第二章


第二章  考える御厨

「ひかる〜、ここ開けてよぉ」
 ドアの向こうから夏目沙織の声がする。
「あ、ちょっと待ってて」
 御厨ひかるは夕食のビーフシチューを平らげた後、そそくさと自室に引っ込んで、パソコンを立ち上げ、「1/10の悪夢」の続きを読んでいたところだった。
 沙織がひかるの部屋にやってきたのは、第9章「役不足」を半分くらい読み終えた頃のことである。ひかるがドアを開けてやると両手にマグカップを持った夏目沙織がニコニコ顔で立っていた。マグカップには熱いコーヒーとミルクが目一杯注がれている。
「ふええ、なんか寒いね。この部屋」
「あ、今、暖房入れたばっかだから……って、沙織ちゃん、それ、危なくない?」
 室内灯が消えた部屋にカップを抱えたままの沙織が足を踏み入れようとしていた。
 刹那! ひかるは、ものすご〜〜〜く、いや〜〜〜な予感に見舞われた。
「きゃっ」
 案の定、沙織はドアの敷居に足を引っ掛けて態勢を崩す。両手のマグカップの液体が波打って零れる。
 ひかるは咄嗟の判断で脇によけると、素早い動きで沙織のからだを支えた。結果、ドアの前の絨毯はぶちまけられたコーヒーとミルクでべとべとになってしまった。もし、ひかるが避けていなかったら自分のからだでそれを受け止めていたことだろう。
 沙織は大いに慌てた。慌てまくった。
「ご、ごめ〜ん、ひかるゥ。火傷しなかった?」
「あ、いや、ボクは平気だよ。ホント、だいじょーぶだいじょーぶ」
 一日に五回くらいは転んでいる沙織のことである。ひかるとしては、もう慣れっこへっちゃらなのだ。
「あーあ、絨毯、汚れちゃったね。ホント、あたしってドジだなあ」
 いつもこうだ。沙織は空回りばかりしてる。ひかるのために何かしてあげようとすると、それが裏目に出てしまっちゃうのだ。
「たはは、ついつい、やっちゃいました」
 照れ笑いを浮かべる沙織の言葉に、タオルを絨毯にあてがっていたひかるの耳がダンボになった。
つい?
「……うん……え、何?」
 ひかるの真剣な眼差しが沙織を捉える。
ついやっちゃっただって? ってことは、沙織ちゃん、さっきのわざとだったの?」
「え、え、それって、どういう……?」
「それとも、ついやっちゃったってのはさ、気付かないでうっかりミスったってこと?」
「うん、まあ、そうだよ」
 沙織にはひかるの言わんとしてることがイマイチよく分からなかった。
「だけどさ、深読みすれば、ついやっちゃったって表現は意図的にやったともとれるんだよね。例えば、落ちてた財布をつい拾ってしまった、なんて場合さ、拾ったのは無意識のうちだけど、そこにはそれを拾いたいという深層心理が働いているわけさ。つまりは拾いたい、お金が欲しいという欲求なり動機なりがそこに発生するんだ。それを今の沙織ちゃんの発言に当てはめてみると、ボクに火傷をさせたくてつい本能のおもむくままに零してしまったってふうにも解釈できるってわけさ」
「あ、あたし、そんな……ひかる、ひどいよ」
 じわっ。沙織の目に涙が込み上げる。
(どーして、そんなこと言うの? あたしがわざとそんなことするわけないじゃないよ!)
 すると、ひかるは悪戯っ子のようにニパッと破顔した。
「冗談だよ、冗談。真に受けないでよ、沙織ちゃん。ただボクは、ひとつの言葉にもいろんな捉え方があるってことを言いたかったのさ。ま、心理学的には、こういうのを表層読み深層読みっていうんだけどね。今の例で言うところの『つい、しちゃった』ってのが単なる失敗とかドジだったりするのを表層読み、そうじゃなくて、『つい』ってところに深い意味があって、心の深いところで、それをしたいという動機付けが働いていると考えるが深層読みってこと。う〜む、日本語って奥が深いなあ。心理学って面白いなあ。しみじみしみじみ……」
 じと〜〜〜。
 作中の菅野祐介みたいなことを言うひかるに、沙織は猜疑心たっぷりの視線を投げかける。
「ひかる、それが言いたくて、わざわざ……」
「そゆこと」
 ひかるは悪びれることなく無邪気に笑っている。
(毒されてるっ! これって絶対、飯方さんのエーキョーだわ。インボーよ! センノーよ! ひかるは今までこんな意地の悪いこと言わなかったもん!)
 それは沙織の思いこみというものである。ひかるはもともとこういう性格なのだ。そして沙織もまたからかいがいのある女の子なのだ。生真面目で純粋で真っ直ぐで……。
「でもさ、心理学なんて大して当てにならないんじゃないの? だって、有名な心理学者が奥さんに離婚届突きつけられるなんて話も聞いたことあるよ。人の心が読めるなら、身近にいる人の心理操作なんてお茶の子さいさいのはずでしょ?」
「いや、それはちょっと違うと思うよ」
「えー、何が違うっていうのよォ」
 沙織が唇を尖らせて、ひかるに答弁を求める。一方のひかるはベッドに座って考えをまとめるように天井を仰いだ。
「つまりさ、ボクも少し心理学を勉強し始めたからよく分かるんだけど、要は本人の気持ち次第なんだよね。心理学者が心理テストとかヒヤリングで初対面の人の考えてることとか当てたり出来るのは、当てようとする意思があるからなんだよ。いま、この人はこう言った、こんなことをした、こんな癖がある、こんな感性をしてるなんて注意深く観察し、分析しているからこそ判ることなんだ。相手の心理を読もうという意思がなければ、たとえ心理学者にだって人の心の中を視ることは出来ない。視力が2.0の人と0.1の人が二人して目を閉じちゃえば見えるものは等しく同じ、ただの闇だってことなのさ」
「ふーん……」
 沙織は不承不承ながらも一応納得してみせる。
「ま、そうは言っても人の気持ちは複雑に見えて、根っこは案外単純で判りやすいものだったりするのかもね」
(じゃあ、どうしてあたしの気持ちには気付いてくれないのよ! 知ろうとしないから? あたしってその程度の存在? ひかるにとって、あたしって何なの? 友達? クラスメイト? それとも、ただの同居人?)
 いくつもの『?』が胸中を去来する。お約束の自己嫌悪モードに片足を突っ込みつつある沙織を不審げにひかるが覗きこむ。
「どうしたの、沙織ちゃん。あ、ホントに今の冗談だからさ。機嫌直してよ。それにさ、ほら、絨毯の一枚や二枚汚れたって、どうってことないし……」
 それにそそっかしい沙織ちゃんは今に始まったことじゃないし……。
 ひかるは言いかけた言葉を慌てて飲みこんだ。ふう、危ない危ない、である。
 それでも沙織嬢は今だ落ちこんでいる御様子。彼女の背景には黒バックに無数の縦線が引かれている。ついでに目の下にも数本の縦線が! まさに、どよよ〜〜〜ん、ってなもんである。
「えっと、何だろな、困ったな、こりゃ、ははは……」
 から笑いとともにぽりぽり頭を掻くひかるに、ふつふつと沸きあがる憤り。
(この鈍感っ! どーしてわかんないのよ。あたしはこんなにもひかるのこと……)
 それは、言わないから、である。数多の生物の中で人間だけが唯一使うことを許されるコミュニケーションツールである『言葉』は、なんやかんやいっても基本中の基本なのだ。『言葉』さえ一切のオブラートをかけずに使っていれば心理学など無用の長物なのだ。
 しかし、沙織はおっかない目でひかるを睨んでいる。今にもその目から、アフリカ象を一瞬にして骨まで焼き尽くすと噂される『沙織ちゃんビーム』が放出されかねない様相さえ呈している。これは非常に危険な兆候である。華奢で、ちっちゃくて、運動神経マイナス100で、おまけにかあいい沙織だが、ひとたび切れるともう止まらないのだ。実際、ぶち切れた沙織をひかるは何度か目の当たりにしている。
 最近だと二ヶ月くらい前になるか、学校の裏庭で下級生が集団でひとりの女生徒が苛めている現場に遭遇したときだった。「まあまあ、君たち……」と、ひかるが穏やかな調子で割って入ろうとしたところ、それを制した沙織が「何やってんの、あんたたち!」と、どど――んと出張っていったのだ。下級生とはいえ大人数を向こうに回して、沙織は一歩も引くことなく、やりあったものだ。(ただし、手を出すことはなかったが……)それにつけても、そのときの機関銃のような罵倒文句といったらなかった。そりゃあもお迫力満点サービス満点てなもんだ。やがて『沙織ちゃんマシンガン口撃』に苛めっ子たちはほうほうの態で退散していった。後日談としてその苛めっ子たちは三日三晩原因不明の高熱に冒されたとか。関係者の証言ではうわ言のように「悪魔が来るウウゥゥゥ」とかなんとか呟いていたらしい……。
 まさしくあの親にして、この娘ありといったところか。
 やはり、
『恐るべし、夏目沙織』である。(いろんな意味で)
 そして、今の沙織の目もまた、その時の目そのものだった。
 我が身の危機を本能的に察知したひかるは、鋭意開発中の『沙織ちゃんビームバリヤー』またの名を『必殺!おべんちゃら返し』を発動しようとする。
「あ、え〜と、沙織ちゃん、そう怒らないでさ、今日のところはもう寝たほうが良いよ。睡眠不足だと怒りっぽくなるっていうしさ……第一、美容によくないヨ。ほら、スマイルスマイル。かわいい顔が台無しじゃないか」
 ひかるの言葉に、三角オメメの沙織の瞳が瞬時にして少女マンガのお星様ちりばめオメメに変わる。
「え、ひかる、今なんて言ったの?」
「だから、美容によくないって」
「そのあと!」
「あ、かわいい顔が台無しだよ……」
「かわいい? え、ウソウソ? あたしって、そんなかわいい?」
 沙織はころっと態度を変えて、身をくねくねさせている。ひかるはここぞとばかりに沙織を褒めちぎる。
「そうだよ。沙織ちゃんはやっぱり笑ってるときが一番かわいいよ。うんうん」
「そ、そう?」
「そうそう!」
 首がもげそうなくらい大きく頭を縦に振るひかる。かたや想いを寄せる人に褒められご満悦の沙織。やはりひかるの言うように人の気持ちなんて案外単純なものなのかもしれない。(というか、沙織の場合は特別か?)
「さ、さ、今夜はもう遅いからさ、早く寝ましょっ寝ましょっ!」
 さりげなく沙織の背中を押しつつ退室を促すひかる。本当のところ、ひかるは「1/10の悪夢」の続きを早く読みたかったのだ。
 しかし、沙織はひかるのノートパソコンに目敏く気付いていったもんだ。
「あっ、さてはひかる、さっきの小説の続きを読もうとしてるでしょ? ふ〜ん、あたしは邪魔者ってわけね」
「いや、別にそう言うわけじゃ……」
「じゃあ、あたしもそれ読んでいい?」
 沙織は自分のパソコンを持っていなかった。使い方が分からないのだから当然といえば当然なのだが……。
「そりゃ、構わないけど……」
「んじゃ、決まり」
(ひかるより先に読んで、犯人を当ててやろうじゃないのよ!)
 無謀にも、密かに意気込む女探偵、夏目沙織であった。
「それにしても、飯方さんっておかしな人だよね」
「え、何が?」
「だってさ、この小説をひかるに読めっていうのは、犯人が誰か判らないから教えて欲しいってことだったでしょう? でも、これを書いた人っていうのは、飯方さんの患者さんのわけだから、その人に聞いたほうが、てっとりばやくない?」
 沙織の当然ともいえる疑問に、真剣な顔で頷くひかる。
「うん、それはボクも思ったけど、何か聞けない事情があるのかもしれないよ。例えば、昔、患者だったけど今は行方不明とか、今も患者だけど、病の進行が激しくて聞ける状態じゃないとか……きっと、その答えを手に入れることによって、その患者さんの治療に何か影響を及ぼすことがあるのかもしれないね。あ、ところで沙織ちゃん、これ、どうやって読む?」
「え、どうやってって?」
「だから、ボクみたいにパソコンの画面上で読むか、それとも用紙に印刷して読むかってことだよ」
「あ、そゆこと。じゃあ印刷してくれるかなあ。あたし、パソコンの画面って長く見てると目がちかちかしてくるから嫌いなんだ」
「オッケー、んじゃ、ちょっと待っててね」
 ひかるは、プリンタの電源を入れると、マウスを操作して「ひかる小説館」のトップページに戻った。
 すると、れいによって驚くほどシンプルな真っ黒い画面が現れて、やはりれいによって、白い画像でいわくつきのタイトルが表示された。
 
 ひかる小説館
 
 そしてひかるは、黒い背景の続くトップページをドラッグさせて、小さな文字「1/10の悪夢」をクリック。出現した「第1章 選ばれし者たち」のところで印刷を実行し、さらに一番下の「次章へ」をクリック、リンク先の第2章を印刷、次章、印刷、次章、印刷と単調な作業を繰り返していく。
「うわあ、結構長そうだね〜」
 次々とプリンタから吐き出される用紙を見て、想像以上の作品の長さに沙織は早くも挫折しそうなご面相である。ちょっとした文庫本一冊分くらいの長さはありそうで、活字も苦手な沙織はオメメが渦巻きになっている。
 たら〜〜。
 沙織のこめかみに一筋の汗がつたう。
(タハハ、やっぱ、やめよっかなあァ……)
 B5用紙が100枚も吐き出されたところで、ふいにひかるの携帯電話が鳴った。
「もしもし……あ、どうかしたんですか?」
 電話はマネージャーの馬波熊子からだった。ひかるの携帯は当の馬波から連絡用に渡されていたものである。
 受話口から馬波の珍しく弾んだ声が聞こえてくる。
「ひかる! れいのドリンクのCMね、ついに本決まりになったのよ! 明日、昼食も兼ねてスポンサーのお偉いさんと会うことにしたから、急で悪いんだけどヨロシクね」
「あ、そうなんですか。おめでとうございます」
「なによお、ひかる。もっと喜んでくれてもいいんじゃない? これであなたも一流芸能人の仲間入りなのよ」
 馬波は気のない返事のひかるに少々不服げだ。
「別に喜んでないわけじゃないよ。ただ、ボクは芝居がしたいだけだから……あ、だからって、コマーシャルに出るのが厭ってわけじゃないよ。知名度が上がれば仕事が貰えるようになるってことくらいボクも分かってるつもりだし……」
「そういうこと。あんたには天性の華があるんだからさ、それを活かさなきゃウソってもんよ。ひかるは本当にいい資質を持ってるのよ。自分でもこの仕事を天職だと思ってるんでしょ。ただ惜しいのは、あんたはこの世界で生きていくために絶対に必要なものがたったひとつだけ欠けているのよね。それを自覚して欲しいもんだわ」
 と、電話の向こうで短くため息をつく馬波。
「何ですか、それ? ボクはとにかく芝居さえ出来ればそれで幸せだなあって思ってるだけだよ。芝居を通じていろんな人生や人格を疑似体験できる。それでもう充分なんだ」
「それよ! あんたのそういうところがいけないの。あんたみたいにスポットライトの当たる場所に行きたがっている子たちは世の中にたくさんいるの。あんた恵まれてんのよ。なのに、あんたときたら……もっと欲を持たなきゃダメなのよ。食うか食われるかのシビアな世界なんだから」
「はあ、ごめんなさい……」
「ったく、拍子抜けするなあ。ま、ひかるのそういうところが魅力といえば魅力なんだけどねえ。ま、あんたはあんたで好きなようにやってみなさい。あんたもいつかはひとり立ちしなきゃならないときが来るんだからさ。あたしも、いつまでもひかるの面倒ばかり見ているわけにもいかないしね……」
 雑談もほどほどに馬波は事務連絡に話題を移す。
「学校への欠席届はあたしの方で手配しておくから。迎えはいつもどおり家の方でいいよね」
「うん、何から何まで悪いね。なんかさ……」
「ん? なによ」
「馬波さんって、死んだお袋みたいだ。口やかましいんだけど優しくて……」
 一瞬、言葉を詰まらせる馬波の気配がした。
「……なっ、何言ってんの。失礼ね、あたし、そんな大きな子供を持つような歳じゃないわよ。せめてお姉さんぐらいにしときなさい……って、あんた、苗字で呼ぶなって何遍言ったら分かんのよっ!」
 ドスのきいた馬波の声に、思わずくすりと笑うひかる。電話の向こうで困ったように頭をぽりぽり掻いている様子が目に見えるようだ。ひかるは、となりで「1/10の悪夢」をぺらぺら捲っている沙織を一瞥して言った。
「了解です。ウ・マ・ナ・ミさん♪」
「こらっ、ひかる!」
「にゃはははは〜」
「あんたは、もお……」
 馬波の明るい声を聞いたひかるは少しホッとしていた。
 最近の馬波はどこかおかしかった。ときどきぼんやりしていたり、怖い顔して考えこんでいたり……何か悩み事でもあったのかもしれないが、本人が言う気がない以上、こちらから聞くのも野暮な話だと思い、素知らぬふりをしていたのだが……。
 短い沈黙のあと、敏腕マネージャーはひどく真剣な声でひかるに問いかけた。
「ねえ、ひかる。最近、ユミトと会ってる?」
「ああ、飯方さんには今日も撮影終わって会って来たばかりだよ」
 飯方弓人は馬波熊子の古い知り合いである。どういう繋がりなのかまでは教えられていなかったが、彼女が飯方を下の名前で呼ぶところから察して、かなり親しい間柄なのだろう。
「今日さ、あるホームページを紹介されて見てみろって言われた」
「へえ、どんなやつ?」
「タイトルがね、『ひかる小説館』っていうんだ」
「おや、遂にあんたのファンのホームページが出来たんだ。で、どんなデータが公開されてるわけ?」
「ううん、そんなんじゃないよ。ただ一遍のミステリー小説が置いてあるだけなんだけど、それが途中で終わってるらしいんだ」
「あ、そうなの。え、でも、らしいってどういう意味?」
「まだ全部読んでないから詳しくは分からないんだけど、なんでも解答編がないとかってはなしだよ」
「でも、それって単に、連載中ってことでしょ? 少し待ってれば、そのうち続きが公開されるんじゃない?」
「さあ、どうなのかな? 飯方さんの言い方はそういうニュアンスじゃなかったけど……ぷっ、イイガタさんのイイカタだって……」
 イイガタとイイカタ。期せずして生まれた駄洒落にひかるは大いにウケた。しかし、馬波は相変わらず真剣そのものだ。
「あいつ、ひかるに何を吹き込もうとしてるんだろ? 紹介しておいてなんだけど、弓人にはあまり関わらない方がいいわよ。あいつ、少し変わったところがあるから……」
 髭もじゃの顔、よれよれの白衣、開店休業状態の病院、競馬新聞、耳にさした赤鉛筆……。
 ひかるは飯方の風貌や人となりを思い浮かべて苦笑した。
「確かにちょっと変わってるよね」
「いや、そう言う意味じゃなくて……とにかく、あいつと必要以上に接触するのはあまり感心しないな。芝居の参考になる知識は豊富だけど、このドラマが終わったらあいつのところへは出入りしない方がいいと思う」
「どうしたの、馬波さん? 飯方さんって一体……」
「まあ、いいわ。とにかく、あたしもその小説読んでみるからアドレス教えてよ」
「ああ、そりゃあ構わないけど……じゃあ、メモの用意はいい?」
 ひかるは、いい渋る馬波をそれ以上追及しなかった。
 必要になったらちゃんと話してくれるだろう。
 ひかるは馬波熊子を絶対的に信頼しているのだ。
 やがてホームページアドレスを書きとめた馬波が締めくくるように言う。
「じゃあ、また明日。あまり夜更かししないようにね」
「はいはい」
「10時に迎えに行くから」
「オッケー」
「ドラマの入りは16時からだからね。台本きっちり入れといてよ」
「分かってるって」
 いつかはひとり立ちしなきゃと言ったわりには、馬波はひどく世話焼きさんであった。
「まあ、あんたの度胸と記憶力なら余計な心配だってことは分かってんだけどね。これもあたしの性分だから……」
「いいよ、別に。今夜、もっかい読みなおしとく。じゃっ、おやすみ、ウ・マ・ナ・ミさん」
 ひかるはけらけら笑いながら、「苗字で呼ぶな〜!」という怒声を最後まで聞かずに一方的に電話を切った。
 すると、電話の間中、黙々と「1/10の悪夢」を読んでいた沙織が心配げに問いかけてきた。
「ねえ、ひかる、明日も仕事なの?」
「みたいだね。こりゃあ、今夜中に明日の勉強しとかなきゃ」
 勉強とは、学校の勉強とドラマ「CAN NOT」の両方を指している。さすが日本一忙しい高校生。その志、あっぱれである。
 ひかるが何気なしにカーテンを開けて窓の外に目をやる。
 いつの間にか雪は降り止んでいたようだ……。


 翌日、夕刻。
 夏目沙織は、学校が終わると真っ直ぐドラマ「CAN NOT」の撮影所へ向かった。
 幸い、撮影はまだ始まっていないらしく、ひかるはスタッフたちと談笑しているところだった。
「あ、沙織ちゃん♪」
 沙織を見つけたひかるがこっちこっちと手招きをする。
 沙織が(転ぶことなく!)ひかるの傍に行って尋ねた。
「あれ、撮影、まだ始まってないの?」
(たしか撮影は4時からじゃなかったっけ? もう、時間過ぎてるのに……)
「主役のお方がまだお見えになっていないのさ」
 ひかると話していたスタッフが代わりに答えてくれた。その口調には露骨にとげがあった。無理もない、たった一人の遅刻のおかげで数十人のスタッフ、共演者が動きを封じられているのだから……。
「まったく、何様のつもりだろうね、春日の旦那は」
「主役様ですよ」
 憤りを隠せないでいるスタッフに御厨ひかるが笑顔で応じた。
「甘いな、お宅は。この業界は特に遅刻はご法度なんだぜ。へたすりゃ仕事を干されちまう。なのに連絡のひとつもなしたあ、どういうこったい! あいつ、ちょいと天狗になってんじゃないのか?……ディレクター! 春日の旦那が抜けるシーンから先に回しちゃいませんか」
 ぴりぴりモードのスタッフは、そう喚きながらディレクターの方に近づいていった。
「春日さんのこと、誰も心配してないんだね」
 沙織が意外そうな顔で率直な感想を述べる。
「うん、前にも何度かあったからね。春日さんって結構時間にルーズなところあるみたい。やっぱ、ビッグスターって感じだよね。細かいことは気にしない人なんだろうなあ」
 それは別に皮肉でも何でもなく、ひかるの正直な思いであった。
「なあんだ、遅刻、初めてじゃないんだ。あの人って軽薄なところあるし、さもありなんって感じ」
 沙織は心配して損したとばかりにふーんと鼻を鳴らすと、不意に思い出したかのように、かばんの中から紙の束を取り出した。ほかでもない、昨夜ひかるにプリントアウトしてもらった「1/10の悪夢」である。
「あっ、沙織ちゃん、もう読んじゃったんだ?」
「ううん、まだ途中までだよ。もう必死で読んだよォ」
 授業中にね……と、最後の言葉は口に出して言うのをやめておいた。言ったら言ったで、ひかるに小言をまけられそうな気がしたからだ。
「で、沙織ちゃんはどこまで読んだの?」
 興味をそそられる話題にひかるが身を乗り出して訊く。ひかるも昨夜はいろいろとやらなければならないことがあって、途中までしか読んでいなかったのだ。沙織が用紙の中ほどを開いて指差した。
「えっとね、ここまで。第13章、残酷かつ大胆に
「あ、ボクとおんなじだ! で、どうだった?」
「……どうって?」
「【犯人】とか判った?」
「いやあ、そこまではね……」
 【犯人】どころの騒ぎじゃない。この作品に登場する酔狂じみた規則にさえついていけなかった、というのがホンネである。ただひとつ、飯方の言っていた、ひかるの話題が書いてあったことだけははっきりと確認できた。小説の中に現実の、しかも自分のよく知っている人間が、会話の中とはいえ登場していたのには、ある意味最も衝撃的だった。授業中、教科書の下に隠して読んでいるという状況にもかかわらず、思わず「うわ!」と声を上げてしまったほどである。
「だいたいマトモな話じゃないよ、これ。あたし、読んでいて気分悪くなってきたもん」
「人間の暗部を鷲掴みにして、読者の前に突きつけるような……」
「そうそう」
「でも、これはプロの仕業じゃないね。ストーリーは全部読んでるわけじゃないからプロのそれと比較しようがないけど、文章に関しては一定水準以下だよ」
 と、辛口かつ客観的かつ妥当な批評を下すひかる。
「それにしても、非現実的過ぎるよお。いくら小説だからってあんなことあるわけないじゃない」
「そうだね。この話って、すごいウソ臭いというか、インチキ臭いというか……それとは別に妙な違和感もあるし……魚の小骨が喉に引っかかったような……」
「で、ひかるは【犯人】判ったの?」
「いや、まだ全然……だけど、ひとつだけはっきりしたことがある」
「何よ、それ?」
「時間軸さ」
「時間軸?」
 沙織が目をまんまるくしておうむ返しに尋ねる。
「そう、この物語は7月31日から始まっているけど、西暦何年なのかははっきりとは書かれていない。だけど読んでみる限り、これは今年の出来事だということが文章の中から読み取れる……」
今年―――1999年ということは、つい数ヶ月前に時代背景が設定されているってこと?)
「ねえ、ひかる。どうしてこれが今年のことだって分かるの?」
 ひかるは待ってましたとばかりに説明をはじめる。
「まずひとつにボクの話題だよね。飯方さんも昨日言ってたけど、第7章で螺子目康之が俳優、御厨ひかるのことを話題にしている。ボクが役者としてデビューしたのは一年前だから、それより前にボクが役者になるということを予測することは、たとえボクのことを前から知っている沙織ちゃんだってできないわけさ」
「あ、そっか……」
 確かに御厨ひかるが役者としてデビューしたのは、およそ一年前のお正月映画だった。タイトルは『平穏じゃ眠れない』。感動的な青春映画で、ひかるは豪華なベテラン俳優たちを向こうに回して、堂々たる存在感を見せつけ、数多の新人賞を独占したのだ。沙織は劇場でそれを見て、あまりに感動的なストーリーに涙が止まらなかった。ラストシーンで理不尽な死を遂げるひかるが本当に死んでしまったと思ったくらいで、放映が終わって場内が明るくなったとき、隣りに座っていたひかるを見て、安心してまた泣き出してしまったという誠にハズカシイ経験をしたのである。
「じゃあ、これが書かれたのも、つい最近ってことだね」
「うん、さらに螺子目氏は毎週欠かさず見ているドラマがあると言っている。ボクが連続ドラマに初めて出演したのもちょうどその頃なんだ」
「あ、『兄弟愛』だ!」
「そう、それだよ」
 と、ひかるが満足げに頷く。
 連続ドラマ『兄弟愛』は、幼い頃に生き別れになった兄と弟が12年ぶりにばったり再会するところから始まる物語である。その中でひかるは聾唖者という難役をこなして、その演技力を高く評価された。言ってみれば、ひかるの役者としての評価は『平穏じゃ眠れない』がホップ、『兄弟愛』がステップ、そして『CAN NOT』がジャンプといったところか。
「裏づける事実はそれだけじゃない。第12章では松本浩太郎がインターハイのことに触れている。その中で今年の全国大会の開催地は岩手県だとも言っている。ほら、瑞希ちゃんが今年アーチェリーで全国大会に行ってきただろう? 彼女から岩手の冷麺をお土産に貰って一緒に食べたじゃない」
「あ、そう言えば……」
 瑞希というのはひかるたちのクラスメイトのことである。沙織は冷麺のやたら堅い歯ごたえに辟易したものだが、ひかるは、オイシイオイシイを連呼しておかわりしてたっけ。まるで輪ゴムを食べているような食感だった沙織としては、もう勘弁してほしい代物だった。
「インターハイの全国大会って確か各都道府県持ちまわり開催のはずだから、他の年ってことはまず考えられない」
 ひかるの理路整然とした弁証に沙織が水を差すはずもなかったが、しかし、根本的な部分で疑問が残る。
「で、その時間設定に何か目的があるの?」
 果たしてひかるの応えは全くもって頼りないものだった。
「さあ、それはまだ判らないなあ。何の関係もないかもしれないし……」
 沙織は「な〜んだ」と頭の後ろで手を組んだ。
「でも、ホームページのタイトルの『ひかる小説館』がボクの名前に由来しているとしたら、やっぱりそれも時間軸の伏線ということになるんだろうなあ」
「結局、ひかるもまだ【犯人】が判らないんだ」
 がっかりする沙織に、ひかるは申し訳なさそうに頭を掻いて、これは大したことじゃないけど、と前置きして言った。
「【犯人】は判らないけど、これを書いた人がどんな人かはある程度予想がつくんだよね」
「え、ホント?」
(それって全然大したことじゃなくないよ! あたしなんかそれすらちんぷんかんぷんだっていうのに……)
「これを書いた人物は、飯方さんの知っている人なんだよ。そう本人が言ってたよね。つまり、それは飯方さんが既に手にしている情報なわけで、それが判ったところで何の進展にもならないだろ」
「でも、作者が【犯人】っていう可能性は大きいと思うよ。っていうか、普通、書いた人が【犯人】だと思うけどな……」
「え? どうしてそう思うの、沙織ちゃん」
「だってさ、作者が【被害者】だったとしたら、【犯人】を告発して生き還ったってことでしょ。ということは、【犯人】が分からずじまいってことにはならないんじゃない……あ、でも、【被害者】が【犯人】を告発できないまま時間切れで還ってきたってこともありえるのかあ……あれ? 作者が【代理人】って可能性もあるよね……ああ、もお! わけわかんないっ!!」
 沙織は見当違いの推理を展開し、ひとり勝手に自爆している。ひかるは笑いながら沙織を見る。
「そもそもそれは、この物語がノンフィクションであるという前提がなければ成立しない推理だよ。でも、まずもってこれは完全な絵空事だろうから、たとえ作中で殺された人物であっても、作者になりえるわけなのさ。それともうひとつ。作者は飯方さんの患者であり、作品中の登場人物の誰かと同姓同名なんだよね。でも、名前が一緒なだけで、年齢、性別、職業、性格、風貌まで一緒とは限らないんだ。ここもやはり注意しておきたい点だね」
(そっか。なんとなくあたし、作者とその登場人物って同一人物だと思いこんでいたけど、そうとも限らないんだよね。あくまでも名前が同じってだけなんだ……)
 そうなのだ。例えば作者の名前が菅野祐介だったとしても、その人が必ずしも皮肉屋で頭の切れる葬儀屋さんとは限らないのだ……。
「結局、それ書いた人って誰なの? 勿体つけないで教えてよ」
 推理小説では大抵探偵役を務める者は、犯人が完全に判るまでその名を口にしないというお約束があるのだが、探偵でもなんでもないひかるは、いともあっさりとその名前を口にしてしまった。
「作品中でたとえるなら伊勢崎美結森岡千夏だね」
(あの太ったマネージャーと美人の介護福祉士ですって……)
 沙織はその名を聞いても、何故、ひかるがその二人が作者と睨んだのかピンと来なかった。
「え〜、あの二人って、何か怪しい行動取ってたっけ?」
「いや、別に怪しい行動は取ってなかったと思うよ。たださ……」
「ただ……なあに?」
「And There Were None」
「え、なになに? ひかる、今なんて言ったの?」
 イングリッシュも苦手な沙織は、ひかるの発音が良すぎて一瞬何を言ったのか聞き取れなかった。ひかるが今度は日本語ではっきりと言う。
「そして誰もいなくなった」
「ああ、アガサ・クリスティーね。で、それがどうかしたの?」
「ボクが思うに、『1/10の悪夢』を書いた人は、『そして誰もいなくなった』を読んだことがある人物だと思うんだ。沙織ちゃんは『そして誰もいなくなった』を読んだことは?」
 愚問である。活字も苦手な沙織が読んでいるはずもなかった。
「いやあ、それは読んだことないんだけど……ほら、外国の小説って、登場人物の名前とか覚えるだけでも大変じゃない?」
 実に苦しい言い訳をする沙織だが、ひかるはその辺のところはあえて突っ込まなかった。
「あの小説を読んだことがある人なら、なんとなく気付くと思うんだけど、第1章の選ばれし者たちって『そして誰もいなくなった』の書き出しにそっくりなんだ。少なくとも無意識のうちで作者は意識して書いていたと思う……」
「ふ〜ん。だから、それを読んだことのあると書かれている伊勢崎美結と森岡千夏が怪しいってわけね。ひかるが言いたいことはよく分かったけど、でも、似てるって、どういうふうに似てるの?」
 ひかるはくちびるを指で押さえながら、考えをまとめているかのように訥々と語りだした。
「うん、つまり、手法なんだ。本編中でも『そして誰もいなくなった』と、このゲームは良く似ていると伊勢崎美結が言ってるよね。ええと、第12章だっけ? 見も知らぬ10人の老若男女、警察の介入できない閉鎖的な空間、そして、ホストの正体は謎に包まれている……これらはすべて、作品の内から見られる類似点なんだ。で、ボクが今言おうとしているのは、作品の外から見られる類似点なわけで、つまりそれは、作品そのものの類似点なんだよ」
「あの、結局、どういうことなの、ひかる」
 頭上にクエスチョンマークが浮かびまくっている沙織が眉間に三本皺を寄せながら問う。
「昼間、空き時間を見つけて図書館に行って確かめてきたんだけど、『そして誰もいなくなった』の書き出しでは、一人一人の登場人物が舞台へ移動する過程を少しづつ時間をずらしながら描いているんだ。まさに『1/10の悪夢』と同じ手法で導入部が描かれている。もちろん第2章からは大分雰囲気が違ってきているけれど……」
 ひかるはそこまで言うと、鞄から一冊の本を取り出した。言うまでなくアガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』である。
「ついでだから借りてきた。沙織ちゃんも読んでみる?」
「え、あ、あたしは遠慮しとく」
 沙織は慌てて首をぶるぶる振った。これ以上活字を預けられちゃあ堪ったもんじゃない。沙織ちゃん的には『1/10の悪夢』を読むだけで手一杯目一杯お腹一杯なのだ。
「でも、前に読んだことがあるとはいえ、よく、その書き出しまで覚えていたよねえ」
 まったくである。さすが、ずば抜けた記憶力の持ち主の異名を取るだけのことはある。沙織はしみじみ、やっぱひかるってばスゴイっ、と感服の至りであった。もう尊敬の眼差しからラブラブ光線出しまくりの大安売りである。
「ま、さっきも言ったけど、作者が作品中の誰かと同一人物とは限らない以上、美結さんや千夏さんがそのまま作者であるとはとても言えないけどね。あくまでも、そういう条件を持った人が作者だろうというだけだから……いや、第一これも真相とは全然関係ないかもしれないしね……」
 ひかるは至極控えめにそんなふうに言って己の推理を締めくくった。
「おや、お二人さん。な〜に密談かましてんだよっ」
 と、急に背中を叩かれたひかるが、聞きなれた声に振りかえる。
「あ、春日さん!」
 そこには「CAN NOT」の主演俳優、春日彰信がニヤニヤ笑いながら大仰に両手を広げてみせていた。
「いやあ、参った参った。なんか交通事故あったらしくてさ、道が混んで混んで。いや、すまねえ、ちょびっとばかし遅れちまったかな」
 と、悪びれず、むしろ冗談めかして弁解する春日だったが、スタッフの殺意さえ含まれていそうな白い視線に囲まれて冷や汗たらりものであった。しかたなく、唯一あまり怒っていなさそうなひかるに声を掛けたという次第である。
「あたしがあんたのマネージャーだったらとっくの昔におりてるわよ」
 と、あけすけにズバリ直球を放ってきたのは、その後ろにいつの間にか控えていた馬波熊子女史である。
「げげっ、おねえたま……」
 春日は歯並びの良い口を横一杯に広げて、ゆっくりと馬波を仰ぎ見た。堪忍とばかりに頭の上で両手を合わせる。
「申しわけないっ! 以後気をつけますんで」
「あんたねえ! みんながどれだけメーワクしたと思ってるのよ」
 両手を腰に当ててズイと一歩前に出る馬波。と、同時に二歩後退する春日。
「知〜らないっと。馬波さんを怒らせると怖いんだぞ〜」
 沙織がひかるだけに聞こえるくらいのひそひそ声でそう言った。
「……沙織ちゃんほどじゃないけどね」
 一方のひかるは、沙織にだけは聞こえないくらいの蚊の鳴くような声でそう呟いたものだった……。
 春日彰信は場の沈んだ空気を振り払うように、我の遅刻を棚に上げてトンデモナイ発言をする。
「さあ、みんなァ、巻きで行くよー!」
 しら〜〜〜〜〜〜〜
 春日の空元気はすこぶる空回りしていたりするのであった……。
 そんな空気の中で……。
 ひかるは今だ考えていた。
 先程の『1/10の悪夢』論議の中で、あえてひとつだけ話さなかったことがあったのだが……。
 それは、『そして誰もいなくなった』と『1/10の悪夢』に見られる今ひとつの符号。
――――――招待主の名前である。
 『そして誰もいなくなった』では、ユリック・ノーマン・オーエン。クリスチャンネームはユナ・ナンシー・オーエン。この架空の名前にはちょっとした悪戯心が施されている。
 『1/10の悪夢』では、さしずめ山口維知雄に相当する人物だ。
「この名前って……いや、まさか……考え過ぎだよな……」
 ひかるは天啓のごとき閃きから浮かんだ言葉遊びの答えに自ら困惑していた。
 そして、それはいくらなんでも飛躍し過ぎだなと、自分を窘める。
 とにかく、もう少し読み進めてみてからだ。
 いずれにせよ、御厨ひかるが【犯人】を看破する過程における第一歩は、この有名過ぎる海外ミステリーの秀作『そして誰もいなくなった』から始まったのである……。


 その頃、飯方神経科医院では、飯方弓人がベッドに横たわる患者に話しかけていた。
「気分はどうですか?…………そうですか、それは何より…………ええ、あの小説、今、読んでもらっているところです…………そうですね、お互い反響が楽しみだ…………退院?…………何をそんなに慌てているんですか? 大丈夫。社会復帰は近いですよ…………なあに、心配はいりません…………もう何も…………何も怖れることはないんです…………疲れたでしょう、さあ、少し眠って…………」
 やがて、軽い寝息をたてはじめた患者の寝顔をしばらくの間、驚くほど冷たい目で眺めていた飯方が、白衣のポケットに手を突っ込んでその部屋を後にする。
 窓の外では、寒さに震えるように墓石の上にとまっていた一匹の烏が短くカァと鳴き声を上げた。


   次章       1/10の悪夢       ひかり小説館

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送