第13章


第13章  残酷かつ大胆に

 8月2日、ゲーム2日目
 早朝
 会場、階上……館2階


 まっすぐとのびる廊下は静寂に包まれていた。
 さながら静止(静死?)画像と見まごう程の凍りついた空気。
 ゲストルームの扉の一つがすうっと開く。
 ほら穴から顔を出すモグラのようにひょっこりと顔を覗かせたのは、7号室の構成員、室町祥兵だった。
 彼の目の下には薄く隈ができている。
 廊下に出た室町は腕時計に目を落とし、そして呟いた。
「6時か……」
 普段はあまり早起きをしない彼ではあったが、状況が状況だけにそうのんびりもしていられない。
 室町は慎重な足取りで階段を下りていく。
 緊張感からだろうか、ひどく耳鳴りがする。
 ……ここで蹴つまづいて転落死でもしたら、俺も相当の間抜けやで。
 くくっと短い笑いを漏らす。
 彼の精神の奥底にしっとりとねっとりと染み込んでいく「狂(凶)」の感情……。
 階下に下り立ってようやく【代理人助手】以外の人物に出くわした。
 孤高の画家、平一。そして、【代理人】、山口維知雄である。
「おはようさん♪ 今日(凶?)も、お互い良い日でありますように、ってところやな」
 室町は無理に明るい調子でそう告げたが、山口代理人は「おはようございます」と極めて事務的な口調で応対しただけだった。平に至っては室町のことなど『アウトオブ眼中』らしくノーリアクションだ。
 ったく、どいつもこいつも俺のことをコケにしやがって……。
 そんな邪悪な心理が彼の中で働いたが、感情と裏腹な表情は翁面が張りついたような笑みさえ浮かべていた。どこまでも自分を貶め卑屈な己に徹するセールスという糞みたいな仕事で得た唯一の彼の武器、それが笑顔だった。
 室町の勤める某自動車会社は、格安で購入できる優遇措置を受けている社員ですら買おうとはしない風評の悪い車を作っている会社だった。自社製品に誇りを持てない者が自信をもって営業などできようはずもない。ただひたすら張りついた笑顔を地べたにこすりつけ、買って下さいと懇願する。八百屋や魚屋じゃあるまいし、買ってください、ハイそうですか、なんていくわけもない。ユーザーは極めてシビアなのだ。いずれにせよ、彼はほとほと嫌気がさしていた。臆病で意気地なしで人の顔色ばかりを窺っている日々に、そして何よりも自分自身に!
 また、彼の特技は「忘れる」ことであった。嫌なことは忘れてしまえばいい。きれいさっぱり忘れて、新しい未来に一縷の望みをつないでいこう! そんな彼のポジティヴな性格がどうにかこうにか彼の寿命を先延ばしにしていたのだ。
「なんですのん、それ?」
 平は山口代理人から何かを受け取っているところだった。平が大事そうに抱えた物、それは1メートル四方のダンボール箱である。
「まさか、飛び道具なんて入ってるんじゃないやろな。言っとくけど、俺、逃げ足だけは速いで。そっから物騒なもん出してきたらすぐにあんたを告発したるからな」
 そう言われて平はようやく室町の方に目を向けた。
「君は真面目にそんなことを言っているのか? 私が【犯人】にしろ【被害者】にしろ危険物を取り寄せることが出来ないことくらい規則を読めば分かることだろう」
 ……そう! そこが肝要なのだ!
 【代理人】は心の内で思っていた。
 確かに【犯人】も【被害者】も自衛目的となり得る物、凶器になり得る物を調達することは出来ない。ただし「自衛を目的とする物」の判断基準は【代理人】に委ねられているが、「凶器」のほうは明言されてはいない。では、どこまでを指して凶器と呼ぶのか……。
「わーってるがな。ジョークや、ジョーク。冗談の通用しない奴は関西じゃ生きていけへんで」
「そちらで暮らすつもりは毛頭ないよ」
 平がにべもなく言う。なにやら目の前のダンボールの方がひどく気になっているようだ。
 室町祥兵は平一が【犯人】ではないことを知っていた。彼が【犯人】ではない揺るぎない根拠を握っていた。もちろんその理由が、あえて彼の口からのぼることはないであろう。今も、そしてこれからもずっと……永遠に……。
 平がダンボールの梱包を解いた。そして、中身を取り出す。
「これって……カンバス? 何に使うんや、こんなもの」
 室町の間抜けともとれる質問に平は答える気さえないようだ。絵を描く以外にどんな使い道があるというのだろう?
「他にも画材道具一式……平さん、あんた、絵を描く趣味があるんか? それにしても呑気なもんやなあ。よりによってこんなときに絵なんて……」
「こんなときだからこそ描くのだよ。凡人の君には分かるまいがな」
「どうせ、俺は凡人や……いや、凡人以下やな」
 己を嘲るように室町が拗ねた口調で言う。
「他に足りないものはありますか?」
 と、山口が平に問うと、平は不精髭をごしごしこすりながら満足げに頷いた。
「いや、これで充分だ」
 平はダンボール箱を抱えて玄関に向かう。先ほどとは一転して少年のように目を輝かせる彼の背中はまるで無防備に見えた。
 当面の用を済ませた【代理人】は、ぺろりと上唇を嘗め再び思考にふけった……。
 だからこそ、主に凶器が必要と思われる【犯人】は、物品の調達に最大限の注意を払わなければならない。【代理人】が調達してきたものが自衛の目的として使用された場合、それを却下しなかった【代理人】の責任であり、【被害者】に非はない。しかし凶器の調達はいささか様子が違う。凶器には、銃砲・刀剣のような性質上の凶器と、棍棒・斧のような用法上の凶器との別がある。だが、一見凶器にはみえない物でもそれが凶器をして使用された場合、言いかえれば、それが【被害者】の死の原因となった場合、これは間違いなく凶器である。少なくとも我々はそう解釈している。規則に誠実に従う【代理人】としては、規則を侵す者は即刻排除、ここで【犯人】はペナルティとなる。
 言葉のトリック。言葉の多面性……。
 構成員は皆、曖昧な表現、怪しい表記に常に目を光らせ、その都度、【代理人】に問うべきなのだ。ここの解釈はこうとって良いのか? と。それを怠り勝手な解釈をし、退場した【被害者】はシミュレーション時に何人もいた。
 中でも最も多かった過ちは【犯人】による「睡眠薬」の使い方である。
 それとなく【被害者】に睡眠薬を飲ませ、寝過ごさせることによってペナルティを誘おうという狙いなのだが、この場合、【犯人】の調達した睡眠薬は結果的に【被害者】の間接的な死因になってしまうため、逆に【犯人】のペナルティとなる。
 規則が絶対なのではない! 【代理人】の言葉こそが絶対なのだ!
 無論、賢明な【犯人】はその辺のところを熟知し、しつこいくらいに尋ねてきた。そして、ある可能性に気づいたのだ。
 【犯人】は説明会のあと、カードの交換を申し出るとともに、二つの物品を取り寄せるよう私に指示をだした。もちろん、使い方によっては凶器になるやも知れぬが、当然【犯人】は凶器以外の目的でそれを使うのであろう。それは決して武器とは呼べない物ばかりである。
 ひとつは大抵の家庭には、あるのではないかと思われる電化製品。
 そして今ひとつは、一般人は普通、手にしないものであるが、ある事態を想定して代理人詰所に既に準備してあった物。そしてこれを使用するにあたり【犯人】は会場内のある設備について、※※はついているのかと問うてきた。もちろんそれはついている。見れば分かりそうなものなのだが、あえて私の口から聞いて確かめたかったのだろう。【犯人】はいつだってぬかりはないのだ。


 図書室の扉を開けた次の瞬間、室町祥兵は思わずのけぞってしまった。
「うわ、びっくりしたァ」
 彼がのけぞるのも無理もない。ドアを開けた途端、が視界に迫ってきたのだから。
 室町がと思ったのは、ビリヤードのキューの先端だった。
 持ち主は0号室のゲスト、螺子目康之である。
「危ないなあ、螺子目さん。目ぇ潰れたらどないしてくれるねん。そしたらあんたかてペナルティなんやで」
「しかし、君が【犯人】なら問題ないだろ?」
 螺子目は神経質そうに眼球を反復運動させながら、突き放すように言う。
「出ていけとは言わない。ただしドアは開けたままにしておいてくれないか」
「おお、こわ。なんもせんから、取り敢えずそれ、収めてくれまへんか? こっちかてええ加減、神経参っとんねん」
 螺子目は意外に素直に室町の眼前に向けられたキューを下ろした。
「ほんま、用心深いなあ。もうすぐ7時やで。みんな食堂に集まってくる頃や。そんな時を選んでわざわざことを構えるわけないやろ」
「ま、まあ、それもそうだね……」
 螺子目は室町の言い分に幾分、安堵したらしくキューを本棚に立てかけると、黒ぶち眼鏡を外して、ぎゅっと眉間をもんだ。
「すまない。昨日はあまり眠れなくてね……少しいらついていたようだ」
「ええわ、もう。分かってくれれば、それでええねん」
 室町はふと思い立ってポンッと手を打つと、目の前のオジさんに提案した。
「せや、気晴らしに昨日の続きでもしまっか?」
「昨日の続き?」
「推理ごっこや。【犯人】当てのな」
 室町の冗談ともとれる申し出に螺子目は苦笑せざるをえなかった。
「それじゃ気晴らしにはならないだろう」
「でも、やるしかないんやで。それともただ、じっと指をくわえて誰かが【犯人】を告発するのを待ちまっか?」
「それは……君こそ、そう思うのならさっさと告発したらいいだろう?」
「う〜ん、そうもいかへんねんなあ、これが。たとえ俺が【犯人】の正体を突き止めていたとしてもや」
 室町の含みのある発言に螺子目は当然の如く疑問符を打った。
「?……どういう意味だね」
「つまりこういうことや。俺には5千万円の借金がある。利息も計算に入れると6千万は欲しい。だから俺は少なくとも6人の【被害者】が出るまでは告発することがでけへんのや。借金返せへんことには、生き残ったかて生活はちょっとも変わらへんねん。たちの悪いヤーさんに追いかけ回される日常に逆戻りや」
「ふむ……なるほど、そういうことか」
「俺には、はじめっからハンデがあんねん。せやから皆さんのご意見を参考にしつつ、おいしいところは俺がいただこうって寸法やがな」
「室町くん、君はそんなに手のうちを明かしてしまって構わないのか? それとも菅野くんに感化されたか?」
「あー、かまへんかまへん。どうせ俺の考えてることなんてバレバレやろからなあ」
 室町祥兵はそう言って、ニヤリと笑って見せた。
「じゃあ、君の推理から聞かせてもらおうか? 室町くんは誰を【犯人】だと思っているんだ?」
「ある程度はね、容疑者を絞り込めてはおるんや。でも、本命を強いてあげれば……」
 決して答えを期待していたわけではなかったが、果たして室町は急に真顔になってきっぱりと言った。
「堀切数馬。あのぼっちゃんやな」
「バカな! あんな子供が……」
 驚く螺子目に、室町は人差し指をメトロノームのように動かしてみせる。
「ちっちっちっ。螺子目さん、あんた、基本的なことを忘れてるで。【犯人】は公正なくじ引きで選ばれたんや。誰が【犯人】やろうが関係ないね。下手な先入観は命取りになるで」
「何故だ、何故あの少年が【犯人】なんだ? 理由はあるのか?」
「う〜ん、そこをつかれるとつらいものがあるな。なにせまだゲームは始まったばかりやし……殺されたのは石田さんだけやろ。いや、殺されたかどうかも怪しいもんや。ただのペナルティだったかもしれへんし……ただな……」
 室町は一呼吸置いて間を計った。
 まるで、螺子目の反応を探るかのように……。
「あいつの行動には一貫性がないんや」
「……」
「あんたかて、薄々感づいているやろ? 時にアホなことをしてみたり、時にやたら鋭いことを言ってみたり、どうも、よう分からん。俺の理解できる範疇やない。【犯人】は誰よりも偽りの自分を身に纏わなければならない、そう菅野くんが言ってたやろ? 数馬はきっとそれを実践してるんだと思うんや」
「わざと愚者を演じていると? 違うな。だったら徹底して愚者を演じきればいい。彼が【犯人】なら他人に疑いを持たれるような言動は避けるはずだろう。そう、今の君のようにね」
 螺子目の言うことは尤もだった。室町は一気に自信を喪失してしまったように声を落とす。
「う……あ、そうか……って、おい、螺子目さん! あんた今、さりげなくきつ〜いこと言わんかったか?」
「いや、すまない。失言だった。しかし、君が【犯人】である可能性を捨てたわけじゃないよ」
「分かってるがな。それにしても数馬のあの性格、どうも気になる。まるであいつの中に二人の人間がいるみたいに……」
 そこまで言って二人は顔を見合わせる。滑稽なくらいに大の男たちは声を揃えてある単語を口にした。
「二重人格!」
 いささか突飛な発想ではあったが、そう考えると一応の説明はつく。賢者と愚者、天使と悪魔、両極端なふたつの顔を持つ美少年……。狂気の宴には、もってこいのキャラクターではないか!
「ちょっと思い出したんだが……」
「なんでっか?」
「いや、昨夜、告発の談義をしたとき、確か数馬くんは10人の背格好はみんな違うから覆面していても見分けがつくと言っていたよね」
「ああ……言ったなあ。それがどうしてん?」
「いや、あの時は菅野くんの同調もあって、なんとなくそうかなとも思ったんだが、とっさの判断で覆面をした【犯人】が9人のうちの誰であるかをはっきり見極めることが現実に可能なのだろうか?」
「う〜ん、どうやろ」
「数馬くんは群を抜いて背が低い、千夏さんは女性であるが背が高い、松本くんは筋肉質の大男、石田さんは足が不自由で皮膚はしわだらけ、美結さんは肥満体、遙さんはとりたてて特徴はないが残った唯一の女性……ここまではシルエットだけでも一目瞭然だろう。しかし、残りの4人はどうだ? 平さん、菅野くん、そして私たち……この4人はそう違いがないんじゃないか? 体型は標準型か或いはやや痩せ型。身長の誤差もおそらく10センチとないだろう」
「ああ、言われてみれば確かにそうやな。ははは、何で気づかなかったんやろ。じゃあ、部屋に一人でいるってのは、俺たち4人の中に【犯人】がいた場合、かえって危険やっちゅうことか」
 螺子目が慎重に頷く。
「してみると、その説を持ち出した人物こそが最も怪しい。菅野くんと数馬くんだ。しかし数馬くんが【犯人】なら一目で分かってしまうからこれは却下……」
「じゃあ、菅野くんが【犯人】?」
「その可能性が一番高いような気がするな」
「はあ……せやけど、いろいろ出てくるもんだねえ。あ、でも、俺は数馬が【犯人】という線はやはり捨てきれないなあ……」
 そこまで言った室町が何かを思い出したらしく、ふと含み笑いを漏らした。やがて涙を流しながらゲラゲラ笑い出す。
「どうした、室町くん、何がそんなに可笑しい?」
 室町は目じりに浮かぶ涙をふきながら応える。
「いや、昨日ね、遙さんが言ってたんや。数馬は残酷な少年やて」
「彼が何かしたのかい?」
「あいつ庭の蟻を殺していたらしいんですわ。蟻の巣、棒でつついて。これ、傑作やろ? 男の子なんてそういうこと大抵経験しとるっちゅうねん。俺なんか猫だって殺したもんな」
 螺子目が信じられんといったふうに目をみはる。
「そりゃ、君の方が認識不足じゃないか? まあ、蟻はともかく、猫は普通殺さないだろう? 室町くん、顔に似合わず非道いことするんだな……」
「そうかな……あ、螺子目さんって動物めっちゃ好きやろ? もしかして動物愛護協会の役員かなんかやってんとちゃう? 家で飼ってる猫とかを『家族の一員の螺子目ミケですぅ♪』なんて臆面もなく紹介してしまうタイプや。ペットは家族やないで。ありゃただの獣や」
「お、おい、何故、私が動物好きだと知ってるんだ?」
「知ってたわけやないけど、あんさん、会話の中で何度か動物を引用したりしてたやろ。結構詳しいのかなって、そう思っただけや」
「なんだ、そういうことか……しかし残念ながら私はペットを飼っていない……いや、正確に言うと飼えなかった、かな」
「えらい思わせぶりな言い方やね」
「私ね、去年、社宅を出て自分の家を持ったんだよ。薄給の身の上にしちゃかなり無理をしたつもりさ。社宅ではペットも飼えなかったし、家族にも窮屈な思いをさせたくなかった。いや、それよりもなによりも妻や娘に家長の威厳を示したかった……それが一番の本音かな。しかし、何も変わらなかった……誰も私を尊敬してはくれない。良い夫、良い父親を演じてきたつもりだったんだが……」
 演じているだけじゃあかんやろ。そういうのって全部見透かされているんじゃないか?
 室町はそう思ったが、口に出すのは一応控えることにした。
「新しい家に引っ越して、私は猫を飼おうと家族に提案した。しかし、誰が面倒見ると思ってるの! そんな経済的なゆとりが家にある訳ないでしょ! 猫は臭いから嫌い! と、こうだ。いったい誰がこの家を建てたと思っているんだ」
「やるやんけ、螺子目さん。あんさん、そこまでビシッと言ってやったんだ?」
 螺子目は、ばつが悪そうに頭を掻く。
「いや、言わなかったよ。言えなかった……」
「そっか……まあ、しかし、俺があんたの家族だったとしても、猫を飼うのは反対だな。あんなもんのどこがええんやろな。なあんも働かんと人間様に媚売って、お情け頂戴して、食っちゃ寝、食っちゃ寝、一日中寝てばっかりやんか」
 まるで自分を見ているようだ……。いや、俺は猫なんかと違う。俺はやればできる人間なんや。能ある鷹は爪を隠す。それをこのゲームで証明してやろうじゃないか!
 そんな室町の決意に気づかず、螺子目は苦笑して見せた。
「それはしょうがないさ。猫は寝るのが仕事みたいなものだからね。猫の語源を聞けば納得してもらえると思うよ」
 そして螺子目は、聞いてもいないのにとうとうと猫に関する知識を披露しはじめた。
「猫は昔の朝鮮、高麗(こま)を通じて日本に入ってきたんだ。で、猫は寝てばかりいるので寝高麗(ねこま)と呼ばれるようになった。だが、読みかえると猫の魔物で猫魔(ねこま)になってしまい、まるで悪魔の使いのようだから”魔”の部分だけが取れて今の猫という呼称になったんだよ。ところで室町くん、動作係数という言葉を聞いたことはないかい?」
「ドウサケイスウ? なんですのん、それ?」
 螺子目は鼻息も荒く、少々自慢げに続きを話す。
「なんだ、そんなことも知らないのかい? 動作係数というのは、まあ、要するに動物の覚醒時間を睡眠時間で割った数値をいうんだよ。例えば人間の大人なら、睡眠時間を8時間とすると覚醒時間は16時間になるわけだから、16÷8で、2.0だ。これが動作係数さ。猫の場合だと、人間よりも動作係数ははるかに低い。およそ1.0だ。つまり1日のうち半分くらいは眠っている計算になる」
「はあ……」
「猫って動物はね、これは人間なんかよりいろんな面で能力が高いんだ。まず目が発達している。目には瞳孔というものがあることは君も知っているよね? その瞳孔の前方に虹彩というのがあって、まあ、その伸び縮みで瞳孔を動かすんだけど、猫はこの虹彩が非常に優れている。だから暗いところでも僅かな光を感知することができるんだ。猫の目が暗いところで光って見えるのはこのためなんだよ。それだけじゃない。彼らの三半規管も実にすばらしい……」
 螺子目は遂に猫を「彼ら」呼ばわりしはじめた。
 猫は所詮猫やないか……室町は興味のない話題にうんざりしつつあったが、螺子目は更に熱っぽく語る。
「動物の耳の中には、バランスを失ったことを感知する三半規管というものがある。人間なんて平均台の上を歩くことさえままならない者もいるというのに、彼らときたら塀の上の狭いヘリをすいすい歩いていく。あのバランス感覚はもはや賛美に値するね」
 そう言えば昔、猫を2階から逆さ吊りにして落っことしたことがあった。あの時、猫は宙でくるりと回転し見事に着地をきめて逃げてったっけ……。
 螺子目が聞いたら烈火の如く怒りそうな思い出が室町の脳裏をよぎる。
「じゃあ、ここでクイズだ。動物にはそれぞれ寿命があるが、その長さはまちまちだ。しかし、ある数値だけは、ほとんどの動物に共通している。さて、それはなんだと思う?」
「あの……螺子目さん。俺、そろそろ食堂に行ってみるわ。もうすぐ7時やし……例の鳩時計の鳴る時間や」
「おおっ、鳩といえば、こんなエピソードがある……おい、室町くん、待ちたまえ! 話しかけてきたのはそっちだろ。人の話は最後まで聞かないか!」
 興味のない話を長々と聞かされることほど苦痛なことはない。室町はいつまでも喋り続けていそうな螺子目を無視して図書室を後にした。
 ちなみに先のクイズの答えは「心音」である。動物が一生のうちにうつ心臓の鼓動の数は、ほぼ等しく同じなのだ。つまり寿命が長い動物ほど心臓の鼓動は遅く、寿命が短くなるに従い鼓動は早くなっていくわけだが……。
 結局、室町祥兵はその答えを聞かないまま食堂へ向かった。
 トットットットットッ……
 室町祥兵の鼓動が早まる。
 まるで生き急いでいるかのように……。


 鱒沢遙は震えていた。
 鱒沢遙は怯えていた。
 鱒沢遙は怖れていた。
 己の人生において一度も体感したことのない「死」という現実に……。
 服を着けたまま、空っぽの浴槽の中で彼女は身を屈めていた。
 冗談じゃないっ! なんで、あたしがこんな目に……こんな目に会わなくちゃならないのっ!
 それは自らが選択したことだということすら彼女は忘れていた。いや、忘れようとしていた。
 足を伸ばしては入れない小さなバスタブ。一応シャワーもついている。
 浴室の隣りには防水カーテンで仕切った洋式トイレがあった。要するにやや変則的なユニットバスといったところか。
 規則にあるとおり、ここが唯一カメラの回っていない場所だった。
 そして、【犯人】はここで殺 人を犯すことはできない。【被害者】にとっては唯ひとつの安全圏、言わば「聖地」である。(規則3 会場設備(4)、規則5 犯人(3)参照)
 しかし、逆に言えばずっとそこにいる限り【被害者】は告発することもできない。ビデオカメラがそこにない以上、告発したくても、それを伝えることができないからだ。
 では、【被害者】がそこに居続ければ完全に安全なのか?
 ……否!
 【被害者】は1日のうち3回、食堂に行く義務がある。つまりは、ずっとそこに居続けることはできない。
 浴室とトイレは、あくまでも暫定的な「逃げ場」に過ぎないのだ。
 そしてまた【犯人】にとっても、【代理人】たちの監視の目を逃れるための(そんな必要があるのか?)唯一の場所であった。
 ふいに、長閑な、しかしひどく五月蝿い鳩の鳴き声が響く。
 鱒沢遙は、無意識のうちに腕時計に目を落とした。その針は正確に時を刻み続けている。
 7時ジャスト。これから1時間以内に食堂へ行かねばならない。
 遙は陰鬱な気持ちを振り払うように浴槽から右足を出した。


 同時刻、食堂。
 そこには既に何人かの構成員が集っていた。
 螺子目康之、森岡千夏、松本浩太郎、平一、室町祥兵の5名。
 他に山口代理人と【代理人助手】が数名。
「さあて、7時になったな。なんだ、あとの連中は寝坊かよ」
 入室したばかりの松本浩太郎が開口一番に宣言した。
「リミットまであと1時間ある。そう慌てるな」と、平一。
 平はすこぶるご機嫌らしく、笑顔を絶やさない。
「ありゃ、平の旦那は随分とニコニコじゃねえか。何か良いことでもあったのかい?」
「平さんな、朝早くから絵を描きはじめたみたいやで」
 と、平のかわりに室町が応じる。
「へえ、絵ねえ、あんた、やたら余裕かましてんじゃねえの」
 平が何か言おうと口を開きかけたとき、食堂の扉が開いた。
 場の全員がドアに注視する。
「おはようございます」
 ドアを大きく開けた菅野祐介が、平坦な口調で構成員たちに挨拶する。
 その時!
 一同は信じがたい声を耳にした。


 ぎゃああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!
 

「な、な、な、なんだ! 今のは……」と、螺子目。
「悲鳴……でしょうか?」と、千夏。
「おい、まさか、誰かやられたのか?」と、松本。
「……ウソやろ……」と、室町。
「誰の悲鳴だ? 女の声のような気がしたが……美結くんか? 遙くんか?」と、これは平。
 一人残らず席を立ち、色めきだつ中で菅野祐介が冷静に言い放った。
「とにかく声のした方に行って見ましょう」
 ハッとして、我さきに食堂を飛び出す構成員たち。
 彼らよりもいち早く反応した【代理人助手】たちの後を追う形となった。
 悲鳴の出所はすぐに判明した。
 開けっぱなしの図書室の扉。
 つい先刻まで螺子目と室町がいた部屋だ。
 狭い図書室に数人の【代理人助手】が入ると、もう誰も中へ入ることは不可能だった。
 構成員たちは【代理人助手】に阻まれて、容易に中の様子を探ることが出来ない。
「おいっ! 誰か倒れてるぞっ! 今、黒い革靴らしいモンが見えた!」
 松本が人の壁の中に僅かな隙間を見つけて怒声をあげる。
「あっ、俺もちょっと見えた! 黒い服だ……スーツを着てるのか?……くそっ!よく見えへん」と、室町。
「お、おい、待ってくれ。黒いスーツを着てる者なんていなかったはずだぞ」と、平。
「着替えたんじゃないのか? それより誰なんだよ。殺られたのは」と、松本。
「【代理人助手】じゃないですか? 黒いスーツといえば彼らしかいないでしょう」
 菅野祐介がひとりテンションも低く、呟くようにそう言った。
「はあ? なんで【代理人助手】が殺されるんだよ!」
「おかしいやないか! 俺たちは【代理人助手】に危害を加えることは出来ないんやで」
「そもそも何の目的で、そんなことするんだ!」
「全くや! もお訳分からん!」
 完全に度を失った松本と室町が矢継ぎ早に喚きたてる。
 後ろからゆっくりと山口代理人が近づいてきて、【代理人助手】たちに命じた。
「片付けろ」
 カタヅケロ……?
 なんて無情な響きだろう! まるで散らかしたオモチャを仕舞うみたいに……。
 平が山口に詰めよって問いただす。
「山口くん! 誰だ? あれは一体誰なんだ?」
 山口代理人のビー玉のように生気のない眼が平を捉える。
「はい、あの人は……」


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