第一章


第一章  御厨ひかる

「もし君が無人島で生活しなければならないことになったとして、何かひとつだけ持っていけるとしたら何を持っていく?」
 精神科医は患者を見据えて問うた。
 医者と患者、二人きりの部屋。
 打ちっぱなしのコンクリートの壁。
 部屋にはたった一客の椅子。
 ほかに何もない。
 生活感のまるでない部屋だった。
 その唯一の椅子を占拠している患者が応えた。
「仮定の質問に答えることほど意味のない行為はありませんよ」
 精神科医は一瞬眉根を寄せたが、あくまで冷静を装って言った。
「意味はあるさ。君の深層心理を図るというね」
 患者は呆れたように肩をすくめる。
「そんなことで何が判るんです? 人を類型的に分類するためですか? そもそもその質問は説明が不足しすぎで答えようにも答えられない」
「ほう、例えば?」
「無人島というからには人はいない。ただし、人以外の動物はいるかもしれない。自分より弱い動物がいるのなら、それを糧とするための道具が必要だし、自分より強い動物がいるのなら、それから身を守るための道具がやはり必要になる。つまり武器。でも銃は駄目です。あれは弾がなければただの棒切れにすぎない。まあ、鋭利な長い刃物、槍のようなものが良いでしょう」
「わかったよ。じゃあ、人間だけでなく動物もいないということにしよう」
「ということは、食糧源は植物だけということになる。動物性蛋白質が摂取できないとなると著しく栄養が偏りますね。とてもそこで長く暮らしていけるとは思えない。となると船が必要だ。その船で動物も植物もいる別の島へでも引っ越しましょう」
「それは反則だな。一応無人島からは出られないというシチュエーションで考えてくれないか。食べ物には不自由しないという設定にしてあげるから」
「そういうことは先に言って欲しいな……じゃあ、そうだな……」
 患者は下唇を突き出して更に頭を捻る。答えるのには意味がないと言ったわりには結構まじめに答えようとしている。
「だったら、服……かな?」
「服?」
 意外な答えに精神科医がおうむ返しに尋ねる。
「そう、服です。不思議なもので無人島という言葉を聞くと、なぜかみんな同じイメージが浮かんでしまう。ただの人のいない島にすぎないはずなのに、無人島にはヤシの木が生えていて見たこともないような深い森、そして降り注ぐ太陽光線。なぜか明るいんです。そして暖かい。無人島イコール温暖な気候、そんな先入観がある。でもそんなことをあなたは一言も言っていない。暑ければ着ているものを脱げばいい。誰もいないんだ。恥ずかしがることはない。しかし寒かったら? 何で寒さをしのぐ? 防寒着ですよね。あるいはちょっと奮発して断熱材がびっしり詰まった家の一軒も建ててもらいますか」
 患者の口ぶりはまるで彼を見下し、からかっているようだった。
 いけないとは思いつつも、精神科医はつい声を荒げてしまう。
「まじめに答えないか!」
 されど患者は柳に風とばかりに静かに口を開く。
「だったら、もうすこしまともなことを訊いてくださいよ。だいたいこの質問自体が矛盾してるんだ」
「何?」
「あなたには私が何に見えますか? 猿? ペンギン? それとも蛇?」
「何が言いたい? 君は人間だろう」
 精神科医の答えに患者は満足げに頷いた。
「そうです。私は人間。ヒトです。つまり私は無人島で生活することは出来ないんです。なぜなら私が無人島に行った時点で、そこは有人島になってしまうんですから。ま、一種のパラドックスですね」
「…………」
 精神科医は疲れ始めていた。しかし負けるわけにはいかなかった。
 何人もの同朋の手を焼かせ、カウンセリングを諦めさせたこの患者を狂気の淵から救いだしたかった。
 それは己の名声などのためではない。純粋な医師としての使命感からだ。
「オーケー。じゃあ言い直そう。君一人しかいない島で、食べ物にも不自由しない、気候も極めて快適。そういう条件だとしたら何を持っていく?」
「ぷっ……くく……あははははは……あはははは……」
 患者はこのとき初めて笑った。腹を抱えて笑った。
 こいつは少々ムキになってる自分を見て笑ったのかと精神科医は思ったが、実はそうではなかった。
 患者は笑いすぎて浮かんでくる涙を拭きながらとんでもないことを言った。
「だったらなんにも要りません。私は喜んでその島に行きますよ」
 笑いが止まらない患者に精神科医は薄ら寒いものを感じた。
 そして呆然と呟く。
「こいつには孤独という概念がないのか……?」


「カ〜〜〜〜ット!!はいっ、チェック入ります」
 二人しかいないはずの部屋に第三者の声が響いた。
 険悪なムードだった二人は表情を和らげ、ドアを開けずにその部屋から出た。
 なに、簡単なことである。なにしろその部屋は壁が一面すっぽりと抜けていたのだから。
 そう、これはお芝居である。ここは、とあるテレビ局の撮影スタジオ。
 精神科医も患者も役者がそれらに扮し、与えられた台詞を喋っていただけだったのだ。
「やあ、御厨ちゃん。良かったよ。もおサイコーって感じみたいな」
 満面に笑みをたたえたプロデューサーが、馴れ馴れしく患者役の御厨ひかるの肩を叩いた。
「そうですかそうですか。いやあどうもありがとうございます」
 ひかるのかわりに深々と頭を下げたのはマネージャーの馬波熊子である。
 名前負けしないほどの大柄な女マネージャーはプロデューサーに負けず劣らずの笑みを張りつけている。
「ホント、プロデューサーさんには、こんな大役いただいて感謝してます」
「いやなに、御厨ちゃん、今が旬だからさ。やっぱドラマはキャスティングでしょ。結局数字持ってのは、タレントさんだからねえ……ま、高校生と役者の二束わらじで大変だろうけどさ、もうちょいで終わるから、がんばってよ」
 彼はひかるの演技力を評価して起用したわけではなかった。というか芝居に関してはまったくの素人なのだ。
 プロデューサーは気楽な稼業ときたもんだ♪とはよく言ったもんだ。セーターを肩からかけて前で結び無茶な若づくりを試みている彼は「お茶する?」などと撮影を終えた若い女優を誘ってエスケープを決め込んでいる。一体、彼の仕事って……。
 プロデューサーが消えるとマネージャーの笑顔が怒顔に急変した。まるで大魔人である。
「んもう、何度言ったら分かんのよ! ひかる、あんたね、愛想なさすぎ。もっとスマイルスマイル」
「だって、ウマナミさん。ボク、あの人、どうも苦手で……」
「きゃー、苗字で呼ぶなって何度も言ってるでしょ。ひかる、あんたわざと言ってるでしょ。あたしだって一応女なんだからね。そんな恥ずかしい呼び方しないでよ」
「え、素敵な名前だと思うけどな。ウマナミって何か強そうじゃない」
 何が強いんだか……。
 カメラの前と外とではまったく違う。御厨ひかるはうってかわって爽やか〜ぁな高校生であった。あえて喩えるなら爽やかさにかけてはコカ・コーラといい勝負だ。
 精神科医と患者の対立を描いたサイコサスペンス、連続ドラマ「CAN NOT」は撮影快調だった。レーティングもついに30%を叩き出し硬質なストーリーとは裏腹に和やかな雰囲気で撮影は進み、クランクアップが間近に迫っていた。
 御厨ひかる、18歳。
 時を遡ること一年前、甘いマスクと新人らしからぬ演技力で彗星の如くデビュー。以降、映画、ドラマと話題作に立て続けに出演しスターダムにのし上がった。御厨ひかるの役者人生はまさに順風満帆であった。しかし、実生活において不遇な過去をもつことを知る者は少ない……。
 スタッフたちがせわしく動き回る中、モニターで自分の演技を確認するひかる。その眼差しは真剣そのものだ。
 馬波熊子は、そんなひかるを優しい目で見つめた。
(この子は絶対大物になるわ。役者はひかるの天職としかいいようがない。)
 まさにマネージャー冥利に尽きるといったところか。髪をアップにし化粧気の全くない馬波は、敏腕マネージャーとして(年齢不詳の女としても)業界ではちょっとした有名人だった。
 その馬波が太鼓判を押すくらいだから、御厨のスター性に疑う余地はなかった。
(まったくたいしたもんよ。ちょっと浮世ばなれしたところはあるけれど、新人のくせに度胸が据わってる。おまけに今まで一度もNGを出したことがないんだから。)
 ひかるの記憶力は常人のそれを逸脱していた。長い台詞も何のその、台本を一読しただけですべて頭に入ってしまうのだ。
 ふいにスタジオの重い扉が開いた。
 関係者以外立ち入り禁止のスタジオに、明らかに非関係者と思われる人物が入ってきた。
 多くのスタッフがひしめく中でその人物は異彩を放っていた。
 しかし誰もその人物を咎めようとはしない。
 たとえセーラー服に身を包んだ女子高生であっても……。
 その人物はひかるを見つけると胸の前で控えめに手を振った。
 身振り手振りで「そっち行ってもいい?」と尋ねている。
「ああ、沙織ちゃん。こっちおいで。今は撮ってないから構わないよ」
 その人物……夏目沙織は安心したのかふうと息をつくと、小走りに駆け出した……が、すぐにカメラのケーブルに足をとられてデデーンとすっ転ぶ。
「あちゃー。顔からいっちゃったよ」
 ひかるはいつものことで慣れっこらしく沙織の傍へ行って手を差し出した。
「沙織ちゃん、大丈夫……って、そうでもないみたいだね……」
「はは……」
 沙織の顔にはくっきりとケーブルの痕ができていた。よくマンガなどで見られる自転車に顔を轢かれた後の図を想像していただきたい。
 まさに悲惨の二文字に尽きる。かわゆい顔がだいなしである。
 この運動神経マイナス100の少女、夏目沙織は御厨ひかるのクラスメートであり、同居人でもある。誤解はないだろうが念のため注釈しておく。同居人といっても二人は決して怪しい関係などではない。ひかるが中学一年のときから、遠い親戚である沙織の家にやっかいになっているだけのことである。つまり、ひかると沙織、そして沙織の両親の四人暮らしなのだ。まあもっとも、沙織の父親は仕事で海外に行っており、ほとんど家にいないため実質は三人ということになるのだが……。
 それはさておき……。
 何故誰も関係者ではない沙織をスタジオから追い出そうとしないのかというと、何度となく(いや、ほとんど毎日)金魚のフンのようにひかるにくっついているからである。当然スタッフとも顔見知りというわけだ。
「沙織ちゃん、また転んでら」
「今日は学校終わり?」
 などと、スタッフが沙織に声を掛ける。ちょっとした人気者だった。
「てへへ……」
 沙織が小さな舌を出して苦笑いをする。
 ひかるがりりしい眉の片方だけを吊り上げて沙織に訊く。
「期末テストの結果、どうだった?」
 それは、自分のことではなく、沙織のことについての質問だった。はっきりいって沙織は勉強が苦手だった。いやいや勉強もと言ったほうが日本語としてはより正確だろう。
「うん、何とか補習は免れたみたい」
 沙織はかばんの中をごそごそ探し、くしゃくしゃになった答案をひかるに見せる。
 渡された答案はすべて45点だった。
「ぎりぎりセーフってところだね。まあ、良かったじゃない。う〜む、ご褒美になでなでしてあげよう」
 そう言ったひかるは宣言どおり沙織のちっちゃな頭をなでなでする。まるで子供扱いだ。
「んもう、やめてよ、ひかる」
 沙織はひかるの手を振り払った。
 ひかるは昔から同い年の沙織を何かにつけて子供扱いするきらいがあったが、実際に大人たちを相手に仕事をするようになって更に拍車がかかったようだ。
 答案を脇から覗きこんだ馬波が、からかい半分で言う。
「全教科同じ点数なんて狙ってもとれるもんじゃないわよ。ま、これも一種の才能ね」
 沙織はぷうっと頬を膨らませて抗議する。
「ウマナミさん、それって褒めてるんですかあ」
「きゃーきゃー、沙織ちゃんあんたまで! 苗字で呼ぶなって言ってんでしょ!!」
「じゃあ、何て呼べば?」
「下の名前……クマコさんでいいわよ」
「ぷっ、クマコだって……」
「くおらあ、笑うなっっ!!(怒)」
 ウマナミにしろクマコにしろどっちも似たようなもんである。
 思わず大声を出してしまった馬波熊子は、照れ隠しにコホムとひとつ咳払いすると、
「あ、そうだ。あたしちょっと何本か電話かけてくるから。事務所とか、あとほら前にCMとれそうだって話してたでしょう。あれ、本決まりになりそうなのよ」
「電話なら携帯使えばいいじゃない」
「何言ってんの。次のシーンすぐ入るわよ。台詞、頭に入ってる?」
 馬波はわかりきったことをあえて尋ねた。果たしてひかるは自信たっぷりに親指を立てて見せた。
「まかしといてよ」
「そう、じゃあ、すぐ戻るから……」
 馬波がスタジオの外に消えると、「あ、そうだ!」と、思い出したように沙織がかばんをごそごそやりだした。
「はいこれ、ひかるの答案。先生から預かってきた」
「ああ、こりゃどうも」
 沙織もひどい娘である。自分の答案だけならいざ知らず、ひとの答案までぐしゃぐしゃにしちゃうのだから……。
 しかし、ひかるは別段気にした様子はなく、すんなり自分の答案を受け取った。先刻馬波が、全教科同じ点数なんて狙ってもとれるもんじゃないと言っていたが、ひかるもやはり全教科とも同じ点数だった。
「ひかるはすごいよね。今回も全教科満点だよ。ったく、いつもママに比べられるこっちの身にもなって欲しいもんよ」
「やあ、これはすまない」
 謝る義理のまったくないひかるがおどけたように沙織に合掌してみせる。
 日本一忙しい高校生は決して勉強をおろそかにしてはいなかった。まあ尤も、おろそかにしないだけでとれる成績ではないのだが、なにしろずば抜けた記憶力の持ち主である。これはもって生まれた才能としかいいようがない。
 二人の通う高校はいわゆるエスカレーター式の私立高校なので、沙織はそのまま進学するつもりであったが、校内随一の天才御厨ひかるはそうもいかない。ドラマどころではなく受験勉強に専念しなければならない時期のはずだった。しかし、ひかる曰く、「進学はしないよ。だってボクは役者を一生涯の仕事だと思ってるから」と、こうである。なかなか言えた台詞ではない。言えるものなら一度くらい言ってみたいものだ。
「これはこれは、お二人さん。いつも仲のよろしいこって」
 そんな軽薄な言い草で近づいてきたのは、このドラマ「CAN NOT」の主役、春日彰信である。さっきまでクールな患者役、御厨ひかるを相手に熱血精神科医(笑)を演じていた男だ。
 主演を張るこの男、春日彰信は元アイドルグループ「TRUTH」のメンバーの一人であり、若干28歳にして芸歴15年の大ベテランである。
 最近じゃ女性関係のスキャンダルが絶えず、人気もうなぎ下がりで、これが最後の主演だろうと噂されていた。言わば堕ちたアイドルの見本みたいな男だった。ところがどっこい御厨人気でドラマはヒット。一応主演の春日の人気もお蔭様で復調の兆しが見え始めている。春日にとっては、まさに御厨様様であった。
「沙織ちゃ〜ん、今日もかわゆいね。何でこんなかあいい娘がフツーの女子高生やってんだろうね。よかったらうちのプロダクション来ない? ひかるのとこなんかより大手だしさ、待遇もいいよお」
 子供の頃からちやほやされてそのまま大人になってしまった典型とも言える春日が、いやらしい目つきで沙織の胸やお尻をねめつける。女たらしの本領発揮である。春日もまたカメラの中と外ではまるで別の人格であった。
 沙織はささっとひかるの陰に隠れてアカンベーをした。
「あたし、芸能界なんて興味ありませんから」
 と、おっかない目で睨みつける。
 春日はめげることなくロンゲを後ろで束ねている頭をぽりぽりと掻いた。
「参ったな。冗談に決まってんだろ。かわいいだけで渡っていけるほどこの世界は甘かァないよ。おい、ひかる、おまいもなんとか言ってくれよ」
「ナントカ」
「あのなあ……」
「春日さん、今のって自分のこと言ってるんじゃないですか? かわいいだけじゃこの世界渡っていけないって」
「とほほ……お宅もかわいい顔してきついこと言うねえ。やっぱノリにノッてるお方は言うことが違うわ」
 これでは、どっちが先輩でどっちが後輩なのか分かったもんじゃない。はたまたどっちが主役でどっちが脇役なのかも……。
 しかし、そこは二人とも愛すべきキャラというべきか、多少の毒舌では決して遺恨を残すようなことはしない。
 春日が気を取り直して言う。
「しかし、マジで勿体ないよなあ、沙織ちゃん。そのわがままボディを一人占めしてる男の顔を見てみたいもんだね」
「そんな男性いませんっっ!」
 沙織は顔を真っ赤にして怒った。
(このスケベおやじ!あたしだって……あたしだって……)
 沙織のリアクションがよほど面白かったらしく、春日は芸能リポーター顔負けの鋭いツッコミをいれる。
「またまたぁ、案外、ひかるが沙織ちゃんのいいひとだったりして?」
「なっ、なななな何を……」
 ひかるの背後で口をパクパクさせる沙織。
 一方のひかるは涼しい顔で言ったもんだ。
「んなわけないでしょう、春日さん。何でよりによってボクと沙織ちゃんをくっつけちゃうんですか」
 しらっとするひかるとは対照的にけらけらと笑う春日。
「ま、それもそうだな。でも、ひかる。お前今が一番大事なときなんだからな。スキャンダルはご法度だぜ」
「まーた、自分のこと言ってる」
「お、こりゃあ一本とられたな、なははは」
「ははは」
 笑いあう二人を尻目に沙織はまたまた頬を膨らませる。
(そこまできっぱり否定することないじゃない。ああ不毛……どうせあたしは子供ですよーだっ!)
 そして更に思う。
(あたしってやっぱり変? だってだって……)
 妄想の世界に浸ってしまった沙織を置いてけぼりにして、ひかると春日は別の話題に転じていた。
 春日が陰を帯びた表情でひかるの名を呼んだ。
「なあ、ひかるよォ」
「はい?」
 さらさらの髪をかきあげたひかるがまっすぐに春日を見つめる。さしもの春日も一瞬はっと息を呑んだ。
 美形タレントは何をやってもさまになる。元アイドルさえも霞んでみえた。
 ひかるは確かに大器のオーラを発していた。春日にはそれがどうしようもなく眩しかった。
「お前はいいよなあ。なんつーかこう光り輝いてるもんな。名前どおりだよ。俺さ、今度、ドッキリ番組の仕掛人の仕事やるんだぜ。ったくよ、30%とる役者のやる仕事じゃねえっつーの。事務所は一体何考えてんだかね……そんな奴の脇役なんてヤだろ、お前も」
 しかし、ひかるは優しい笑顔で応える。
「別にどんな仕事だっていいじゃないですか。仕事があるってことは誰かの役に立ってる……必要とされてるってことでしょう? 仕事にいいも悪いもないですよ」
「おまい、ホント前向きな奴な」
 春日は耳をほじりながら、らしくもなく一回り近くも年下の同業者を褒め称えた。
「ひかるには敵わねえよ。やっぱお前はホンモノだよ」
「いやだなあ、春日さんにお世辞なんて似合いませんよ。何か魂胆あるんじゃないですか?」
「あ、やっぱ分かる?」
 先輩からストレートに持ち上げられて照れまくるひかる。こんなところはまだまだ子供だったりする。
「シーン43、入りまーす!」
 ADのよく通る声で、二人は瞬間的に役者の表情に変わった。
「ほんじゃ、いくか、ひかる」
「はいっ、よろしくお願いします」
 意気込んだ二人が肩を並べてセットに向かう。一方……
(ったく、なんで、ひかるはああもそっけないのよ、人の気持ちも知らないで、もお……ぶつぶつぶつぶつ……)
 撮影が再開され、誰にも相手にされなくなった夏目沙織は今だ妄想の世界の住人であった。
 う〜む、憐れ悲劇のヒロイン、である……。


 撮影を終えた御厨ひかるは、夏目沙織とともに商店街を歩いていた。
 幸い今日の撮影は早めに終わったので、まだ夕方の6時過ぎである。
 他愛もない会話をしながら歩く二人の顔に冷たいものが当たった。
「あ、雪……」
「おや、本当だ。どうりで最近寒さが厳しかったもんなあ」
 時は1999年12月。
 この日、気象庁は関東地方に初雪を観測した。
 雪は一気に勢いを増し街を白く塗り替えていった。
 沙織はこっそりとひかるの端正な横顔を見つめた。
 初めてひかると出遭ったのは今から五年前。ちょうど今日みたいに雪のしんしんと降る寒い夜のことだった……。


 遠い親戚に不幸があったということで、今までまったくといっていいほど交流のなかった御厨家のお通夜に母に連れられて行ったときのことである。
 沙織にとって法事に出るのは初めての経験だった。
 そして、その通夜は普段のそれとは違い極めていたたまれないものであった。
 なにしろ二人いっぺんの通夜で、しかもお骨がないのだ。
 当時まだ若かった御厨夫妻が飛行機事故で亡くなり、たった一人の子供だけが取り残されたという状況。
 その取り残された子供というのが、御厨ひかる、その人だった。
 居心地の悪い弔問客たちは、ひかるに同情の言葉をかけるものの長居はせず足早に御厨家を去っていった。
 無理もない。誰だって、こんな場所に長くはいたくないだろう。
 それでもひかるは毅然として客たちの応対をしていた。
「可哀相に……あの子、これから大変だろうねえ。まだ沙織と同じ13歳なのよ」
「え、あたしと同い年なの?」
 いつも明るい母ではあったが、このときばかりは沈痛な面持ちで心からひかるの行く末を案じていた。
 それにしても、と沙織は驚いた。
 涙ひとつ見せず、しっかりと通夜の席に参列しているその姿は、とても自分と同い年には見えなくて、むしろ自分なんかよりずっと大人びて見えて仕方なかった。
 母と焼香を済ませ帰ろうとしたその時だ。
 食堂に集まった親族たちのひそひそ話が聞こえてきた。
 盗み聞きするつもりはなかったが、廊下で足をとめた母につられて沙織もその会話に耳を傾けた。
「ねえ、誰があの子を引き取るのよ」
「あ、うちは駄目よ。子供三人もいるんだから。もう手一杯」
「兄さんのところは子供いなかったよね」
「よしてくれよ。うちのかみさん、大の子供嫌いなんだ。それにあの子、ちょっと暗いじゃない? 俺も苦手なんだよな、ああいうタイプ」
「あ、私のところも無理よ。社宅だし、部屋狭いし、旦那の給料も安いし……」
「じゃあ、どうするんだよ」
「一年おきとかで持ち回りにするか?」
「いや、それは外面が悪いだろう。だったらいっそのこと施設に……」
 とても聞いていられなかった。
 非道い! 非道すぎる……。
 沙織は大人の事情というものを知らないながらも、これには強い憤りを覚えた。文句のひとつも言ってやらなきゃ気が済まなかった。
 しかし何といっても親子である。沙織が出る前に母親が引き戸をがらがらっと開けて食堂に乱入していた。
「あんたたちね、自分のことばっか言ってんじゃないわよ! それでも人の子? 人の親なの?」
 彼女の剣幕に親族一同度肝を抜かれたらしい。
「あ、あんたこそ誰だ? 関係ない人間が口を挟まないでもらいたいな……」
「関係ないですって! 葬式の案内まで出しといて、どの面下げて言ってんのよ! あたしだって御厨家の親戚よ」
 沙織の母親は生粋の江戸っ子である。怒りが沸点に達した彼女は今にも、てやんでえべらぼうめとでも言いかねないくらい頭にきていた。
 沙織は思った。
 ママ、かっこいい!
 しかし、次に彼女が言った台詞はさしも沙織も予想だにしなかった。あるいは本人もかも知れない。
「分かったわ。あたしが引き取ります。あの子の面倒、この夏目香織が面倒見させていただきます」
 あまりの事の成り行きに唖然とする一同。やがて、ほっとしたような空気が場に流れる。
「そ、そうですか。親戚の方でしたか。いや、これは失礼しました。そうですか、引きとって頂けますか。あなた優しい人だ」
「あ、あはは、よ、良かったわね。親戚にこんな心の、あの、広い人がいてくれて……」
「う、うん、あの子もきっと喜ぶよ……なあ」
「そ、そうだね。ああ、良かった良かった……ははは」
 かくして、夏目家に四人目の家族が誕生したわけだが……。
 沙織は改めて自分の母親を尊敬した。自分もこんな大人になりたいと思った。
 そして沙織は考えた。今の自分にできることを……そうだ、あの子を励ましてこよう! 何て声を掛けたらいいかまでは考えてなかった。ただせめてあの子の傍にいてあげよう。きっと寂しい思いをしているに違いないから。
 沙織は祭壇のある居間に直行した。しかし弔問客が大分引けたらしく、ひかるの姿はなかった。所在なげに家の中をうろうろしていると、奥の部屋から微かな声が漏れ聞こえてくる。引き戸を少しだけ開けてみると、そこにはひかるがいた。
「うっ……うう……」
 ひかるは沙織に背を向ける形でがりがりと畳を引っ掻いていた。そして、もう片方の腕を血が滲むくらい噛みしめて声が出そうになるのを堪えていた。
 ひかるは泣いていた。
 声を殺して泣いていた。
 誰の胸でも泣けない。
 天涯孤独の13歳の背中がそこに存在した。
 沙織はかける言葉が見つからなかった。
 気がつくと、ひかるの背中を抱きしめていた。
 ついさっき会ったばかりなのに、まだ言葉さえも交わしていないのに、ずうっと前からの友達のような気がした。
 何て強いんだろう……君は……。
「一緒に暮らそう……一緒に暮らそう……一緒に暮らそう……」
 沙織は莫迦みたいに同じ言葉を何度何度も繰り返していた。
 ひかるが驚いて振りかえる。
 しかし驚いてみせたのはほんの一瞬だった。
 ひかるは泣き笑いのような顔を作ると、小さく頷いた。
 そして、しばらくの間、二人は泣き続けていたのだった……。


「あれ?沙織ちゃん、泣いてんの?」
 御厨ひかるがいぶかしげに沙織の顔をまじまじと見つめた。
 沙織は思い出し笑いならぬ思い出し泣きをしていたのだ。
「ちょ、ちょっとどうしたの。なんか厭なことがあった? 参ったなあ、これじゃまるで、ボクが泣かせてるみたいじゃないか」
 当惑顔のひかるがハンカチを差し出す。沙織はそれを拒んでコートの袖で涙を拭った。
「や、やだ。泣いてなんかないよ。雪よ、雪」
「あ、なんだ、雪か」
 ひかるはあっさりと引き下がった。
 言いたくないことを無理に聞こうとはしない。ひかるなりの優しさである。
「ねえ、それよか暗くなんないうちに早く帰ろ」
 沙織がそう提言すると、ひかるは済まなそうにごめんと詫びた。
「ちょっと寄りたいところがあるんだ」
 沙織はその寄りたいところが何処なのか知っていた。
「あ〜っ、また飯方さんのところでしょう? ひかる、仕事熱心にもほどがあるよ」
「ごめんね、沙織ちゃん。おばさんには夕飯いらないって言っといて」
 と、きびすを返すひかるの腕を沙織がひしと掴んだ。
 そして唇をきゅっと結んできっぱりと、
「あたしも行く」


 飯方神経科医院。
 町外れにひっそりと建つ古びた個人病院の前に二人は立っていた。
 ブロック塀にはびっしりと蔦が絡まり、モルタルの壁にはところどころひびが入っている。
 たてつけの悪いドアを開けて中に入りスリッパに履きかえると、ひかるは勝手知ったるとばかりにまっすぐ第一診察室へ向かった。
 診療室では、野太い声がひかるを迎え入れた。
「やあ、御厨君、よく来たね」
「あ、飯方先生、遅くにすみません。診察の方はもう終わったんですか」
 飯方と呼ばれた男は屈託のない笑みを浮かべてひかるの気遣いに応じる。
「なあに、いつもながらの開店休業状態でね。営業時間に来たってこんなもんさ。やっぱり、立地条件が悪かったのかな……」
 飯方弓人はこの病院の院長である。医師が一人しかいなくても院長は院長だ。そして彼の言う立地条件とは、北側の窓を覗いてもらえれば一目瞭然であった。立ち並ぶ石碑、お供え物に集う烏の群。そう、言わずと知れた墓地である。まったく呆れたものだ。墓場と隣り合わせの病院など聞いたこともない。
 彼は顔の下半分を覆っている髭のおかげで実際より十歳は老けて見えるが、まだ30代後半の男やもめである。
 飯方とは「CAN NOT」の仕事を引き受けるにあたって、役作りのため精神医学に精通するする人の取材をさせてほしいと馬波熊子に申し出たことがきっかけで知り合った縁である。
 何度か会っているうち、妙にウマがあうと感じた二人は忙しい時間をさいてこまめに会っていた。ただし、忙しい時間を割いてるのは主にひかるの方であることは言うまでもない。
 飯方は患者がいないのをいいことに競馬新聞なぞを読みふけっていたらしい。耳に挟んだ赤鉛筆を見るにつけ、来患がないのは立地条件のせいばかりではないだろうと容易に推察された。
 飯方はご機嫌だった。
 馬券が当たったのである。
「いやあ、君の予想、大当たりだったよ。6−7、6−7。まさかウインリザードが馬連に絡んでくるとはね」
「えっ、本当にあれ当たっちゃったの? じゃあ何かご馳走してくださいよ。ボク、エビチリが食べたい。エビチリ、エビチリ!」
 ひかるは思わず自分の好きな食べ物の名を連呼した。どうやら以前にここを訪問したとき、ふざけて言った連勝複式馬券が当たったらしい。それにしても素人の山勘に金をつぎ込むとは彼もなかなかの変わり者である。
「御厨君、君は才能あるかもしれんぞ。どうだい、今度一緒に競馬場行かないか?」
「飯方先生、あんまりひかるをいけない道に誘わないでくれます?」
 と、すばやく釘をさしてきたのはもちろん夏目沙織だった。
「あれあれ、夏目君もいたんだ。あんまり小さくて気付かなかったよ」
 と、飯方は憎ったらしくも大仰に驚いてみせる。
「先生っっ!」
 普段は黒目がちでまんまるぱっちりの瞳を持つ沙織が、それを直角二等辺逆三角形にして不良医師を睨みつけている。
 しかもドーベルマンのような低い唸り声さえ伴っていたりする。
 さらにさらに彼女の背後には太ゴシック体で「怒」とか「怨」とか「恨」とか、とにかくそういう類いの物騒な単語が壁紙のように貼りついていた。
 彼女が怒るのも無理もない。まったくひどい言われようだ。これがヒロインに対する待遇か。こうなったらもう会社の玄関にあぐらかいてストライキしちゃうもんねってなもんだ。
 確かに長身のひかるの後ろに彼女がいるとすっぽり隠れる形になり正面からは全く見えなくなる。
 とはいえ、飯方は本当に気付かなかったわけではない。
 要するに沙織は誰から見ても、からかいがいのある愛すべき女子高生だということなのだ。
 つまりはそう言う運命なのだ。
「冗談だよ、冗談。未成年に博打なんかやらせる訳ないだろ。こう見えても俺は良識ある大人よ」
 じと〜〜〜〜
 沙織の冷ややかな視線が突き刺さる。
(飯方さんなら本当にやりかねないわ)
 沙織の怖〜い視線を避けるように、飯方は「コーヒーでも淹れるか」と言って席を立った。
「エビチリも忘れないでね」
 まだ了解もとってないのに、ひかるの中ではエビチリ食べ放題ツアーの青写真が出来上がっていた。
「まず、華仙軒から入って腹ごなし、次は龍麗亭だね、あそこのエビチリがまた辛いんだ……」
「ああ、分かった分かった、エビチリ好きなだけ食わせてやるよ。ほら御厨君、よだれよだれ」
「はっ……」
 だらしなく半口を開けてにやついていたひかるは、はっと我にかえり口のまわりを拭った。こんな表情が公にでもなったらファンの半分はなくすことになるだろう。
 普段は思量深く冷静で大人びている一面とは裏腹にまだまだ子供と言える側面をも持ち合わせている。案外御厨ひかるの本当の魅力はこのあたりにあるのかも知れない。
「で、撮影の方は順調なのかい?」
 飯方がひかるにマグカップを渡しながらそう切り出した。
「ええ、お蔭様で。飯方先生の経験とかいろいろ、演技の参考にさせてもらってますよ」
「別に俺は何もしちゃいないよ」
 飯方が謙遜して頭を掻いた。よれよれの白衣がトレードマークともいえるこの冴えない男、実はなかなかの切れ者だった。あの人脈の広い馬波が紹介するだけのことはあると、ひかるは彼に一目置いていたのだ。
 飯方弓人の専門は精神科である。
 にもかかわらず神経科の看板を掲げているのは、精神科と聞いただけで尻ごみする人が多いからである。自分が精神を病んでるだなんて誰しも思いたくはない。しかし、精神の病も普通の病気と一緒で早期発見が何よりも大事であった。
 飯方も若かりし頃は大病院のエリートで、多くの問題を抱えた患者をたくさん救ってきた名医である。彼に、トラウマ、アダルトチルドレン、依存症、アディクションなどを語らせると一昼夜ずっと話し続けていたりする。普段の飯方はただのひょうきんなはぐれ医者であったが、時にはそんな熱い部分をみせたりもした。
「この前、先生が教えてくれた精神分裂と妄想知覚の話あったでしょ。あれ、もう少し詳しく聞きたいんですけど……」
 ひかるがきりりとりりしい眉の根を寄せてプロの表情になった。茶色がかった瞳に好奇心の光が宿る。
「ああ、あれね……」
 コーヒーを一口啜り、上唇を嘗める飯方。
 上唇を嘗めるのは、『さあ、とことん話すぞ』ってときにみせる彼の癖である。
 しかし、飯方はすぐには本題に入らず、ひとつの質問をひかるに投げかけた。
「ところで御厨君はインターネットをやったりするの?」
「は……? ええ、まあ、一応自分のパソコン持ってますから……でも何か調べものがあるときくらいしかやらないですよ」
 実際ひかるは典型的なライトユーザーでインターネットは図書館がわりに時折利用する程度だった。
 ちなみに沙織は機械は大の苦手である。もとい、機械も、である。
 なにしろ彼女は初めてインターネットをやろうとした折、電話の受話器を取りあげて「何番押せばいいの?」と尋ねたという武勇伝の持ち主である。
 沙織のコンピュータに関する知識はおしなべて知るべしだった。
 まさに、
 『恐るべし、夏目沙織』
 である……。
 お笑い一直線の沙織はまたしても置いてきぼりになりそうだった。
「実はある個人のホームページでね、ちょっと面白いのがあるんだ」
 ホームページくらいなら沙織も知っていた。
 尤も『知っている』と『判っている』が全く別次元の言葉だとしたらの場合だが……。
(飯方先生、一体、何を言おうとしてるんだろう?)
「まあ、話すより直接見てもらったほうが早いな」
 飯方は診療室のパソコンをたちあげて、URLの書いたメモをひかるに渡した。
「ここにアクセスしてごらん」
「はあ……」
 ひかるはOAチェアに腰掛けて、ライトユーザーにしては、やたらとすばやい指の動きでアドレスを入力する。
 http://www………………/~hikaru/
(えっ、hikaru?)
 キーボード上を細い指先が華麗に踊る。
 そしてリターン。
 瞬時に画面が黒くなり、強制終了でもかかったのかと一瞬錯覚する。
 しかしツールバーはいたって正常に表示されていた。
 見ていると黒い背景に白い文字(画像)が徐々にインターレースされていく。
 やがてその文字がはっきりと読み取れるようになった。

 ひかる小説館

「これって、ボクの名前と同じ……あれ? でも、これだけですか」
 ひかるが拍子抜けして飯方を振りかえる。
 ひかるはいやな予感がしていた。
 昨今のインターネット事情ときたら、まさに無法地帯である。
 非合法な商品の取引が半ば公然と行われており、詐欺行為も珍しいことではなかったりする。
 また個人に対しての誹謗中傷も目に余るものがあった。
 ひかるなどの有名人は、あることないこと書きたてられ実にいい迷惑だった。
 インターネットを百科事典がわり程度にしか使わないのは、そういった陰の部分を見たくないというひかるの気持ちの表れでもある。
 その辺の意図を汲み取って飯方がフォローする。
「大丈夫だよ。別に君が不愉快な思いをするようなことを書き並べているわけじゃない。まあ、いいから、下のほうにドラックしてみてよ」
「……はあ」
 ひかるは言われるままに、画面を下方向にスクロールさせる。
 何にもないひたすら長い黒バックが続き、一番下まで辿りつくと今度はやたらと小さな文字が出現した。

 1/10の悪夢
 
「1/10の悪夢……あっ、もしかして、これ、小説の題名じゃないですか。するとここから本文にリンクしてるわけですね」
 文字の上にカーソルを持っていくと、案の定それが指先に変化した。
 ひかるは不審と期待でその文字をクリックしようとする。
「ここへ飛べばいいんですよね」
 ひかるの問いに飯方がこくりと頷いた。
 他に選択肢はなかった。
 信じがたいほどシンプルなサイトだが、製作者の狙いが奇をてらい来訪者を驚かすことにあったとしたら、これはもうビンゴである。
 果たして、リンク先は文字の洪水だった。

 第1章 選ばれし者たち

「これって……」
 ディスプレイを横からのぞいていた沙織が言葉を詰まらせた。
(何て長い小説なの……こんなの読んでたらすぐ眠くなっちゃいそう)
「読んでいけば分かると思うが、いわゆるひとつのミステリー小説ってやつさ。警察の介入できない陸の孤島、ひとりまたひとりと消えていく登場人物、不安と恐怖、相次ぐ事件……昔からある推理ものの定番だね。まあシチュエーションは多少変わってはいるが……」
「これを読めっていうんですか? このお話と精神医学と何の関係があるんです? それにひかると同じ名前のタイトルだなんてなんだか気味悪いわ……」
 飯方の意図するところは図りかねた沙織が、そんなことを訊く。
 しかし飯方はお気楽な回答しかしようとしない。
「さあね、関係あるかもしれないし関係ないかもしれない。ただはじめに断っておくけど、この作品、ふざけたことに解答編がないんだよ。俺はどうも【犯人】が誰なのか気になってね……そこで天才御厨ひかるのお知恵拝借ってわけさ」
 これには沙織も慌てた。
「ちょ、ちょっと、待ってください。ひかるは探偵でもなければ刑事でもないんですよ。なんでひかるが推理小説の謎解きをしなくちゃならないんです?」
 沙織は次の言葉はあえて言わず心の中だけで叫んだ。
(ったくもお。ひかるは先生と違って忙しい身なんですからね。そこんとこよおく理解して欲しいもんだわ)
「だけどなあ、御厨君。本文中にたった一箇所だけ君の話題が出てくるんだよ。確か第7章の冒頭だったと思うが、登場人物の一人が君にとても心酔しているんだ。つまり熱烈なファンってわけさ。これはもう他人事とは思えないだろう?」
「他人事ですっっ!」
 そう噛みついてきたのは、当然、沙織の方だった。
「ま、ま、夏目君、そうおっかない顔しないで……」
「先生、そんなに犯人知りたかったら自分で考えたらいいでしょう」
 ずっと黙して「1/10の悪夢」を斜め読みしていたひかるが、沙織に向かってまあまあと宥めた。しかし視線だけはディスプレイから離そうとしない。
「とにかく落ちついてよ、沙織ちゃん。先生はね、そんな理由でこれをボクに読ませようとしてるんじゃないんだよ。きっと、この作品は役作りの上で何かの役に立つようなことが書いているんじゃないのかな。先生は個人的な趣味でボクに謎解きをさせようとしてるんじゃないんだ」
 当人にそこまで言われれば、沙織もそれ以上文句のつけようがなかった。
 ここで俄然、我が意を得たりとばかりに大きく頷く飯方。
「な、本人もそう言ってることだし、ここはひとつ御厨探偵のお手並み拝見といこうじゃないか」
 真剣に読み進めるひかる。
 沈黙が訪れた。
 窓の外は既に闇に覆われている。
 雪も降り止みそうにない。
「ねえ、ひかる。そんなのもういいから帰ろうよぉ」
 1時間も過ぎた頃だろうか、ついに沙織が心細い声をあげた。
 されど反応はなし。
 ひかるは物事に集中すると周りが見えなくなるところがあった。
「夏目君、なんだったら先に帰っていいよ」
 飯方が誠に冷たいことを言う。
(一人で帰れ? そんなのヤだ……だって……だって……怖いもん!)
 半べその沙織にようやく気付いたのは、ひかるが第4章を読み終えた頃のことだった。
 ひかるは壁の時計を見てパソコンから離れた。
「ありゃ、もうこんな時間だ。飯方先生、続きは家に帰って読ませてもらいますよ」
「ひかる〜」
(ふいぃ、やっと帰れるよぉ)
 そして、沙織は露骨にほっとした表情をつくったのだった……。


 家路につこうとするひかるたちを飯方が玄関先まで見送りに出ていた。
「あ〜、お腹すいた。今夜のおかずはなんだろなあ」
 歌うように言うひかるに対して、長いこと待たされた(誰も待ってろと言ったわけではないが)沙織が意地悪く答える。
「あのねえ、ひかる。うちに帰ったって何にもないよ。さっき自分で言ったじゃない。今夜の夕飯はいらないって」
「え、沙織ちゃん、おばさんに言っちゃったの?」
「うん、ついさっき電話で」
「うそだろう……トホホだよ」
 しょげるひかるに沙織が笑って応じる。
「なんてね、冗談冗談。さっき電話したら今夜はビーフシチューだってさ。早く帰ってきなさいってママ言ってたよ」
「うわ、それは一大事だ、さっ帰ろ帰ろ」
 沙織が母に電話したのは確かだが、早く帰ってきなさいとは言っていなかった。その代わりに母が言った台詞はこうだ。
『まあ、ひかるちゃんが一緒なら安心ね』
 沙織が一人だとこうはいかないところである。
 沙織のママは思いっきりひかる贔屓なのだ。
 ついでに言えば、ひかるが芸能界に入ったのも沙織のママが勝手に映画のオーディションに応募したのがきっかけであった。いつもお世話になってるおばさんがしたことだからと、最初は不承不承のひかるだったのだが、今では一生涯の仕事と言わしめるまでになっている。
「飯方先生、それじゃ、また来ます」
「ああ、夜道に気をつけてな。ほれ持っていきなさい」
 飯方は二人に傘を差し出した。雪は一向に止む気配はなかった。
 傘を開き背を向けるひかるをふいに飯方が呼びとめる。
「あ、御厨君、ひとつ言い忘れてたよ。例の小説を書いた作者なんだが、実は俺の知っている人なんだ」
「え……」
 驚いて振りかえる沙織。
 少し遅れて振りかえったひかるが冷静に言う。
「わざとらしいな、先生。どうせそんなことだろうと思ってましたよ」
 ひかるの落ち着き払った反応に飯方はすこぶる残念そうだった。
「ちぇっ、やっぱり気付いてたか」
「そりゃそうですよ。ただの推理小説読んだだけで役作りの糧になるとは到底思えませんからね。これは何かあるなと……これ書いたのって、たぶん先生の患者さんか何かじゃないんですか」
 飯方は今にも地団駄を踏みそうなくらい悔しがった。
「まいったね。ああ、そうさ。お見込みのとおりだよ、御厨君。しかし、そこまでお見通しとはね」
「取り敢えず、続きは必ず読んでおきますよ。じゃあ、先生、おやすみなさい……」
 今度こそはと、ひかるが背を向けると、その背中を飯方が再度呼びとめた。
「待てよ、御厨君。話はまだ終わっちゃいない」
「あれ、まだ何かあるんですか?」
 すると飯方は真剣な面持ちでひかるに尋ねた。
「その小説書いた患者な、何て名前だと思う?」
 ひかるは手袋に包まれた人差し指を顎に当て考えるそぶりを見せた。
「御厨ひかる……なんてオチはナシにしてくださいよ」
「ははっ、そこまで飛躍しちゃいないがな。実はその作者、登場人物の中の一人と全くの同姓同名なんだ
「へ……」
 ひかるがあんぐりと口を開く。
 どうやらそこまでは考えが及ばなかったらしい。
「で、誰なんですか?それって」
 飯方は勝ち誇ったように髭の中に隠れた白い歯をむき出してニッと笑って見せた。
「悪いけどそこまでは言えないなあ。なにしろ患者のプライバシーに関することだからね」


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