長くてさらさらの髪をかきあげて春眠に微笑みかけた。
「誰だ、オマエ?」
 青年はかるぅく眉を顰めて15度ばかり首をかしげてみせた。その仕草たるやいちいち気障なヤツだが美形ゆえにそれなりにサマになっている。
「ご挨拶だね、如月春眠クン。クラスメイトの名前くらい覚えておいてくれよー」
 そして、彼は右手をさしだし握手を求めてくる。
蔓樹快矢。2−Aの保健委員だ、よろしくー……って、うわおっ!」
 ご機嫌ななめの春眠が手に思いっきしツバをかけて握手を返すものだから、たまげた蔓樹が堪らずその手を引っ込めた。
「俺は一体どうしたってンだ!」
 いまだ状況が飲み込めない春眠が苛立たしげに問う。
「まったく自分勝手な男だねー、君は。涼子先生がノビてる君をわざわざここまで連れてきてくれたんだよー」
 正確には〈引きずって〉きたのだが、そんな細かいことを気にせず片目を瞑ってみせる蔓樹。
「あまり朱見先生に迷惑かけなさんなよー、如月くん」
 それにしても……
 と、春眠は上半身ハダカの己の体を見る。
「なんだよ、これは。俺、車にでも轢かれたのか?」
 彼の体にはぐるぐると包帯が巻かれていた。しかもご丁寧に首にはコルセット、足にはギブスまで施されている。
「心配ない。軽い打ち身だ」
「じゃあ、この包帯とギブスは?それにこのコルセット……」
「ああ、それね」
 蔓樹はしれっとして言ったもんだ。
「それは僕の趣味さー」
「趣味……だと?」
「ま、保健委員のたしなみってやつさね」
「バカだろ、オマエ」
 春眠はアホらしくなって包帯やら何やらを乱暴にひっぺがす。
「お、おい、せっかく僕が美しく処置したのに……」
「一生やってろ」
 元気に起き上がった春眠がふっと体を浮かせると、その右足がきれいな弧を描き蔓樹の後頭部を強襲した。
「どへッ!」
 憐れ、蹴り一閃をまともにくらった蔓樹は、春眠の代わりにノビる番とあいなったのである。
 気絶している蔓樹を見て春眠はようやく思い出した。
 ふつふつと沸き起こる怒り。
(この俺に不意討ちとはいえ一発食らわすとは……許せん!)
「あンの野郎〜!!」
 単細胞春眠は怒りに任せて保健室を飛び出した。
「このままではすまさねえぞ!待ってろよ、校長!
 春眠、オオボケ、大勘違い。
 いやあ、若さって素晴らしいっスねえ。
 涼子先生、命拾いです。
 さて、そこへ春眠と入れ違いにやってきたのは我らがヒロイン桜吹雪である。
 吹雪は床に倒れている蔓樹を見て悲鳴をあげた。
「きゃあ!つ、蔓樹君!」
「やあ、吹雪さん」
 吹雪の声にむくりと体を起こす蔓樹。
 華奢な外見に似合わず意外とタフな男である。
「びっくりした。こんなところで寝てると風邪引くわよ」
「いや、なに……ちょっとねー。それより吹雪さん、どうしてここに?」
「あ、そうだった。如月君に伝言頼まれたのよ。涼子先生から彼ならここにいるってきいて……」
「ああ、如月君ならもうここにはいないよー。どこへ行ったかまでは知らないけど、それって急ぎの用なのかい?」
「うん、丁崎さんから放課後裏門に来るようにってことづけされたんだけど……」
「丁崎杏……ふむ、風紀委員の彼女だね」
 吹雪が大きく頷く。
「きっと、アイツのことだから、何かしら会長の機嫌を損ねるようなことでもしたんじゃないのかな」
「かもしれないねー。だとしたらその伝言、早く伝えたほうがいいんじゃないかな。もう放課後だしー。生徒会長を待たせると後々まで根にもたれるよ」
「うん、そうね……じゃあ」
 と、吹雪が春眠を探しに保健室を出ていく。
 誰もいなくなったとたんに、蔓樹は頭を抱えて悶絶した。
「痛ぇ〜!!」
 蔓樹の後頭部にはふっくらとコブができている。
 人前、特にも女の子の前では絶対に格好つけてないと気がすまない彼は痩せ我慢していたのだ。
 だが、それも束の間。蔓樹は救急箱の蓋を開けて己の手当をてきぱきと始める。
 そりゃもう鼻歌交じりのルンルン気分で。
 傷の手当。それは蔓樹快矢にとって至高の喜びなのだ。
 それにして私立海老茶高校、とんでもないヘンタイの巣窟である。


 職員室では篠沢教頭が胃薬を飲んでいた。
 しかし彼のしかめっ面の原因は薬の苦さばかりではなさそうである。
「また、わけのわからん生徒が入ってきたもんですなあ」
「如月春眠ですね」
 現国教師、桜多門が教頭の席に寄ってきて言った。
「おや、桜先生、なにかご存知なんですか?」
 春眠の真っ白な履歴書をひらひらさせながら教頭が尋ねるも、多門は残念そうに首を横に振るばかりだった。
「いえ、私も詳しくは……ただ、如月君はウチの妹と同じクラスでして、しかもどうしたことか彼の家は私の家のお隣りさんなんですよ」
「ほう、これはまた奇遇な。いや、とにかく大変な生徒なんですよ、彼は。なんでも特殊工作部とかいうクラブをつくりたいと校長に息巻きましてな。ったく、なんとか厄介払いできないものですかね」
「教頭先生も露骨ですね。でもまあ、そう邪険にしなくてもいいじゃありませんか。なんでしたら不祥この桜多門が彼の面倒を見させていただきますよ」
「しかし桜先生、彼は一筋縄ではいきませんよ。それとも何か秘策でもおありなんですか?」
 スーツからジャージに着替えて、顧問教師モードの多門が己の胸を叩いて言い放つ。
「如月君を陸上部に入部させるんです。とにかく彼の足の速さは尋常じゃありません。もう陸上をするために生まれてきたような逸材ですからね。あの才能を埋もらせておくにゃあ、ちと勿体ないですよ。ま、彼を入部させれば私の管轄下ですから、そうそう勝手はさせませんしね」
「ですが、彼は特殊工作部をつくると言ってきかないのですよ。そんな彼がすんなり陸上部に入りますかね」
「お任せください。彼はどうも血の気が多い男のようですから、それをうまく利用すれば―――」
「利用する?」
 細い目の奥を妖しげに光らせる多門に身を乗り出す教頭。
 そんな教頭にグッと顔を近づけ多門が耳打ちする。
「うちのエースをぶつけます。負けたら陸上部入部。勝ったら特殊工作部新設という条件でね。彼なら絶対のってきますよ」
「エースって、あの【無冠の王者】をですか?」
「ええ、毒をもって毒を制す。常識外れには常識外れです」
「なるほど、如月君がどれだけ速いのかは知りませんが、彼に勝てることはまずないでしょうからね」
「でしょう?」
 教頭と多門、ニヤリと笑って湯呑み茶碗で乾杯。
「ところで教頭」
「はい?」
 多門がさらに声を顰めて進言した。
「ズレてます。あ・た・ま」
「のわっ!!」
 隊長、ピンチであります!


「あ〜っ、如月君、やっと見つけた!」
 桜吹雪が校門を出て帰らんとする春眠を見つけ駆け寄ってくる。
「俺になにか用か!」
 春眠が鬼のような形相で振り返る。
 ついさっき、校長室に怒鳴り込んだものの既に校長は帰ったとのこと。生徒より先に帰るたあふてえヤツだ、とぷりぷりしていたところで虫の居所すこぶる悪い。
「なに怒ってンのよ。アタシは伝言頼まれたから伝えに来ただけなんだから」
「伝言?」
「そ、そうよ、あのね……」
 吹雪は校舎から走ってきたため、胸を押さえながら息を整えた。そして吹雪がそれを言おうとしたその矢先、絶妙のタイミングで校内放送が割り込んでくる。
「あー、えー、2年A組、如月春眠君」
「お、お兄ちゃん?」
 桜多門の平坦な声がスピーカー越しに春眠を呼んでいる。
「如月春眠君、至急第2グラウンドまで来なさい」
 春眠は興味なさげに聞こえないふりで校門を出ていく。
「あっ、ねえ、呼んでるよ。行かなくていいの?」
「関係ないな。少なくとも俺には用はない」
 すると、まるで見ているかのように(実際に職員室から見ているのだが)多門の声質がガラリと変わった。
「逃げるのか、如月ィ!!」
「逃げる……だとお」
 春眠の両耳がびくりと反応する。
「部の存続をかけて勝負だ〜〜!」
「おもしれえ」
 春眠は腕まくりして踵を返す。本当に直情的単細胞な男である。
「俺にケンカを売るたあいい度胸だ。その勝負受けてたとうじゃねえか」
 ありもしない部の存続もあったもんじゃないのだが、トサカにきている春眠には考えるべくもないことであった。


「なんかやたらギャラリー多いんですけど……」
 吹雪のこめかみには、でっかい汗粒がひとつ浮かんでいた。
 校舎の裏庭から続く坂道を上ったところにある第2グラウンドには、校内放送を聞きつけた野次馬たちが一体これから何が始まるのかと興味津々の態で集まっていた。
 トラックの中で練習に勤しんでいた陸上部の面々も、これでは練習にならんとばかりに休憩モードだ。
 そして召喚のかかった春眠はトラックのド真ん中、仁王立ち腕組みの姿勢で勝負の時を待っていた。
 演出に欠かせない局地的な砂嵐が今日も今日とて吹き荒れまくっている。
 いったい誰と何の勝負するのかなどという疑問は今の彼には一切ない。
 そんな中、黙々と走りこみを続けるひとりの生徒の姿があった。
 鍛えあげられた長身の体躯が風のように駆け抜ける。
 適度に隆起した筋肉が一歩一歩大地を踏みしめるたびに躍動する。
 名前すら与えられるぬエキストラという名の生徒たちが口々に彼の噂をする。
生徒甲「相変わらずマイペースだな、あいつ」
生徒乙「2−Aの藍原偏一か。彼は如月と同じクラスだ」
生徒丙「へえ」
生徒甲「さっきの桜先生の放送じゃ、部の存続をかけてとか言ってたけど、如月のやつ陸上部と決闘でもするのか」
生徒乙「如月は足が相当速いらしい。たとえ【無冠の王者】と呼ばれた藍原とでもいい勝負になるであろう」
生徒丙「へえ」
生徒甲「……いや、いくら如月でも藍原に足で勝つなんてムリじゃねえか」
生徒乙「そうとも言い切れないだろう。なにしろ本来ならインターハイ入賞を狙える藍原にはれいの病気があるのだから。その病気とは躁鬱病である。特にもここ一番というときに限ってひどい鬱状態に陥り、実力の半分も出せないのである。彼が【無冠の王者】と呼ばれる所以はまさにそこにあるのだ」
生徒甲「って、オマエなんでさっきから説明調なんだ!?」
生徒丙「へえ」
生徒甲「って、オマエはうなずき係かい!」
生徒丙「丙(へい)」
 そんなミニコントもオチがついたところで桜多門がギャラリーをかきわけてグラウンドに姿を現した。
「やあ、待たせたね、如月君」
「ふん、俺は逃げも隠れもしないぜ」
「うむ、いい心がけだ。さて、勝負の前に良い報せだ。如月君、喜べ。校長先生が特殊工作部の新設を許可してくださったよ」
「なにィ、本当か!」
 目を輝かせる春眠をいなす多門。
「ただし、課外クラブの定数は規則で決まっていて今は空きがない。しかもクラブには必ず教師が顧問につかなければならないのだが、今のところ教師の方も手一杯の状態だ」
「そんなもの……」
「まあ、話は最後まで聞きたまえ。これからする勝負に万が一、君が勝てばこの問題をすべて解消してやろうじゃないか」
「……?どういうことだよ、先生」
「言っただろ、部の存続をかけて勝負だと」
「おい、それって、まさか」
「そのまさかさ。ウチのエース藍原君と足で勝負して、君が勝ったら陸上部を廃部にし、代わりにご所望の特殊工作部をつくってやろう。部室もあけ渡すし、顧問も私が引き受ける」
 春眠、う〜むと唸って虚空を睨みやがて大きく頷いた。
「問題ない。いいだろう」
 バババーッと目にもとまらぬ速さで空中に蹴りを連発し春眠はやる気満々だ。
「上段下段上段中段下段……うむ、完璧だ。俺の一蹴で藍原とやらを瞬殺してやるぜ」
「も、もしもし……如月君」
 カックーン。
 なで肩になる一同。
 せっかく緊張感漲る場面が彼のお約束の一ボケで台無しだ。
「ばか、足っていったらかけっこでしょ。走りでの勝負に決まってるじゃない!」
 と、吹雪が真っ先にツッコミをいれる。
「いいから早いところ片付けてしまいましょうよ、先生」
 走り込みを終えた藍原がタオルで汗を拭いながらやってきてつまらなそうにいう。
 飄々としながら実にキツイことをいう。
「如月、やめるなら今のうちだぞ」
 長身の藍原が至近距離から春眠を見下ろした。
 負けじと春眠、藍原を見上げて、
「寝言は寝てから言うんだな。ふん、陸上部のくせに走りで勝負とはきたねえヤツらだ。まあ、いいだろう。ただし俺が勝ったら約束は守ってもらうぞ」
 春眠と藍原。
 絡み合うふたりの視線の交点に火花が散る。
「武士に二言はない」
 脇差一本たりともさしていない多門が胸を逸らせて確約した。
「おっと、その前にひとつ言い忘れた……」
「まだ何かあるのか!」
「君が負けた場合は陸上部に入ってもらうからな」
 やはりそうきたましたか、そんなうまい話があるわきゃない。
 ギャラリーどもが納得げにウンウン頷く。だが若干1名わかっちゃいない者がいた。
「え、なんで?」
 ばかヅラさげて問い返したのは春眠だ。
「なんでって……そんな基本的なこと聞かれても……」と、思わぬ反応にアセアセの多門。
 如月春眠、とことんムードぶちこわし男である。
 アキレス腱を伸ばしながら藍原が横から冷静にいう。
「勝ったら部室をやるといってるんだ。そっちも何か賭けなきゃ勝負にならんだろ。ま、俺はオマエなんぞ入部しようがしまいが構わないがな。いずれにせよ、俺が負けることなんてまずもってありえない話だが……そうだ、俺が負けたらオマエのクラブに入ってやるよ」
「ま、いいか。どうせ俺が負けることなんてまずもってありえない話だからな」
 春眠が耳垢をほじくりながら藍原の言葉を真似たのち、ふと軽い疑問を口にする。
「けど、普通逆じゃないのか?」
「どういう意味だ、如月君。私の交換条件に何か不服でも?」
「いや、別に。ただ、俺が負けたら陸上部に入るってのもなんだかおかしくないか。俺が負けるってことは、この藍原ってやつより鈍足ってことだろ。そんな俺が陸上部に入ってもエースの働きはできないんだぜ」
「いや、それはだな……」
 ちらちらと藍原を見やる多門。
 痛いところをつかれた。よもや本人を前にして藍原は躁鬱病という爆弾を抱えているとは言えなかった。
「リ、リレー競技があるじゃないか。それに距離もいろいろあるし、あ、あと、君ならフィールド競技でもかなりの自力が発揮できると思うんだよ、うん」
「お、俺よりコイツのほうが……」
 多門が言いよどんでいることをそこはかとなく察知した藍原の目がドヨーンと腐った魚のように沈んだ。
 その顔色は病人のそれのように青く変化している。
(ハッ、いかーん!)
 多門は焦った。
 この状況は鬱へのプレリュード。
 この場はなんとか取り繕わねばと、多門は藍原の耳に口を寄せる。
「気にするな。藍原君、君は負けない。それにな、陸上部の存続をかけるなんてウソなのさ。どうせ、君が負けわけがないと思って如月君に餌を撒いているだけだ。ましてや、校長がそんな得体の知れないクラブの設置を許可するはずがないだろう。出る杭は打つべし。君の使命はただそれだけだ。リスクは全くない」
「……そ、そうですか」
 ミュィィィン。
 多門の嘘八百でどうにか通常ゲージに舞い戻る藍原。
 そこへ春眠のきつ〜い一言。
「しかしこんなでくの坊が俺に敵うとはとても思えないけどな」
「で、でくの坊」
(ま、まずい……)
 今度は、多門のみならず陸上部の面々に緊張が走った。
 藍原偏一に「でくの坊」と呼びかけることは、いわばトランプでジョーカーを引くようなもの。それが吉と出るか凶と出るかは状況次第。いずれ躁と鬱のどちらかが出現するは必定。
 俯きかげんの藍原の全身がわなわなと震える。
 息を呑んで見守る面々。
「如月……」
「ああ?」
「オマエにだけは負けーん!」
 藍原の顔がまっ赤っかに変色している。
 おおっ〜〜。
 沸き起こる歓声。吉である。
 今の藍原偏一(躁)ならば向かうところ敵なし。従来の実力の5割増しだ。
 勝った!
 多門は藍原の完全勝利を確信した。
 そうと決まれば彼が藍原(鬱)に変化する前にさっさとケリをつけたいところ。
「ささ、それでは早速始めようか。ルールは簡単、用意ドンでスタートし、先にあのテープを切ったほうが勝ちね」
 200メートルトラックのスタート地点にいる一同。そのトラックの向こう側で陸上部員が紙テープをもってスタンバっている。要するにトラック半周100メートル走の一本勝負だ。
「如月君、これでいいかな?」
「楽勝だな」
「ふん、そのへらず口二度と叩けないようにしてやるぜ」
 長い舌をべろんとたらして挑発するように顔を近づける藍原(躁)。
 ちょっぴりキャラが変わっているが気にしないで先へ進もう。
 スタートライン、クラウチングスタイルで構える藍原。その目がギンッと光る。
 一方の春眠は立ったままで自然体。
「俺はいつでもいいぜ」
 いよいよ決戦である。
 多門がピストルを上空に向ける。
 パンッ。
 スタートダッシュ、藍原!
 ああっ、足が見えないよ。涙で足が……じゃなくて、あまりの速さで、掟破りの速さで、こんな速さは反則だ。いいのか、いいのか。
 いいんです、コメディ小説に制約はありません(きっぱり)
 藍原、瞬く間に50メートルを超えている。
 一方の春眠は―――
 ゴールでテープを切っていた(あっさり)
 しかもご丁寧にどこから持ってきたのか紅白のリボンをあしらった金のハサミでちょっきんと。
 春眠は汗ひとつかいていない。
 如月春眠VS藍原偏一
 2秒63、如月春眠の勝利である。
 あぜん……
 ギャラリー全員がモアイ像と化した。
 それは、春眠の常識を超えた非常識破りの速さゆえだけではなかった。
 多門がピピピーッとホイッスルを吹きながら春眠に詰め寄る。
「ず、ず、ず、ずるいじゃないか、如月君!」
「何がずるいだよ。先生、確かに言ったよな。先にあのテープを切ったほうが勝ちって」
「ああ、言ったとも」
「あのテープを切ることが勝利条件だ。どのルートを通ろうが俺の勝手だろ」
 そうなのだ。
 春眠はあろうことか、トラックの周囲を走らずにトラックをまっすぐ横切ってゴールテープを切りやがったのだ。
「い、一休さんですか、アンタわ!」
 キャラに似合わず、とんちで乗り切った春眠に呆れ果てる吹雪。
「如月君、君がそんな卑怯な男だとは思わなかったぞ」
 当然のことながら多門は承服しかねている。
「先生よ、アンタ、俺の何を知ってるってんだ。勝つためには手段は選ばない。それが俺の主義だ。それにこんなやつマトモに相手するまでもないだろ」
「揚げ足を取るんじゃない。とにかく今のは無効だ。もう一度勝負するんだ」
「やだね」
「如月ッ!」
 怒り心頭で唾を飛ばす多門。
 そんな彼を藍原が羽交い絞めする。
「もういいですよ、先生」
 藍原の顔が青色に……鬱モード発動だ。
「し、しかしだな、藍原」
「みんなも見てました。如月の言うとおりです。俺はマトモに相手にされる価値もないってことなんですよ。あいつがちゃんとトラックを回っていたとしてもきっと俺が負けてました」
 たしかに春眠はズルをした。トラックをまっすぐ横切るというとんでもないズルを。しかし、その速さは光さえも追い越さんばかりであった。いやそれはちょっと言いすぎだけど誰の目にも春眠の方が速かったのは明らか。しかもまったく息があがっていないのだから、本気を出していなかったということ。伊達にバスと並んで走っちゃいなかったというわけだ。
 多門、その場に膝をつき頭を抱えてしまう。
「ああ、なんということだ。伝統ある我が陸上部が……」
「俺のせいです。全部俺が悪いんです。うう……」
 藍原は藍原で鬱モード驀進中だ。
「あんなに練習したのに、俺って……どうせおれはどうせおれはどうせおれは……」
 気をつけろ、藍原。涼子先生とキャラちょっとカブってるぞ。
 そんな藍原(鬱)の肩を春眠がポンッと叩く。
「心配するな。陸上部を乗っ取るほど俺もワルじゃない」
「なに?」
「陸上部の活動は勝手に続ければいい。ウチの部に統合という形で残しておけば問題ないだろ」
「如月君……」
 多門は地獄で仏に出会ったような心地だった。嗚呼、なんと素晴らしい青年であろう。全日本好青年選手権なら間違いなく入賞を狙えるに違いない。
「藍原、オマエも思ったよりやるじゃないか。まあ、俺ほどじゃないがな」
「如月……」
 そして春眠は藍原に一枚の布キレを手渡した。
 なんて粋なヤツだろう。泣き崩れる藍原(鬱)にハンカチを貸してやるだなんて。
 如月春眠、【漢】と書いて【オトコ】と読むゼ。
「うう、すまない……どうせ俺はどうせ俺は……ん?」
 ふと、妙な感触を得た藍原が布キレを広げてみる。
 その青い布キレにはスニーカーの紐みたいなのが編みこんである。しかもやたら穴だらけ。小さい穴がひいふうみい。大きい穴がひとつ。
 これはどうみてもハンカチなどではなく……
「覆面?」
 問いかける藍原にとびっきりの笑顔で春眠が応える。
「ようこそ我が特殊工作部(陸上部)へ」
 そして、多門の叫びがむなしく第2グランドに木霊する。
「勝手にカッコでくくるなあ!!!」
 前言撤回。
 如月春眠、全日本好青年選手権予選落ち。
 【性悪】と書いて【ワル】と読むゼ。


 やがて……
 打ちひしがれてグランドを去っていく多門。
 ギャラリーたちも家路につき再び安穏が訪れた。
 そして、そこに残った者は……
 気の早いことに陸上部の看板をバッテンで消して「特殊工作部」への書き替え作業に忙しい如月春眠。
 青いマスクを握りしめたまま真っ白に燃え尽きている藍原偏一。
 そして我らがヒロイン桜吹雪。
「さてと、アタシも帰るとしますかね」
 吹雪は誰にともなくそう言って歩き出したが、いきなり春眠に襟首をひっつかまえられた。
「手伝ってけよ、吹雪」
 いわれなき要求に当然のように反抗する吹雪。
「冗談やめてよ。どうしてアタシがアンタの手伝いなんてしなくちゃなんないのよッ!」
「オマエもここまで首突っこんだんだ。部員になってもらう」
「そんなこと勝手に決めないで!」
 春眠は作業する手を一旦とめて意外そうに吹雪を振り返った。
「だって、オマエ入部だろ?話の流れ上
「えっと……おっしゃってることがよくわかんないですけど」
「オマエ、今、どこか他の部に入ってるのか?」
 吹雪は返す言葉がすぐに見つからなかった。
―――帰宅部です、ハイ。
(でも、こんなわけのわかんない部なんてずえったい入りたくありましぇん!)
 吹雪は、昨日見たハイパーレッドのポーズを思い出して赤面する。
―――できない。あたしには無理無理。
 花も恥らう乙女なのに……
 吹雪はいやんいやんと首をふる。
 しかし春眠はまったくおかまいなしだ。藍原と色違いであるピンクのマスクを吹雪の鼻先に突きつける。
「やはり女はピンクが定番だろ」
「あ、あのう……如月君?」
「不満か?だったら他にもあるぞ」
 春眠は手品師さながらに体中のいたるところから色とりどりのマスクを引っ張り出してみせる。
「これがハイパーグリーン、こっちがハイパービリジャン、で、こいつがハイパー黄土色で、これがおすすめのハイパーリラクゼーションだ。さあ、どれにする?」
「あ……あ……」
 吹雪の両のまなこはもはやウズマキ状態だ。
 ツッコミどころ満載であった。
 何でアタシが?
 何でマスクを?
 そもそもこれってなんの団体?
 グリーンとビリジャンって見た目変わんないじゃん。
 片っぽはニセライダーですか?
 黄土色というより、なんだかリアルうん……
 ハイパーリラクゼーション……って、これ、マスクはマスクでもアイマスクじゃないスか!
 千手観音じゃあるまいし、そういっぺんにボケられてもねえ……
 瞬時にして様々なつっこみが頭をよぎったが、結局消え入りそうな声で呟いた彼女の台詞はこの一言。

「これでいいです……」

 がびーん。
(やっぱり、<話の流れ>ってやつには逆らえないものなのね)
 ピンクのマスクを握りしめグラウンドにひざまずく吹雪。
 嗚呼……
 海老茶色の空がまぶしい。
 甲子園はアタシの夢……
 手の中のマスクにグラウンドの砂を入れる吹雪。
 マスクの目鼻の穴から零れ落ちる砂。
 それでも砂を入れつづける吹雪。
 まさに永久連鎖。2コマ構成のアニメーションGIFを見ているかのようだ。
 え〜と、どうやら彼女、少し壊れちゃったみたいです。
 現状復帰まで少々お時間をいただきたい。
 そこへ……
「な〜ご」
 どこからともなくフレームインしてきた黒猫ゲンブが吹雪を見上げてひと鳴きする。
 ゲンブはできうれば人間語で言おうと思ったのだが、あまりに嘆かわしい彼女の惨状を目の当たりにして、ちょっと言いだしにくかったのだ。
 ゲンブはこう言わんとしていたのである。
「ところで吹雪さん、あなた、何かお忘れじゃありませんか?」と……


 さらに数時間後。
 日もとっぷりと暮れた裏門では、竜胆豹がスコップを手に孤軍奮闘していた。
 彼は朝から今まで、ず〜〜〜っと落とし穴を掘り続けていたのだ。
 竜胆が言っていた罠に陥れるとは、落とし穴に落とし入れることだったらしい、ギャフン。
 通りすがりの土木作業員がそんな彼の姿を見て思わず声をかける。
「おう、あんちゃん、いい仕事っぷりだねえ。どうでえ、良かったらウチの現場で働かねえかい?」
 竜胆は無視して穴を掘り続けた。
 ライトつきのヘルメットが妙にサマになっているのがおかしくも悲しい。
 しかもずいぶんと掘りすぎて、自力で穴から出れなくなっているという事実にまだ気づいていないというおマヌケぶり。
「会長」
 竜胆が汗を拭きながら暗い空を見上げると、丁崎杏が穴から顔を覗かせている。
「おおっ、丁崎くんか。見てくれたまえ、この穴を。ふふふ、これならいかな如月といえどおいそれとは這い上がってこれまい」
「あのう、でも、彼、もう帰ったみたいなんですけど……表門から(ボソッ)」
「な、なぬぅぅぅ!!」
「会長、私、7時から見たいテレビがありますのでこれで失礼します」
 と、無情にも丁崎が視界からフェードアウトする。
 しかし伊達に生徒会長を務めちゃあいない。竜胆豹はこれしきではへこたれなかった。
「まあ、いいさ、彼へのお仕置きはまたの機会にしよう……ん?」
 10秒の沈黙。
「……って、出れないじゃないか!おい、丁崎君、丁崎君ってば!隠れてないで出ておいで〜!」
 されどその声は虚しく穴の中に響くだけ。
 裏門の脇に咲き誇る桜の花びらが夜風に誘われはらはらと舞い散る。
 そのうちの一枚が深遠なる穴の底で虚空を見つめる竜胆の銀縁眼鏡の上に舞い落ちた。
 桜の花びらをそっと手に取り愛しげに見つめる竜胆。
「ううっ、桜クン……僕は負けないよ。いつかきっと君を……」
 竜胆は唇を震わせつつ、顎に梅干をこさえていた。

「うわーん、誰か助けて〜〜〜!!」

 ガンバレ、竜胆。
 負けるな、竜胆。
 君のファンは応援してるぞ。
 とはいえ途中で消えちゃうかもしんないキャラ、ナンバーワンであることはもはや動かしがたい事実。
 ともかく彼の次回の活躍に期待しよう。
 っていうか次回の登場すらあやしいところではあるが……



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送