最も簡単なダイイングメッセージ(問題篇)

最も簡単なダイイングメッセージ(問題篇)


「いや、これはひどいな……」
 とある土曜日のお昼前。死体を見下ろしながら合掌しているのは神奈川県警捜査一課の九条警部補だ。
 殺 害現場となった5LDKのマンションの一室は捜査員たちで溢れかえっていた。鑑識課員が指紋検出や証拠採取に立ち働く中、後頭部をぱっくり割られた物言わぬ骸が今まさに担架に乗せられて運び出されようとしている。
「これが凶器か」
 死体の代わりに人型に配置された白テープ。その頭部に位置する場所にガラス片が散らばっている。
「花瓶ですね」
 円谷冴子刑事が手袋を嵌めた手で凶器の欠片を摘みあげた。
「この部屋のものかな?」
「そのようです」
 そう言って冴子はダイニングキッチンの食器棚の上に四つ並んだ花瓶を指し示した。花瓶はすべて円柱形で直径約五センチ、高さは二十センチといったところか。四つの花瓶は等間隔に並んでおらず三つまでは約三十センチ間隔だが、もうひとつは少し離れて六十センチほど先の延長線上にある。バランス的に三つ目と四つ目の間にもうひとつ置かれていたものと思われる。おそらくそれらと同じ形状のものだろう。四つの花瓶すべてに花は挿されておらず水も入っていない。花瓶本来の目的としては使用せずインテリア感覚で置いていたようだ。現に凶器として使用された花瓶の破片の辺りにも水が零れた形跡はない。
「円谷君、その破片が気になるのかね?」
 摘んだ破片をいつまでも陽光にかざしている冴子に九条が問う。それは比較的大きな破片でビールの王冠をちょっと大きくしたような形、ちょうど花瓶の底にあたる部分だった。
「はい、たいしたことではないのかもしれませんが破片の散らばり方が少し不自然なんです。血がついているのでこの部分で殴打されたものと思われるのですが……」
「こんなもので後ろから殴られたらひとたまりもなかったろうな。いわゆる渾身の一撃というやつか。それで散らばり方が不自然とはどういうことだ」
「犯人は凶器を一旦回収しようとしたのではないでしょうか」
「ふむ、一度は集めようとしたが途中で思い直して元に戻したと?」
「かなり雑にばら撒いたという印象ですね。きっと犯人は動転していたのでしょう。とにかく凶器を片付けようとしたけれど元々部屋にあったものを使ったのだからわざわざ持ち去る必要はないと最終的には判断したものと考えられます」
 あらかじめ用意されたものではなく部屋の中の物を凶器に選んだのであれば、発作的な犯行である可能性が高い。冴子の推測は理にかなっていた。
「指紋はどうだ?」
「いくつか残ってます。割れた後では拭き取りようもなく、だからこそ回収しようとした。でも犯人はそれをやめている。持ち去って処分するリスクを負うよりもこのままにしておいたほうが安全、指紋は決定的な証拠にならないという読みが働いたのでしょう」
「指紋からは足がつかないか。つまり被害者とは縁もゆかりもない犯人による行きずりの犯行ということになるな」
「いいえ、金庫に手がつけられていないことからみても物盗りの犯行ではなく、また争った形跡がないことから犯人は被害者のよく知る人物ではないかと思います」
「それだったら凶器に指紋を残しておくのはまずいだろう」
「指紋が犯人のものだけならそうなりますが、もっと多くの人が触れていればやはり決め手にはなりえません」
 本当にそうだろうか。九条は腑に落ちない表情を浮かべながらも話を先に進める。
「ところで円谷君、被害者はこの部屋の住人で間違いないんだね」
 冴子は手帳を繰りながらよどみなく答える。
「はい、被害者はこの部屋の所有者である松嶋隆行さん、年齢は37歳、職業はIT関連企業の経営者です。ここではひとり暮らしとのことでした。第一発見者でもある被害者の友人、竹野内浩太さんの証言によると、今日早朝ゴルフに行く約束をしていたそうなのですが約束の時間になっても待ち合わせの場所に現れなかったのでマンションまで迎えに来たそうです。松嶋さんは大のゴルフ好きで前日から楽しみにしていたそうですから約束をすっぽかすはずがないと不審に思ったそうです。いざ来てみると駐車場には車があり、電話をかけても応答がない。胸騒ぎを覚えた竹野内さんが管理人の立会いのもと合鍵で中に入ったところ松嶋さんの遺体を発見したとのことでした。なお、部屋の鍵はドアの新聞受けの下に落ちていました。おそらく犯人の仕業でしょう。ちなみに鍵からは被害者の指紋しか検出されませんでした」
「さすがに鍵には直接触らなかったか。で、竹野内氏のアリバイは?」
 まずは第一発見者を疑え。捜査の鉄則だ。
「昨日はずっと深夜0時まで会社で仕事をしていたそうです。会社の同僚数人がそれを証言しています」
「なるほど。まずは犯行時間を特定しないとなんとも言えないな。おそらく犯行があったのは昨日の昼から夕方にかけてだったと思うんだが……」
「警部補、どうしてそう思われるんですか」
 意外そうな冴子の反応に何かまずいこと言ったかなと焦ってしまう。九条は当惑気味に天井を仰ぎ米神を掻いた。
「ええとほら、照明がついてないじゃないか。夜の犯行なら照明がつけっぱなしになってるんじゃないかと思ってね」
「ですが一概にそうとも言い切れません。犯人が消していったのかもしれませんし」
「一体なんのために?」
「何日も照明をつけたままではマンションに松嶋さんがいると思われるじゃないですか。発作的犯行ならアリバイ工作もしていないでしょうし、それなら部屋には不在と思わせて少しでも発見を遅らせ死亡推定時刻に幅をもたせたいと犯人は考えるはずです。わざわざ部屋に鍵をかけたのも同じ目的でしょう」
「うん、冴子ちゃんの推理が正解ですな」
 けだるそうに拍手しながら現れたのは下河原刑事だ。下河原が三日連続巻きっぱなしでくたくたになったネクタイを窮屈そうに弛めながら報告する。
「死亡推定時刻は昨夜の20時から22時にかけて。胃の中のモンとかを詳しく調べればもう少し時間を狭められるかもしれませんがね、まあここまで絞り込めれば上出来でしょう」
「犯行は夜だったのか……折角の犯人の目論見も失敗に終わったわけだ。じゃあ目撃情報の方はどうだ。隣り近所で怪しい者を見かけた人はいなかったのか」
「ここ3階フロアは他に2世帯が入居してるんですが、昨夜はどちらも留守だったそうですな」
「そうか、タイミングが悪かったな。いや、犯人にとっては良かったというべきか」
「九条さん、そうそう悪い知らせばかりでもないですよ。バッチグーな情報もちゃあんと仕入れてきたんでね」
 目に見えて落胆する九条に下河原がまさしくバッチグーな情報を提供した。
「実は早くも三人の容疑者が浮かびあがってるんですよ。三人とも女で、三人ともマンションに出入りしていて、三人ともホトケさんを殺すにたる動機を持っている、そして……」
「三人ともアリバイがない、ですか」
 冴子が先回りして言うと下河原が片眉を吊り上げて肯定の意思表示。
「ま、そういうこった。今、こっちに向かってもらってる。この三人の中の誰かでほぼ決まりでしょうな」
「おいおい下河原君。アリバイがないだけで容疑者を絞り込んでしまうなんて早計じゃないか」
 争った形跡がないことから顔見知りの犯行であろうことは想像に難くないが、ときに安直な先入観は誤認逮捕にもつながりかねない。そう考えた九条が苦言を呈すると、果たして下河原はよくぞ聞いてくれましたとばかりにニタリと笑う。初対面の人が見たら顔面神経痛なのかと勘違いしてしまいそうな妙に凄みのあるスマイルだ。
「それが言い切れちまうんですよ。何を隠そう三人ともマンション入り口の防犯カメラにバッチリ映ってるんですから。しかもうまい具合に三人とも死亡推定時刻の範囲内にね」
「ほう、三人ともとはこれはまたすごい偶然だな」
 思わず九条は感嘆した。これは大した収穫だ。もしかしたら早々に事件解決となるかもしれない。そんな思いが頭を掠めたが、いやいや楽観は禁物だぞ、と己を戒める。
「しかし九条さん、こいつはどういう意味でしょうなあ」
 下河原刑事が被害者の手の位置にある赤い染みを顎で示している。白いカーペットには血で何かをなぞった跡がある。勿体つけるまでもなく被害者松嶋隆行氏が書き残したダイイングメッセージに違いなかった。
「うん、私も最初から気になっていたのだが、この数字が何を意味しているのかさっぱり見当もつかん」
「数字……?」
 眉根を寄せる冴子に九条が首を捻る。
「ああ、私には76.2としか読めないがね」
 九条の発言に下河原も同調する。
「ううむ、確かにそう読めますな」
 ひどく汚い字だった。いや鬼気迫るというべきか。頭を殴られ意識朦朧とする中、必死で書き残したのだ。当然お習字のようにはいかない。九条が何か読み取ろうと血文字に顔を近づけている。下河原が手帳に76.2と書きとめ、冴子は携帯電話を開いて血文字をカメラに収めていた。
「陸上競技の記録か、あるいはラジオの周波数か……小数点がつく数字というと他に何があるかな」
「あとは身長とか体重ですかね」
「下河原君、どうして今わの際に身長や体重をわざわざ書く必要があるんだ。そんな回りくどいことをするくらいなら、はっきり名前を書いたほうが手っ取り早いだろ」
「あのね、そんな言い方ないでしょうが。九条さんの言ってるタイムだの周波数だのも俺の考えとたいして変わらんでしょうに」
 冴子は九条&下河原の低レベルな推理合戦には参加せず、人差し指の腹で顎を撫でながらなにやら思案中だ。
「いずれにせよ、こいつは冴子ちゃんの専門分野だよな」
 下河原は早くも匙を投げている。九条も口にこそ出さないがご同様だった。
「とりあえずこの問題は棚上げだ。下河原君、その三人の容疑者について詳細を教えてくれ」
「へいへい。ちょいとお待ちを」
 九条たちは玄関に移動して下河原の掴んできた情報に耳を傾けた。
「まずは一人目。松嶋理香子38歳、被害者の奥さんです」
「うん? 松嶋氏はひとり暮らしだろ」
「ええ、今はね。ただ2ヶ月前まではふたりで暮らしていたそうです。今は別居中だとか。これは近所の噂好きなおばさま情報ですがね、どうやら亭主の浮気が原因らしいですな。ちなみに彼女が防犯カメラに映っていた時刻は20時10分と20時35分でした」
 特に質問もないようなので下河原はページを繰って報告を続ける。
「次は、柴崎由宇27歳、被害者の秘書だそうです。愛人ではないかという噂もありますな。まっ、これもおばさま情報ですけどね。カメラに映っていた時刻は21時37分と21時45分。滞在時間は短いですが犯行は充分に可能だったでしょう」
「たった8分でか?」
「指紋が拭き取られていませんし、凶器はそのまま放置されている。完全犯 罪を遂行するための事後処理らしきものがほとんどなされていません。行ったことといえば照明を消して玄関の鍵をかけたくらいのものです。これは計画的犯 罪ではありません。発作的に松嶋さんを殴ってしまい、結果的に死んでしまったといったところではないでしょうか。それなら8分でも充分犯行は可能です」
 と、冴子が下河原の言わんとするところをすべて代弁してくれた。
「まあ、無防備に防犯カメラに映ってるくらいだからな。噂じゃ別に男ができて松嶋氏とは別れたがっていたらしいですよ。彼女が犯人だとしたらその辺が動機になるんじゃねえの」
「それで、もうひとりというのは?」
 まさか他にも愛人がいるなんて言うんじゃないだろうな。そんな九条の予想は見事に外れた。
「三人目は被害者の実妹の長澤むつみ、年は26歳、無職です。夫ともどもギャンブル狂いで多額の借金を抱えていますね。松嶋氏のマンションにはよく金をたかりに来ていたようですな。これまたご近所おばさま情報によると最近は部屋の中にも入れてもらえずドアのところで口論していたこともあったとか。カメラに映っていたのは20時58分と21時11分。三人の中では二番目の訪問者ってことになりますな」
 やがて三人の参考人が現場に到着した。三人には松嶋氏が自宅で亡くなっていることしか話していなかったので、殺 害されたと聞いて少なからず驚いていた。なにやら思惑ありげな冴子の申し出に従い三人を犯行現場には通さず、手前の応接室で個別に事情聴取を行った。あらかじめ三人それぞれに与えた情報は、死亡推定時刻は20時から22時の間、防犯カメラに本人が映っていたこと、凶器は部屋にあった花瓶、以上三点のみとし、その他の情報は一切伏せておく。すると面白いくらいに三者三様の答えが返ってきた。
 なお、質疑は主に九条警部補が行い、冴子は各人に飲み物を提供し、あとは書記係に徹していた。

妻:松嶋理香子の証言
「確かに昨日私はここを訪ねました。話し合いなんてするつもりはありませんでした。ただ、荷物を取りに来ただけです。事前に連絡をいれないで来たので露骨に嫌な顔をされました。もう寝るから早く帰ってくれと邪険にもされました。もちろんこっちだって長居はしたくなかったので用が済んだらさっさと帰りました。嘘が下手な人なんです、あの人。たぶん仕事以上に親密な女秘書を部屋に呼んでいたんだと思います。でも彼女との関係も最近うまくいってないみたいでした。そうよ、きっと犯人はあの女秘書に違いないわ!」

秘書:柴崎由宇の証言
「はい、昨夜は社長に呼ばれていたのでこちらを訪問しました。でもドアフォンを押してもお出にならないし、何か急用ができてお出かけになったのかと思って携帯電話に留守電だけ入れてすぐに帰りました。合鍵ですか? 私は持っていません、本当です! えっ、照明? ついていたかどうかそこまでは覚えていません。ええそうです、その花瓶は私が買ったものです。半年前に社長への誕生日プレゼントとして……刑事さん、私疑われてるんでしょうか。あの、こんなことをいうのも気が引けるのですが社長を手にかけたのは妹さんではないでしょうか。妹さん何度も会社にお金の無心に来ていて社長ひどく迷惑がっていましたから……」

実妹:長澤むつみの証言
「うん、私昨日ここ来たよ。でも兄貴には会えなかったな。たぶん居留守を使ってたんだよ。むかつくよねえ、たったひとりの妹が兄を頼ってわざわざ足運んでるってのにさ。あったま来たからドアんとこ思いっきり蹴っ飛ばして帰っちゃった。えっ、照明? 帰りがけに外から見たときには消えてたと思うよ。だって明かりがついてたら完璧に居留守じゃん。でもよくよく考えたらあのときにはもう殺されてたのかもね。まっ、私が思うに兄貴を殺したのは奥さんだね。なんていうかさ、あの人って蛇みたいに執念深そうじゃない。ところで刑事さん、遺産ってすぐ貰えるのかな?」


「どうやら三人の証言に齟齬や瑕疵は見当たらないな」
 ひととおり事情聴取を終えた九条が失意のため息を漏らした。たとえば犯人しか知りえない情報をうっかり喋るなどしてボロを出しはしまいかと期待していたがそれらしき失言はない。また三人の証言を突きあわせてみても明らかに誰かが嘘をついているという論証にも至らない。言い換えれば誰が犯人でもおかしくはない状況だ。凶器の花瓶についても全員が一度は触れたことがあるということだったので指紋から絞り込むのも難しそうだ。
 一方で下河原刑事は煙草をくわえながら顔をしかめている。
「けど、この中のひとりが嘘をついているのは確実なんだよなあ。冴子ちゃん、容疑者たちに何か仕掛けたみてえだけど今回ばかりは空振りだったようだな」
 ガックリ肩を落としている両刑事に対し、果たして冴子は意外にも超前向きな発言をした。
「警部補、わたし犯人がわかりました」
「おっ、ホントかよ冴子ちゃん!」
 下河原が目を輝かせて身を乗り出すと冴子が頼もしげに頷いた。
「はい、三人の証言を比べると状況的にこの人が犯人である可能性が最も高いと思われます。それにダイイングメッセージもこの人であることをはっきり示していますし」
「誰なんだね、それは?」
 堪えきれずに答えを急かす九条警部補を冴子が制する。
「でもこれだけでは状況証拠に過ぎません。ここは決め手となる証拠がほしいところです。ダイイングメッセージだけでは自白を得られない可能性がありますから今のところは皆さんにお帰りいただいて鑑識の結果を待ってから改めて犯人にお出で願いましょう」
 冴子は「容疑者」とは言わずきっぱり「犯人」と呼んでいる。彼女の頭の中では盤石の推理が組みあげられているようだが念には念をということだろう。今回は相当に自信があるらしい。こんなときの円谷冴子は百発百中だ。いや、彼女はいつだって百発百中なのだ。現場指揮を任されている九条警部補は一にも二にもなく信頼する部下の意見を尊重することにした。そして九条は改めて冴子に問う。
「それで円谷君、結局犯人は誰なんだい?」



 
では、ここで問題です。
ダイイングメッセージの意味は?
犯人を特定する証拠は?(証拠は2点だが、いずれか1点の指摘でOK)
それでは、引き続き解答篇をご覧ください。



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