人生時計

人生時計


 私は今、激しい虚脱感に打ちのめされている。私の人生とは一体なんであったのだろうか。文字通りあっという間に歳月が過ぎていったように思える。私は今まで何をしていたのだろう。いや、おそらく何もしていないに違いない。
 あてどもなく歩き、公園にたどり着いた。もう歳なのか、まだ一キロと歩いていないのに異常に身体がだるい。あちこちペンキが剥がれていい加減がたのきているベンチに腰を下ろす。杖とベンチに身を凭れて鼠色の空を仰いだ。あの日も確かこのベンチに座っていた。あの日の空は抜けるような青だった。

 若い日の私はくさっていた。どうもこの頃何もかもがうまくいかない。今回の入札は是が非でも落として来いと係長に言われたもののまるで自信がない。競合会社のK商事が既に裏で手を回していることは分かっていた。どう見ても勝ち目がない。私には荷が重過ぎるのだ。
 春の眠気が怠け心を誘い、公園で一休みすることにした。白くつや光りのする真新しいベンチに横になり、深呼吸を一つしてまぶたを閉じる。
 どのくらい眠ったのだろうか。まだ日が高いところを見ると、そう長くはなかったようだ。ゆっくり伸びをすると一人の少女が駆け寄ってきた。少女はなんとも形容しがたい風変わりな服を着けていた。さらにこちらもまたおかしな形の腕時計を取り出すと、訴えるような視線を私に向けた。
「ねえ、おじさん。この時計買ってちょうだい。これが売れないと、私おうちに帰れないの、ね、お願い」
 おじさんと呼ばれたのは少々不本意だったが、私の袖をつかんで今にも泣き出しそうな少女の顔を見ていると哀れに思えてきた。そこで私は一万円札を少女の幼い手に握らせた。
「おつりはいらないからね」
 そう言って微笑むと少女の態度がころりと変わった。「おじさん、これフクザワユキチじゃないの。すごーい。これって今六十万円ぐらいの価値があるよね。ほんとに、貰っちゃっていいの。わー、ありがと。あ、分かってるとは思うけど、ネジで針を動かした分だけ未来に行けるけど、過去には戻れないからね。それじゃ、バイバーイ」
 少女がスキップをしながら去っていくのを私は唖然として見送った。未来に行けるなんて、夢みたいなことを臆面もなく言えるのだから子供というのは面白い。おまけに一万円札を見て六十万円なんて言うとは実に滑稽だ。しかし本当に時計の針を動かすだけで未来に行けたらどんなにいいことか。せめて、午後からの入札の時間だけでも通り過ぎてくれたらと、ふと思う。下腹部がきりきり痛む。いつもこうだ。元来、私は小心者で物事を悪いほうにばかり考えてしまう。落とせなかったらどうしよう。いや、落とせっこない。所詮新参の弱小会社なのだ。
 何気なく先ほどの時計に目を落とす。無駄なことは分かっている。しかし、慰めにはなるだろう。そうとも、別に本気で信じているわけではないのだ。そう自分に言い聞かせて、時計の針を夜七時にセットした。すると・・・
 ややっ・・・!
 ちょっと瞬きしただけなのに・・・
 闇が空を支配した!さっきまで砂遊びをしていた子供たちが掻き消えた!突然沸いてでた野良犬がブランコの柱に小便をかけている!
 私は両手で目をこすり、ありきたりではあるが頬をつねってみた。痛い。どうやら少女の言ったことはあながち嘘でもないらしい。それでは一体彼女は何者なのか?いや、それよりもっと大切なことがあるじゃないか。入札はどうなったんだ?慌てて書類袋を開けてみる。やはりK商事の落札だった。同時に係長の赤ら顔が脳裏に浮かんだ。
 結局また時間を進めてしまった。もう二度と係長の顔など見たくはないのだ。私には恋人と過ごす時間さえあればいい。そしていつの間にか出勤時間になると時間を進める習慣がついていた。働いてもいないのに財布の中にはきちんと給料が入ってくる。こんなうまい話はあるまい。私は一人ほくそ笑んだ。
 やがて、私は結婚し、まもなく子供を授かり、それなりに平凡で幸せな日常に満足していた。
 ある朝、娘が洗面所で手首を切って自殺した。なぜ娘がこんな馬鹿なことをしたのか、私にはさっぱり分からなかった。だが、妻には分かっていたらしい。私の知らない時間に何かが起こったのだ。娘のまわりに広がる血だまりをぼんやり見つめながらそう思った。
 それでも私は時間を進めることをやめなかった。時が経てば、この否応のない悲しみから解放されると考えたからだ。そしてまたある日、いつも通り時計のネジを回すと、今まで台所に立っていた妻の姿が消えた。しかしいくら時間を進めても、妻は二度と現れることはなかった。またしても私の知らない時間に何かが起こったのだ。今となっては、それが何であったのか知るすべもない。
 私は大声で叫びたい衝動にかられた。もしそうすれば、間違いなく気がふれてしまうだろう。鏡を見た。いまいましく顔に刻み込まれた幾すじもの皺、変色しつつある頭髪。こんな馬鹿な、これほどまでに老いているはずがない。こんな馬鹿な、私は、まだ、人生を、楽しんで、いない・・・私は手首から時計をむしりとり、渾身の力をこめて地面に叩きつけた。カバーガラスが割れ、二本の針がくしゃりと潰れる。さらにそれを踏みつける。何度も、何度も、何度も、何度も・・・

 鼠色の空は更に色濃くなり、やがて雨になった。まるで今の私の気持ちを代弁するかのように・・・。後悔と自責の念が強く胸を締めつける。「時」とはなんとすばらしく貴重なものであったのか、やっと分かったような気がする。私は一人でベンチに腰を下ろしたまま、雨に打たれている。
 あの少女が再び現れるような気がした。そしてあの時のように、訴えるような目でこう言うだろう。
「ねえ、おじいちゃん、この時計買ってちょうだい。今度のは過去にも行ける時計なんだから」
 私は待っている。
 あの角を曲がって、軽い足取りでやってくるであろう少女を。
 右手には、今では六十万円もの値打ちがあるフクザワユキチを握りしめて・・・


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