第15章


第15章  幼き記憶

「今日も暑くなりそうだね」
 朝食を終えて正面玄関を出た堀切数馬が眩しそうに空を仰いで目を細めた。
「そうね」
 少年と一緒に屋外へ出てきた森岡千夏が相槌を打つ。
 ぎらぎらと照りつける太陽光線に帽子が欲しいなと思っていた。
 石畳を踏みながら進むと、その先には唯一外界へと繋がる鉄扉にぶつかる。
 館を囲む高い塀に施されたその扉は、ひどく頑丈そうに見えた。
 心棒が掛けられた扉には、ご丁寧に鎖と南京錠が絡まりあっている。
 そして、その前に立ち塞がるように【代理人助手】の姿も……。
 構成員のほとんどが半袖やノースリーブの服を着けている中、黒いスーツに身を包んだ彼らは、とてもまともな感覚を有する人間とは思えなかった。
 庭の中ほどでは、平一がイーゼルを立てかけているところだった。奇妙なことに、その先にはあの無機質に続く高い塀しか見えない。
 平さんは何を描こうとしているんだろう?
 千夏の胸中にフトそんな疑念が湧き起こったが、彼の方に近づき尋ねるまではしなかった。
 なぜなら彼女は、自分の隣りを歩いている数馬の異変に気づいたからだ。
 数馬はふらふらとあやしい足取りで上体を揺らしていた。まるで今にも倒れそうに。
 千夏はそんな数馬の小さな体を支えながら心配げに問い掛けた。
「どうしたの、数馬くん? 具合でも悪い?」
 ついに数馬はその場に座り込んでしまった。
 そして、首を縦にがくがく揺らしている。
「なんだろう……僕、急に眠たくなっちゃった……」
 千夏はそんな邪気のない台詞にほっと胸をなでおろす。
「数馬くん、さっき起きたばかりじゃない。もう眠くなったの?」
 しかし、そう平和な話じゃないな、と思い直す。彼はここへ来てからというもの、ずっとこんな調子だった。睡眠薬を服用している素振りもないし、彼の居眠りはごく平均的な中学生としては些か常軌を逸脱していた。
 ふいに千夏の脳裏にある可能性が浮かんだ。
「ねえ、数馬くん、何か薬とか飲んでるの?」
「ううん、別に」
「じゃあ、お医者さんに罹ってるとかは?」
「ないよ。僕、病院って嫌いだもん」
「あ、数馬くん、注射が怖いんでしょ」
 と、冗談ぽく言う千夏の言葉に、果たして彼は照れたように頭を掻いた。どうやらアタリらしい。
「ねえ、前からそうなの? つまりその、昼でも夜でも構わず眠くなるのって」
「う〜ん、どうかなあ。まあ、言われてみれば、そういうところあるかもしれないなあ」
―――あまり自覚症状はないようね。
 千夏は更に質問を続けた。
「じゃあ、意味もなく笑い出したり、突飛な行動に出たりして周りを困らせるようなこととかは?」
「別になかったと思うけど……ねえ、どうしてそんなこと聞くの?」
 そう言う数馬であったが、彼には既に充分な実績があった。
 鱒沢遙の前で蟻を食べて見せたり、松本浩太郎とのトランプで異様な勝ちっぷりをみせたり……。しかし、千夏はその現場を見ていないし、聞かされてもいない。千夏は彼の言葉を額面どおりに受け取った。螺子目や室町は数馬を指して「二重人格者」と評していたが、千夏はそれとはまた違った解釈をしていたのだ。
「ナルコレプシーの疑いがあるわ」
「ナル……って、なにそれ?」
 聞きなれぬ単語にきょとんと目を丸くする数馬。彼の眠気は徐々に引いていっているようだ。
―――心配はない。軽い過眠症だ。不眠症に比べればずっと稀な病いではあるが、10代半ばの年頃の子供に顕著にみられる症状であって、大人だと車の運転ができないなどの生活弊害が生じてくるが、彼くらいの年齢なら今から治療に専念すれば回復の見込みもある。
 過眠症は一般には病気だと認識されにくい。他人の目から見れば、単なる『怠け者』にしか映らないからだ。しかも彼には、いわゆる重度の過眠症患者にみられる情動的発作はみられない。つまり原発性過眠症ほど深刻ではないということだ。彼の病いは、そのずっと手前のナルコレプシーなのだ。
 千夏はそう結論づけ、そのことを噛み砕いて説明してやった。
「へえ、そうなんだ。それにしても詳しいんだね。もしかしてお姉ちゃんってお医者さんか何かなの?」
「……まあ、似たようなものね」
 本当は全然違うのだが、介護福祉士も医師も『弱い人間を助ける』という点では似たようなものだ。わざわざ説明するまでもないと彼女は判断した。彼女が過眠症に詳しかったのは、実のところ全くの偶然だった。彼女の身近の人間にこれと似た症状を持つ人間がたまたまいたに過ぎなかったのだ。しかし、その人はもうこの世には存在しない。彼女にはもう手の届かない遠い世界の住人になってしまった。
 かつて千夏は、その人を助けるため全力を尽くした。専門書を読み漁り、日本ではまだ数少ない専門医に看てもらったりもした。効果的と思える薬を幾度となく投与したが、この病気への薬物治療は現状維持が精一杯で、完全治癒に繋がることがないことを痛感した。どんなに尽力しても最後は本人の強い意志が必要だった。だが、その人は、睡魔という悪魔に真正面から立ち向かう強靭な精神力を持ち合わせてはいなかった。
「とにかく、規則正しい生活をすることよ。夜はぐっすり眠ってね……」
 そこまで言いかけて千夏は絶句した。
 夜はぐっすり眠って、ですって?
 私は何を言っているんだろう。このゲームの中で、無防備に眠るなど死を意味することではないか!
 何が治療だ。そんなことよりも『今を生きること』の方がよっぽど重要なのだ。
 とにかく、この不愉快なゲームを終わらせること。それが私の使命。生の尊厳を冒涜するこのゲームを根底から叩きのめすこと。それが私の正義! 義務! 宿命!
「……薄々は感じてたよ」
 数馬がポツリと呟いた。
「え……?」
「僕は普通の人と違うんでしょ。だからママはいつも僕をぶつんだ。しょうがないよね、僕、病気なんだから……僕お荷物なんだから……いつもメーワクかけてばっかりだから、僕なんて……僕なんて、このまま本当にいなくなってしまえばいいんだ!」
 幼いながらも端正な面が苦渋に歪む。急速に生気を失いつつある双眸。
「うっ、うう……」
 少年は両手に顔を埋めて嗚咽の声を上げた。
―――もし僕が【犯人】になったって、誰も殺したりしないから。その時は諦めて天国に行くよ。
 数馬が誓約書にサインした際、口にした決意表明。
 その印象的な言葉を千夏は思い返した。
 なんて不憫な子だろう……。
 千夏はその小さな肩にそっと手を置いた。
「そんなことはない。そんなことはないよ、数馬くん。お母さん、きっと今ごろ心配してる。だからそんなこと言わないで。ねえ、生きようよ。負けちゃ駄目だよ」
 数馬の肩が小刻みに震えているのが、彼女の手のひらを通して伝わってくる。彼は泣いているのだ、と千夏は思った。
 しかし実のところはそうではなく……。
「ふふふふ……」
 堀切数馬は笑っていた。
 顔を覆っていた両手を剥ぐと、そこには悪魔的な笑みを浮かべる美しい少年が現れた。
「あはははは」
 長い睫毛がきらきら光っている。それは哀しみの涙か、はたまた狂気の涙か?
 情動的発作?
 千夏の脳裏にさっき考えたばかりの言葉が浮かびあがる。過眠症に情緒不安定が付随してくれば一転して重度の症状ということになる。もはやナルコレプシーどころのレベルじゃない。
「僕だけじゃあないよ。みんな病気なんだよねー」
 数馬の声のトーンは、先刻までとまるで別人のようだった。
「どうしたの、数馬くん? あなたどうしちゃったのよ!」
 少年の肩を揺さぶる千夏。数馬は揺らされるままに、あはははとカラ笑い。
「ホントは千夏お姉ちゃんも分かってるんでしょお? みんなどこかおかしいよ。おかしいといっても、もちろん身体のことを言ってるんじゃない。ココロが……ココロのどこかが少しずつ欠けてるんだ」
「数馬くん、あなた……」
 この茹だるような暑さの中で鳥肌が立っていた。目の前の幼い面立ちの少年に、ある種の恐怖に近い感情を抱いていた。
「ママは心配なんかしてないよ。するわけがないんだ」
「……どうしてそんなこと言うの」
「だって、ママは今、家にはいないからね。遠いところにいるんだから」
「遠いところ?」
「ケームショだよ」
「刑務所って?」
「といっても、もうとっくに出所しているかも知れないけどねー」
「どういうこと? あなたのお母さん、どうして刑務所なんかに?」
「ママはパパを殺したんだ。パパっていっても、僕の本当のパパじゃないよ。パパはたくさんいるんだ。その中のひとりを殺したんだ」
 氷のように固まる千夏。何も口を挟めない、そんな空気があった。そして、千夏はひどく嫌な予感がした。頭の奥がキーンと痛くなる。
 木陰に立つ数馬のちょうど顔半分に木漏れ日が差しこむ。光と影。そこにはあたかも二人の人間がいるようで……。
「あの時もこんなに暑い日だった。僕は小学校に入ったばかりで、いつもママにメーワクばかりかけていた。あんたなんか生まれてこなければ良かったんだと、毎日のように聞かされたっけ……『パパ』は僕らの家で死んだ。ざまあみろだ。でもね……でも僕は本当のことを知ってる。ママと僕だけの秘密なんだ」
「本当のこと?」
「そうだなー。千夏お姉ちゃんにだけは教えといてあげるよ。『パパ』を殺したのは本当は僕なんだ。ママは僕の身代わりってわけさ」
「そんな……」
 千夏は眩暈に襲われた。
 まただ!
 またしても、「自分は人殺し」だ。
 この子まで……この子まで、人を殺したというの!
「でも、僕はもう人は殺さない。牢屋に入れられるのはイヤだからねー。もう僕を庇ってくれる人は傍にいないんだ。身代わりになってくれるママはもういないんだから……」
 言ってることが支離滅裂だ。滅茶苦茶だ。
 ……いや、ちょっと待って。
 もしかしたら、この子は自分が殺したと思い込んでいるだけなのかも……。
 千夏は一つの仮説を頭の中で展開してみた。
 彼の母親は『パパ』を殺した。しかし母親が『パパ』を殺した理由は数馬にあった。それを敏感に感じ取った(あるいは聞かされた)彼は、その罪を自分のものだと錯覚することで、母の手を汚させた罪悪感から逃れようとした。ありそうな話ではないか。いや、そもそもこの話自体が疑わしい。そうそうあちこちに人殺しがいてたまるものか! ましてやそれが自分たち10人の共通点だなんて馬鹿げている。そしてまた、数馬が提唱する全員が病気だというのも同じこと……。私のココロは断じて病んでなどいない!
 ふいに数馬の瞳の奥に悲哀の翳がさした。
「信じてないんだね……」
 数馬は大きくため息をつくと、ぱっと表情を変えた。
 もとの無邪気な少年の顔が出現する。
「千夏お姉ちゃんなら信じてくれると思ったんだけどな」
 そう軽い調子で言うと踵を返して玄関に向かう。なぜかそんな彼を追うことができない千夏は、ただただ少年の背中を見送るばかりだった。
(ねえ、いい加減に現実を見たらどう?)
 一人になった千夏に何者かが語りかけた。
「誰?」
 弾かれたように辺りを見回す千夏。
 しかし、近くにいる人物といえば【代理人助手】だけだ。庭の向こうでは、いつの間にかやってきた松本浩太郎が平一と何ごとか話しているようだが、この距離では大声でも出さない限り、こうもはっきりと声は届かないはず。そもそも、これは女性の声だ。
 千夏はその場に蹲り、耳を塞いだ。
――――――やめて、もう……やめて……
 幻聴だ。幻聴に違いない。
 そうだ、私は疲れているんだ。緊張の連続で少し神経が参っているだけだ。だって、こんなこと今までなかったじゃない。少し休もう。休んで一度頭を冷やそう。
 やがて千夏はよろよろと立ち上がり、一歩、また一歩と、重い足を引き摺り始めた。


―――どうして信じてくれないの? 僕、嘘なんて言ってないよ。本当に僕が殺したんだ。
 それは、8年前の記憶
 傾きかけたボロアパート。
 錆びた鉄の階段をのぼった一番手前の部屋が少年の住み処だった。
 色落ちした薄い壁。隣りに住む浪人生はいつもガチャガチャ煩い音楽をラジカセから垂れ流している。
 連日の猛暑の中、年季の入った扇風機が弱々しく熱風をかきまぜていた。
 蝉がジーワジーワと気でも触れたかのように鳴き喚いている。
 死にたくないよう、まだ死にたくないよう、とでも鳴いているのだろうか。
 窓に吊り下げた風鈴の音さえも何やら鬱陶しく感じさせてしまう異常なまでの暑さ。
 やけたアスファルト。歪む大気。気温が1℃上がるたびに脳が溶けていくような感覚さえする。
 『通学路』を示す黄色い道路標識が立てられた急な坂道を上りきると、少年のアパートが見えてくる。
 母ひとり子ひとり、貧しいだけが取り柄のちっぽけな家庭。
 道端に名も知らぬ美しい花を見つける少年。
 少年はしゃがんでそれを摘みとった。
 これをママにもっていこう。
 ママは花が好きなのだ♪
「ただいまァ」
 小さな身体には些か不釣合いなランドセルを背負った少年が元気よくドアをあける。
 そして少年は硬直した。
 母親は知らない男と裸で抱き合っていた。
 リノリウムの床の上で母を組み敷いていた男が振り向いた。
「ぼ、僕……」
 少年はさして驚くことはなかった。こんな光景は慣れっこだった。
 また新しい『パパ』ができたんだね。
 家族が増えることは歓迎すべきことだ。
 少なくとも『パパ』がいるときに折檻されることはない。いかに子供が治癒能力に長けているとはいえ、毎日毎日ぶたれていたのでは、生傷は増えるばかりだ。いや、生傷くらいならまだいい。かつて箒の柄で首を殴られたときなどは、激烈な痛みと呼吸困難で生死の境を彷徨ったこともある。
 『パパ』がいるとママはご機嫌なのだ。
 いつまで続くか知れぬ平穏な生活が始まったかと思うと、むしろ少年は安堵さえしていた。
 少年が動揺したのは、ただ単にバツが悪かっただけだ。
「僕、外で遊んでくるよ」
「待てよ、ボウズ」
 ランドセルをたたきに置いて、表に出ようとする少年の首ねっこを男が掴んだ。
「え……?」
 男は少年の身体をひょいと摘み上げ、箪笥の上に乗せた。
 少年は自力で降りることができなかった。運悪く体育の時間に足を捻挫していたのだ。
「たまには息子にもじっくり拝ませてやれよ」
 そう言って、男は行為を再開した。
 母親は何も言わなかった。
 互いに唾液を交換し、局部を探りあい、求めつづけるふたりを少年は箪笥の上からじっと見下ろしていた。
 瞬きひとつせず、じっと見つめていた。
 風に靡く旗のように動き続ける男の背中が、汗でてらてら光っていた。
 蝉が、
 風鈴が、
 隣室のロックミュージックが、
 ふたりの獣のような叫び声が、
 すべてが煩かった。
 少年は堪らず耳を塞ぐ。もうやめて! 耳が壊れちゃうよ!
 少年の横には救急箱があった。箱の中には銀色の鋏。包帯などを切断するためのものだ。
 少年は無意識のうちにそれを手に取っていた。
 そして次の瞬間には飛び降りていた。
 少年の全体重を込められた鋏は、男の背中に……ちょうど心臓のあたりに深々と突き刺さった。
 男は突然の出来事に目を剥いて、首を回して少年を見る。
 少年は媚びるような笑顔を浮かべていた。そんな表情は母親にそっくりだった。
 第一印象が大事だもんネ。今度のパパには少しでも長く居てもらわなくちゃ。
 男は完全にその動きを止めていた。ママの上に『パパ』が重なり、そのまた上に少年が重なり……。
 親亀、子亀、子孫亀。
 なんて滑稽なオブジェ! 拍手喝采、パチパチパチ。
 最初に行動を起こしたのは母親だった。
 母親が男の身体を払いのけ、鋏を引き抜く。
 血飛沫が母親の顔を赤々と染め上げる。
 そんなことにはお構いなしに母親は服を着けて、受話器をとった。
「もしもし、警察ですか……私、人を殺してしまったんですけど……」
 少年は足の痛みに耐えながら、母親ににじり寄る。
「ママ……僕ね、僕……」
 電話を終えた母親は少年の身体をぎゅっと抱きしめた。
「あんたは黙ってなさい。何も言っちゃいけないよ。この男は私が殺したの。分かるわね、数馬」


 1号室に戻った数馬は泣いていた。誰にも遠慮することはない。この壁はアパートの壁なんかと違って薄くはない。思いっきり声を張り上げ泣いたとて誰も咎める者はいない。
「僕が殺したんだ、僕が、僕が……」
 少年は、とめどなく溢れる涙を拭おうともしない。
「ママ……ママぁ……」
 彼はずっと前から本能的に理解していたのだ。母が自分をぶったりするのは歪んだ愛情表現であるということを。
 母親の暴力がエスカレートするほどに、少年は母の愛情を肌で感じとる。ぶたれるたびに、傷つけられるたびに味わう甘美なまでのカタルシス。
 一方で彼はそんな自分を『いびつ』だと思う。他の人とは違うと思う。ちょっと恥ずかしいとさえ思う。だから母の暴力を嫌がるふりをする。彼の場合ある意味、二重人格というよりも精神分裂症といったほうが適切なのかもしれない。
 いずれにせよ……。
 堀切数馬には終局の時が迫っていた。
 わずか15年の短い人生に幕が下りようとしていた。
 彼はその瞬間に、カタルシスを得ることができるのだろうか?
 それは誰にも判らない。あるいは本人にさえも……。


 構成員の誰よりも早く庭に出た平一は、早速執筆の準備に取りかかっていた。
 ふいに視界の隅に人の動く気配がした。
 それは、森岡千夏と堀切数馬だった。
 創作活動に集中したい平は短く舌打ちをする。
―――ちっ、邪魔されたくないな。
 しかしながら彼女たちは何事か話し込んでいるらしく、こちらに来る気配は見せなかった。
 平の手元に酒はなかった。あれを飲みながらでは手が震えていけない。実際、描くことに集中している間は欲しいとさえ思わないから不思議なものだ。
 はじめからこうしていれば、天才として持て囃され続けていたのかもしれない。あれはちょっとしたスランプだったのだ。それを才能が枯渇したと簡単に諦めていた己が愚かしい。
「へえ、これがあんたの絵かい」
 松本浩太郎がふいに背後から声を掛けてきた。はっとして振り返る平を松本が鼻で嗤う。
「なんだよ、俺が来たことに気付かなかったのか? 隙だらけじゃねえかよ、平さん。俺が【犯人】でなくて良かったなあ。もしそうなら今ごろ……」
 と、松本はナイフを彼の背中に刺すゼスチュアをしてみせる。しかし平は小憎らしいくらい平然と応じた。
「そうはいかないだろう。ほら、あれを見たまえ」
 平が玄関の方を顎で示すと、そこには千夏と数馬が見えた。こちらを見ているようではなかったが、もし今、平が殺されでもしたら気づかれる可能性大だ。しばらくそちらを見ていると、やがて数馬が館の中に入っていき、少し遅れて千夏も去っていった。
「ほおら、今度こそ二人きりになったぜ。ピンチだなあ、平さんよお」
 と、松本が面白がって平をからかう。しかしまたしても平は動じることはなかった。平は炭を手に取り描くのを再開した。
「やめておけ。少なくとも私が【犯人】ならこんなところで凶行には及ばない」
 平は描く手を止めずに、あくまでもカンバスから目を離そうとしない。そんな自信たっぷり余裕たっぷりの彼に松本は軽い苛立ちを覚えた。
「何でそう言い切れる! 確かにこの庭は広いが、見通しは抜群だ。誰かが陰から見ている可能性は低いんだぜ」
「ほう、ならば、君に2階の様子が見えるかね」
「何?」
 松本が2階を見上げると、そこには当然いくつかの窓が並んでいる。窓は全部で5つ。それぞれ奇数番号の客室の窓である。
「あそこから、見下ろされている可能性もあるんじゃないか。たとえ【犯人】が構成員の動向を【代理人】を通じて把握していたにしても、それは完全にリアルタイムってわけにはいかない。君が【犯人】だとしても、今現在、他の連中がどこにいるのかは把握できていないはずだ。もちろん、それを知るために、各所に配置されている【代理人助手】と暗黙のサインを決めておくという方法はあるだろう。だがしかし、君が今それをしているような素振りは見せていない。これでも一応そのくらいの気配りはしているんだよ、私は」
「ふん、そりゃあ、あっしが浅はかでござんしたよッ」
 非の打ちどころのない理由を聞かされた松本は皮肉のひとつも言ってやるのが精一杯だった。
 確かにこの庭から2階の窓は死角といって差し支えないアングルだ。
 奇数番号の構成員は、ここにいる松本と平。それについさっき中に入っていったばかりの数馬、そして既に退場している伊勢崎美結。平と松本のどちらかが【犯人】でもう一方を手にかけようとした場合、2階のゲストルームから見ている可能性があるのは室町祥兵ただひとり。しかし、彼が今ゲストルームにいないという根拠はどこにもない。なるほど、確かにここで犯行に及ぶのは危険といえた。ちなみに1階の窓の向こうに構成員の姿は見えない。見えるのは【代理人助手】たちだけだ。
「ありがとよ、平さん。それを聞いてなかったら、マジであんたを殺っちまってるとこだったぜ」
「あまりに見え見えのハッタリは見苦しいものだぞ、松本くん」
 と、手厳しくやり返す平。
「でもよお、【代理人助手】とサインを決めておくってのは名案だな。『ゴー』と『ストップ』のふたつ決めておくだけでも、【犯人】にとっちゃかなり有利だもんな」
「なんだ、気付いてなかったのか、君は。私はてっきり皆その可能性くらいとっくの昔に考慮に入れているものと思っていたよ」
「きついこと言うね、お宅も」
 と、苦笑いする松本。
「しかし、サインというものがあるのかどうかは今ところ極めて疑問だな。少なくともそう頻繁には使えないはず。そのサインを誰かに見破られでもしたらそれこそ目も当てられないだろうからな」
「ストラ〜イク、バッターアウト! ってか」
「まあ、そういうことだ。このゲーム、【犯人】を当てるのに物的証拠など要らんのだ。人によっては、あやしいと思っただけで告発してしまう無謀者もいるかもしれない。君などはそういうタイプの最たる者じゃないか」
「ふん、かもな。告発するために徹底的に証拠固めしてたんじゃ、とんびに油揚げさらわれちまうからな。告発するときゃ多少のリスクは俺だって覚悟してるよ」
「つまるところ、【犯人】はとにかく目立たないようにしていることが肝要なわけだ。まあ、少なくとも私ならそう心がけるがね」
「おいおい、まるで自分は【犯人】じゃねえみたいな言い草だな。その手には乗らないぜ」
「ふん、なんなら試しに私を告発してみるか?」
「……くっ」
 松本は返す言葉がなかった。
―――こいつ、俺が告発しないのを見抜いているみたいだな。
 そう、松本浩太郎は他人が思うより慎重な男だった。いや、臆病といった方が正しい。
 彼にはそんな度胸はない。虚勢を張っているだけだ。平は松本をそういう人間だと評価していた。
「それにしても、あんた一体何を描いてんだ?」
 松本が平のカンバスを覗き込んで尋ねる。
 彼の失礼な発言も、ある意味ご尤もな話だった。まだラフデッサンの段階とはいえ、それは誰の目にも奇妙に映ったことだろう。
「これって人を描いてるのか? でも羽根が生えてるしなあ……天使のつもりか? いや待てよ、それにしちゃあ、足がやたら多い。何本あるんだ、これ。胴体もバネみたいに捩れてるし……マトモなのは顔くらいのもんだな……」
 平が憮然として、ずっと動かしていた手をようやく止めた。
「これは羽根じゃない。花びらだ。それに君が足だといっているのは根っこだよ」
 人間と植物の融合体とでも表現したらいいのだろうか。とにかく彼の絵は異常だった。
「まるで、ピカソだな」
 松本には絵の知識が全くといっていいほどなかった。しかし、ピカソくらいは知っている。あの意味不明の絵のどこが上手いのか?あんなものだったら自分にだって描けると、そう思ったものだった。
「ほう……」
 平はピカソという単語に反応し、興味深げに松本に向き直る。
「君は絵に興味があるのか?」
 松本が肩を竦めて答える。
「いや、全然だね。ピカソが描いたっていう訳の分からん落書きのような絵なら見たことはあるけどな」
「松本くん、それは認識不足というものだ。ピカソは幼いころから普通の絵もちゃんと描いている。しっかりとした基礎を持った上で、君のいうところの落書きのような絵を描いているんだよ。ところで、君はピカソのフルネームを知ってるかね」
「えっと、パブロ・ピカソ……じゃなかったっけ?」
「違うな。正確にはパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・バラ・ホアン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダート・ルイス・ブランスコ・ピカソというんだ。彼の生まれたスペインでは先祖の名前を受け継いでいくという風習があって、そのためこんな名前になっているんだよ」
「呆れたな! よくそんな長い名前、そらで言えたもんだ。円周率を暗記するビックリ少年みてえだ。しかしよ、そんな長い名前だとテストのときとか困るだろうな。名前書いてる間に時間切れになったりしてな。しかもその子孫なんかはもっと長い名前ってことになるんだろ。ホント俺日本に生まれてよかったぜ」
 松本はそんなジョークを自分で言って自分で笑っていた。これはかなり虚しいものがある。
 しらっとする平。顔には『不愉快』と書いてある。
 松本はお寒い空気を払拭するかように、わざとらしく咳払いをした。
「……それにしてもお宅、よっぽどピカソが好きなんだな」
「まあ、嫌いじゃないね。彼は色使いにも拘りを見せている。『青の時代』『赤の時代』と呼ばれる作品群がそれだ。私は特にも『赤の時代』の作品が好きでね。私自身も色は赤を好んで使うんだ」
―――嫌いじゃない、っていうよりか相当傾倒してるな、こりゃあ。
 それが松本の正直な感想だった。あんな長い名前をあっさりと言ってのけたくらいだ。よほどピカソが好きなのだろう。
 そんな二人のところへ更にもうひとり、裏庭の方から構成員がやってきた。
 鱒沢遙である。
「へえ、平さん、絵を描くんですか?……でも、なんだか気味の悪い絵ね」
 とまあ彼女の第一声は、松本の評価に近いものであった。
「かなりヘンよ、これ。平さん、一体何を描いてるんですか?」
 かなりヘン! という遙のだめ押しに平はひどく気分を害したようだ。
「別に君たちに認めてもらおうとは思っちゃいないさ。それより遙くん、こんなにあっさりと近づいて来て君も随分と無用心じゃないか。それとも私を容疑者から外してかかっているのかな?」
「ま、まさか!」
 と、必要以上に大きく頭を振る遙。
「この人がいるから来てみたのよ。でなきゃ誰がこんなところに!」
 と、ご指名を受けた松本が目を細める。
「ほほお、平さんは疑わしくて、この俺は安全だってわけか」
「な、何言ってんのよ、あなた! そんなわけないでしょ。あたしは二人とも疑っているわ。ただ、二人が一緒にいるから近づいても安全だと思っただけよ。【犯人】は一人しかいない。だから3人以上で固まっているときが一番安全なのよ」
「ああ、そういうことね。まあ確かにな。でも逆に二人きりになるっては、最も危険だとも言えるぜ」
 松本は意地悪くそう言うと、遙がやってきた裏庭のほうへとっとと歩き出した。
「ほおら、これであんたら二人きりだ。さあ、どうするよ?」
 松本が離れたところから大声で叫ぶ。そして駆け足で裏庭の方に走っていき、ほどなく姿を消した。
 庭には正真正銘、平一と鱒沢遙の二人きりとなった。
「ふん、毎度賑やかな男だな」
 平は悠然と構え執筆を再会した。それとは対照的に遙は急に落ち着きなくなった。その様子から察して、先ほど検証した『2階からの視線』は全く考えにないようだ。
「じょ、冗談じゃないわよ。もお!」
 遙はそそくさと、表玄関に向かって早足で歩き始める。
 別にそちらに用があったわけではない。ただ単に松本の行った方向と逆を選択したに過ぎなかった。こまめに後ろを振り返り、平が襲ってこないよう牽制する仕草も忘れなかった。遙の足取りは自分でも気づかぬうちに早足になっていく。
「不意打ち食らわそうったってそうはいかないわ。そこをちょっとでも動いてみなさいよ。すぐに告発してやるんだから!」
 平は動かなかった。動くつもりもなかった。
―――鱒沢遙か。女性二人が立て続きに退場しているんだ。相当神経過敏になってるに違いない。
「そんなにびくついてたんじゃ長生きできないぞ。どこにも逃げ場はないんだ。どっしりと構えてりゃいいんだよ」
 平は独り呟き、伸びはじめた顎鬚をさすった。
「人間死ぬときは死ぬものだ。決められた運命からはそう簡単に逃れられるものではない。なあ、そうだろう?」
 平一が愛しげにカンバスを撫ぜた。
 カンバスにはまた新たな線が、一本また一本と刻み込まれていく……。


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