あなたの通勤経路の途中にちょっと寂れた感じのあまり流行っていそうもない定食屋がある。
だが帰宅する道すがらその店の前を通ると、えもいわれぬ芳しい香りがあなたの鼻腔を擽る。
入ってみたい。食べてみたい。
あなたは毎日その店の前でそんな衝動に駆られる。
がしかし、あなたは立ち止まることさえせず、そのまま家路を急ぐ。
家に帰ればあなたの奥さんが夕餉の支度をして待っているのだ。
朝食も弁当も作ってくれない奥さんの手料理。
これを断ったらどうなることか。
彼女は怒るだろうか。
いや少なくとも表面上は怒りはしまい。なじったりさえしないだろう。
ただ、次の日から彼女の手料理が食べられなくなるだけ。
何事もなかったかのように、いままでとなんら変わらないといったふうに、彼女は食事を作ることを放棄するに違いない。
あなたの奥さんはそういう女性なのだ。
だからあなたは残業する時でも食事を摂らずに帰宅する。
外で食べた後、帰ってからまた食べるということもできなくもないが、彼女はきっとそれに気づくはず。
あなたの奥さんは存外に勘が鋭いのだ。
しかしなぜあなたは、そこまで奥さんの手料理に固執するのか。
通常三品のおかずがつく食卓。
うち二品は明らかに冷凍食品。
残り一品だってかなりの高確率でスーパーの惣菜コーナーのものをただ皿に移しただけのように見受けられる。
それでもあなたは奥さんの料理にこだわる。
いや、きっとあなたは怖いのだ。
それがなくなることによって、あなたたちが夫婦ですらなくなってしまうような気がしてならないのだ。
だからあなたは我慢して食べる。奥さんの料理をひたすら食べつづける。
けれどついに、あなたが誘惑に負けてしまう日が訪れる。
あなたはあの定食屋の暖簾をくぐってしまったのだ。
込みあげる後ろめたさで胸がいっぱいになる。
「いらっしゃいませえ」
元気の良い店員の声があなたをあたたかく迎えいれる。
「おかえりなさい」なんて一度も言われたことのないあなたは、もうそれだけで感激してしまう。
しかも店の外観から想像するに、年金暮らしの老夫婦がひっそりと営んでいるものと思っていたら、お冷を持ってきたのは若くて健康的な感じの女性。とりたてて美人というわけではないが、それなりに器量は良い。はっきりいってあなたの好みのタイプである。
あなたは壁に掲げられたお品書きを順々に読んでいく。
二十種ほどのメニューをひととおり見終わった後、厨房へつづくドアのところに小さな黒板を発見する。
そこには赤いチョークで「日替わり定食 八〇〇円」と書かれている。
あなたは迷わずそれを注文する。
出来上がるまで待つ間も厨房のほうから良い匂いがぷんぷん漂ってくる。
お冷で生唾を飲みくだすあなた。
待ちきれない。たまらない。
夢にまでみた至福のときがすぐそこに迫っている。
そこでようやくあなたは店内をじっくりと見渡してみる。
時間帯の関係だろうか、あなた以外に客はいない。
おそらく閉店間際だからだろう。
あるいは外観のみすぼらしさが客足を遠のかせているのかもしれない。
そんなとりとめもないことを考えているうちに日替わり定食が出来てくる。
そして約三十分後。
食事を終えたあなたが店を出てくる。
そこであなたはこう思う。
あんまりおいしくなかったな、と。
さらにこうも思う。
妻になんて言い訳しよう、と。
あとに残るのは底知れぬ虚しさだけ。
うなだれるあなたの背中が、心なしかいつもより小さく見える。
人生とは大概においてそういったものである。
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