バッドコミュニケーション(問題篇)

バッドコミュニケーション(問題篇)


 時は冬将軍到来を予感させる木枯らし吹きすさぶ十一月末の夕暮れ。
 所はおなじみ神奈川県警察本部刑事部捜査一課。
 捜査員のほとんどが出払っていて、九条啓介警部補だけがひとりお留守番兼デスクワークに勤しんでいた。
 そこへひとりの男がふらりとやってくる。二十代前半と思しきその男は、ショートポイントカラーのワイシャツに、細身のパンツといった出で立ち。髪は金色、そして、その瞳は淡いブルーであった。そうは言っても今やカラーリングにカラーコンタクトなど当たり前の世の中。それだけで外国人とは決めつけられないが、顔の造作があからさまに日本人のそれとは異なっている。
 入館証を身につけているので、一応正規の手続きを踏んで入ってきたには違いない。しかし、九条はすぐに声を掛けるのを躊躇った。危険人物と直感的に判断したのではなく、彼は英語が(むろん他の外国語も)からきし苦手だったからだ。あいにく助けを求めようにも誰もいない。弱ったなあと思いながら、さりげに目を逸らすも外国人さんはまっすぐこちらに近づいてくる。その距離三メートルに達したときには、さすがに覚悟を決めてうろ覚えの英語で先手を打っていた。
「め……めい あい へるぷ ゆう?」
 外国人は九条の言葉が理解できかねている様子で首を捻っている。あわれ玉砕。それでも九条は冷や汗をかきながら身振り手振りを交えて意思の疎通を図ろうと試みる。
「あ……あい あむ くじょう。ぜあ いず ぽりすすていしょん」
 すると外国人は、にっこり微笑んで言ったもんだ。
「大丈夫です。僕、日本語少し分かりますから」
 急速に冷や汗が引いていった。イントネーションは若干あやしげだが、どうやら日本語で話しても構わないようだ。
「うえっ、おほん。君ね、どういう用件か知らないが、ここは勝手に入ってきて良い場所じゃないんだよ」
「あの、エドモンズさんじゃないですか?」
 そう言いながら帰庁してきたのは円谷冴子巡査長だった。殺 人、強盗、誘拐、放火など凶悪犯 罪事件を主に扱う捜査一課にはおよそ似つかわしくない可憐なる紅一点である。
「おー、サエコさん。おひさしぶりです」
 パッと顔を輝かせ、両手を広げたオーバーアクションで再会を喜ぶ外国人。ショルダーバッグを机に置いた冴子は、ふたりの間に入って彼を紹介した。
「こちらはジョシュ・エドモンズさん、C大学の留学生です」
「あ、どうも、九条です。円谷君、彼は君の知り合いかい?」
 年の近そうなふたりを交互に見比べて尋ねる九条。
「ええ、学生時分に喫茶店でアルバイトをしていたときの同僚なんです」
「もう三年になりますね。サエコさん、お元気でしたか」
 当時のジョシュは日本に来て日も浅く、日本語も今ほど話せない状態だったが、ちょうど英会話を習いたがっていたバイト先の店主が講師兼任として厨房に彼を雇ったのだ。冴子がそこで働いていたのは、同じ年の夏から秋にかけてで、彼と一緒に働いていたのは最後の二ヶ月程度だった。ジョシュは今年の春に大学を卒業しアメリカに帰る予定だったが、年賀状のやり取りはしていたものの、ずっと疎遠になっていた冴子に挨拶をしておこうと、こうして彼女の職場を尋ねてきたとのことだった。
「これはつまらないものですがどうぞ」
 そう言ってデパートの包装紙に包まれた箱を差し出すジョシュ。
「ご丁寧にありがとうございます。そんな気を使ってもらわなくて良かったんですが」
 九条はジョシュの振る舞いを見て、なかなかしっかりした青年だ、日本の若者に見習わせたいものだなと、ひとしきり感心していたが、ふと妙な違和感を覚えて彼に問いかけた。
「ところで君、そんな格好で寒くはないのかい?」
 この時期にも拘らずジョシュはワイシャツ一枚で、上にはなにも羽織っていない。暖房の効いている庁内にいるぶんには構わないだろうが、外は相当寒かったであろう。九条のみならず誰もが疑問に感じるところだ。するとジョシュが頭をかきながら照れくさそうに答える。
「よく言われます。でも僕はひどい暑がりで、実はこのくらいがちょうどいいんです」
 そして、立ち話もなんだからと応接セットに腰をおろし、ジョシュの持参した醤油煎餅をお茶受けに世間話に花を咲かせ始めた。
「でも日本に来たばかりの頃は本当に大変でした。日本語はほとんど話せなかったし、ヒアリングもゆっくり話してもらって、どうにか理解できるという有様で……サエコさんに通訳して貰っていなければどうなっていたことか」
「いいえ、わたしは大したお役に立てませんでした。きっとわたしがいなくても、エドモンズさんはちゃんとコミュニケーションが取れていたと思いますよ」
「ほう、円谷君は英語ができるのか。いやしかし、君のウエイトレス姿というのは、ちょっと想像しにくいものがあるねえ」
「いえ、わたしは厨房担当でしたので、特に制服のようなものは着ていませんでした」
「サエコさんの作る軽食は、とてもおいしいと評判が良かったんです。サエコさんから辞めると聞いたときにはマスターが必死で引き止めていたくらいですから」
 などと昔を懐かしむ雑談が一段落すると、ジョシュが神妙な面持ちをつくって嘆息を漏らした。
「実はサエコさんがお店を辞めた後、とても嫌な思いをして人が信じられなくなった時期があったんです」
「人間不信ですか……穏やかじゃありませんね。なにかトラブルでもあったんですか?」
 熱い緑茶を喉に流し込んだ冴子が水を向けると、ジョシュは訥々と語りだした。
「ある日、大学の先生の紹介で、休みを利用して東北地方の民家にショートステイすることになったんです。以前から日本の伝統文化などに興味があったので、僕はとても楽しみにしていました。現地に行って実際に萱葺き民家を目の当たりにしたときは本当に感動しました。カルチャーショックでした。こんな居構えで雨風を凌げるものなのかと」
「そこでなにか問題が発生した?」
「そうなんです。僕を受け入れてくれたご家族というのが六十歳くらいの老夫婦だったんです。でも言葉がまったく分からない。どうも英語でなにか話しかけているようなんですが、とても聞き取れるものではありませんでした。きっと僕を迎えるにあたり、少しは英語を勉強していたのでしょうが、なにが言いたいのかさっぱりで……こちらの日本語も半人前なら、向こうの英語も半人前だったというわけです」
「だけど、それはそれで良いものじゃないのかな。なにも言葉ばかりがコミュニケーションの手段じゃない。ゼスチャーでだって、ある程度の意思は伝えられるしね」
 九条が醤油煎餅をふたつに割ってそんな感想を述べると、ジョシュはとんでもないとばかりにぶるぶる首を振り、全力で否定の意を表した。それにしても外国人というのは、みんなこうも仕草がいちいち大げさなものなのかと変なところで気になってしまう。
「そのゼスチャーが問題なんですよ。ご主人は僕を見るなり追い払うような仕草をしたんです。しかも玄関先でいきなりですよ」
「まさか。そんなバカな……」
 スラックスにこぼれた煎餅の粉を払っていた九条が、俄かには信じられないとばかりにジョシュの顔をまじまじと見た。一応はホームステイを受け入れた家族なのだ。よほど不躾なことをされない限り、そんな態度をとるはずがない。
「本当です。しっしっと、まるで野良犬を追い払うかのようにして、under line(アンダーライン)と何度も言うんです」
「アンダーライン……ですか?」
 冴子が首を傾げるとジョシュはグッと身を乗り出してくる。あやうく湯飲みを倒すところだった。
「しかも笑顔を見せるどころか、ずっと不機嫌そうな顔をしてるんです。これはもうとても歓迎ムードじゃない。そうこうしているうちにご主人の表情はどんどん険悪なものになって、ついに言われた言葉には、さすがの僕も耳を疑いました」
「なんて言われたんです?」
 この理不尽かつ不可解な状況に興味をそそられたらしく冴子も身を乗り出してきた。湯飲みはちゃんと脇によけてから、である。
Son of a bitch! Kill you!(サノバビッチ! キルユー!)」
「はあ?」
 ことここに至ると、九条も開いた口が塞がらない。その英語なら私だって知っている。『くそったれ、殺してやる』……そんな意味だったはずだ。
「いやいやいやいや」
 九条は右手をワイパーのように動かして反対した。
「それはない。いくらなんでもありえないだろう」
「でも、たしかにそう言ったんです。結局、最後まで気まずい感じのまま、一泊だけで切り上げて、こちらに戻ってきました。ああいうのはもうコリゴリですよ」
「どうも釈然としないなあ」
「僕だって未だに信じられませんよ。だからといって紹介してくれた先生にあの人達はずいぶん失礼な方ですね、なんてことを言うわけにもいかないですし……いや、でももういいんです。そんな不愉快な思いをしたのは、その時だけでしたから。あとは全部良い思い出ばかり。僕は日本に来て本当に良かったと思っています」
「それだけが嫌な思い出か……」
「まあ、そういうことですね」
 そう言って、下唇を突き出し肩をすくめる仕草などは、いかにもアメリカ人風だ。そういうところは長く日本にいても抜けないものらしい。
「エドモンズさん、二点ほど確認したいのですが」
「なんですか?」
 冴子がジョシュに質問を投げかけた。どうやら思うところがあるらしい。
「ショートステイは三年前ということでしたが、具体的にいつ頃だったのでしょう?」
「あれは一月でした。年明け後、間もなくです。雪が深かったのをよく覚えています。一面の銀世界、あれはとても美しかった。でも雪は白いのに、なぜ銀世界と呼ぶんでしょうね」
 さらに冴子から、もうひとつの質問。
「ご主人がキルユーと言ったとき、彼はなにか手に持っていませんでしたか?」
「ええ、確かにそう言えば……えっと、あれはなんて言うんだったかな……」
 冴子がある名詞を口にすると「そう、それです」とジョシュが即座に肯定した。冴子は期待どおりの答えに満足げに頷くと、ジョシュに太鼓判を押してさしあげた。
「事情はおおよそ分かりました。どうもお互いにうまく意思の疎通が図れなかったみたいですね。安心してください、エドモンズさんはちゃんと歓迎されていたんですよ」


 
それではここで問題です。
ジョシュ・エドモンズは一体どのような勘違いをしていたのでしょうか?



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