バッドコミュニケーション(解答篇)

バッドコミュニケーション(解答篇)


「すべてはエドモンズさんの誤解から始まっているんです」
 円谷冴子が立ち上がってそう切り出した。
「誤解……ですか?」
 おうむ返しに尋ねるジョシュ・エドモンズに彼女は優しく微笑んだ。
「そうです。そもそもご主人は英語なんて一言も話していなかった。エドモンズさんは日本語を英語と聞き違えたんです。つまり、こういうことですね」
 と、ホワイトボードにSon of a bitch! Kill you! と書いてみせる。
「このときご主人が手にしていたものは、どてら。いわゆる綿入れ、室内用の防寒着でした。一方、エドモンズさんは極度の暑がりでした。一月の東北地方、降り積もる雪、かなり気温が低かったにも拘らず、エドモンズさんは今日のように薄着で現れた。ご主人はこう思ったのではないでしょうか。この外国人さんは初めて来る土地がこんなに寒いものとは予想だにしていなかった。だから上に羽織るものを持っていないのだ、と。そんなエドモンズさんにご主人は一にも二にも着るものを勧めた。そしてこう言ったんです」
さんみえべ、きらいよ
 それは方言、要するに訛りの含まれた言葉だった。彼女の都会的で端正な顔立ちに、ネイティブな東北弁はなにやら不釣合いで滑稽にさえ感じられる。だが本人はいたって大真面目。
「そうか、さんみいべ、きらいよを標準語に直せば、寒いでしょう、着なさいになる。このさんみいべ、きらいよサノバビッチ、キルユーと聞こえてしまったわけだね」
 九条は内心舌を巻いていた。それにつけても彼女は末恐ろしい。外国語に留まらず国内の言語にも通じているとはまったく頭が下がるばかりだ。
「東北の方言は日本人でも理解できないことがあるくらいです。しかも早口で喋るという特徴があり、アクセントの一部が英語のように聞こえることもあると、何かの本で読んだことがあります」
「では、アンダーラインというのも?」
 ジョシュの問いかけに冴子が再びホワイトボードに向き直り、流麗な筆記体で書き記す。
 under line
「基本的には同じ意図で言われたものです。こちらが先にエドモンズさんが聞いた言葉ですが、なるほどキルユーよりは聞き誤りやすい。それゆえに最初に猜疑心が根付いてしまったエドモンズさんには、相手に何を言われても悪意にしか受け取れなくなってしまった」
 はて、アンダーラインは何と聞き違えたのか。九条は腕組みして思案したが、これに相当する適当な方言が浮かばない。幸いその答えは冴子がすぐに提示してくれた。
「ご主人はおそらく掘り炬燵か達磨ストーブか、あるいはその類いの暖房器具を指して言ったんです。あだらいん、と」
 アンダーライン……あだらいん……炬燵にあだらいん……炬燵にあたりなさい。ほう、確かに似ている。
 冴子の解説はさらに続く。
「エドモンズさんはアンダーラインと言われたとき、まるで野良犬を追い払うかのような仕草をされたと言いましたが、それはこういうことですよね」
 冴子が手の甲を上に向け、手首のスナップを利かせて上下にひらひらさせてみせる。
「アメリカでのこの動きは相手を追い払うときに使うものですが、日本ではまったくの逆、おいでおいで、の仕草なんです」
 これには九条もすぐさま合点がいった。欧米では、おいでおいでをする場合、手の平を上に向けて手招きをする。反対に追い払うときは手の甲が上を向く。ここが日本とは逆なのだ。
「エドモンズさんはさっきこうも言いましたね。相手は終始不機嫌そうな顔をしていた、と。ですが、それもまた別の意味だったんです。きっとこんな表情をされていたのでしょう」
 そう言って冴子は眉間に皺を寄せ、顔をしかめてみせた。
「おそらくご主人は、大事な客人が風邪をひいたりはしないかと気を揉んでいたんでしょうね。古い家は室内でも寒い。なのに、どてらを勧めても炬燵を勧めても、一向に受け入れてくれない客人に困り果てていた。そんな心配と困惑の表情がエドモンズさんの目には不機嫌そうに映ってしまった。日本人は欧米人ほど表情豊かではありませんから、これもまた見誤っても仕方のないことだったと思います」
「ひとつのボタンの掛け違いが判断ミスの連鎖を生む。日本に来て間もない不安感もあり固定観念に縛られてしまったんだな」
 九条がそんな感想を漏らし、急須を傾けてみんなのお茶を注ぎ足した。
「もちろん、これらは全部わたしの仮説でしかありません。でも、こう考えるのが何より自然な気がします」
 再び応接ソファーに腰を下ろした冴子が、証明終わりとばかりに締めくくる。対面に座るジョシュを見るとその顔は晴れ晴れとしたものだった。彼は感激のあまり、冴子の手を取って握手を求めてきた。
「ありがとう、サエコさん。今にして思えば、あなたの言うとおりのような気がします。いいえ、きっとそうだったのでしょう」
 分かってみれば簡単なこと。偏見にとらわれず事実を客観的に判断すれば、冴子の推測はほぼ真相に違いない。事実、ジョシュ本人が納得しているのだから、それだけでも充分だった。
「そういえばあの夜、ご主人が甘酒をしきりと僕に勧めていました。寒いからこれを飲んで温まりなさいということだったのですね。僕はてっきりお金を取られるものと思い、ずっと断っていたのですが、あれは決してそういう意味ではなかった……」
「そうですか。そこでもボタンの掛け違いがあったんですね」
 冴子は得心しているが、九条には今ひとつピンと来ない。一体何をどのように勘違いしたのだろう。
「エドモンズさんには、甘酒を勧めるご主人がNo money? と言っているように聞こえてしまった。だけど、そうではなかった」
 冴子の言葉をジョシュが引き継ぐ。
「はい。ご主人はただ、飲まねえ? と聞いていたんですね。これはもう方言ですらないというのに、僕はここでも取り違えをしてしまった。本当に悪いことをしました」
「でも良かったじゃないですか。日本での唯一嫌な思い出が解消されて」
「あなたにはまたお世話になってしまいました。サエコさん、僕、アメリカに帰る前にもう一度あの家に行ってみようと思います」
 真摯な姿勢でそう語るジョシュに、冴子も当然同意する。
「それは良いことだと思いますよ。エドモンズさんにとっても先方にとっても。向こうもずっと気に病んでいたのかもしれませんから」
 どこまでも続く白い大地。吹雪がやんで、雲の切れ間から顔を覗かせた太陽が、一帯に広がる雪原をあまねく照らす。陽光に反射した雪は眩しいくらいに美しくきらきらと輝き、その色彩は白というよりもむしろ銀……。
 ジョシュが遠い目をして懐かしむ一面の銀世界を臨める季節が今年もまた訪れようとしていた。


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