死者からの贈り物(問題編)

死者からの贈り物(問題篇)


「下河原さん、お電話です」
 電話機の保留ボタンを押した円谷冴子が、耳掃除に余念がない下河原刑事に声を掛けた。
 神奈川県警刑事部捜査一課。
 課員はほとんど出払っていて部屋に残っているのは、冴子、下河原、そして彼女らの上司、九条警部補の3人ばかりだった。
「俺にィ?誰からだい」
「若い女性です。ハルナといえば分かると……」
「げっ、またアイツかよ!悪いんだけどさ、今いないって言ってくれねえかな」
「でももう、代りますって言ってしまったんですけど」
「ちっ、しょうがねえ」
下河原は観念したように大きな耳カスをふっと一息すると、転送された電話を取った。
「はい、お電話替わりました。刑事部の下河原です」
 やけに他人行儀に話し始める下河原だったが、なぜか『刑事部』の部分を滑稽なまでに強調している。
 数分ののち、電話を終えた下河原のもとに九条がやってきて言う。
「男やもめに若い女性からの電話か。穏やかじゃないな、下河原君」
「からかわないでくださいよ。若いったって相手は高校生ですよ」
 九条は、当惑した表情を浮かべながら煙草に火をつける下河原に、大仰に驚いてみせた。
「なに?高校生だって!尚更穏やかじゃないなあ」
「九条さん、それ、本気で言ってます?」
 泣く子も黙る強面、下河原がおっかない目で睨みをきかすと、九条は慌てて胸の前で手を振った。
「じょ、冗談だよ。そう怒りなさんな。君はただでさえ怖い顔してるんだから」
「あ、ひでえなあ!」
「で、誰なんだ、その子は?まさか事件がらみじゃないだろうな」
「いやあ、そんなんじゃないですよ。あ、彼女ね、伊藤榛菜(いとうはるな)っていうんですけど、俺が所轄の少年課にいた頃に少しばかり世話してやった子なんです。ちょっとした資産家の娘みたいなんだけど、とにかくそれ以来、すっかりなつかれちゃってねえ。こっちもほとほと困ってるんスよ」
 どうやら、先刻彼が『刑事部』を強調していたのは、もう自分は子供のお守りは職務外だと匂わせたかったかららしい。
「困ってるって、何か面倒なことでも頼まれてるんですか?」
 冴子が盆に乗せた湯飲みを下河原たちに渡しながら尋ねる。
「いやね、榛菜が言うにはさ、先月じいさんが病気で亡くなったらしいんだけど……」
「実は病気なんかじゃなく、誰かに殺されたとか?」と、冴子が口を挟む。
「だから、そんなんじゃないって。昔から心臓が悪かったらしくてな、病院のベッドの上で治療の甲斐なく……ってことらしい」
「じゃあ、遺産相続がらみのトラブルか」と、こちらは九条。
 何でも事件に結びつけて考えてしまう刑事の悲しい性である。
「遺言状はだいぶ前から弁護士に預けていたようで、じいさんの娘、つまり榛菜の母親がすべて相続したそうなんですが、ただ隠し財産らしきものがあるとかないとか……」
 と、すこぶる歯切れが悪くなる下河原が、散らかった引出しから一枚のファックス用紙を出してみせる。
「これ、榛菜が送ってよこしたものなんですがね」
 

  家の中にある4を探せ。そしてそれを相応しい人物に与えよ。 

10
  
 
 

―――――――――――――――――――――
  (参考:アタシの家族)
 伊藤 喜八郎(いとう きはちろう)(71) 祖父
 伊藤 睦子(いとう むつこ)(66)     祖母
 伊藤 武司(いとう たけし)(50)     父(旧姓:東野)
 伊藤 茉莉(いとう まり)(45)      母 
 伊藤 榛菜(いとう はるな)(16)     アタシ

 
「なんだね、これは?」
 九条の問いに紫煙を鼻から吐き出して答える下河原。
「これがその隠し財産の在り処を示す暗号らしいんです」
「暗号か……こういうのはどうも苦手だな。円谷君あたりは得意なんじゃないか」
 すると冴子は顎に手をおいて思案げに呟いた。
「どこかで見たことあるような気がするんですが……」
「お、冴子ちゃんもかい?いや、実は俺もなんかそんな気がしてさあ。でもどうしても思い出せない。そうしてるうちに引き出しの奥に仕舞いこんだまま忘れてたんだよ。そしたらさっき催促の電話だ」
「しかし、暗号の解読をよりによって君に頼むとは無茶をするもんだな」
 と、九条は自分のことを棚に上げ、下河原を揶揄する。
「何言ってんですか。これでも俺、頼りにされてるんですよ」
 さっきまで迷惑そうな口ぶりだった下河原がそんなふうに言う。
「わたし、少し調べてみます」
「いいよいいよ。こいつは俺たちの仕事じゃないんだ。大掃除したときにでも、隠し財産とやらがひょっこり出てくるかもしれないしな」
 そのとき、冴子の目にキラリと光が宿ったかに見えたのは決して気のせいばかりではないようだ。下河原は、と〜っても、いや〜な悪寒に見舞われた。
「あ、俺、ちょいと用事思い出したわ」
 わざとらしくそう言い残し退散せんとする下河原の襟首を冴子の声が捕まえる。
「下河原さん」
「はいッ!」
「確か明日非番でしたよね?」
「ああ、えっと、そうだっけかなあ……」
「なにか予定とかありますか」
「ん、いや、別に……あったような、なかったような……って、冴子ちゃん、まさか……な?」
「実はわたしも明日非番なんです」
下河原→(ぎくっ!)
冴子→(にっこり♪)
「プライベートなら問題ないですよね?」
 このとき下河原は、既に諦観の境地に達していた。そして一言。
「ったく、お宅も物好きだねえ」


 翌日、3月14日。
 冴子と下河原は伊藤家を訪問していた。『伊藤家』というより『伊藤邸』と表現したほうがより適切なお屋敷に下河原は些かひるんでいた。
「金持ちだとは聞いていたがここまでとはな……」
 伊藤邸を訪問するのは下河原も初めてだった。玄関までの長い石畳を歩きながら冴子が訊く。
「その榛菜って子とどういう知り合いなんですか?昔世話をしたって言ってましたけど」
「ああ、そのことか。いやあ、榛菜の奴、実は大人顔負けのとんでもねえ犯 罪者なんだぜ。そんなアイツを俺がパクってからの腐れ縁さ」
「犯 罪って、彼女一体何を?」
 なにげなしに尋ねる冴子に、下河原は大真面目に答える。
「冴子ちゃん、絶対に油断すんなよ、ああ見えて榛菜はな……」
 と、そこまで言いかけたそのときだ。
「おじさま〜!」
 屋敷2階のバルコニーから一人の少女が元気よく手を振っている。
「もしかしてあの子が榛菜さん?」
「ああ、そうだよ」
 急にぶっちょう面をつくった下河原を見て、冴子がポツリと呟く。
「『おじさま』って下河原さんのこと、ですか……」
「お、俺はそう呼ぶのやめてくれって何度も言ってンだけどさァ」
 下河原はぶっちょう面を顰めてプイと横を向いた。彼に『おじさま』の呼称はあまりにも似つかわしくなかった。同僚の刑事たちが聞いたら腹を抱えて笑いころげていたところだろう。しかし、バルコニーの伊藤榛菜はなおも下河原に向かって「おじさま〜」と無邪気に連呼している。本人に悪気はないのだろうが、彼にとってはほとんど嫌がらせようなものであった……


「下河原さん、ごめんなさいね。榛菜がまたご無理を言ったみたいで」
 榛菜の母、伊藤茉莉がお茶とお菓子を出しながら頭を下げた。
 リビングに通された冴子たちはやたらふかふかのソファーに身をしずめている。
「いや、なに、これも仕事ですからね、気にせんでください」
 さっきまで不承不承の態だった下河原の言葉とはとても思えない。へらへらと愛想笑いさえ振りまいている始末。いやはや、美人に弱いのは男たちの世の常である。
 天井が高く、ゆったりとした設計のリビングでは伊藤茉莉、榛菜親子が冴子たちに応対していた。
 冴子が控えめに部屋の様子を観察しながら感嘆の声をあげる。
「喜八郎さんが亡くなって、茉莉さんが財産を相続されたと聞きましたが、家と土地だけでもすごい資産になりますね。わたしたちのような薄給の公務員では一生かかっても手に入れられるものではありませんから、まったく縁のない世界に来たみたいです」
「確かになァ。おっ、この虎の剥製、本物ですか?あの壁に掛かってる絵、ダリっていうんでしょ?あれも本物だったりして……」
 下河原が冴子の尻馬に乗って、調度品のひとつひとつを褒めちぎる。もちろん彼に目利きの才覚などありはしない。ダリの絵画『記憶の持続』だって、ついさっき冴子に教えてもらったばかりの受け売りである。
「……そんなもの」
 一瞬表情を曇らせそう呟いた茉莉だったが、すぐに笑顔に戻って、
「でも、遺産が多すぎるのも困りものなんですよ。相続税だってバカにならないし、この家を維持していくのも、なにかとお金がかかります。現実問題として使用人を雇う余裕さえないんですから分不相応ってところですね。まあ、それでもうちは夫婦共働きですから今のところは、なんとかやっていけてますが……」
 そうは言っても目の前に出されたお茶もお菓子も一般家庭から見たらかなりの高級品である。ウチに客が来たってせいぜい醤油せんべいと出がらし茶くらいしか出せねえもんなあ……などと下河原は考えていたりする。ましてや……
「たしか茉莉さんは貿易会社の社長さんでしたよね。ヨーロッパの家具とかの輸入をしてるとか。あっちの家具は丈夫に出来てるらしいから、日本でもわりに買い手が多いんでしょ」
「いえ、小さな会社ですから、ホントに」
 と、しつこく持ち上げる下河原に恐縮し謙遜してみせる茉莉。
 一方、先刻から借りてきた猫みたいに黙りこくっている榛菜。さっきの元気のよさは微塵も感じられない。そんな彼女に冴子が水を向けた。
「ところで榛菜さん、喜八郎さんの遺した暗号はどこで見つけたんですか?」
 果たして榛菜はウンともスンとも言わない。下河原は別格として、人見知りするタイプなのだろうと、冴子は分析した。
「榛菜、ちゃんと返事をなさい。もう、いつまでたっても子供なんだから」
「どうせ、アタシは子供だもん」
 ぷうと頬を膨らませる榛菜に茉莉が叱責する。
「またそんな不貞腐れて!おばあちゃんがアンタくらいの頃にはね、おじいちゃんのところに嫁いで家事の切り盛りをしてたのよ。少しは見習いなさいよ」
「うるさいなあ、ほっといてよ」
 榛菜はそう言い放ち、立ち上がると下河原の手を引っ張った。
「お、おい、榛菜……」
「一緒に行こ、おじさま。暗号、おじいちゃんの部屋にあるんだ。あ、お母さんはついて来なくていいからね」
 ベーと舌を出して、下河原を引きずるようにリビングを出て行く榛菜。
 茉莉は冴子と目が合い恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「すいません、お見苦しいところを」
 そんな茉莉に冴子が優しく微笑んだ。
「きっと反抗期なのでしょう。子供の頃は誰にでもあるもの。むしろ反発できる相手がいるだけ羨ましいです」
「……あなた、親御さんは?」
「いえ、いません。両親ともわたしが幼い頃に手の届かないところへ……」
 冴子は寂しそうに笑うと、榛菜たちの後を追ってリビングから消えた。
 そして、ひとり残された茉莉もまた、なんとも形容しがたい複雑な笑みを浮かべていたのだった……


「どう?おじさま。解読できた?」
「まあ待て。ちょっと黙っててくれよ。今、閃きそうなんだ」
 2階、伊藤喜八郎の書斎。
 下河原刑事は、煙草のフィルターを千切らんばかりに噛みながらウンウン唸っていた。頭からしゅ〜っと湯気が出んばかりに、である。
「なるほど、ここでその暗号が見つかったんですね。ちゃんと直筆の署名もされている」
「あっ、冴子ちゃん」
 推理に集中し、ふいを突かれた格好の下河原が吃驚して振り返ると冴子が机の上の暗号を興味深げに覗きこんでいた。机上に置いてある一枚の便箋には、昨日下河原に見せられたファックスと全く同じことがすべて手書きで綴られている。
「下河原さん、暗号は解けました?」
「う〜ん、なんか分かりそうなんだけどね。冴子ちゃんこそ何か調べてきたんじゃないのか?」
「いえ、それがまだ良く分からなくて……」
 とかなんとか言いながらも冴子は既に暗号の解読を半ば終えていた。
 しかしあまりにあっさり解かれてしまったのでは、下河原の面目丸つぶれである。冴子は先輩刑事の立場を尊重し、少しの間、答えを伏せておくことにした。
 下河原が頭を捻っている間に、冴子は榛菜と雑談を始める。
「どうもこの暗号によると、見つけた人が『それ』を貰えるとは限らないようですね」
「まあね。でも、『それ』を手に入れることよりも、おじいちゃんが誰に何をあげようとしたのか、そっちの方が知りたくて。おじいちゃんは孤独だった。お母さんもお父さんもおばあちゃんもみんな、おじいちゃんのこと避けていて、かわいそうだった」
「家族から冷遇されていた……それはまたどうして?」
「知らないわよ、そんなこと。聞いても教えてくれないし……」
 冴子が本棚を眺めながら言った。
「喜八郎さんはミステリーがお好きだったようですね」
「うん、おじいちゃん、こういう暗号を考えるも好きだったんだ。作るたんびにアタシに見せてくれたけど、結局今まで一度も解読できたことってなかったなあ」
 確かに喜八郎の書斎には推理小説の蔵書が豊富だった。本棚には有名なミステリ作家の全集などがびっしりと並んでいる。
「隠し場所はこの家の中に限定されているわけですよね。だったら手当たり次第探せば見つけられるとは思いませんでしたか?」
「ま、そりゃあ、そうだけど、でもそれってなんだかフェアじゃないよ。それにウチには絵画とか壷とか何かと高価なモノが多いからね。さっきお母さんはあんなふうに言ってたけど、本当は宝探しにはあんまり関心がないみたい」
「こちらに来るとき見えたんですが、裏庭に建っていたのが蔵ですよね。貴重品があるとしたらあそこかも……」
「ううん、あそこには絶対にないわ。あの蔵はお母さん専用のものだから。仕事に使う商品とかを置いてるの」
「そうですか」
 冴子はすばやく思考をめぐらせた。
 あの暗号の示すものは、アレ以外に考えられない。5や8や9のキーワードを伏せることでうまく迷彩をかけてはいるが、アレの規則性さえ知ってしまえば、これはもう一目瞭然だ。ただ、隠し場所は分かったものの、もう一つの問題、『相応しい人物』というのが誰を指しているのかがまだ特定できない。家の中に隠すというくらいだからおそらく家族の中の誰かではないだろうか。まずは家族全員に会ってみること。そして、隠し場所に何があるかを確認することでその謎を解くカギが揃うのかもしれない……
「あ〜、分かったぞ!」
 下河原が出し抜けに大声をはりあげた。冴子と榛菜の注意が自分に向けられたのを確認した下河原は得意満面に胸を反らせて言ったもんだ。
「ズバリ、これは原子番号だな」
「原子番号って、水兵リーベ僕の舟とかいうアレのこと?」と榛菜が尋ねる。
「当たり前だ。他に何があるってんだ。いいか。この数字とその下に書かれたモノは原子名とその番号を示しているんだよ」
「へえ、おじさま、すごいねー。でも、肝心の『4』っていうのは何を指しているの?」
 と、尊敬のまなざしを向ける榛菜だが、そこで下河原は俄かに眉根を寄せる。
「うう……っと、それはだな……」
 たちどころに舌が回らなくなる憐れな下河原。どうやら彼お得意のあてずっぽうだったらしい。
「水兵リーベだろ。水は水素、兵はヘリウムだっけ……だからつまり4番目は……」
「ベリリウムです」と冴子がこっそり教えてやるが、榛菜にはもちろんバレバレだ。
「そう!ベリリウムだ。ン?ベリリウムって何だ?」
 さしもの冴子もこれには頭を抱え込んでしまった。もはや処置なし、である。やはり、下河原に花を持たせようという彼女の目論見には無理があったらしい。
「原子番号はどうも当てはまらないようですね。ちなみに6番が炭素、7番が窒素、10番がネオンですから……それに鉄は26番、銅は29番、錫は50番なので、これも合致しません」
「そうか。ちょっと惜しかったようだな」
 惜しいどころか、かすってもいないんですけど……
 冴子のこめかみに大きな冷や汗が一粒。しかし下河原はまだめげなかった。榛菜の手前、意地でも解読しようという心積りのようだ。
「なるほど、少し見えてきたぞ。原子番号6、7、10に対応する数字が26、29、50か。だんだん大きくなっていくなあ」
 あくまでも原子番号に固執する下河原が、手帳にいろんな計算式を書き込んでいく。この数字を何らかの公式に当てはめようとしているらしい。
「それぞれの和が32、36、60。それぞれの差が20、22、40。くそっ、繋がらないなあ。もしかしたら、加減乗除を混ぜた公式があるのかも知れんな」
 下河原の頭頂から立ち上る湯気は、今やヤカンの水さえ沸かせそうだ。そんな彼に冴子がやんわりと口添えする。
「それはいくらなんでも複雑すぎませんか。そもそもこれは化学や数学の問題ではないと思います。それに原子番号だなんて、いかにもありがちです。仮にも喜八郎氏はミステリ好きだったんですから、多少のひねりは利かせていると思うんですけど」
 じと〜〜
 下河原の疑いの眼差しが冴子に突き刺さる。
「冴子ちゃん、まるで答えを知ってるみたいな口ぶりだな」
 すると冴子は慌てて抗弁する。
「そんな、とんでもない。この謎を解けるのは下河原さんしかいませんよ。ね、榛菜さん」
 じと〜〜
 榛菜の疑いの眼差しが下河原に突き刺さる。
「おじさま、本当に大丈夫なのォ?」
 すこぶる頼りなげな下河原に榛菜は疑念を抱き始めていた。
「暗号を解くためのポイントは、なぜ4だけではなく、5、8、9も隠しているかということなんですよね」
「ああ、それは俺も気になってた。何故なんだろうな」
「消去法で考えてみましょうか。まず第一に5、8、9に対応する言葉が存在しない。しかし、そうであるならば敢えて数字を書く必要もないでしょうからこれは違います。第二に単なる書き落とし。ですがこのケースはダイイングメッセージのように限られた時間内で書いたわけではなさそうなので、これも違います。そして第三の可能性……」
「書くと答えが分かってしまうほどの重大なヒントになってしまう」
 そう口を挟んできたのは榛菜だった。冴子は素直に榛菜を褒め称えた。
「さすがですね、榛菜さん。確かにそれもあるでしょう。そして、あともうひとつ。ミスリードです」
「ミスリード?」
「はい、ここに書かれている単語は鉄、銅、錫。すべて鉱物の名前です。となると、どうしても空欄に当てはまる言葉もまた鉱物ではないかと思い込んでしまう。げんに下河原さんがたった今その罠に嵌ってしまいました」
 いきおいこんで、榛菜が膝を乗り出す。
「ってことは、4に当てはまる言葉は鉱物じゃないっていうの?」
「おそらくは……」
「そうかねえ、でも原子番号ってのは我ながらいい線いってると思うんだけどな」
 まだ己の推理を捨てきれないでいる下河原に冴子が釘をさす。
「もっと柔軟な発想で考えてみるといいですよ、下河原さん」
「……やっぱりな」
「なにか?」
「冴子ちゃん、もう暗号解けてンだろ?いいよ、降参だよ。ちょっと悔しい気もするがな」
 ついに下河原が白旗を揚げたそのとき……
「おや、茉莉。お客さんかい?」
 と、白髪の老女が入室してきた。どうやらこの老人が喜八郎氏の妻、睦子らしい。
「おばあちゃん。アタシは榛菜だよ。お母さんは下にいるよ」
「あらあら、茉莉のお友達でしたか。ゆっくりしてって頂戴ね」
「だからァ、アタシは孫の榛菜!もう何べん言ったら分かンのよ!」
 老人性痴呆症。
 そんな言葉が冴子の脳裏に浮かんだ。
「あの、榛菜さん。おばあさんはアルツハイマーか何かなんですか?」
「ううん、そういうのでもないみたい。だってアタシが物心ついた頃には、もうあんな感じだったもん。詳しくは知らないけど、昔、頭に怪我をして、その時からの後遺症らしいよ」
「そりゃ初耳だな。大変なんだな、お前ン家も」
 下河原がそんな月並みな労わりの言葉をかける。
「じゃあ、私、下にいますから、何かあったら声かけてくださいね。それにしても茉莉も困った子ね。お友達ほったらかしにしてどこにいったのかしら……」
 退室する睦子の背中を見送りながら冴子は考える。
 伊藤榛菜、伊藤茉莉、伊藤睦子。これで伊藤家の3人に会見することができた。あとひとりは……
「お父さんは今日はいらっしゃらないんですか?」
「おじさまが来るから家にいてって言っといたんだけど、どこか出かけちゃったみたい。ったく、おじさまがわざわざ来てくれたのに……」
 と、ぶつぶつ不平をもらす榛菜。
「普段はどっちかっていうとお母さんのほうが仕事の虫なんだよ。そのお母さんでさえ家にいるっていうのになあ」
「いや、却って忙しいところ悪かったな。なにも無理に親御さんを家に留めるまでもなかったろうに……」
「でもォ……」
 そんなふたりのやりとりを執り成すように冴子が控えめに提案した。
「とりあえず、わたしにひとつ心当たりがあるので、そこを探してみませんか?」


 やがて、冴子の指摘に基づき、あるモノを探したところ、それは発見された。
「これは鍵……?」
 伊藤茉莉が、喜八郎の遺したものを手にとって意外そうに言う。
 鍵と一緒に隠されていたものには、またしても一枚の便箋が添えられていた。
 そこには、銀行の名前などが書かれている。
「おや、お客さんかい?」
 そう言いながら突如として現れたのは、たった今帰ってきたばかりの榛菜の父、伊藤武司である。鼻の下にちょびひげを蓄え、目が落ち窪んでいる貧相な紳士は、一言で表現すれば『和製チャップリン』といったところか。
「おお、あなたが下河原さんですか。そう言えば今日お見えになるとか……」
「お父さん、明日おじさまが来るから家にいてって、ちゃんと言っといたじゃないよ」
「いや、すまない。ちょっと仕事のほうがたてこんでいて、今の今まですっかり忘れてたよ。はじめまして下河原さん、その節は大変お世話になりました」
 と、下河原に握手をしてくる武司が、冴子に気付いて怪訝そうに尋ねる。
「こちらのお嬢さんは?」
「ああ、同僚の円谷刑事です」
「へえ、これはまたお若い刑事さんですねえ」
 それは、童顔の冴子が何度となく聞かされている彼女の第一印象だった。
「それにしてもどうしたんだ?みんなこんなところに集まって……おや、その鍵は?」
「貸し金庫の鍵みたいなのよ」と、茉莉が言うと、武司は一緒にあったメモを見て、
「これはウチの会社で取引してる銀行のものだな。我が家にこんなものがあったっけ?」
「ウチの会社?」と、冴子が抜け目なく食いついてくる。
「いや、私の会社は宝石や貴金属を扱ってるところなんですが、そこのメインバンクがこの銀行でしてね。でも誰の鍵なんだ?少なくとも私には覚えはないぞ」
「ほら、れいのアレよ」
 茉莉の言葉に目を丸くする武司。
「あっ、もしかして、お義父さんの遺したっていう暗号のことか?しかしどうしてこんなところにあったんだ?あの暗号はここを指していたってことなのか」
 それは誰もが気になっていたことだった。暗号の示す場所は判ったものの、なぜあの暗号がこれを示しているのかは、まだ誰も聞かされていないのだ。
「冴子ちゃん、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか。この暗号の意味をさ」
 伊藤榛菜、茉莉、武司、下河原。4人の視線が冴子に集まる。ちなみに、伊藤睦子は庭に散歩に行ったらしく家の中には居ない。
「ちょっと待ってください。わたしはまだ半分しか暗号を解いていません。つまり『4が示すモノ』までは判ったものの肝心の『相応しい人物』というのが誰なのか判らないんです。そこで、勝手を言って申し訳ありませんが、貸し金庫に何が保管されているのかを先に確かめさせていただけないでしょうか」
 暗号の答えと貸し金庫の中身、興味が強いのは当然後者のほうである。それゆえ、冴子の申し出に特に異議を立てる者がいなかったのも必定であった。
「わかりました。では私が見に行ってきましょう」
 伊藤武司が力強く頷くと、帰って来たばかりの我が家を飛び出して、その場は一旦お開きとなった。


 約2時間後、武司の持ち帰ったものを囲み、一同は当惑していた。
「これだけですか?ほかにメモなどはありませんでしたか」と、下河原が尋ねる。
「ええ、これだけでしたよ」と、武司。
 リビングのテーブルには高級そうな金のネックレスが置かれている。
 伊藤武司が持ち帰ったものは、目前のそれ、ただひとつである。
「しかし、これはなかなかの値打ち品ですよ」と、宝石商の武司が唸る。
「私はおろか、おばあちゃんにだって指輪のひとつも買ってあげたことがないあの人がこんなものを隠していたなんて……」と、茉莉。
「おじいちゃん、誰にこれをあげようとしてたんだろ?」と、榛菜。
「まあ、素敵なネックレスね」と、勝手に首につけてみる睦子。
 4者4様の反応である。
「金のネックレス……」
 冴子は、今日ここで交わした会話や目にした物をじっくりと反芻した。
 そして辿り着いた。この金のネックレスが『相応しい人物』が誰であるかに!
 これを受け取るべき人物はこの人しかいない。そう確信し、暗号の解説を始めようとしたちょうどそのとき。
「そうか!」
 ふいに下河原が素っ頓狂な声をあげた。
「お、おじさま、どうしたの?」と、隣りに座っていた榛菜が吃驚して下河原を見る。
「俺にもようやく分かったよ。冴子ちゃん、君は実にいいヒントをくれた。まさに柔軟な発想だよな、うんうん」
「あの……下河原さん?」
「ああっ、みなまで言うな。ここは俺がびしっと言ってやるよ、びしっとな」
 鼻息も荒く立ち上がった下河原がある人物をびしっと指差した。
「この金のネックレスは、ズバリ武司さん、あなたに宛てられたものだ!」
「え、私に……ですか?」
 言われた本人が一番驚いている。伊藤武司は目を瞬かせながら反論する。
「だけど、これ、どうみても女性用ですよ」
「それが冴子ちゃんの言うところのミスリードってやつさ。だが暗号がはっきりと教えてくれた。このネックレスは武司さんに最も相応しいとね」
 下河原の奇妙な一人舞台は続く。
「説明しましょう。まず伊藤家の家族の名前にはすべて数字が隠されていることにご注目いただきたい。喜八郎は8、睦子は6、榛菜は7、茉莉は毬のように丸いってことで0、そして武司が4。もうお分かりですね?」
 しかし残念ながら、誰もお分かりではなかった。冴子などは完全に言葉を失っていた。もはや否定する気さえおきない。『4』はあくまで『隠し場所』を示すものであり、『相応しい人物』を指しているのではない。そもそも鉄とか銅とかの説明は全くないし、しかも茉莉=毬=0なんて力技にもほどがある。
 冴子は切実に思った。
 これ以上答えを先延ばしにすると、下河原さんに恥をかかせてしまう。(もう充分にかいているのだが……)
 果たして、この金のネックレスは誰の手に渡るのか?
 妻の睦子か?娘の茉莉か?孫の榛菜か?はたまた下河原のあてずっぽうが偶然的中し、義理の息子武司にいくのか?
 今まさにすべての答えが彼女の口から明かされようとしている。



 さて、真相に辿り着きましたか?
 今回の出題は、『貸し金庫の鍵はどこに隠されていたか?』と『ネックレスは誰に宛てられたものか?そして、その根拠は?』です。
 それでは、引き続き解答篇をご覧ください。 



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