第10章


第10章  事件

「数馬くん、いないの?」
 1号室の扉を数回ノックした後、千夏は深いため息をついた。防音が完璧である以上ドアの向こうに声が届くわけがないことを頭では理解していたが、それでもやはり呼びかけずにいられなかった。森岡千夏はひどく焦っていた。なにしろタイムリミットまで残り10分しかないのだ。
 ……こんな形で……こんな形で彼を死なせるわけにはいかない…… 
「千夏さん、そっちにいました?」
 1階を探していた石田サチコが手すりと杖を頼りに階段を上ってくる。千夏が力なく首を振った。
 後から来た遙は外を探してくるといって玄関を出ていったので、2階には千夏とサチコの2人だけだった。しつこいようだが2人と言っても、厳密には【代理人助手】も視野の範囲内に存在している。たしか説明会の時、石川と呼ばれていた男だ。誰かが彼らを称して死神みたいだと表現していたが、まさしく言い得て妙だ。没個性な男たち。この連中にずっと監視されているかと思うと誰しも吐き気がしてくる。
 千夏などは彼らと目をあわせることすら苦痛だった。
「もう食堂に行ったかもしれませんわね。お腹すいたとか言って」
「だといいんですけど……それにしてもみんな非道い人たち。人の命を何だと思っているのかしら」
 千夏は他の面々の振る舞いに再び怒りが込み上げてきた。
「それでも、千夏さんは皆さんを救いたいと思ってるんでしょう?」
「……ええ。私が本当に許せないのは、そういう人の陰部を引きづり出そうとしてるこのゲームの主催者たちですから」
 そんな彼女を可愛い孫を見るような目で見やるサチコ。
 ふいに階下から螺子目の呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい、数馬くん来たぞお」
 その声に2人ほっと胸を撫で下ろす。
「よかったあ。ホント危なっかしい子ですね」
「そうね……ねえ、千夏さん」
「はい?」
「あたくしね、人を殺したの」
「え……今、何て……?」
……ひとをころした?
 まるで時候の挨拶でもするかのようにさらっと言ったものだから、千夏は一瞬聞き違えたかと思ったくらいだ。
「あたくし、この手で主人を殺してしまったの」
「サチコさん……何かの冗談ですか?」
 彼女はこんな冗談を言うような人ではない。知り合って僅か半日程度だが、共に濃密な時間を過ごしてきた間柄だ。これが嘘や冗談ではないことくらい重々承知している。だが、しかし……何故……?
「……どういうことですか?」
 千夏は向き合って聞く態勢をとった。【代理人助手】が見ているが、どの道ここでの会話はすべて筒抜けなのだ。やむを得ない。
「主人はね去年の今ごろから入院していたの。心内膜炎といってね、血を吐いたり、急に呼吸が苦しくなったりする病気なの。ご存知?」
「はい、一応は。私、医療関係の仕事に就いてますから……」
「あらそうなの。じゃあ、お詳しいわね。あたくしも素人なりに医学書を読んで勉強したんだけど、その病気って手術しても成功率はとっても低い病気らしいの。ましてや主人は高齢だったから抵抗力が弱くてね、毎日毎日バケツが一杯になるくらいたくさんの血を吐いて、寝たきりなものだから腕も脚も棒みたいになっちゃって日ごとに衰えていったわ。お医者さまも完治する見込みはないとおっしゃってた。たとえ治ったとしても、心臓が脆いから心不全に陥らないように、運動はおろかちょっとしたショックを与えても危険な状態になる身体だったの。ある日、病室でね、あたくしが花瓶の花を取り替えようとして、うっかり手を滑らせちゃったときがあるの。床に落ちた花瓶は見事に砕け散った。ガシャーンってね厭な音がしたわ。本当に厭な音……」
 サチコがハンカチーフで目頭を押さえる。
「そしたら、あの人、おかに上がった海老みたいにベッドの上で飛び跳ねるの。息が苦しいらしくて爪が食いこむくらい胸を掻き毟ってね……その時はすぐに先生を呼んだから事無きを得たけど、ガラスの割れる音を聞いただけでそれよ。ねえ、そんなのって生きてるって言える? ついにはあの人、ろくに口も聞けなくなって、餌を求める金魚みたいに口をパクパクさせて……あたくしの手をぎゅっと握って涙を流すの。長年連れ添ってきた人ですもの。何が言いたいのかすぐに解ったわ」
「まさか……サチコさん、だからって、そんな……」
「もう耐えられない、逝かせてくれって。あの人の目はそう訴えていた。それをできるのはお前しかいない。そう言われた気がしたの。だから、あたくし、呼吸器のスイッチを切ったわ。そしたら風船が萎むようにすーって息を引き取った。呆気なかった。人って簡単に壊れちゃうものなのね。紙みたいに白い顔。ミイラのように張りついた皮膚。窪んだ眼球。かさかさに渇ききった赤紫色の唇。昔は恰幅がよくてふっくらしてたんだけど、最期は見る影もなかったわ。時々ね遺影を見ながら、あの人の元気だった頃を思い出そうとするんだけど、頭に浮かんでくるのは最期の死に顔だけ。おかしなものよね。後になっていろいろ考えたわ。あの時主人は何を言おうとしていたのか? 早く楽になりたい、殺してくれ? 本当にそうだったのかしら。もしかしたらもっと生きたかったんじゃないのか、逝かせてくれと聞こえたのはあたくしの勝手な解釈だったんじゃないのかって……」
「サチコさん……」
 何か言わなくちゃ。千夏はかける言葉を必死で探したがすぐには出てこなかった。
「あたくしが交通事故でこの足が動かなくなったとき、ずっと足の代わりになってくれたあの人を……あたくしは……この手で……この手が……生きたいと言ったかもしれないあの人を……うう……」
 声を殺して泣きじゃくるサチコ。止まらない嗚咽。
「きっと、あたくしは地獄に堕ちるわね。ここに招かれたのは罰なのよ。神様はちゃんと見ているわ。お前はただでは死なせない。とことん苦しんで、苦しみ抜いて逝くがいい。審判は下された。だからあたくしこのゲームに参加したの」
 子供のように泣きじゃくるサチコの肩を揺する千夏。
「しっかりしてください、サチコさん。あなたは充分苦しんだ。もう自分を責めないで!」
「ああ、あたくしはここで死ぬんだわ」
「サチコさん!」
「だからせめて、死ぬ前に誰かに聞いておいてもらいたかったの。この許しがたい罪の懺悔を……これでもう思い残すことはないわ。ありがとう千夏さん。もういいの。主人のところへは行けないかもしれないけどね……」
 千夏はぐったりとうなだれる老婆を部屋に促した。
「サチコさん、少し休んだ方がいいです。落ちついて……冷静になってください。あなたは悪くない。いいですね、気をしっかり持って! 死のうなんて考えちゃ駄目!」
 老婆は泣きはらした赤い目を細めて精一杯の笑顔を作った。
「優しいのね……千夏さん、本当にありがとう。あなたは生きてね。まだ若いんだから、きっと生きて還ってちょうだい」
「分かりました。でも約束してください。サチコさんも生きて還ると……」
「ええ、約束しますわ」
 そして、サチコは扉の向こうに消えた。
 サチコさんにそんな過去があったなんて……。
「ふっ……」
 部屋に戻り、一人になった千夏は自嘲気味に嗤った。
 人殺しか……人間多かれ少なかれ人の死に立ち会うもの。長く生きていれば尚更だ。そして誰も彼も間接的にはみんな人殺しだ。私たちはこの飽食の日本でのうのうと生きている。いくら不景気だからといっても、食べるのに困るほど逼迫している人はごく一握りだ。お金がないとぼやきながらも、そのほとんどは酒だ女だ旅行だ博打だグルメだオシャレだスポーツだと遊興費に散財しているではないか。そんなことにお金を使わなくったって死にはしない。それに使うお金で世界中にいる何人の難民が救える? マクロな視点で考えればそういうことだ。小ざかしい理想論と切り捨てるのはたやすい。だけど、そういう意味では自分もまた人殺しに違いない。ならば、いつの日か自分にも審判が下るだろう。
 でも!
 でもそれは人の手に委ねられてはいけないのだ。どんな場合であっても人が人を殺していい理由などない。そう、このゲーム、どうあっても正当化してはならないのだ。
 千夏は己を奮い立たせた。
 何ができる? 今の私に何ができる?
「考えるのよ、千夏!」
 彼女はそう呟いて胸のペンダントを握りしめた……。


 鳩が18回鳴いた。本日3回目のタイムチェック。食堂に居合わせた構成員は千夏とサチコを除く計8名。
「なんだ、偽善コンビはまだ来ないのか」
「どないしたんやろ? せっかく作ったディナーが冷めてまうで」
「まだ、寝てるんじゃないの?」
「こんな時間にかね? それによしんば寝ていたとしてもあの鳩の鳴き声で起きないってことはないだろう」
 そんなことを言いあっているうちに千夏がやってきた。彼女は走ってきたらしく肩で息をついている。
「サチコさんまだ来てないですか?」
「ああ……あとはあの婆さんだけだぜ。どうしたんだ?」
「どこに行ったのかしら……? 部屋のドアをノックしたんだけど出てくる気配がないの」
「ほっとけ、ほっとけ。時間はまだたっぷりある。そのうち来るさ」
 確かに19時までまだだいぶ時間はある。しかし千夏はひどく胸騒ぎがしていた。先刻のサチコの告白。あれはまるで遺言のようで……。その話を皆にするべきかどうか彼女は躊躇った。
 サチコにとってあの話はあまり人に聞かれたくないことだろう。そしてそれは【犯人】を究明するのに直接関係のない事柄だ。しかし昼食時の数馬遅刻の一件でも、真剣に彼を探そうとする者はほとんどいなかった。情けない話だが自分一人ではどうすることもできない。やはりここはさっきの話を公開して皆に協力を求めるしかない。尤もその話をしたところで取り合ってもらえるかどうかは怪しいところだが……。
 千夏はそこまで逡巡し、結論としてサチコの秘密を明かすことにした。
「……だから、あの人、死ぬかもしれない」
 顔面蒼白ですべてを告白した千夏に、菅野が声をかけた。
「それで、彼女の部屋のドアに鍵はかかっていましたか?」
「ええ、掛かってました。だからきっと中にいるとは思うんですけど」
 規則上、他人の部屋のドアをノックしたり、ノブを回して施錠の有無を確認するところまではセーフティである。ただし、そのドアを開けた時点でペナルティだ。千夏もそこのところは心得ていたので、それ以上どうすることもできないでいたのだ。
 菅野が真っ先に席を立った。
「とりあえず、彼女の部屋まで行ってみましょう」
 不承不承という輩もいたものの、結果的に全員が石田サチコがいるであろう6号室の前に集まった。
 代表して菅野がドアをノックする。続いてノブをかちゃかちゃ回してみる。カードキーの差込口にも異常は認められない。
「やはり、鍵が掛かっている……」
「だからって中にいるとは限らないんじゃないか。私だって部屋を出るとき鍵をかけているからね」と螺子目。
「私もかけて出るな。しかし習慣とは恐ろしいものだ。【犯人】がマスターキーを持っている以上、部屋に鍵をかけることに大した意味はないのだが……」と今度は平。
「風呂にでも入ってるんじゃないの?」と、美結が最も現実的と思える意見を述べる。
「まさか、もう死んでたりしてね」
 数馬が無邪気にどきりとすることを言う。
「まさか……」
 遙は怯えにも似た声をあげる。一同に同じ不安が走った。遂に第一号の犠牲者が出たのか? たまらず松本が【代理人】に訊く。
「どうなんだ? 婆さんはもう死んじまったのか」
 当然、山口は答えない。
「ねえ、どうするのよ……あたしたち、どうしたらいいの」
 遙はサチコが完全に死んだものとし、パニクっていた。
 平がポケットウイスキーをぐびりとやる。
「どうもこうも、我々は19時まで待つしかないだろう。あの老人がそれまでに食堂に現れなかったらどうなる? もし生きていれば【代理人】たちが動き出す。ペナルティを課すためにな……そして彼らが動かなければ……」
「すでに死んでるってことか。ったく、こいつらハイエナだな。生きてるものには見向きもしない。死肉にばかり群がるハイエナだ」
 動物好きの螺子目らしい比喩だったが、実に的を射た喩えだ。
「せやけど、サチコさんが【犯人】なら話はまた別やで。早々と途中退場して、この館のどこかで犯行の機会を窺っているのかもしれへん」
「とにかく、ここにいても仕方ないよ。一旦食堂に戻らないか」
 螺子目の提案に対して、松本が答える。
「よし、皆は食堂で婆さんが来るのを待っていてくれ。俺はここに残って部屋を見張ってる。もし婆さんが生きてりゃ【代理人助手】が部屋に突入するか、婆さんの死体を運び込むかするはずだからな」
「よっしゃ。それやったら俺もここに残るで。2人で見張ってれば、どちらかが【犯人】だとしても皆に偽証はできないやろ」
 室町の意見は尤もだった。このゲームではっきりしていることは、10人の中に【犯人】は一人しかいないということだ。裏を返せば、常に誰かと行動を共にしていれば【犯人】ではないことの決定的な証拠となるのだ……。


 食堂では誰もが口を閉ざしていた。食事をする気分でもなく、冷めたスープを前に一同は永遠とも思える無為な時間を過ごした。しかし時がとまることなど太古の昔から一瞬たりとてなかったこと。やがて長閑な、しかし不吉な鳩の鳴き声が館内に響き渡る。聞きなれたその嬌声はまるで断末魔の叫びにもとれた。19時。タイムオーバーである。
 石田サチコはついに現れなかった。
 時報と同時に全員が示し合わせたように2階へ向かう。そして【代理人】たちもその後に続く。
 2階、6号室前。
 やってきた面々に室町が力なく首を振る。
「動きなしや……」
「決まりだな。既に婆さんは死んでいるか、あるいは【犯人】としてどこかに潜伏しているかのどちらかしかないぜ」
 松本は大して愉快でもなさそうに渇いた笑い声をあげた。あれほど誰かに死んで欲しがっていた彼だったが、さすがに現実に直面すると、やはり身の引き締まる思いになるのだろう。
「ああ……」
 千夏は全身の力が抜けたかのようにその場に蹲った。
「私が……私があの人を殺したようなものよ……」
 千夏は頭を抱え込んだ。その目から零れ落ちる大粒の涙が廊下を濡らす。ただ、長い髪にさえぎられ表情までは読み取れない。
「殺したって……まさかお前が【犯人】なのか?」
 松本の阿呆な質問に千夏はいやいやするように大きくかぶりを振る。
「でも私が殺したようなものよ。サチコさんに部屋で休むように勧めたのは私なの。あの人を一人きりにしたのは私なのよ!」
「なんだ、そんなことで責任を感じているのか。あまり自惚れんじゃねえよ。皆、それなりに危険を感じていながらもなんやかんやいって好き勝手に動いていたんだぜ。一人になることをあまり気にしていなかった」
 松本の言うとおりだった。一人になったとて、大抵はすぐ近くに構成員の誰かがいた。そんな状況で【犯人】が事を起こすとは予想だにしていなかった。そして何より、いつもそのことに気遣っていては殺られる前に神経が参ってしまう。
 千夏は泣き腫らした目でキッと山口を睨みつけた。
「あの人は【犯人】じゃなかった! 少なくとも私はそう信じてる。あなたたち何てことを……」
 やりきれない想いの面々の中、興奮する千夏に油をさしたのは菅野祐介だった。
「思ったより早くゲームが動き出しましたね。ふむ、これは面白くなってきた
「面白い? 面白いですって! 菅野さん、あなた気は確か? 人が……人が死んでるのよ」
「なぜ、死んだと判るんです? 彼女は【犯人】かもしれない」
 千夏の怒りを菅野は冷静に受け止める。
「違う! あの人は【犯人】じゃない!」
「そうですか……」
 菅野はそれ以上言うのをやめにした。彼にはいくらでも反論する余地はあったが、取り乱した女性を追い詰めるほど悪趣味ではなかったのだ。
「ねえ、やっぱりおばあちゃん、死んじゃったのかな」
 誰も数馬の問いには答えない。いや、答えられないのだ。ただ一人【犯人】を除いては……。
「とりあえず食堂にでも集まろう。私たちが今、考えなければならないことは山ほどあるはずだ」と、螺子目。
「ちょっと待って。いつからこのゲーム、団体戦になったのよ。お互いみんな敵なのよ。たとえ【被害者】同士でも協力する必要なんてないわ」と、美結が強気にも口を尖らせる。
「一人の力だけで身を守ろうとするのはあまり得策とはいえませんよ。協力するんじゃない、利用するんです。何もみんなを信用する必要なんてない。ただ議論をすることは建設的なことだと思います。自分にとって重要だと思われること、自分にしか知り得なかった情報は、胸の中にでもしまっておけばいい」
 そう宥めたのは菅野だった。
「それは私も同感だな。どうもこのゲーム、【犯人】に有利過ぎるような気がしてならん。不本意だが、せめて知恵を寄せ合わないと」と、これは平の弁。
「……そうね、あたしもこんなところ長くはいたくないし……ねえ、下に行きましょうよ」
 遙は一刻も早くこの場を離れたがっているようだ。
 やがて千夏が立ちあがったのを期に構成員全員が固まって階段を降りていく。
 菅野は歩きながら考えていた。昨夜から幾度となく読み返している規則のことを……。
 あの無駄のない文章。必要な事項はすべて記載されている。実際こうして何かが起きてどうしたものかと考えたとき、必ず規則が導いてくれる。石田サチコはもう自分たちの前におおっぴらに現れることはないこと、彼女が【被害者】なら確実にその遺体が部屋の中にあること、これら何もかも規則が教えてくれる。【代理人】は言っていた。規則にはすべてが過不足なく書かれている。よく読めば有利に事を運ぶ方法さえ読み取れるはず、と。しかし、この簡潔明瞭な規則を一字一句追っているだけではいけない。規則自体は短い文章で表記されているが、規則にない事項は無限大にある。規則の解釈よりも規則に載っていない条項や文章を探し当てることが肝要だろう。省かれた文字と文章。何故省かれたのか? 洪水のように押し寄せる言葉の波から真実を導く言葉の雫を掬い取るのだ。それがこのゲームの流れを支配する唯一の方法なのだから……
 菅野は階下へ向かい緩やかにうねる階段を一歩一歩踏みしめながらふっと嗤った。
 そして誰にも聞き取れぬくらい小さな声でポツリと呟く。
「僕は……僕は狂っているのか……」


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