充分な位置の悪夢(問題編)

充分な位置の悪夢(問題篇・後)


 現場からひとつ階段を上った冴子は、11階の住人砂尾善治(すなお よしはる)の部屋のチャイムを押した。
 2回目のチャイムを押したところで、ドアが細めに開き、細面の男が顔を出す。
「どちら様ですか?」
 冴子は警察手帳を男の前に提示して自己紹介した。
「神奈川県警の円谷と申します。砂尾善治さんですね」
「ああ、警察の方ですか」
 砂尾はドアを開けて、冴子を招きいれた。
「いやあ、これはまたお若い刑事さんだ。今日は殺 人事件の捜査ですか?」
 冴子はその問いには答えず、逆に質問を返した。
「あまり驚かれないんですね?普通、突然警察が来たりすると、後ろ暗いことがなくても大抵の人は身構えてしまうものなのですが」
「下にパトカーが来ていたのが見えたものですから」
「なるほど、そうでしたか」
「刑事さん、立ち話もなんですし、どうぞ中へ」
「ではお言葉に甘えて……」
 冴子は一礼して、靴を脱ぎながら訊いた。
「ところで、なぜ殺 人事件だと?」
「は?」
「いえ、警察が来たからといっても殺 人事件とは限らないでしょう?空き巣や自殺ということもあるじゃないですか」
 砂尾は茶の用意をしながら背中越しに笑った。
「ははは、さすが刑事さん、鋭いなあ。あ、いえね、さっきベランダに出たら、下から刑事さんたちの会話が聞こえてきたものですから……別に盗み聞きするつもりはなかったんですけど……」
「ああ、そういうことですか。では事件のあらましはだいたいお分かりですね」
 砂尾は紅茶を冴子の前に置くと、神妙な面持ちで言った。
「井上さんを殺したのは隣りの藤沼ですよ」
 ほお、と膝を乗り出す冴子。
「なぜ、藤沼さんが犯人だと思われるのですか?」
「だって、ボウガンを近くから撃つにはやっぱり彼の部屋しかないですよ。論より証拠だ、ちょっとベランダに出てみてください」
 促されるままにベランダに出ると、砂尾の左下の部屋のベランダが丸見えだった。ということは、藤沼の部屋からも同じ位置関係にある井上知佳の部屋が見えるということになる。
「砂尾さんの部屋からは井上さんの部屋は見えないんですね」
 冴子が勇ましくも半身を乗り出して下の様子を窺おうとするが、話し声は聞こえるものの階下のベランダは全く視界に入ってこない。しいて言えば、風に揺れるシーツが見え隠れするくらいのものだ。
「ところで、砂尾さんは今日の10時ごろどちらにいらっしゃいましたか?」
「え……?」
 砂尾は虚を突かれ目を丸くしたが、すぐに引き攣った笑顔を張りつけて不服そうに口を尖らせた。
「やだなあ、刑事さん。もしかして私を疑ってるんですか?まあ、今日はずっと部屋にいましたよ。証明できる人はいませんがね……ま、いずれ分かることでしょうから白状しますけど、私、彼女とはちょっとした知り合いでしてね。あ、でも、彼女を殺すような理由なんてないですよ、ホント」
「知り合いというと、どういった?」
「私、バーテンでして、井上さんはよく店にいらっしゃるお客さんでした。何度か来てもらっているうちに同じマンションに住んでいるってことが分かりましてね。それからは親しくさせてもらってたんです。でも、ただそれだけのことですよ」
 そう釈明する砂尾であったが、実のところ彼女との関係はそればかりではなかった。砂尾善治と井上知佳はいわば男と女の関係にあった。しかし、それを知る者はいない。
 そして、彼女を殺したのもまた砂尾善治だった。
――――――この刑事は、どうして私を疑うんだ?私が何かヘマをやったとでもいうのか?
 砂尾は内心の動揺を隠しながら、紅茶を啜って唇を湿らせた。
「仮に私に彼女を殺す動機があったとしましょう。しかしですね、ここからじゃ、どうやったって彼女をボウガンで殺すなんてことできやしないんだ。ボウガンってのは真っ直ぐ飛ぶもんなんでしょう?だとしたら、この部屋からじゃ無理だ。それとも、彼女の部屋で殺した後、ロープか何かを使ってベランダから自分の部屋に戻ったとでも?冗談じゃない!そんな命知らずなこと、できっこありませんよ」
 思わぬ砂尾の剣幕に、今度は冴子が目を丸くした。
「あの、誤解なさらないでください。別にあなたを疑っているわけではありません。ただ、関係者には一通り聞いて回るのがきまりなものですから……」
 そう言う冴子も本心では砂尾を疑っていた。目の前の男こそが真の犯人だと確信さえしていた。
 まさに狐と狸のばかしあいである。
「ともかく、犯人は藤沼ですよ。彼は所謂カメラ小僧という奴でしてね。以前に彼が井上さんのベランダにファインダーを向けているのを見たことがあります。おそらく、彼女を撮っていたんでしょう。夜だったので、彼女は気付かなかったかも知れませんが、私、たまたまそれをこのベランダから見つけまして彼に注意したんです。みっともないマネするなってね」
「だからって殺したりする動機になるでしょうか?」
「さあ、どうでしょう。ああいう連中の考えてることなんて分かりませんよ。言わば彼は変質者ですからね」
 ひとしきり手帳にメモをとり終えた冴子は、それを閉じて礼を述べた。
「お忙しいところ、ありがとうございました。大変参考になりました」
「すぐ近くでみすみす彼女を殺されてしまうなんて口惜しいですよ。もし私がその時ベランダに出ていたら彼は殺すことができなかったはずなんだ。そう思うとホントやりきれないです」
 苦々しく吐き捨ててソファーに身を沈める砂尾。
 そんな彼に冴子は話題を転じて明るい調子で尋ねた。
「ところで、砂尾さんは、ガーデニングをなさるんですね」
 ベランダには観葉植物が所狭しと並んでいる。ジョウロにスコップ、濃縮タイプの液体肥料、腐葉土などの園芸用品も置かれている。
「たいしたもんじゃないです。ほとんど貰い物ですから」
「ちなみに最後に井上さんに会ったのはいつですか?」
 関係のない話題をふって安心させたところでいきなり核心を突く。刑事の常套手段である。
 しかし思惑外れて、彼は落ち着き払って答えてみせた。
「3日前ですかね。店のほうで……あ、でも、電話では今日話をしましたよ。それが確か10時ごろだったな。つまり、その後、彼女は殺されたということになりますね」
 あとで通話記録を調べてみよう。冴子はそんなことを思いながら更に質問を続けた。
「失礼ですが、電話ではどのような話を?」
「とりとめもないことですよ。今度はいつ店に来きますかとか、いい天気ですねとか……」
「それだけですか?」
「ええ、それだけです」
 と、きっぱり断言する砂尾。
「分かりました。ではこのへんで……。また何かありましたらよろしくお願いします。あ、紅茶おいしかったです」
「ふっ、よく言いますね。一口も飲んでないのに」
 テーブルの上の2客のティーカップ。冴子のは全く手がつけられてなく、砂尾のはきれいに飲み干されていた。
 それを改めて見た冴子がポツリと呟いた。
「人間、やましい嘘をつくと喉が渇くって本当なんですね」
 砂尾は露骨に顔を顰めながらも聞こえなかったふりをして冴子を呼びとめた。
「ねえ、刑事さん」
「はい?」
「どうやらあなたは私を疑っているようだ。不本意だが疑われたままというのもいい気分じゃない。この際どうです?部屋の中を好きなだけ調べてもらっても構いませんよ。私はボウガンなんか持っていないんだ」
 砂尾の意外な申し出に、面食らったように真っ直ぐ相手を見つめる冴子。
 やがて、にっこり微笑んで、
「いえ、それには及びません。何度も言うようですが、あなたに嫌疑を掛けているわけではありませんので」


 冴子がドアを開けて外に出ると、4人の男たちがちょうどやってきたところだった。
 九条警部補、岬刑事、春日彰信、もう一人は初めて見る顔だ。
 九条が冴子に声を掛ける。
「お、円谷君、そんなところにいたのか。今まで何をしてたんだね」
「いえ、ちょっと近所の方にお話を伺っていたところです……そちらの方は」
「藤沼寛さんだよ。これから彼の部屋を見せてもらうところさ」と、岬が教えてくれる。
 そこへ、ドア越しに様子を窺っていた砂尾が出てきて申し出る。
「あのお、私もご一緒していいですか?なんだか人ごととは思えなくて……」
「ん?あなたは」
「井上知佳さんの知り合いの砂尾善治さんです。砂尾さんの部屋は、井上さんのちょうど上の部屋になっていまして、下でのやりとりを一部始終聞いていたそうです。あ、もちろん、意図的にではありませんが」
 冴子は『意図的に』のあたりをやや皮肉まじりに言ったのだが、それに感づいていたのは当の本人だけのようである。
「いや、しかし部外者はマズいだろ……」
 そう言い渋る九条に冴子が口添えした。
「構わないんじゃないですか、警部補。砂尾さんも被害者の知り合いだったようですし」
「いや、しかしなあ」
「そういう意味ではそこにいる春日さんと同じ立場なわけですから」
「うん……まあ、仕方ないか」
 実際のところ、春日彰信も強引に押し切ってついてきたのだが、春日はよくて、砂尾は駄目というわけにもいかなかった。
 許可を得た砂尾が通路に出てきて春日に目礼した。
「春日さんですね、テレビでよく拝見してますよ」
「あんたは一体……?」
「井上さんと親しくさせていただいていた者です。あなたのお噂はかねがね」
「そうっスか……」
 春日と砂尾。二人のやりとりを見守っていた冴子が、今度は藤沼寛に目を転じた。
 度の強そうな眼鏡を掛けた小男。容疑者扱いされているのだから無理もないだろうが、それにしてもひどくおどおどしている。おそらく元来がそういう性格なのだろう。
 冴子は岬に耳打ちして訊いた。
「藤沼さんのアリバイはどうだったんですか」
「ああ、12時ごろ、近くのコンビニに煙草を買いに行っているが、それより前はずっと部屋に篭っていたそうだ。誰とも会っていないし、誰とも話していないらしい」と、岬が囁き返す。
――――――そして、藤沼の部屋のドアの前。
 藤沼は、九条、岬、春日、砂尾とひとりひとり見回して、最後に冴子に視線をとめて懇願した。
「すいません、部屋に入る前に、ちょっと中を片付けてきていいですか?」
「見られちゃ困るもんでもあンのかよッ!」
 と、ドスをきかせる春日。元恋人の死のショックから立ち直り、今は犯人に対する怒りで気が立っていた。
「そ、そういうわけじゃないけど、部屋の中、散らかってるから……」
「刑事さん、そんなの聞くことないですよ。証拠になるものを隠されるかも知れない」
 砂尾も春日に乗じて刑事たちに進言する。
「うむ、そうだな……」
 九条は困ったように顔を歪めていると、冴子が脇から口を挟んできた。
「まあ、いいじゃないですか。仮にこの人が犯人だとしても証拠になるものなんて、もうとっくに処分しているはずです。よしんば処分してなかったとしても、部屋の外に投げ捨てるなんて無謀なことはしないでしょう」
「ま、確かにな。それも一理あるか」
「こちらも令状をとっているわけではないんですし、この人の申し出を断ることはできませんよ」
「そうだそうだ!令状もないのに僕を犯人扱いなんかして!」
 冴子の弁護に俄然力を得た藤沼が急に声を荒げた。今までいかつい刑事たちに囲まれ萎縮し抑圧されていたものが一気に爆発したといった感じだ。
「だいたい神奈川県警なんて得体の知れない奴らの言うことなんて聞けないね。僕は無実なんだ、訴えてやる!」
 せんを切ったように興奮しまくる藤沼を冴子が冷静に宥めにかかる。
「そのくらいにしておいたほうがいいですよ、藤沼さん。あなただって痛くもない腹を探られるのは嫌でしょう。さあ、どうぞ、好きなだけ部屋を片付けてきてください。わたしたちはここで待ってますから」
「彼女の言う通りです。あまりひどいこと言うと侮辱罪に問われることになりますよ」と岬が軽く脅しをかける。
 小心者の藤沼はそれ以上何も言えなくなり、口を噤んで逃げるように部屋に入っていった。


 それからドアの前で待たされること数分。
 藤沼は一向に出てくる気配がない。
「遅いなあ。もしかして逃げられたんじゃ……」
「まさか!ここは11階だぞ。どこに逃げ場があるというんだ」
 岬と九条は、まるで藤沼がホンボシであるかのような口ぶりである。
 やがて、しびれを切らした岬が、管理人から預かっていた部屋の鍵を取り出した。
「やっぱり彼が犯人だったようですね。警部補、踏み込みましょう」
「よし入るか。まさに袋の鼠だがな」
 ドアを開けると、幸いにチェーンは掛かっていなかった。
 いの一番に中に踏み込んだ岬が、ベランダから身を乗り出している藤沼に渇をいれる。
「おい!逃げようったってそうはいかないぞ」
「あ……ああ……」
 藤沼は観念したかのようにその場にへたりこんだ。
「僕じゃない……僕は何も知らないんだ……」
 藤沼の部屋の中は、彼の申告どおりひどく散らかっていた。カップめんの空きがらや丸めて放置されたティッシュ……まるでゴミ捨て場だ。
「おや、これは?」
 春日彰信が汚いものでも摘むように手にとったのは一枚の写真だった。
 そこには夜のベランダで涼んでいる井上知佳の横顔が写っている。
「こいつ、盗撮野郎だったのか!」
 じっくり見渡すと、知佳の写真がそこかしこに散らばっている。
「春日さん、あまり触らないでくださいよ。一応、証拠物件ですので」
 そう釘をさした九条が手袋を嵌めながら室内を物色しはじめた。
「まずはここからだな」
 と、押入れを開けた途端、ビデオテープやら雑誌やらが雪崩の如くがらがらと崩れ落ちてくる。
「アイドル誌にアニメ雑誌ですか、このビデオもナニが入ってんだか……あっ、警部補、これ!」
 岬刑事が押入れから出てきたゴミの山を掻き分けていたその中にボウガンと矢の束を見つけたのだ。
「決まりですね。その矢も凶器と同じ形みたいだし」と、砂尾が言い添える。
「藤沼さん、これはもう言い逃れはできませんな」
 九条の言葉に顔面蒼白の藤沼がいやいやをするように首を振る。
「ぼぼぼ僕じゃない。そんなもの知らないよ!そそそれは今見つけたんだ。ベランダに置いてあって……だから、慌てて押入れに隠したんだ。本当だよ!本当なんだってば!」
「とにかく、詳しい話は署の方で聞かせてもらいますよ」
 岬刑事が藤沼の腕をとって立ち上がらせた。
「こいつが……こいつが知佳を殺したのか」
 春日は燃えるような目で藤沼を睨みつけている。下手すると今にも殴りかかりそうな勢いだ。
「非道いことをするもんだ。同じ男として許せないな」と、これは砂尾。
 そして今まさに藤沼を取り囲む男たちが、部屋を出て行こうとしたその時、冴子が自信たっぷりに言い放った。
「待ってください。藤沼さんは犯人ではありません」
 一同、吃驚して彼女を振り返る。
「藤沼さんは真犯人によって陥れられたんです」
 冴子は証拠固めとして4つの物品を調べる必要があると考えていた。
 ひとつは、井上知佳の部屋にあったもの。
 ひとつは、砂尾善治の部屋にあったもの。
 ひとつは、藤沼寛の部屋にあったもの。
 ひとつは、藤沼寛の部屋にあってしかるべき物品が存在しないことの確認。
 とはいえ、これらはすべて彼女の推理を裏づけるための状況証拠にしかならないのだが、少なくとも藤沼寛から「重要参考人」の肩書きを外すくらいの役割は果たすであろう。
(注:上記の4つの物品は作中にその品名が登場しているものである。)
「真犯人だって?円谷君、この男のほかに誰にガイシャを殺せるというんだね」
「もうひとりいるじゃないですか。藤沼さんのほかに井上さんを殺 害するための充分な位置にいた人物が……」
 冴子はそう言って、ひとりの男を指差した。
「砂尾さん、井上千佳さんを殺したのはあなたですね」


 時間が止まったかのように全員がその動きを止めた。
 その中で、円谷冴子が一人ベランダに向かう。
 ひどくゆっくりとした足取りで……。
 やがて彼女はベランダに立ち、真正面からあなたを見る。
 そして、暗転。
 ピンスポットが冴子に降りる。
 主人公にのみ与えられた特権。一番の見せ場である。
 彼女は両手を前に組み、間を計ったように一呼吸置くと、あなたに向って上目遣いで語りかけた。
「えー、皆さん、まずは読了お疲れさまでした。さて、井上知佳さん殺しの犯人は、どうやら砂尾善治で間違いなさそうです。彼の犯 罪は一見緻密に見えて実に杜撰なものでした。少なくとも状況から判断して、矢が放たれたのは彼の部屋のベランダからであることは動かしようもありません。それはわたし、はじめから判っていました。ええと、ヒントはですね……」
 再び一拍置いて、今度は芝居がかった仕草で空を仰ぎ見る。
「天の恵み、です……円谷冴子でした」


――――――冴子がそこまで言い終えると、まるで何事もなかったかの如く、闇は消え、ピンスポの跡形もなくなり、現実世界が回復する。
 しかし、それでもなお冴子はカメラ目線のまま人形のように固まっていた。
 参考までに今日の彼女のファッションは、葬式帰りかと誤解されそうな黒のスーツ姿である。
 そんな彼女に恐る恐る声を掛けたのは、スター春日彰信だった。
「なあ、あんた一体、誰に向って喋ってンの?」





さて、今回の出題は、『ボウガンを放った場所が藤沼寛の部屋のベランダではない理由』と『冴子が調べようとした4つの物品』と『砂尾の証言の矛盾点』です。
 それでは、引き続き解答篇をご覧ください。 



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