第21章


第21章  自決

 8月8日、朝。
 4人とも昨夜からろくに口をきこうともしていない。
 しかし、誰ひとりとして食堂から動こうともしなかった。
 メモを書いたりデジカメを見たりしながら、ひとり考え込んでいる菅野祐介。
 今は落ち着きを取り戻したものの、いくぶん放心状態の森岡千夏。
 正気か狂気か、驚くほど無表情に椅子に座したまま動かないのが鱒沢遙。
 そして……
「一週間だ!」
 檻の中の猿のように、落ち着きなく食堂内をうろついていた松本浩太郎が唐突に喚きだした。
「ゲームの期間は3週間。今ようやっと一週間、まだ3分の1だぜ。どうするよ、おい! 【被害者】の半分以上がいなくなっちまった。こいつはもう、敗色濃厚ってヤツだろうが!」
 両手を広げてアピールする松本に、他の3人はノーリアクション。見事なまでの黙殺に松本の苛立ちは加速する。
「なんだよ、おいッ。どいつもこいつも辛気臭い顔しやがって。みんなもっと言いてえことがあるハズだぜ」
 松本の熱に微かに戸惑いの色を見せる遙と千夏。
 しかし菅野だけは、お得意のポーカーフェイスを崩そうとしない。
 松本は菅野の悪筆でみっしり埋められたメモを乱暴に奪い取った。
「ったく、気にくわねえ! あんたのその余裕はどっから来るんだよ。ここまでヤツらのいいようにやられて、どこに勝算があるってんだ? それともマジであんたが【犯人】なのか」
「呆れるくらい安直だな」
「ンだとお、コラァ!」
 ようやく菅野が面倒くさそうに面を上げた。その目に憤りはなく、あるのはただ憐れみのみ。
「やめてください!」
 千夏が椅子から立ち上がってふたりを諌める。
「今は争っている場合じゃないでしょ! お互いを信じて協力しなければ、この局面は乗りきれない。そんなことくらいふたりともわかってるはずです」
「もちろんですよ、千夏さん。確かに協力は必要です」
 菅野は悠然と頷き、そして注釈をつける。
「ただし、互いを信じる必要なんてない」
「菅野さん、この期に及んでまだそんなこと……」
「まだ行ける。まだ4人いる。4人ならできるんですよ」
 松本が菅野の向かいの席、かつて伊勢崎美結が座っていた席につき、真正面から挑戦的な視線を投げかける。
「なあ、先生。なんで4人って人数に拘るんだよ」
 菅野はその視線を千夏から松本に移して説明した。
「4人いる今なら、無理に信じあわなくとも互いを牽制しつつ守りあうことができる。そう、4人が固まって行動すればいい。ただそれだけでいい。基本的にはこの食堂からは動かず、ひとりずつ5時間半交代で眠る。残りの3人は眠っている者の安全を確保する。【犯人】はひとりしかいないのだから、仮にこの4人の中に【犯人】がいたとしても、【犯人】が誰かを殺そうとしたら、常に起きて見張っている2人と対決しなければならない。これだけ言えばわかるだろう? もうひとりも欠けられない。3人以下ではできない布陣だ。しつこいようだがこのメリットは誰も信じなくても、安眠を手に入れられるということだ」
「それなら私も賛成です」
 と、真っ先にその指に止まったのは千夏である。
 確かに菅野の説に穴はないように思えた。現にこれまで夜の10時から2時間のセーフティータイムを除けばロクな睡眠を得られていないのが現状である。一方、オフェンスサイドの【犯人】はいつでも眠れる立場にあるのだから地力の差は時の経過に比例していくのは必定。
 最初の数日間はみんな会場内を積極的に徘徊していたが、4日目あたりからあまり動かなくなっていた。夏の日差しは嫌味なまでに強く、悪戯に体力を消耗させるだけだったので、誰も外に出なくなっていたのだ。断続的な緊張を強いられ、精神も肉体もボロボロだった。
―――睡眠
 人が生きていくためには絶対に眠らなければならない。そんな当たり前の現実が残された者たちの肩に重くのしかかっていく。
 信じあう必要はないと言い切る菅野の言い草に多少の不満は残る千夏だったが、敢えてそう宣告することで警戒心の強い遙でも同意しやすい心理になっているはず。そう思い直し、彼女はそれ以上追及せずに諸手を上げて菅野の案に従ったのだ。
「あたしもあなたの案に賛成するわ。このままじゃあたし本当におかしくなってしまう」
 と、早速千夏の期待したとおり、遙が賛同の意を示し、どこからか調達してきた錠剤を水とともに飲み下す。おそらく鎮静剤の類いだろう。
 3人が結束すると俄然面白くないのが、あまのじゃく松本である。
「どうも先生の言うことはアヤしいんだよな。これだけゲームを楽しむことに拘っていたあんたが、一転して保守的な案を提示してきた。確かに4人固まって残り2週間を過ごしていれば安全には違いねえ。けどそいつはゲームが始まったときから判ってたことだろう。集団で行動すること、これこそが、てめえの身を守る一番の基本だ。ところがどうだい? 頭では充分承知していても今の今まで誰もそれを実践しようとしたヤツあいねえ! なんでかわかるか? これは理屈じゃねえんだ。息が詰まるんだよ! 理論上は安全とわかってても【犯人】かもしれねえヤツの手の届くところにいるかもしれないという強迫観念に押しつぶされてしまうんだ」
 松本が毒つくも、菅野はあくまで涼しい顔だ。
「そこは割り切ってもらうしかないな。現に今まで退場した人たちは、構成員の誰からも殺 害現場を目撃されていない。逆に言えば構成員たちの目の届く範囲内に身を置いておけば、まずもって安全ということだ」
「でも菅野さん、室町さんは私の目の前で……」と千夏が口を挟む。
「あれは数馬君のときと同じですよ。今回は現場を直接見ることができなかったですが、千夏さんの話を聞いたかぎりでは、あなたが最後に室町さんを見た階段の踊り場、あそこでは既に死んでいたと考えられます」
「あ、でも、首が……」
 千夏は昨夜の惨劇を鮮明に思い出し、こめかみを揉んだ。
「取れたというのですね。それはなんとでもできるでしょう。予め切っておいて、硬直した胴体に乗せておく。あとはタイミングを見計らい【代理人助手】に何らかの方法で遠隔操作をさせればいい。それで首だけが先に転げ落ちる。あなたに与える心理的ダメージは相当大きかったでしょうね」
「ちょっと待ってよ。たったそれだけのために、【犯人】はそんな手の込んだことをしたって言うの? 千夏さんにショックを与えるためだけに? それって死体を出現させるリスクをおかしてまでしなければならないことかしら」と、遙が疑問を提示する。
「そのことについては、以前も遙さんは気にかけていましたね。あのとき、僕が示した見解は今も変わっていません。【犯人】はエスカレートしている。一回一回殺 人を楽しんでいる。回を追うごとに嗜虐的になっていく。僕には室町さんの死に方はこの流れからいってとても自然に思えました。逆に、彼が【犯人】であったとしても実に自然な退場の仕方だったとも言えます」
「ってことは、今回もあたしたちのアリバイは成立しないということね」
「そのとおりです。少なくとも僕は、室町さん退場事件からは何も拾えませんでした」
 千夏が室町の無残な姿を発見したとき、遙、松本、菅野の3人は食堂にいた。予め室町が殺されていたとしたら、昨日の昼食以降夕食以前ということになる。その間であれば、誰もがひとりになる時間があった。
 とは言え、何も拾えるところはないというのは些か乱暴な話である。現に菅野は今までなにやら熱心にメモしていたわけであるし……。
 松本が菅野に食い下がる。
「じゃあ、先生。もうひとつ言わせてもらうぜ。仮にあんたの言うとおり4人固まって行動し、仲良くこのくそったれゲームのエンディングを迎えたとしようか。ってこたあよ、【犯人】も手出しができねえ、身動きが取れねえってことになるよな。要するに【犯人】はもう【被害者】に対して尻尾を出すことはない。それって、あんた流に言えば『楽しめない』ってことにならねえか。【被害者】が守りに入れば入るほど、【犯人】を告発するのは難しいってことになるんだぜ」
「構わないんじゃないか」
「は?」
「これ以上、何人退場しようがヒントは得られないのだからね。僕たちが今までの経験から学んだこと、それは、【犯人】は絶対にミスをおかさないということだ。当初から気づいていたこととはいえ、今まであまりにも蔑ろにしてきた事実……だからかもしれない。【被害者】たちが結託し守りに入るその前に、愚かな【被害者】たちが気づくその前に、可能なかぎり頭数を減らしておこうと、【犯人】は3週間という期間があるにもかかわらず、敢えて急いて事を行った……。【犯人】は手強い。先見の明がある。先の先まで考えて行動している。その上で殺 人を大いに楽しんでいる。わかるだろう、松本君。【犯人】は極めて危険な人物、下手に動いて狩られては、無駄死に以外の何ものでもない。むろん、退場者が増えればそれだけ【被害者】が勝利したときの賞金は高くなる。勝利の付加価値が高まることは歓迎するが、構成員がこれ以上減るのは諸刃の剣どころか、致命的に不利となるだろう。やはり、ここは守備の一手で行くしかない。それしかないんだ」
 菅野の説明に一応は納得したものの、皮肉のひとつも言ってやらねば気のすまない松本。
「攻撃は最大の防御ともいうぜ」
「それでも今は守備だ。さっきも言ったように、4人なら互いを信じることなく守りあえる。疑心暗鬼だけはどうしようもない。それぞれの心に巣食った闇までは他者の手で散らしてあげることはできないからね」
「誰かが告発を成功させるまでは……ってか」
「信じることは、そんなに難しいことじゃありません」
 と、優等生的発言とともに勢いよく立ち上がったのは千夏だった。
「もっと信じましょう。お互いを信じるんです。そうしなければ絶対に乗り切れません!」
 力説する千夏に、菅野は片眉をきゅっと吊り上げ失笑を漏らす。
 松本も同様に呆れ顔。遙も右に同じで反論する。
「そりゃ、信じたいのはあたしだって一緒よ。それができるのならどんなにラクかしれないわ。でもね、いい、千夏さん。10人の中のひとりは確実にウソをついているの。何人もの人を殺めているの。それが誰かはあたしにはゼンゼンわからない。ねえ、こんな状況で誰を信じろってのよ!」
「みんなをです。ここにいる構成員全員です」
「はっ! あなた、やっぱりアタマおかしいんじゃない? そんなの無理に決まってるじゃないのよッ!」
 遙がヒステリックな金切り声を上げるのを松本が制して、
「千夏ちゃんよ。遙さんの言うとおりだぜ。こんな状況でみんなを手放しに信じろなんざ、どだい無理な話だ。あんた、ゲームの始まった頃に言ってたよな。【犯人】さえも救ってみせる、って。それがこのザマだ。まあ、誰も殺られねえうちは見えない【犯人】に情で訴えるって手もアリだったかもしれねえ。けど今はもうダメだ。あんたがナニほざこうと【犯人】は耳を貸しちゃくれねえよ。ここで誰かを信じるのは、みすみす殺されるのを待つようなもんだ」
 と、珍しく仲裁役に回るも、ガラにないと思い直してか菅野に下駄を放る。
「なあ、先生からも何とか言ってやってくれよ」
 そこで菅野はふと思いたったように3人に均等に問いかけた。
「ところで、みなさんは花さかじいさんの話を知ってますか?」
 突然ナニを言い出すんだ。あまりに脈絡のない話題に松本が半ば怒気を含めて答える。
「あのなぁ、ンなもん誰だって知ってらあ。子供の頃に絵本か何かで見聞きしてる。で、それがどうしたってんだよ」
[じゃあ、松本君、どんな話だったかまで詳細に覚えてるかい?」
「どんなって……正直じいさんの飼い犬が裏の畑でここ掘れワンワン、すると、小判がザックザク、ってやつだろ」
 口を尖らせつつも律儀に答える松本。遙が戸惑いながらその後を受ける。
「隣りのおじいさんがその犬を強引に借りてきて、同じように犬が吼えたところを掘ってみると、貝殻とか欠けた器とか、とにかくそういうガラクタみたいなものが出てきたのよね」
「それからどうなりました?」と、先を促す菅野。
「たしか、怒った隣りのじいさんが犬を殺してしまったんじゃなかったっけ。そんでまあ、なんだかいろいろあって、最後は正直じいさんが殿様の前で枯れ木に灰を撒くと花が咲いちまったんだよな。で、正直じいさん、褒美をもらう、と。うまいことやったってわけだ。かたや隣りのじいさんも、やっぱり正直じいさんに倣って灰を撒くがゼンゼン花など咲かなかったとさ、ってか」
「松本君、それはずいぶん端折りすぎだな」
「粗筋はそんなもんだろ。要は、『正直者は得をする。性悪者は損をする』ってことを言いてえんだよな。現実は逆なのによ」
「あたしも同感だわ。そんないい加減なことをまことしやかに子供に話して聞かせる親たちこそ性悪よね」
「教育論は一旦置いといて、ひとつ訊きますが、最後に正直じいさんが撒いた灰は元来なんだったか覚えてますか?」
「だから、その飼い犬だろ。クワで撲殺されたイヌコロを火葬して手厚く葬ったじいさんが、その灰を取っていたというわけさ」
「ううん、たしか犬は隣りのじいさんに焼き殺されたのよ。その灰を正直じいさんが持って帰る道すがら、灰を入れた袋に小さな穴があいていて、そこからこぼれた灰が道端に花を咲かせていったとか、そんな話じゃなかったかしら」
 松本と遙が協力して『花さかじいさん』の物語を構築していくが、まだまだ不完全のようだ。
「まあ、昔話なんていろんなバリエーションがありますからね。それを全部否定するつもりはありませんが……千夏さんはどうです。なにか付け加えることはありますか?」
 千夏はしばし考えて、
「すいません。よく覚えてません。でもたぶんおふたりの言ったような話だったと思いますけど……」
 菅野は悠然とコーヒーを啜り、天井を見上げた。
「記憶なんて実に曖昧なもの。そして自分の都合のいいように簡単に塗り替えられてしまうもの」
「はあ? ナニ言ってんだ、おい」
 松本の声がまるで耳に入っていないかのように菅野は続ける。
「たしかに今の話でもストーリーはどうにか自然につながっていきそうですが、一般的な花さかじいさんの物語はそれでは不完全です」
「え、花を咲かせた灰って、犬の燃やされた後の灰じゃないの?」と、遙が問う。
「間接的にはそうともいえますが、しかし元来は違います。あの灰は臼を焼いたことによりできたものなんです。順を追ってお話ししましょう。正直じいさんが犬の申し出で掘ったところに小判が出る。かたや隣りのじいさんが同じことするが小判は出ない。隣りのじいさんは怒りに任せて犬を殺し、正直じいさんは犬の骸を埋葬し、そこに木を植える。木はみるみる生長し、やがてその木を切って臼を作る。そして、その臼をつくとまたまた小判が出てくる。隣りのじいさん、臼を奪い同じようについてみるもやはり小判は出てこない。またまた怒った隣りのじいさん、臼を燃やしてしまう。正直じいさんはその灰を持ってかえり、それが花を咲かせる不思議な灰であることを知る。正直じいさんは花さかじいさんと評判になり殿様に認められ褒美をもらう……」
「ああ、言われてみればそんな話だったかもな」
「隣りのじいさんは、またしても正直じいさんの真似をして褒美を貰おうと殿様の前で灰を撒いてみせるが、花が咲くどころか殿様たちの目に灰が入って逆鱗に触れてしまう。憐れ、隣りのじいさんは殿様の家来たちに囲まれてメッタ切りにされる。そして極めつけが実にシニカルなラストシーン。褒美を持って帰るのを今か今と屋根の上で待っている隣りのばあさん。遠くに見える血まみれのじいさんを見て、赤い衣を頂戴してきたのだと跳びはねて喜ぶ……」
「シニカルっていうか、ちょっと子供には残酷なオチね」
「正直者は得をする。性悪者は損をする。松本君はさっきそう言いましたね。だけどこの話にはそれだけではない、いくつかの教訓が含まれているとは思いませんか?」
「教訓ですか……」
「そう、まずひとつめ、2番煎じは成功しない。犬、臼、灰と、隣りのじいさんは3度に渡って正直じいさんの真似をし、ことごとく失敗している。楽して富は得られない。そしてそういう人間には生きる価値もない」
「辛辣だね、さすがに子供はそこまで深読みしないだろうがな」
「次に、欲の皮が厚い者には冷静な判断はできない。これはくだんのラストシーンでの隣りのばあさんの行動から読み取れますね」
「それって、もしかして俺のこと言ってんのか? なあ、あんた結局何が言いたいわけ?」
「ここで僕が強調したいのは3つめです。正直じいさんは本当に得したのか、ということ。答えはノーですね。正直ゆえに犬をみすみす見殺しにしてしまった。隣りのじいさんが侍たちにリンチを受けたのだって、本人のせいばかりではない。正直じいさんのデモンストレーションがあったからこそ、それを知ったからこそ、あんなありえない摩訶不思議を殿様の前で自信たっぷりにやってみせたのです。つまりここでの教訓はこれです」
 菅野がペンでメモを突いて宣言する。
性悪者は損をするが、それは自業自得。正直者も損をするが、往々にして罪のない何者かを巻き込んでいる
「そいつは、さすがに、こじつけっぽいんじゃねえか」
「ああ、確かに君ならそう思うだろうね。僕だって同じだ。だが皆が皆そう思うわけではない。そうでしょう、千夏さん?」
 千夏は俯いたまま固まっている。
「あなたには僕の言わんとしていることが痛いほどわかるはずです。軽々しく人を信じ、薄っぺらな正義を貫き、勝ち目のない戦いに挑むことを美徳とさえ感じている。あなたは、そうやって何匹の子犬を見殺しにしてきたんですか」
 千夏の上げた面が蒼白に歪んでいる。
 菅野の十八番、皮肉攻撃炸裂だ。れいによってれいのごとく随分と遠まわしな皮肉である。それだけにじわじわ効いてくる精神的ダメージ。
「わ、私は……」
「そろそろ、目を覚ましてもいい頃じゃないんですか? あなたは今までに充分な犠牲を払ってきたのですから」
「おい、ちょ、ちょっと、待てよ!」
 慌てて呼びとめる松本に菅野が振り返る。
「なんだ?」
「あんたの言ってること、めちゃくちゃだぜ。飛躍しすぎにもホドがあらあ。すると何かい? 今まで死んでいった連中は全部千夏のせいだっていうのか」
「みんなそう言ってきたじゃないか。君だってそうだ」
「罪の告白のことか。そりゃ、俺だってそいつにはムカついてる。けど、理論派のあんたがそんなふうに言うのはどうも解せねえな。偶然が重なりすぎて気味は悪いが、やっぱりあれは偶然だぜ。百歩譲ってそれが必然だったとしても、罪の告白をしていったのは全部退場した連中だ。千夏に強制されたわけじゃねえ。そこに千夏の故意が入り込む余地なんてねえんだよ」
「それ、千夏さんの口から聞きたかったな」
「へ……」
 いたずらっ子のように笑う菅野が、拍子抜けする松本をペンで指す。
「君だって理論的に物事が考えられるじゃないか。そう、理論、理屈が大事なんだ。君の言うとおり退場者が全員、千夏さんに罪の告白をしているからといって彼女を責めるのはお門違いもいいところ。それと同じなんだよ。他の構成員を信じることはあまりにも理に適っていない。何を根拠に周りの人間を信じろというんだ? 僕は信じることを否定しているわけじゃない。あなたたちが【被害者】である客観的事実さえ提示してもらえれば、僕はいつだって信じる用意はあるんだ」
 千夏は何も言えなかった。菅野の言っていることはいちいちご尤もだ。彼女は、松本のように菅野に対する敵愾心や嫌悪感をもつことはなかったが、彼の言葉から己に対しひどく重圧を感じていた。
 ああ……
 なんて、自分は無力なのか……。
 そう思いながらも、強烈な睡魔に視界がぼやけてくる……。


 午前11時30分、食堂。
 娯楽室から運んできたソファの上で、遙が軽い寝息を立てている。
 遙は、菅野の作った阿弥陀クジで「1番」を引き当てたのだ。
 松本がメモ用紙に書いた割り当て表を見ながら欠伸をかみ殺す。

 
 11:00〜16:30   はるかがねる
 16:30〜22:00   かんのがねる
  ※ 22時までに部屋に戻る
 22:00〜 0:00   3号室で待つ
  ※ 0時ジャストに食堂に行く
  0:00〜 5:30   オレがねる!
  5:30〜11:00   ちなつがねる

「くそっ、俺の番まであと半日以上もあるのかよ。たまんねえな」
 ぼやく松本の前に缶コーヒーを差し出した菅野が厳しい口調で言う。
「今までは自由勝手に眠っていたが、これからはそうはいかない。自分の持ち時間以外は絶対に眠ってはいけない。それがルールだ」
「おいおい、もう規則はたくさんだぜ」
 と、毒つきながら松本はコーヒーに口をつけた。
「いずれにせよ、君が最も得なクジを引いたんだから、あまり文句を言わないことだな」
「あぁ? なんでだよ。千夏よりは早く寝れるから得ってのはなんとなくわかるけど、他のふたりよりは明らかに損だろうがよ」
「そうでもないんだ。ま、一周してみればイヤでもわかる」
「時報ですね」
 千夏も眠たげな目を擦りながら会話に入ってくる。思考能力が確実に低下していた。早く眠りたい。それが彼女の正直な気持ちだった。だからせめて会話に参加することで眠気を払おうとしていた。
「松本さん以外の3人が眠っている間に時報が2回鳴ります。いずれも昼、夜、朝の食堂でのタイムチェックのための鳩時計です。菅野さんが言いたいのは、この時報で一旦起こされてしまうぶん深い睡眠が取れなくなるということじゃないですか」
「なんでえ、そんなことかよ。だったら耳栓でもしときゃあいいだろ」
「簡単に言ってくれる。だがそこまで無防備にはなれない。さすがにそれはできない」
 と、菅野が悔しそうに首をふる。
「まったく、君はツイてるよ」
「よく言うぜ。そんなこと言いながら、どうせまた何か企んでんだろ。このまま、ずっと守り一辺倒と見せかけて反撃に転じるチャンスを窺っているんじゃねえの」
 しかし、菅野は片眉を吊り上げてみせただけで、なんら答えようとはしない。
「へっ、自分で考えろってか」
 松本は腕組みをし熟考した。
 このゲーム、誰が最も【犯人】に近いのか?
 この不愉快極まりない一週間を振り返りながらひとりひとりの姿を思い描く。
 第1の退場者 石田サチコ
 一見マトモに見えるが、足が不自由というハンデを背負いながら、あのばあさんはなぜこのゲームに参加したのか。懺悔のため? 冗談じゃない。このゲームに参加するには誰かを殺めるだけの覚悟が必要だ。千夏のように積極的にゲームを阻止しようとしていたとも思えないし。なにかキナくさい。
 第2の退場者 伊勢崎美結
 こぶた……あいつもどこか壊れていた。誰よりも勝利そのものに拘っていた。金ではない何かを求めていた。屈折した心を持つ女。慎重な女だと思っていたが、ああもあっさりと退場するとは。まあ、それが逆に解せない部分でもある。あいつを容疑の圏外に置ける決め手は何もない。なにかアヤしい。
 第3の退場者 螺子目康之
 初めて告発に挑んだ、言わば運を天に任せた男。9分の1の確率に賭けた男。螺子目のおっさんは金に固執していた。流れに逆らえない意志の弱さを持つ男といった印象だったが、最後は流れに逆らい、己の意思で告発してみせたくらいだから、そうとも言いきれない。【犯人】として退場するならば、俺だって告発するふりをしてそのまま部屋に留まることを選んだと思う。それによって、自棄気味に告発しようとする【被害者】に牽制球を投げることができる。現にあれから誰も告発してねえし。とにかく、【犯人】にとっちゃ、マグレ当たりより怖いものはないんだから。
 第4、第5の退場者 平一、堀切数馬
 なぜ2人同時なんだ? あのときは一日一殺というバカな考えが頭をよぎったりもしたが、まさかそんなことはあるまい。ま、それはともかく、ふたりの退場は今までとガラッと様子が違っていた。ふたりとも俺たちに死体を晒していたのだ。死体なんて、そうそう見るもんじゃないが、あれが生きてるものだとは到底思えない。とくにも堀切数馬のバラバラ死体! しかし矛盾するんだ。そう思う自分が矛盾する。死体を発見されるのは【犯人】にとって著しく不利のはず。実際のところ俺は直接死体を見たこのふたりを半ば容疑者から除外しようとしている。しかしそれも【犯人】によるブラフなのか? 偶然見つけられたのならともかく、どちらの死体もわざと俺たちに発見させたふしがある。【犯人】の意図するところは何か? 恐怖心を煽るため? ただそれだけのためにそんなリスクをおかすものだろうか……。
 第6の退場者 室町祥兵
 先の2人を急いて始末したあとで、自分が死んだふりをしたのか? 俺は直接死体を見たわけじゃないが千夏が見ている。あいつが【犯人】なら残された夥しい血はどう説明する? 千夏の話では突然首がもげたというが、やはり【犯人】は数馬の時のように、あらかじめ切っておいたんだろうか? それにしても4人目から一気に猟奇性が高まったのはなぜなのか? これによる【犯人】のメリットといえば、恐怖の植付け、ペナルティの誘発。けど、それもどこか無理がある。一言でいえば手ぬるい。回りくどいのだ。
 鱒沢遙
 正直なところ、ちょっと怯えすぎな気がしないでもない。そのわりにはひとりで行動をすることが多かったし。怖ければ集団の中に身を置きたがるのが普通の心理じゃないのか? 今だって、こうして安心しきった表情で眠っているじゃないか。誰も信用できないからひとりでいるというのも理にかなっていると言えなくもないから、まあ結局、人それぞれということか。特にも、こんな極限状態に置かれていては、彼女の反応こそが実は一番真っ当なのかもしれない。ただ、俺の直感はこう言っている。彼女は【犯人】ではない。なんの根拠もないが、とにかくそんな気がするんだ。
 森岡千夏
 俺的には、こいつが大本命だ。今、告発するとしたら俺はこいつの名をあげる。千夏に罪の告発をして退場していく構成員たち。とんでもなく妙な法則だ。【犯人】の意思ではどうすることもできない偶然の積み重なり。いや、こんな偶然があるもんか! しかしそれも千夏が【犯人】だったなら必然たりえる。とはいえ、メリットらしきものが何もないが……。それでもやっぱり、俺の直感は主張する。【犯人】は森岡千夏だ、と。だってそうじゃねえか。世の中、そういうふうにできている。一番善人ぽく見えるヤツが実は一番腹黒い。善人なんてどこにもいやしない。いるのは偽善者ばかりだ。この女もまた例外じゃない。
 菅野祐介
 こいつだけはわからねえ。こいつが【犯人】だったとして、その手際よさ、抜け目なさは賞賛に値する。だが、少しお喋りが過ぎる。そこはマイナスポイントだ。人は嘘をつくとき饒舌になるもんだ……なんつって、実のところ、俺はこいつを全くといっていいほどを疑っていない。遙さんと同じくちゃんとした根拠があるわけじゃないが……。
 松本浩太郎
 一応、俺も容疑者か……ってアホか! 自分が【犯人】じゃないことは自分が一番よく知っている。
 自分が一番よく……
 自分自身が……
 知ってる……
 ハズ……
 ……


「うわっ、な、な、なにごとだァ!」
 突然、耳朶に刺激を覚えた松本が飛び跳ねた。
 すぐそばでは、菅野が冷ややかな視線を向けている。
 千夏もまた、苦笑交じりで松本を見ている。
「眠るなと言ったはずだ」
「え……俺、寝てたのか?」
「ああ、呼びかけても返事をしなかった」
 どうやら、いつの間にか船を漕ぎ出した松本の耳に、菅野が息を吹きかけたらしい。驚いて目覚めるのも無理もない。
「でも、ほんの数分だったから」
 千夏が穏やかな口調でフォローする。窓から差し込む逆光ではっきりと表情は読み取れないが、松本には千夏が無理に笑っているように思えた。
「それより、遙さんが起きなくて良かったです。先は長いですから、今はじっくり休養を取ってもらわないと」
「お騒がせして悪うございましたね」
 松本が嫌味ったらしく舌を出す。
「ああっ、くそ、まどろっこしいな」
 言われたばかりなので、遙を気遣い抑え目の声でそう言うと、松本は立ち上がってファイティングポーズを取ってみせた。
 それはまるでボクシングのタイトルマッチのポスターのようにサマになっていた。
「おいッ、【犯人】! どっからでもかかってこいよ。俺は逃げも隠れもしねえぜ」


「おかえりなさい、チナツ。久しぶりじゃないの」
 母が私を玄関先で出迎える。
「久しぶりって……たった2週間じゃない」
「2週間も家あけたら、久しぶりよ。ねえ、ちょっと顔色悪いわよ。仕事忙しいの?」
「うん、一応ね。でも平気。身体のほうはなんともないよ。それよりお母さんは……」
「え、私がどうかした?」
「ううん、なんでもない」
 誤魔化すように笑う私。お母さんには自分が病気だという自覚がないのだ。
 リビングに行くと、父は相変わらず苦虫を噛み潰したような表情で、ソファに凭れて新聞紙とにらめっこ。
 西洋人のようにほりが深く整った顔立ちも、あのぶっちょう面では台無しだ。
 一瞬、父と視線があった。
 その表情には怖れと憐れみが色濃く滲んでいる。
 私と目が合うと、父はすぐ新聞に逃れた。
 父は新聞紙に向かって小さな声でぶつぶつ言う。
「どいつもこいつも……」
 ころころと太った母が、「ご飯、もうすぐできるからね」と、取り成すように言う。
「チナツ、お姉ちゃん呼んできて。最近、あの子さっぱり口きいてくれないの。反抗期って年でもないのにね」
 えっ、お母さん、ナニ言ってるの? 私、お姉ちゃんなんていないよ。ひとりっ子だよ。
「チナツは、ほんっとお姉ちゃんっ子だったものね。もうこんな小さい頃なんてね、どこに行くにもお姉ちゃんお姉ちゃんって……」
 そうか、また母の病気が出たんだ。妄想癖だけじゃない。夢遊病、過眠症、過食症。一時期は酷くて、看病する私のほうもかなり参っていた。近頃は良くなってきた思ってたのに……。
 医者はストレスが原因だと言ってたが、何が母をそうさせているのか、私には皆目見当がつかない。
「ほら、お姉ちゃんが小学校の入学式の日、チナツったら、私もお姉ちゃんと行くって駄々こねてねえ……」
 だから、私には姉なんていないんだってば!
 母に導かれて奥座敷に進む私。
 お香の匂いが鼻腔をくすぐる。
 小さな仏壇にお供え物。
 誰の仏壇?
 まさか、母の言う存在しない姉の……
 その中央に据えられた写真立てに目を奪われる。
「なんで……」
 なんで、私が写ってるの!
 私、死んでない。
 ここにこうして生きている。
 母はへらへら笑ってる。
 母娘の足元に長い影が伸びる。
 振り返ると、襖を開けて父が立っていた。
 だらりとおろした右手には新聞紙がぶら下がっている。
 典型的な休日パパといった出で立ちの赤いカーディガンの父。
「母さんは、まだ病気が治ってないんだ」
 父がうな垂れている。
 そうね、お母さん、まだ完治してないみたいね。
「そして、お前も……お前まで壊れてしまったんだな」
―――えっ!


「ねえ、チナツ」
「なに、お姉ちゃん」
「昔さ、よくふたりで遊んだよね。日が暮れるまで時間を忘れて」
「……どうしたのよ、急に」
 チナツは椅子を回して姉に向き直った。
 あまりに邪気のないまっすぐでまぶしい視線に彼女は思わず瞳を逸らす。
 彼女とチナツは一歳違いの姉妹。
 ふたりは双子のようにソックリだった。
 しいて違いを挙げるなら髪型くらいのもの。彼女はショートカット、チナツは肩まで届くセミロング。
 しかし、外見は同じでも、中身はむしろシンメトリー。さながら天使と悪魔であった。
 妹のチナツは優しくて、賢くて、芯が強くて、しっかりもの。
 一方の姉は、その反対。女の武器を活かして楽しくラクに生きている。刹那的で快楽主義。計算高く、プライドも高い。
 介護福祉士の資格を取って、儲かりもしないキツいだけの老人の世話だなんて、なんて愚かな生き方だろう。彼女は妹のことをそんなふうに思っていた。
 なのに彼女は、チナツを前にするとどうしようもなく心がざわめいた。
 コンプレックスだと気づく自分とそれを否定しようとする自分……ふたりのジブンがそこにいた。
「覚えてる、チナツ。ふたりでお店屋さんゴッコしたの」
「あっ、懐かしいね。原っぱで見つけた白い石とか、ジュースの王冠とか、そんなのを商品に見立てて物々交換とかして」
「あの頃は良かった。父さんも母さんも私たちを分け隔てなく愛してくれた」
「お姉ちゃん……?」
「あなたは学校の成績も良くて、明るくて、友達もいっぱいいて、いつも中心で輝いていた」
 交換しよう、チナツ。あなたの名前、私に頂戴。
「やだな、そんなことないよぉ」
 その明るさは罪。あなたが輝けば輝くほど、煌けば煌くほど、私は影となる。
 強い光に照射され、地べたに這いつくばる影。
 ただ黒いだけの実体のない存在。
 たとえ、その存在が消えても誰も困らない。誰にも気づかれない悲しいさだめ。
「冗談なんかじゃないわよ。私はダメな子。できない子なの」
 交換しよう、チナツ。あなたの身体、私に頂戴。
「いつからだろう。チナツばっかりが、ちやほやされるようになったのは」
「ね、お姉ちゃん、何言ってるの」
「一生懸命勉強したのに大学の試験落ちたのも、一生懸命就職活動したのにことごとく不採用通知なのも、親にまで紹介して結婚を考えてた彼に捨てられたのも、携帯のメモリーばかり多くて親友と呼べる友達がひとりもいないのも、テレビの星占いとかで一度も一位になれないのも、後で食べようと思って冷蔵庫に入れておいたケーキがいつの間にか食べられちゃってるのも、全部全部、私のせいなの。どうしてよ、どうしてチナツばっかりがうまくいくの!」
 交換しよう、チナツ。あなたの心、私に頂戴。
「お姉ちゃん、おかしいよ。だいたい私の人生なんてちっともうまくいってないじゃない」
「そんなことはない。あなたはお金では買えないものをたくさん持っている。そういう星の元に生まれたのよ。あなたも私も」
「やめてよ。羨ましく思ってるのは私のほうだよ。だって、お姉ちゃんは……」
「ラクばっかしてるものね。でもそんなの当然じゃない。どうせ私なんて何やってもダメなんだから」
「そうじゃなくて……」
「ああ、わざわざ否定しなくていいよ。それもチナツなりの優しさだものね。自分だけ幸せになるのは堪らない。だからワザとイバラの道を選ぶ。ほんとご立派。人間ができてるわ、私と違って」
「買い被りだよ。私、そんなつもり全然……」
「でもね、チナツ。よく覚えときなさい。優しさはときに人を傷つけるものなの
 交換しよう、チナツ。あなたの全部、私に頂戴。


「お前はチナツじゃない。チナツは死んだんだ」
 赤いカーディガンが何か喋ってる。
「お前はチナツの姉だ。なぜそんなマネをする」
 ゆっくり歩み寄るカーディガン。
 ナニ言ってんだろ、こいつ。
「髪までのばして、チナツに似せて、お前、一体どういうつもりなんだ? チナツは一年前に死んだんだ。殺されたんだよ」
 黙れ、新聞紙。クソ黙れ、新聞紙。
「確かに俺も母さんもショックだった。親として当然だ。成人したばかりの娘があんな死に方をしたら悲嘆にも暮れる。だがな、俺たち家族は乗り越えなければならないんだ。いつまでも過去にしがみついていては、死んだチナツが一番悲しむだろう」
 こいつ、新聞紙の分際でよく喋る。
「チナツのことを忘れろと言ってるんじゃない。だが、何もお前がチナツになることはないだろう。そこまでなりきる必要がどこにある。チナツと同じ仕事について、今じゃ性格や話し方まで瓜ふたつ。まるでチナツそのものだ。常軌を逸脱してる。まあ、気づいたときにはもう手遅れだったがな……」
 私のすぐ目の前で立ちどまり、ぽろぽろ涙を流すカーディガン、もとい新聞紙、もとい……お父さん。
「わかってる。お前は本当に優しい子なんだ。母さんのためにやったことなんだろ。母さんを悲しませたくなかったから、チナツのふりをしていたんだよな」
 父の手が私の肩に乗る。母は軽く首をかしげ不思議そうな眼差しを私たちに向けている。
「どうして泣いてるの、あなた」
「もういいんだ。お前はお前でいいんだ」
「違う、そうじゃないよ、お父さん。私がチナツだよ」
 お姉さんなんてはじめからいなかったの。
 妹を殺そうとした姉なんて要らない。
 姉は最初から要らない子だった。
 私自身も彼女の存在を否定した。
 だから消えてもらった。
 その代わりにね、神様にお願いして、チナツを……みんなから愛されているチナツを復活させてもらったの。
 人は実体がなくちゃ生きてはいけない。
 でも、影くらいなら消えてなくなったって生きていくのになんの支障もない。
 そういうことよ。


「あら、これってすぐ近くじゃない?」
 母が洗濯物を畳みながら見ていたテレビのニュースに思わず声をあげた。
「なにかあったの」
 珍しくウチにいた私がそう尋ねながらテレビに目を向ける。
「通り魔殺 人?」
「そう、ついさっき。2時間前だって」
 テレビの画面のすみっこに「LIVE」の文字が踊り、たくさんの報道陣の中、黄色いテープが張りめぐらされた向こうで警察官が立っているのがみえる。
「ふたつ先の駅よ。世の中物騒ね」
「現在逃走中、周辺の住民は気をつけて、だって」
「ね、チナツ大丈夫かしら。まだ仕事から帰ってないのよ」
「うそ、こんな時間まで仕事! 介護の仕事も楽じゃないわね」
 夏とはいえ、もう午後7時を回っている。外は随分暗くなっていた。
「でも、今はあれだけ野次馬がいるんだから逆に安全なんじゃないのかな」
「そんな呑気なこと言って。あなたお姉ちゃんでしょ、心配じゃないの? 犯人、電車で逃げた可能性が高いって言ってるじゃない。チナツと同じ駅で降りたりして、しかも夜道でばったり会ったりするかもしれないじゃないのよ」
「落ち着いて考えてみてよ、お母さん。電車で逃げたのなら、なおさらでしょ。どうして犯人が、現場からたった2駅のこんなところで降りたりするのよ。普通ならなるべく遠くへ逃げようとするハズよ。もう2時間もたってるんだからもう相当遠くまで逃げちゃったんじゃないの」
「だったらいいけどねえ」
 母は眉間に皺を寄せ心配げにしている。もしも、チナツと私、逆の立場だったら母はこれほど心配してくれていただろうか……。
「ねえ、チナツそろそろ帰ってくるころよね。事件のこと知らないといけないから電話しておいてよ」
「わかったわよ。それでお母さんの気がすむならね」
「誰か職場の人とかと一緒に帰ってきなさいって言うのよ。なんなら駅まで迎えに行くからって」
「はいはい、承知しました」
 今夜チナツがその通り魔に襲われる確率なんて、ものすごく低い。ほとんどゼロに近いだろう。そんなことをわざわざ注意するくらいなら、車に気をつけて帰ってきなさいと言った方がよっぽど現実的だ。
 結局、私は電話しなかった。
 むろん、わざわざ電話するまでのことではないと思ったからだ。
 でも、本当はそれだけじゃない。
 ゼロに近い確率だからこそ軽い気持ちで念じたんだ。
 チナツなんか、死んじゃえ!……と。
 醜い私はそう念じた。ほんの一瞬だったけど確かにそう念じていたのだ。
 そして、それは現実のものとなった。
 その夜、チナツは帰ってこなかった。
 妹が刺殺死体で発見されたのは、翌朝未明。
 くだんの通り魔殺 人による犯行だと、警察は断定した。
 自宅からわずか数百メートルの誰も通らないような細い路地裏で、チナツは見知らぬ男の手によってその身体を切り刻まれたのだ。


(やっと全部思い出してくれたみたいね)
―――お姉ちゃん!……それともチナツなの?
(そんなのどっちだっていいじゃない。大切なのは私たちが今もこうしてつながっているということ。そう、私たちはみんな一本の線で繋がっているの)
―――以前にも聞いた言葉だ。あの時は構成員10人のことを言ってると思ってたけど、そういう意味じゃなかったんだ。
(いいえ、別の意味で、他の人たちともあなたはつながっているのよ)
―――それって……
(10人の共通点よ。拍子抜けするほどシンプルなあなたたちの共通点。あなたは会ったことがある、別の場所で。ああ、でも気づかないからこそゲームが成立してるとも言えるのかな)
―――そう、私はこのゲームを妨害したいだけなの。
(それで禊ぎのつもり? いくらきれいごと並べたって、あなたも人殺しなのよ。あなたが生き続けるかぎりチナツは穢れつづける。そして私もずっとこうして宙ぶらりんのまま……)
―――あなたはチナツじゃない。チナツはそんな言い方しない。
(だから自分がオリジナルだとでも言いたいわけ? 私は幽霊やお化けとは違う。私はあなたが生み出した妄想、言わば影。あなたでもない、ましてやチナツでもない)
―――私は、私はどうしたらいいの……ねえ、教えて。あなたは私なんでしょう。どうしたらいい? 私は……どうしたら……


 目を開くと、松本、遙、菅野の3人が彼女を覗き込んでいた。
「大丈夫か? なんだか、すげえ、うなされてたぞ」
「千夏さん、厭な夢でも見たの?」
 ……夢?
 半身を起こす彼女の背中は汗びっしょりだった。
「もう少し眠りますか」
 菅野に問われて時計を見ると午前10時前。あと一時間は眠ることができるが、彼女はソファから身を起こして言った。
「いえ。もう充分に眠りましたので」
 とりあえず、これで菅野の提唱する交代制睡眠は無事ひと回りしたことになる。
 しかし、彼女は久しぶりにゆっくり眠ったというのに、むしろくたくたに疲れ果てていた。
 なんてことだ。
 あれは夢なんかじゃない。
 全ての封印が解けたんだ。
 全ての記憶が回復したんだ。
 私は森岡千夏ではない。
 私はチナツの姉だ。
 そうだ、私も人殺しなのだ。
 あの日、チナツに電話を入れていれば、彼女は死ななかったかもしれない。
 あれからすべてが狂い始めた。
 妹のチナツが死に、母が精神を病み、看病に疲れた父は蒸発。
 そして、母も今はこの世にいない。風呂場で転んで頭を打ってそのまま逝ってしまったのだ。
 正真正銘天涯孤独。
 私は家族の全てを失った。
 自分の記憶はいつの間にか緩やかに封じられ、今の今まで自分がチナツだと信じて疑わなかった。
 それが、このゲームが始まって以来、時々聞こえてきた幻聴に惑わされはじめた。
 そして、少しずつ思い出してきた。
 姉の存在を思い出し、自分こそがその姉であったこと、チナツはもう死んだことを思い出していた。
 私はこのゲームに感謝しなければならない。
 一番大切な自分自身を……本物の記憶を取り戻すことができたのだから。
 もうやめよう、いや、やめなければならない。
 これ以上、チナツを演じつづけることは死者への冒涜。
 それに愛する妹を2度も死なせるわけにはいかない。
 彼女は無意識のうちに胸のペンダントを握りしめていた。
 さようなら、チナツ、偽りの私。
 ここから先は『私』として生きよう。
 そもそも私は、このゲームに参加し、他の人を本気で救いたいと思っていたのだろうか。
 わからない……。ただひとつ言えることは、少なくともチナツならきっとこうしたであろうということ。
 私がこのゲームに参加したのは、こうすることで少しでも彼女に近づきたいという思いが意識の根底にあったからなのかもしれない。
 でも、今は違う。『私』は『私』として、このゲームを妨害する。いや、してみせる!
 ふと、菅野の言葉を思い出す。
「神に祈ること。それがあなたにできる唯一の救いです」
 みんなを助けるなど、はじめから無理だと?
 冗談じゃない!
 なにかないの? なにか……。
 せめて、このゲームの流れだけでも変えてやりたい。
 こんなことが赦されてはいけないんだ!
 彼女は、訝しげに見守る松本たちに目もくれず、規則を読み返した。
 何度も何度も穴があくほど読み返した規則の書かれた紙はもうしわくちゃだ。
 やがて、彼女は規則のとある項目に目を留めた。
 そして、室内に設置されたカメラを見た。
 次に、空気のように存在を消している山口代理人を見る。
 彼女の脳髄に衝撃が駆け抜けた。
 これだ! これしかない。
 やるんだ! やるしかない。
 私にできること、せめてこのゲームを終わらせること。あとのことはわからないが、きっと誰かがうまく動いてくれる。
 そう信じて……。
 やるしかないんだ! 一刻も早く、残っている人たちだけでも助けるために。
 このまま残り2週間、平穏無事に過ごせる保障などどこにもないのだ。
 私がこのゲームに幕を引く。
 私がこのゲームを終わらせる。
 きっと終わる。いや、絶対に終わる!
 チナツ、寂しい思いをさせたね。
 今からそっちに行くね。
 どんなに曖昧で不確かでも、この記憶は……この想い出は本物。
 少なくとも私にとっては誰にも侵されない心の闇を照らしだす光。私だけの宝物。
 そして彼女は、妹とともに夕暮れまで時間を忘れて遊んだ日々を懐かしく思い描いていたのだった……。


 8月9日午前10時、食堂。
「みなさんにお話したいことがあります」
 決意を固めた千夏は、むしろ晴れ晴れしい表情で3人の構成員を見渡した。
「実は、私も人を殺しているんです」
「な、なんだと!」
「一体、あなた、誰を……」
 色めきだつ松本と遙。
 菅野だけが表情を変えず、両手を前に組んで聞く姿勢をとった。
「私が殺したのは、森岡千夏という女性。私の妹です」
「ま、待て、千夏。お前が森岡千夏だろ」
 松本が狐につままれた顔で問うと、千夏は胸のペンダントを外して松本に渡した。
「なんだよ、これは」
 渡された銀の鎖のペンダント。その先にはロケットがついている。千夏の承諾を得て開けてみた松本が露骨に顔をしかめた。興味をひかれた遙がおそるおそる後ろから覗きこむ。
「これ、お前の写真じゃねえかよ」
 改めて写真と実物を見比べる。やはり同じ人物だ。少し若く見えるのは2、3年前の写真だからであろう。彼はそう思った。
「それが妹の千夏なんです。年もひとつしか違わないし、もともと似ていたのを私が無理して近づけたから」
「なぜ、そんなことを……」
 松本から回されたペンダントを眺めながら菅野が訊く。
「一言では言いきれませんが、コンプレックスということなのでしょう」
 そして、千夏は順を追って説明した。
 愚かな姉、賢い妹。
 妹に対する強い嫉妬心が生んだ間接殺 人。
 妹に生まれ変わった自分。
 記憶の彼方に封印した自分自身。
 壊れた家庭。
 壊れた自分。
 一同は黙して耳を傾けていた。
「その姉の名前は……私の本当の名前は……」
 やがて、千夏は締めくくりに自分の本当の名前を宣言した。
 すべてを語り終えた千夏はしぼんだように椅子に座った。
 漂う静寂の中、口を開く松本。
「おい、山口さんよ。あんたら、千夏が本当は別人だって知ってたのか」
 上座でじっと控えていた山口が、急に水を向けられても動ずることなくはっきりと答えた。
「はい、存じておりました」
「なにが、存じておりましただ、いけしゃあしゃあと」
「本人がそう申告されたのですから仕方ありません。森岡様は森岡千夏名義で介護の仕事をしていたんです。何かの手違い、あるいは意図的なものだったのかはこちらも存じ上げませんが、戸籍から抹消されていたのも森岡姉妹の姉のほうでした。それでも一応、迎えの者は森岡様の本当の名前でお声をかけたんですが、森岡様はこう言ったそうです。そんな人は知りません。私は森岡千夏ですと……。まあ、名前など記号のようなものですから、本人がそう仰るならということで、森岡千夏様名義で登録させていただきました……このゲームを運営する上で不具合や不公平が生じるとも思えませんでしたので」
「今更、私は千夏じゃありませんって言われてもなあ……山口さんのいうとおり名前なんて記号みたいなもんだしな。めんどくせえから今までどおり千夏で呼ばせてもらうぜ。でも、そんな馬鹿げた話がホントにあるのかよ。それに百歩譲って千夏の言うこと丸ごと信じるにしてもよ、やっぱ妙なんだよな。なんでみんなそうやって自分の恥部を晒したがるんだ。普通、隠したくなるもんだ。ましてや人を殺したなんつう物騒な話はよお」
 そんな疑問に答えたのは千夏本人だった。
「自分がその立場になって、他の人たちの気持ちが少しわかった気がします。いつ死ぬかわからない極限の状況で、自分の死のビジョンを感じたとき、誰かに聞いておいて貰いたい、そう思うのは自然な感情なんだって」
 遙がゴクリと唾を飲んだ。
「確かに壮絶な話よね。でもある種、滑稽ともいえるわ。だってそうじゃない。あなた、誰も殺してないのよ。死にそうな人間を見捨てたわけでもない。その人が死ぬ直接の原因をつくったわけでもない。なのに、そんなに罪の意識に苛まれて、これを滑稽といわずにいられるかしら?」
「そうじゃないんですよ、遙さん」
 菅野が静かに諭した。
「大事なことは本人がどう思っているかということです。彼女だけではない、今まで退場した人たちだって、みんな自分が殺したと思っていた。そして後悔し、懺悔した。だから誰にも笑えない。笑ってはいけないんです。みんな命がけの懺悔をしてきたのだから」
 菅野の手厳しい一言に、遙は表情を強張らせるも無理に微笑んでみせる。しかしそれは、精一杯の強がりにしか見えなかった。
「で、どうするのよ。罪の告白をしたら、あとは死が待っているだけなんじゃなかったっけ?」
「いや、それはどうかな。今回は聞き役だった千夏の場合だからな。ジンクスに必ずしも当てはまるとは言えないんじゃないか。それにこの交代制睡眠を続けるかぎり、おいそれと【犯人】も手出しはできねえだろうしよ」
 あくまで楽観的なコメントをするのは言うまでもなく松本だ。
 そして千夏が山口のほうを向いて言った。
「山口さん、私、告発します」
 その声は微かに震えていた。
 ざわめき、動揺、混乱。
「おま、おまえ、【犯人】がわかったのか!」
 千夏は曖昧な笑みを浮かべるだけ。
「なんだよ、自信ねえのかよ。まさかジンクスどおり死のうとか自爆しようとか思ってんじゃねえだろな。冗談じゃねえぞ。バカなこと考えるんじゃねえ。お前は人殺しなんかじゃねえんだ。ヤケになるな」
 と、我を失い懸命に説得するも、菅野の意外そうな視線に気づいて軽く咳払いする松本。
「べ、別に、俺はお前の心配をしてるわけじゃねえぞ。ほら、菅野大先生も仰ってるじゃねえか。もうひとりも欠けられない。4人が限界なんだって。お前がやけっぱちの告発で無駄死にするのは勝手だがよ、残された俺たちのバランスが崩れてしまうのは困るんだ」
「……と、松本君は心配しているようだが」
「だから心配してるんじゃねえっつってんだろ!」
 菅野の揶揄に耳を赤く染める松本に千夏は軽く微笑んでみせた。
「ありがとうございます、松本さん。でもこれでお終いですから。必ず終わらせますから」
「終わらせるってなあ、自分が罪の告白をしたことくらいで、このくそったれな悪夢がとまるもんかよ」
「でも、きっと終わらせますから。だからやらせてください」
「やらせてって、俺たちにとめる権利なんてもともとねえけどよ……」
 千夏の意思は固かった。松本はもう引きとめるのを諦めた。
 山口が千夏に歩み寄り尋ねる。
「よろしいのですね」
「所詮は9分の1の確率です。不利には違いないけど、絶対に失敗するって数字でもないですから……」
「では、早速始めますか」
「あ、ちょっと待って」
 千夏は照れくさそうに己の服を見下ろした。
「最後になるかもしれないから、着替えさせてください。千夏を……妹を脱ぎ捨てるためにも……」


 松本、遙、菅野、山口たちは2階に集まっていた。
 2号室の前で千夏を待っていたのだ。
 程なくドアが開くと、白いワンピース姿の彼女が現れた。純白の服はまるで死に装束にもみえた。
 ずっと顎に手を当てて何事か考え込んでいた菅野が躊躇いがちに声をかける。
「千夏さん……まさか、あなたは……」
「もう、私は千夏じゃありませんから」
 そして、彼女は目だけで頷いた。
 菅野も黙って頷き返す。
 以心伝心。構成員たちの中でも突出した頭脳をもつふたりがお互いの意図を理解しあう。
 彼女が何をしようとしているのか菅野は確信した。
 必ず終わらせますと言った彼女の言葉に潜む深遠なる意味を……。
 規則に穴はない。ただし、つけいる隙はある。わずかな隙ではあるが、彼女はそこに賭けるつもりなのだ。
―――やってくれますか、菅野さん。私の賭けにのってくれますか?
―――僕に断る理由はありません。僕にとってはノーリスクハイリターンですから。でも、あなたこそそれでいいんですか?
―――それが私の役目だから……
「おい、ふたりして何を見つめあってんだよッ」
 松本がふたりの間に割って入る。
「別になんでもありません。それでは……」と、ドアノブに手をかける。
「おいっ、千夏」
「はい?」
「やめるなら今のうちだぞ」
 食い下がる松本に、彼女は吹っ切れたように快活な調子で返答する。
「後悔はしていません。最期くらいは私らしく、最期くらいは人間らしくいたいから」
 そして、彼女はポケットの中に忍ばせたあるモノの感触を確かめた。
 やがて、彼女は山口代理人とともに2号室の中に消えた。
 ゲーム開始以来、2人目の告発が今まさに、行われようとしていた……。


「山口さん、覚えてますか? 私、一番初めにこのゲームを阻止すると宣言しましたよね」
「はい」
「ほんの何日か前のことなのに、もう遠い昔のことのように感じます。やっぱり私には無理でした。ううん、私だけじゃない。このゲームはもう走り出している。もう誰にも止めることはできない」
 自嘲気味に嘲う彼女に彼は無表情に応じた。
「そうでしょうか? むしろとても簡単なことだと思いますが」
「え……」
「ここで【犯人】を当ててしまえばいい。それで終わりです」
「……それもそうですね」
 彼女はうすく笑い、席につく。
「そろそろ始めましょうか」
「では……」
 彼がその向かいの席につき、ふたりをはさむテーブルの上に一枚のカードを置く。
 カードの裏には【犯人】の名前が記されている。
 そこに記された名前を彼は既に知っている。
 そこに記された名前を彼女はまだ知らない?


 3人は待っていた。
 2号室の前でじっと立って待っていた。
 手術中の赤ランプが点灯し、オペ室の外で待つしかない親族の気持ちに近いものがある。
 それはおそらく1、2分程度のことだったろう。
 しかし、彼らにはひどく長い時間に感じられた。


 やがて、勢いよくドアが開いた。
「そこをどいて!」
 ドアの横に退いていた菅野がドアのまん前に立っている松本、遙に鋭く叫ぶ。
 動物的本能で松本が素早くドアから離れる。
「あ……」
 しかし、遙は一歩も動かなかった。いや、動けなかった。
 なぜなら、そのドアから現れたのは……
「千夏さん」
 そう、ドアをすり抜けてきたのは彼女だった。
「えっ……ええっ……!」

 ぱあん。

 渇いた音と共に彼女の身体がエビのように反り返る。
 その右胸に赤い染みが広がっていく。
 彼女は、身体を捻りながら踊るように床に倒れこんだ。
「な、な……なんなのよ、これえ」
 口をパクパクさせる遙。
 うろたえる遙を押しのけて、一旦退いた菅野が駆け寄る。
 弱々しく痙攣する彼女の腕が虚空に伸びる。
 その手を菅野が掴もうとする。
 まだ彼女は生きている。
 屍ではない。
 触れてもセーフティーだ。
「こ、これを……」
 渾身の力を込めて、その細い腕がズルズルと床を這う。
「千夏さんッ!」
 その時!
 後ろから現れた山口が、彼女の背中を踏みつけた。
「くはッ……!」
 傷口から溢れる血液が、みるみる広がっていく。
 山口は銃口を彼女に向けたまま、空いた左手で痛そうに目を擦っていた。
「やってくれましたね、森岡様……でも、それは……」
 蒼白な彼女の耳元に【代理人】の冷たい宣告。
「ペナルティです」

 ぱあん

 山口の銃口が火を噴いた。
 その弾丸は無情にも彼女の頭部を貫き、そしてハジけた。
 棒を振り下ろしたスイカのように見事にツブれた。
 握りしめたトマトのように無残にコワれた。
 それはまるでB級スプラッタ映画でも見るかのように鮮やかに……
 ヒロイン格の退場にはあまりにも相応しくない凄惨な姿で、いともあっさりと呆気なく、彼女は死地へと旅立った。
 飛び散る脳漿が、血液が、肉片を伴った頭髪が、菅野と遙の体に容赦なく浴びせかけられる。
「え……なに、コレ……?」
 呆然とする遙の目の前には彼女の首なし死体。
 ほんの一瞬、躊躇いをみせた菅野が動いた。
 果敢にもあと数十センチの彼女の遺体に飛びついたのだ。
 無論、彼女が【犯人】でない限り、今それに触れたらペナルティだ。
 ブラフでないかぎり、明らかに息はない。
 だから、決して触ったりしない。
 彼は悪魔の如く冷静沈着に行動した。
 彼女の捨て身の行いを無駄にはしない。
 果たしてそんな正義感が彼を動かしたのか否か……
 彼が目指したのは彼女の手に握られたもの。
 くちゃりと握りつぶされた厚紙。
 それを菅野が手にしようとしたその手前、山口に横から掠め取られてしまう。
「これをお見せするわけにはまいりません」
 山口が無機質な声で言うと、【代理人助手】に向かって鋭く言い放った。
「遺体を確保しろ!」
 指示をもらった【代理人助手】たちは、菅野を押しのけ、千夏の体のまわりに人垣をつくり彼をしめだした。
 そして、構成員たちから見えないように部屋の中に運び入れる。数名の【代理人助手】は血痕などの後始末に立ち働く。
 山口代理人が悠然と菅野を見おろす。
 血塗られたくしゃくしゃの厚紙を菅野の眼前にひらつかせながら、やはり平板な声で言う。
「残念でしたね、菅野様」
 千夏が死んだ……しんだ……シンダ……?
 この短い間の出来事にようやく思考が追いついた松本が咆哮する。
「何が起こったんだよッ! 誰か説明してくれッ!」
 血のシャワーを浴びた遙はうつろな目でへらへら笑っている。
「汚れちゃった。きれいにしなくちゃ。汚れちゃった。きれいにしなくちゃ……」
 幽鬼のような足取りで隣りの自室へ向かう遙。
「シャワーあびなくちゃ。お風呂入らなくちゃ……」
 松本は両の拳をわなわなと震わせ涙した。涙がとまらなかった。
「どういうこったよ、これは!」
「自決だ」
 ポツリと呟く菅野。
「彼女は……自ら死を選んだんだ」
 さすがの菅野も疲れたようにその場に胡坐をかき、ガクリとうな垂れた。
「ふっ…………ははは…………最期くらいは人間らしく、か…………教えてくれないか、千夏さん。人間らしさって一体…………?」


   次章       1/10の悪夢       ひかり小説館

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送