第22章


第22章  偽善の象徴

 2号室の構成員、森岡千夏が消えた。
 通算7人目の退場者。
 それは明確なまでの死と見てとれた。
「千夏まで……あいつまでが……」
 松本浩太郎はやり場のない憤りを壁にぶつけていた。
 菅野祐介はその場に座り込んだまま彫像のように動かない。
 2階の廊下には松本と菅野のほかに山口代理人と数名の【代理人助手】がいた。
 ついさきほど飛び出してきた森岡千夏は【代理人助手】たちの手によって再び2号室に引き戻され、閉ざされたドアはゲームが終わるまで二度と開かれることはない。
 むろんそれは彼女が【犯人】ではなかったらという条件付きではあるが……
 しかし、今目の前で起こったことがすべて芝居だったなどということがありえるのだろうか。
 松本は目を逸らせなかった。
 粘りつくような血だまりがどうしようもなくリアルに彼の視線を絡みとって離さない。
「いったい、なんでこんなことに……」
 わけがわからないとばかりに髪をかきむしる松本が両腕を広げて菅野に吼える。
「なんでなんだよッ! どうしちまったんだよ、こりゃあ!」
「少し静かにしてくれないか」
「…………!」
 菅野がスッと立ちあがると、千夏の血を浴びて赤く染まった顔を松本に近づけた。
「遙さんは?」
「え……」
「遙さんはどこに行った!」
 気圧される松本が2号室の隣りの4号室を指さす。
「じ、自分の部屋に入ったよ。シャワー浴びるってさ。血ィ浴びちまって動転してんだ。いや、俺だって心中穏やかってわけじゃねえけどよお」
 あんなにも憔悴していたのがウソのように菅野はその目に活力を漲らせている。
―――なんて切り替えの早さだ。
 松本は感心するよりもむしろ背筋に冷たいものさえ覚えていた。
 だけど、どこか違う。うまく説明できないが今までの菅野とは何かが違う気がする。
 松本は菅野の冷徹なまでの佇まいの中に潜む鬼気迫る何かを感じずにはいられなかった。
―――こいつ、焦っているのか?
「よし、じゃあ今のところは安全だな」
 4号室のドアを睨みつける菅野が自分に言い聞かせるように呟いた。
「おい、先生。あんたもシャワー浴びてこいよ。ここは俺が見張ってるからよ」
「と、油断させておいて僕と遙さんが完全に分断したところを仕留めようって魂胆か」
 菅野が無表情に松本を見る。
 本心ではない。そう直感し相手の真意を読み取ろうと睨み返す松本。
「あんた、本当に俺を【犯人】だと思ってるわけじゃねえんだろ」
「さあね。いずれ僕たち3人の中に【犯人】がいなかったとして、ここで僕が部屋に戻れば3人はバラバラになってしまう。それこそ【犯人】の思うつぼだとは思わないか」
「あのなあ、もう何べんも言ってることだけどよ、もし【犯人】が退場者の中にいたとしたら、その姿を俺たちに見られることは致命傷なんだぜ。わかるか? 見つかっただけでアウトなんだよ。つまりこの見通しのきく廊下でだ、あんたと遙さん以外の誰かが俺を襲おうとしたとして……いや、俺の視野に入ろうとしただけでもう即刻告発の餌食なんだよ。そりゃあ俺だって睡魔には勝てねえから何十時間もここでひとりで張ってるわけにはいかねえよ。だが、あんたと遙さんがシャワーを浴びてる間くらいならここを守る自信はあるぜ。とにかく俺を信じろ、信じてくれよ。どうせあんただって俺のようなアホが【犯人】だとは思っちゃいねえんだろ」
 審判に抗議する選手の如く熱弁を振るう松本に、菅野が思わず表情を和らげた。
「なっ、なにがおかしいんだよ!」
「いやなに、君まで信じてくれだなんて寝言を言いだすとは思わなかったものだからね。そもそも君は一貫してチームプレー否定派だったじゃないか。それとも誰かさんの熱に胸をうたれたか…………意外と青いな、君も」
「ちゃかすなよ! あんたな、人がまじめに……」
 顔を真っ赤に染めて、かみつかんばかりの松本を冷静に菅野が制する。
「とにかくシャワーは遙さんが終わってからでいい。気持ちだけいただいておくよ」
「ちっ、用心深いんだな」
「まあね。たしかに今の君の理屈はそう間違っているとも思えない。退場者の中に【犯人】がいたとしても、君はそうみすみすやられはしないだろう。だが、そんな不利な条件をものともせず、実際に7人の構成員が退場していることもまた事実だ。これを軽んじるわけにはいかない」
「わかったよ。じゃあせめて千夏が……あいつがやろうとしたことを説明してくれよ。どうせあんたは全部お見通しなんだろ」
「ああいいとも。それならもうすぐ正午だから食堂に行って昼食でもとりながら話そうじゃないか」


 もう幾度も聞いた鳩の鳴き声が館内に響き渡る。
 8月9日12時ジャスト。
 松本浩太郎、鱒沢遙、菅野祐介、3人そろってタイムチェックをクリア。
 松本と菅野がテーブルにつき、そして山口代理人も指定席の上座に腰を下ろしていた。
 遙は食堂の片隅で壁を背に座り込み、ぶつぶつと何事か呟いている。
 彼女は焦点の定まらぬ目で枕を抱えたまま。部屋を出てきてからというものずっとこんな調子だった。
 無理もない。スプラッタ映画さながらの殺 人現場を目の当たりにした直後なのだ。むしろ彼女の反応こそがオーソドックス、正常とさえいえる。
 そんな重苦しい空気のもと、松本が菅野にせっついた。
「さあ、もういいだろ、勿体ぶらずに話してくれよ。どうして千夏はあんなことをしたんだ」
「すべては……すべてはゲームを終わらせるため」
 菅野は手を前に組み身を乗りだすとメモを閉じて語りはじめた。
「千夏さんは一矢報いようとしたんだ。彼女は最も確実な【犯人】の情報を僕たちに与えようとした。つまり【代理人】の持つ【犯人】の名を記したカードを僕たちに見せようとしたんだ。これ以上犠牲者を増やさないために、その身を呈してでもこのゲームを終わらせようとして……それが彼女を告発に向かわせた真意だ」
「じゃあ、なにか? やっぱりあいつはハナから死ぬ気で……刺し違える覚悟で告発に臨んだってのか!」
「そういうことになるね。少なくとも僕はそう思っている」
「うおおおおお!」
 堪らず松本が喉も裂けよとばかりに絶叫する。椅子を蹴り上げ、壁に向かってまっすぐ走り、その拳を加減なしに叩きつける。
「畜生! 畜生! 畜生! 畜生!」
 壁を殴る松本。ひたすら殴る。壁が凹む。
 前回、数馬の死体を見たときも刺激的ではあったが今回はそれ以上の衝撃。
 なにしろ7人目の退場者にして初めて人が殺される瞬間に遭遇したのだから。
「なんてこった。こいつは悪夢なんかじゃねえ。くそったれな現実だ!」
 松本の手に無造作に握られたペンダントが激しく揺れる。
 それは先刻2号室の前で拾ったもの。
 森岡千夏が肌身はなさず身につけていたペンダントだ。
 興奮する松本をうつろな目で追う遙。
 いつものように傍観を決め込んでいる山口。
「落ちつけ、松本君!」
 菅野が自席から松本の背中に向かって恫喝する。そして声のトーンを戻し話を続けた。
「千夏さんは告発をするようなそぶりを見せて【代理人】から【犯人】の名を記したカードを奪おうとした。彼女はきっと規則を読み返しているうちにわずかな穴を見つけたんだ。いや、とても穴とは言えないな。なにしろそれを行動に移せば百パーセント自分の命はないのだから」
 肩で荒い息をつく松本が背を向けたまま首だけ振り返る。
「ああ、そこまではわかったよ。だけど本当にそんな隙があったのか? いや、現実に千夏はやって見せたんだけどよお」
「そのへんのところは告発の手順を読めばおのずと見えてくる。いいかい、ここだよ」
 菅野が規則をテーブルの上で広げ、ある箇所を指し示すと、松本がテーブルに戻ってきて正面から覗き込む。
【代理人】が持つ【犯人】の名を示すカードがテーブルに伏せられた後、【被害者】は【犯人】の名を宣言してカードをめくる。そう書いてあるだろ。つまり【犯人】の名を宣言すると同時にカードがめくられ、銃が火を噴く仕掛けになってる。これではつけいる隙がない。だが、【犯人】の名を宣言する前ならどうか? こたえはアリだ。つまりそこにわずかなチャンスが生まれる。そのときカードを奪うんだよ。むろんこの時点で彼女は規則違反を犯しているからペナルティは決定。だが、そこに油断が生じる。思ってもみない反撃に【代理人】は彼女にカードを奪われ、あまつさえ部屋の外にまで逃げられてしまう」
 菅野は一旦言葉を切り、口元を歪めて山口を見る。
「ですよね? 山口さん」
 山口が得意のポーカーフェイスと涼しげな瞳をもって菅野を見つめ返す。
「千夏さんの目のつけどころは悪くなかった。正直僕ももう【犯人】の尻尾を掴むのは無理じゃないかと思っていたからね。運命のいたずらか、どうやら【犯人】のカードを引き当てた人物は僕らよりはるかに賢い人物であろうと思われる。こうなると【犯人】自身の攻略は絶望的だ。そこで【犯人】が切り崩せないとなると共犯者を揺さぶるしかない。つまり山口さんを追い込んで【犯人】の名を白日のもとに晒す、これしかないんだ。規則の7(6)でも謳っている。【代理人】の責めにより【犯人】が告発されても、【代理人】はその一切の責任を負わない。要するにこれも作戦としてはアリなわけだ。まあもっとも山口さん曰く、自分がミスをするとしたら、それは他ならぬ【犯人】のミスだそうだがね」
 と、再び水を向けられた山口が軽くあごを引いて応じる。
「なるほどな。だが山口さんは危うくその致命的ミスを犯しそうになった。なぜだ? 千夏は言ってみれば反乱分子の筆頭株としてマークされたはずだぜ。【代理人】ともあろうものがすんでのところでカードを奪われることくらい予想できたんじゃねえのか。告発のとき、あんたは銃の引き金を絞って待ち構えてるわけだろ。そんな状況でどうやってカードを奪い、あまつさえ部屋の外まで逃げだせるってんだ。それはもう神業としかいいようがないぜ」
「だからこそ彼女は告発の直前に服を着替えたのさ、脱出へのパスポートを仕込むためにね」
 菅野が山口のかわりに答える。というよりも山口は口を真一文字に結んだまま口を開く気配すらない。あるいは彼自身、千夏にいっぱい食わされた怒りを封じ込めることに精一杯なのかもしれない。
「脱出へのパスポート?」
「ああ。彼女が告発の直前に着替えたいと言ったとき、これは何かやるつもりだと僕は思った。そう、捨て身の反撃をね。そしてそのタネがこれだよ」
 と、菅野が差しだした手のひらには粉がふいている。
「なんだよ、こりゃ」
「ちょっと嘗めてみてくれ。大丈夫、有害なものじゃないから」
 そう言って小指に取って自ら舌にのせてみせる菅野。松本も倣って口に含む。
「ぺぺっ、なんだこりゃ」
「ただのコショウさ。2号室の前、千夏さんの倒れたあたりにこの粉が散っていた。彼女はこのコショウをポケットに忍ばせて告発に臨んだんだ。告発の直前、山口さんがテーブルにカードを置いたとき、彼女はコショウを取り出し山口さんの目に投げつけた。要するに目潰しだ――単純だが実に効果的。これは一時的避難としては充分すぎるくらいの成果をあげた」
 絶妙のタイミングで山口がむずがゆそうに洟をすすりあげる。
「へっ、ご名答って感じだな」
「もともと千夏さんは告発する気なんてなかった。彼女は捨石になろうとしたんだ」
「けどよ、よしんばそれがうまくいって【犯人】の名前の書かれたカードを見せられたりしたら、俺たちもペナルティになるんじゃねえか」
「いや、規則上は問題ないだろう。罰せられるのは教えたほうだけだ」
「くそっ、なんにしても結局千夏の無駄死にってことかよ」
「それはどうかな」
「えっ?」
「結果的に、彼女が身を呈して渡そうとしたカードが見れなかったことに僕は正直ホッとしてるんだ。いや、さっきの空気は異常だった。僕も平常じゃなかった、冷静じゃなかった。彼女の熱意にうたれたんだろうな。あんな形でゲームを終わらせるなんてそんなこと許せるはずがないのに……」
「またそれかよ。なあ、先生よ、あんたどこまでマジで言ってんだ? もう煙に巻くのはやめてくれ。あんたは本気で悔しがってた。千夏の命と引き換えにしたカードを手に入れられなくてマジで悔しそうだった。あれは演技なんかじゃねえ。あの時、あんたは確かに自分からゲームを終わらせようとしてたんだよ!」
 しかし菅野は反論しようとしなかった。あるいは自分でも自分が今何を考え、どんな信念に基づき行動しているのか、それさえもあやしく感じているのかもしれない。
 何も言い返してこない菅野に対し、意外そうに眉根を寄せる松本が、わざとらしく咳払いをする。
「ま、考えようによっちゃ千夏のやったことは全くの無駄死にとばかりもいえないかもな。だってそうだろ、千夏が【犯人】じゃなかったことが分かった今、【犯人】を告発できる確率はまた少し上がったわけだからよ」
「……と、言いきれるかな」
 松本とは対照的に決して事態を楽観視しようとはしない菅野。
「一片の疑いもなく千夏さんが【被害者】だったと、そう言いきれるのかな」
「この期に及んで何言ってんだよ。見ただろう。あんたも見たよなあ。初めてだぜ、7人の退場者の中で俺たちのすぐ目の前で殺されたヤツはよ。あれが芝居だっていうのか! あれがブラフだっていうのか! ふざけんなよ!」
「僕は可能性の話をしてるんだ。今僕がここで話したことには何の証拠もない。千夏さんが【犯人】だったとしたらすべてがオセロのように覆されてしまう。君のその手のペンダント、それこそがまさに偽善の象徴となることも充分にありえるんだ」
「やめろやめろやめろォ!」
 松本が怒りに任せて手加減なしにテーブルを叩く。が、すぐに脱力感に支配されペタリと椅子に座り込む。
「千夏の懺悔が全部でたらめで、このペンダントの写真も実はただ単に自分自身の写真を入れてるだけだと? さすがに俺でも、そこまで死者に鞭打つようなこと言えねえよ。千夏は俺たちのために犠牲になったんだろ。そんな言い草ってねえんじゃねえか。ったく、あんたってホント、コワイ男だよな」
 コワイ…………
 松本には最も似つかわしくない言葉のひとつ。
 それが今、何の抵抗もなくその唇から発せられる。
「そうかな、君だってずいぶんひどいことをしてきたんじゃないのか。人殺しこそ認めてないようだが、それなりに悪さはしてきてるんだろ。いまさら偽善者ぶったって無駄だ。僕はそういう人間は臭いでわかる」
「ふん、だったらその良く効く鼻で【犯人】も嗅ぎわけてくれよ」
 松本が会話を打ち切るように厨房へ向かい、ほどなく缶コーヒーを手に戻ってくる。
 そして今もなお食堂の壁際で小さくなっている遙のところへ近づいていく。
「少しは落ち着いたかい」
 松本が遙の警戒心を解こうと、努めて笑顔で缶コーヒーを差しだした。
 お経を読むようにひとりブツブツと呟いていた遙がはたと口を噤み、今気づいたかのように松本を見上げる。
 その様子を菅野と山口が少し離れたテーブルから黙ってみている。
 ゆるり、ゆるりと…………
 かさかさに乾いた紫色の唇が開く。
「毒」
「えっ……」
「毒、入れたでしょ?」
 思いもかけない遙の言葉に松本の笑顔が凍りつく。
「いや、そんなワケねえだろ。だってほら、これまだ開けてないし、毒なんかどこにも入れる余地ないぜ」
「そんなものいくらでも細工できるわよッ! あなたが【犯人】ならね」
 おびえた様子で後ずさる遙に当惑げの松本。
「まいったな……じゃあ、これなら満足か?」
 しかたないとばかりにプルトップを引いて一口飲んでみせる。
「ほらな、毒なんか入ってねえから安心しろよ。とにかくこういうの飲んどくと少しは落ち着くぜ」
 執拗に鼻先に突きつけられる缶コーヒー。やがて一旦はおとなしく受け取った遙だったが、ふいにキッと松本を睨みつけ、そしてすぐさまそれを壁に投げつける。カコーンと間の抜けた音が食堂に響き、飛び散ったコーヒーが壁に茶色い染みをつくる。
「なにすんだよ!」
「汚らしい! 人が口のつけたものなんて飲めないわよ! そういうのイヤなの、あたし」
「このッ……くそ、ひでえ言われようだな」
 松本はこみあげる怒りをグッと堪えて遙の傍へ寄っていく。
 一方の遙、怯えきった目で松本から視線を外さずにじりじりと後退していく。
 やがて、部屋の隅に追い込まれ逃げ場を失う遙に松本が噛んで含めるようにゆっくりと言った。
「なあ、遙さん、頼むからもっとシャキッとしてくれ。見ろよ、このありさま。ゲーム始まってまだ折り返しにもきてねえってのによ、残ってるのはたった3人だぜ。でもあんたはその3人の中にいる。女どもの中じゃあ最後の生き残りだ。あんた大したモンだよ、胸張っていいと思うぜ」
「女性が【犯人】ならそうとも言いきれないけどね」
 と、すかさず菅野が横槍を入れてくる。
「ちゃかすんじゃねえ! いいからあんたは黙ってろ。口出しすんな、バカ――いいか、しっかりしろよ、遙さん。もう一度言うぞ。10人いたメンバーがいまやこの3人だ。俺たちはいってみれば主役クラスだよ。そしてあんたはヒロイン格だ。年増で臆病なあんたがヒロイン級の扱いだぜ。よくここまで残ったよ。そうは思わねえか」
 昂ぶる松本が遙の肩を揺さぶる。
 うつむく遙はされるがまま。前髪が顔にかかりその表情は読みとれない。
「うふふふ…………」
 微かに――微かに聞こえる笑い声。
「あはははははは!」
 遙は笑っていた。
 なにか最後のタガが外れてしまったかのように笑っている。
 まるで壊れた笑い袋のように笑う。笑いつづける、不気味に不可解に。
「遙さん、おいっ、しっかりしろよ! しっかりしてくれよ!」
 松本が腕に力をこめてさらに揺さぶるもパペットのようにまるで手ごたえがない。
 遙が笑いすぎて流れた涙を指先で拭う。
「ねえ、もうやめない? こんな茶番」
「……茶番って」
「やっと分かったわ。もう騙されないんだから」
「何が分かったというんです?」と、菅野が尋ねると、遙は自信たっぷりに立ち上がって男たちを見回し叫んだ。
「はん、惚けないでよ! どうせみんなグルなんでしょ。【代理人】も【被害者】も【犯人】もみんなグル。よってたかってあたしをペテンにかけようって魂胆なのね。全員が一致団結してあたし一人を騙そうとしてるんだ! あたしは騙されない! 騙されるのはもうたくさんよッ!」
 遙の思いがけない奇行に言葉を失う松本。片や我が意を得たりとばかりに詰め寄る遙。
「ふうん、なんにも言い返せないってことはやっぱり図星なんだ。なにが主役クラスよ! なにがヒロイン格よ! こうなることはどうせ始めっから決まってたことだったのよねえ。さあ、もう白状しちゃいなさい。あなたたち、あいつらの差しがねでこんな大芝居うってるんでしょ?」
「あ、あいつらって誰だよ」
 ひるむ松本にお構いなし。遙はビデオカメラを見上げて見えない相手に向かって呼びかける。
「いるんでしょ? 3階で見物してるのよね。残念でした。もう全部バレたわよ。さっさとおりて来い、この卑怯者! まったくこんなくっだらないことにお金湯水の如く使って恥ずかしくないの!」
 遙が食堂内を落ち着きなく歩き回る。
 その必要以上にムダな動きは己の仮説を否定されることへの不安からくるものなのか。
「ほら松本君、お芝居はお仕舞いよ。どうせ、あんたあたりが一番のぺーぺーなんでしょ。リーダーはそうね、菅野さんあたりかしら? それとも本名は違うの? でもあなた、長台詞たくさんあって大変だったわね。探偵役ご苦労様、ホントお疲れ様――」
「遙さん、あなたは……」
 菅野が憐憫の情を込めて彼女の名を呼ぶ。
「なあにポカンとしてんのよ。早く撤収しちゃってよ。それともあたしが2階に行けばいいの? そうすると客室のドアが一斉に開いて【被害者】役のみなさんが全員集合って趣向?」
「ありえない」
 松本が小さく呟いた。
「あのね、もう芝居はいいって……」
「なに言ってんだよ、あんた! ドッキリ説ならとっくの昔に検証しただろ。こんな悪趣味な殺 人ゲーム仕掛けたら、テレビ局は名誉毀損とかで訴えられる危険性があるからそんなことするはずがないって」
 しかし松本の抗弁にも遙は微塵も揺るがない。
「今にして思えばそれも引っ掛けだったのよね。たしかにテレビ局がこんなこと仕掛けたら具合が悪いでしょうよ。でもたとえば一個人がやったことだとしたらどう? ターゲットがたったひとりの人間だったとしたら?」
「あんたひとりのためにこんな大掛かりなドッキリをか。正気の沙汰じゃねえ。第一そんなことしてなんになる。目的はなんだ?」
 オーバーアクションで反論する松本に、遙は我に理ありとばかりに畳みかける。
「あれ、まだ頑張るの? ふうん、そこまであたしに言わせたいんだ。そんなの決まってるじゃない、罪の告白をさせるためよ。それ以外何があるっていうの? あなたたちはあたしにあのときのことを自白させたいんでしょ。露骨に設置されたテレビカメラもあたしの証言を確実に記録するための手段でしかないのよ」
「ちょっと待ってください、遙さん。今、あのときのことって……」
 この発言に食いついた菅野が席を立ち、遙と松本のいる場所まで歩み寄る。
「遙さん、つまりあなたはこう言いたいわけですね。自分は過去に何らかの罪を犯している。今もこうしてここにいるということは、他の皆さんと同様に法で裁けないような罪――殺 人を犯している。そして自分を真犯人として疑っている者がいて、その人物は自分に殺 人の自白をさせようとしている。自分を非日常の極限状態に追い込み、正常な感覚と判断力を麻痺させ、その上で、そこに集った者たちが己の罪を告白し、そして死んでいく。その逃れがたい一種独特の舞台装置の上で僕たちがあなたの自白を促そうとしていると……」
「そうよ、そのとおり。ちゃんとわかってるじゃない。みんな自分は人殺しだとか懺悔しちゃって、要はあたしにも罪の告白をさせるためのお膳立てだったってことよね。全く涙が出るくらいよくできたシナリオよ。ね、それで全部説明がつくじゃない。辻褄が合うじゃない。あたし、なにか変なこと言ってる? そうなんでしょ? そうなのよね? あたしが全部白状しちゃえば、そこらの扉がいっぺんに開いて頭に三角巾つけた白装束のみんなが笑いながらあたしを指差しながら出てくるの。やーい、騙されてやんのってね! あはははは、傑作だわ」
「と、とにかく落ちついてくれよ、遙さん」
「落ち着いてくれよ? はっ、なんてありふれた台詞! 松本君、あなたってアドリブきかないのね」
「ちょっと待て! まずは俺の話を聞けッ! 全然説明つかねえよ。いいか、はじめっから順を追って辿ってみようや。まずここまでくる過程で、あんたはいくらだってゲームをおりることができたはずだ。ここまで来たのは全部てめえの意志だろ。あの車に乗せられて来るときも俺と同じように強制的じゃなかったはずだし、説明会の時点で引き返すこともできた。けど、あんたはゲームに参加した。自分からのっかってきたんだ。それを棚に上げてナニ言ってんだよ」
 だが遙は全く怯まない。もはや病的なまでに己の説に取り憑かれてるかのように……
「たく、往生際が悪いわね。そんなの簡単じゃない。あたしには借金があるもの。お金がほしいんだもの。あたしの性格を知ってるあいつらなら、あたしがゲームをおりないことくらい想像できたハズよ」
「そこまで言うならわかりました」
 菅野が進み出て遙を正面から見据える。
「でもあなたの自説には論理的な矛盾がひとつある。それを説明してもらえますか」
「なによ、矛盾って」
「このゲームそのものがあなたに罪を告白させるためだけにお膳立てされたものだとしたら、なぜ千夏さんだったんでしょうか?」
「え……?」
「あなたに罪を告白させるためにみなさんが懺悔し、そして退場していったのだとしたら、その言葉が向けられるべき相手は千夏さんではなく遙さん自身であるべきだったとは思いませんか。どう考えてもその方が効果的でしょう」
 遙は返答に窮した。
 確かに鋭い指摘であった。
 菅野の疑問は理に適っている。
「ま、だからといって、ではなぜ千夏さんが皆さんから罪の告発を受けていたのか、それを明確に答えることは僕にもできませんけどね。そこにはなにか意味があるのかもしれないし、あるいは何もないのかもしれないし……それにあなただってそんなこと本気で思っているわけではないのでしょ。どちらかというと半信半疑。いやむしろそうだったらいいなという願望を口に出しているに過ぎない。その証拠に、あなたはまだ【代理人助手】に話しかけていない。このゲームが芝居だと確信しているなら躊躇うことなくあの人たちにも声をかけることができるはずですからね」
 遙はやがて観念したように肩をすくめた。
「やっぱりあなたには敵わないな」
 まるで憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとした表情で。
 そして床に転がる缶コーヒーを拾い上げゴミ箱に捨てる。
「あなたの言うとおりよ。本当はそうだったらまだマシかなあって、そう思ってみただけ……あたしがみんなに騙されてたって結末だったとしても、それは決して最悪じゃないなって、そう望んでたのかもしれない……そうよね、ありえないわよね、そんなこと……」
 遙が顔を上げ、ことさらに明るい調子で語った。
 しかし口調とは裏腹に涙がとまらない。とめどなくあふれる大粒の涙に頬を濡らしつつ続ける遙。
「明るくしようと振舞えば振舞うほど、この絶望的な現実に押しつぶされそうになるの…………怖いの、怖くて堪らないの。明日生きてる保障なんて生まれたときから誰にだってないのに、それでもあたしは命の危機にあまりにも鈍感で、過去もろくに振り向かず、かといって未来に目を凝らそうともせず、ただ闇雲に刹那的にその場しのぎで生きてきた。自分で何かを決めるのがイヤで、人に頼るととてもラクで、いつからか自分の意志というのがどこにあるのかわからなくなっていて、その現実にすら疑問も感じなくなって、まるで一本一本ココロの神経がプツンって音をたてて切れていくカンジ…………どうしてあたしは生きてるのかとか、そんな生きてる意味なんか考えだして行き詰まっちゃって…………あたし、バカだから、考えてるだけじゃダメだって、行動しなくちゃって思うんだけど、どうしたら、何をしたらいいか分からなくて、仕事なんていくらでも代用がきくような単純なものだったし、親とかもあまりあたしのことあてにしてないし、やりたいことも見つけられず、死にたくはないけれど、だからって積極的に生きる理由もなくて、街にはこんなに人が溢れているのにとても孤独で寂しくて、そんなとき彼らに出会ったの」
「彼ら?」
 松本が尋ねると、遙は洟を啜りあげて笑顔をつくった。
「ねえ、聞いてくれる? あたしの昔話」
 菅野と松本、ふたりの男が互いに顔を見合わせ、そして同時に頷いた。
「いいですよ、時間ならたっぷりありますから」
「ああ、それであんたの気が済むんなら何時間でも聞いてやらあ」


 構成員の3人が食堂をあとにし、揃って中庭に出る。
 男たちは黙って待った。
 決して急かすことはなく……。
 やがて胸いっぱいに外の空気を吸い込んだ遙がゆっくりと口を開く。
「人間教って知ってる? 神様は決して神聖化されるものではない。神は人間となんら変わらない、という教えなんだけど」
「聞いたことないですね、有名な宗教団体なんですか」
「俺も初耳だな。なんか胡散臭そうな名前じゃねえか。壷とかバカ高い値段で売りつけられそうだしな」
「壷は売ってなかったけど、鏡を売ってたわ。それに自分をうつすと真の姿が見えるとかいう触れ込みで」
「うわ、もろインチキくせえ。まさかあんた、その信者でしたとかっていうんじゃねえだろな」
「違うわよ。でもそれに人生を狂わされたってのはある意味正解ね。高校卒業して東北の片田舎から東京に出てきて、方言とかがばれるのがすごく怖くてね、あまり喋らないでいたら会社で孤立しちゃって、でも東京には友達どころか知り合いもほとんどいなくて不安で、そんなときに優しくしてくれた上司がいてね、奥さんも子どももいる父親くらいの年の人だったけど、好きになった。溺れたわ。でもその人、ホントはすごい女にだらしない奴で、ったく、とことん人を見る目がないのよね、あたし。奥さんに尻にしかれて小遣いもままならない、あんな女とは今すぐにでも別れたいみたいなこと寝物語でいうの……あ、待って、松本君。あなたの言いたいことは大体わかるから。だけどね、そういうときってどうしようもないの。半分くらい、あたし騙されてるなあってわかってても、まあいいやって思っちゃうものなのよ。だからあたしホイホイ貢いだわ」
「まさか遙さんが殺したってのはその不倫相手?」
「あ、ううん。違う違う。あたしが殺したのは……まず順番に話させて」
 あたしが殺した、などという非日常的言葉もここでは水で薄めた醤油のようにまるで味気なく感じる。
 ナンデモアリ。
 その絶対的現実が彼らの感覚を麻痺させているのかもしれない。
「その上司とはすぐに終わったわ。時期はずれの異動辞令をもらってそれでオシマイ。あたし、今まで以上に誰も信じられなくなった。そんなときよ、カレがあたしに近づいてきたのは」
「カレ?」
 菅野の問いに遙が自嘲気味に笑う。
「最初に会ったのは昼下がりの駅前。草臥れたサラリーマンふうのどぶねずみ色のスーツ着て、若いのか老けてるのかよくわからない。でももしかすると年はあたしと同じくらいだったのかも。ま、一言でいえば簡単に風景に溶け込んで見失ってしまいそうな、そんなとりたてて特徴のないオトコ。そうね、外見の雰囲気はあなたにちょっと似てるかな」
 と、菅野を目でさし示す。
「でもね、なにか気になった。あたしの目がとらえて離さなかった。けして見逃さなかった。特別変わった行動をとっていたわけでもないのにね。しばらくカレを見てたら、向こうもこっちに気づいて近づいてきた。そしてニッコリ笑ってこういうの。そのうちきっとイイコトありますよ、って。まるでココロを裸にされた気分だった」
 遙は深き記憶の糸を手繰り寄せ、ひとことひとこと確かめるように言葉を紡いでいく…………


「よかったら、これどうぞ」
 男は遙に一枚の紙を差し出した。
 粗悪な紙に手刷りで印刷されたチラシ。見出しには『人間教自己開発セミナー』と書かれている。
「あの、これ……」
「いや、お金とかとったりしませんからご心配なく。先生がね……いや、僕が師と仰いでる方なんですが、その人がやってるセミナーなんですけどアナタにどうかなと思って」
 あからさまに怪しかった。
 ナニコレ、新手の宗教? 冗談じゃない。そんなものにあっさり騙されるほどあたしはおちぶれちゃいない。遙はそう思った。
 しかし、気持ちとは裏腹に彼女は数日後のセミナーに足を運んでいた……。
 それは、セミナーとは名ばかりの青空独演会だった。ガード下の一角で、数人の男に囲まれた中年男が派手な飾り窓のついた手鏡を手に演説をぶっている。
 濃い顎鬚をたくわえたおかげで辛うじて貧相なイメージを打ち消しているその男は、「神は必ず存在する。信じた人に信じた分だけ存在する」と何度も繰り返し主張していた。
「思い出してください。子どものころ、サンタクロースが本当はどこにもいないんだと知ったとき、アナタは悲しかったですか? 否! 本当は父親がサンタクロースだと知って安堵したはずだ。みんなのサンタさんが自分だけのサンタさんになったのだから。神はアナタひとりだけのために存在するのです。有形無形を超越した世界に! アナタ自身のココロの中に! だから信じてください。信じるだけでいいのです。信じることは万能です。無理と思えば絶対に無理。できると思えばなんだってできる。神の世界は驚くほど純粋でシンプルな領域なのです」
 わざわざ足をとめて耳を傾ける者は皆無に等しかったが、それでも何人かは、ある者は涙さえ流して中年男の戯言に聞き入っていた。やはりどう見ても胡散臭い。こいつらは人の弱い心につけこんで暴利を貪ろうとするハイエナの如き輩に違いない。なぜ自分はこんなところに来てしまったのか。少しはなにかを期待していたというのか。そんな自分が惨めでイヤになる。
 遙が早々に見切りをつけてその場を立ち去ろうとしたそのとき。
「最初はね、みんなそう思うんです」
 振り返るとカレがいた。まるで突然ふっと空間を切り裂いて現れたかのように唐突に。駅前で会ったときと同じ格好、どぶねずみスーツ。違いといえば、この前以上に汚いところか。心なしか異臭さえ放っている。カレは不自然なまでに平坦な調子で続けた。
「はじめはみんなそう思うんです。こんなのデタラメだ、いい加減なことばかり言っているとね、もうアタマっから否定してかかってるんです。なんの根拠もないのに。そっちの方がおかしいとは思いませんか? 過去の経験だけで事実を判断し、妄信的に信じ込む。そっちの方こそが危険だとは思いませんか? まあたしかにね、僕もはじめはそう思いましたよ。だけど本当に神様が降りてきたんです、僕のここに」
 と、男は親指で自分の胸をトントンと叩いてみせた。
「誰がどれだけ神を否定しようとも、『神がいるという事実』は否定できても、『神がいるという事実を僕が知っている』という事実は誰にも否定できません。曲げられないんです」
 男がスッと手を伸ばし遙の髪に触れた。幼子をいとおしむ父親のように優しく自然にその頭を撫ぜる。
「詭弁だわ!」
「かわいそうに。アナタはきっとたくさんの人に背を向けられて生きてきたのでしょう。でもそれはきっと信じる力が足りなかったから。あまりにも自分を省みなかったから。そうは思いませんか」
 神経を逆なでする平坦な口調の中に鋭利な刃物を忍ばせる男の言葉。遙はカッと頭に血がのぼり、その手を乱暴にふりのけ、男の頬に平手打ちを浴びせた。
「そんなのただの言葉騙しよ! 所詮あんたなんてただの詐欺師じゃない。えらそうなこと言ってんじゃないわよ!」
 しかし図星だった。男の言ったことは遙の本質を見事に捉えていたのだ。だからこそ彼女は揺れた。かき乱された。
 男は平然と向き直り哀れみにも似た目で遙を見つめている。
 自分でも耳まで真っ赤に染まっているのがわかる。恥ずかしい恥ずかしい。なんなの、この男は!
「そう、言葉なんて自分の認めた事実の前では赤子のように無力です。さあ、ステージをご覧なさい。これから師がその身を挺して証明してさしあげますよ。世界が変わる瞬間に立ち会えるこの喜びを一緒に分かち合おうじゃありませんか」
 なぜかしら抗いがたい男の言葉につられ、ステージと呼ぶにはあまりにも貧弱な演台に視線を戻すと、男が師と呼ぶ中年男に眼帯をした男が相対している。やたらと華美な貴金属類を身に纏った中年男は、おそらく教祖みたいなものなのだろう。
 眼帯男が持っていた日本刀を鞘から引き抜いた。ギラリと光るそれは本物のように見える。
 釘づけになる遙の隣りでカレが媚薬のように囁いた。
「信念こそがすべてを貫く至高の剣、そしてすべてを撥ね返す楯なのです」
 眼帯男が中年男を刺した。
 中年男の腹に深々とねじ込まれる刀身。
 ギャラリーからの短い悲鳴。息を呑む音。
 しかし中年男は軽い笑みさえ浮かべている。その目はむしろ爛々と輝いていた。
 引き抜かれた日本刀にはまったく血が付着していなかった。
 男が眉ひとつ動かさずに言う。
「ご覧のとおりです。師の信念の方が強かったため、その身体は鋼の楯となった」
「ばっ……」
 バカバカしい。子供だましもいいところだ。
 なのにギャラリーは一様に驚嘆し、安堵のため息さえ漏らしている。
 たしかに彼らの演技力はなかなかのものだけど、それにしてもこんなものに騙されるなんて。
 遙はハッと閃いた。
 彼女はある可能性に思い至り、ギャラリーの人数を数え始めた。およそ20人くらいか。
 まさか……!
「全員グルだとでも?」
 隣りのカレが全てを見透かしたような笑顔で遙を見下ろしている。
「そ、それ以外考えられないわ! あんな手品に騙される人がいるわけないじゃない」
「疑いだしたらキリがありませんよ。だからアナタはいつも背を向けられるんです」
 ふいにカレが遙の腕を掴み演壇に引っ張りあげた。
「ちょっ、ちょっと何を……」
 遙を強引に壇上にあげたカレは師と呼ばれる男の前に跪き、この女性にも師の偉大な力を示し、そして導いていただきたいと申し入れた。
 果たして師は遙に鏡をかざしてうなずいた。
「よろしいでしょう。信念の偉大なる力を身をもって確かめられると良い」
 眼帯男が師の耳元で何か囁くと、師自ら手ぬぐいで目隠しをした。
 眼帯男いわく、何も仕掛けなどないことを証明するためだとのこと。
 どこまでも胡散臭い。予定調和もいいところ。
 仕掛けまではわからないが、おそらく先ほどと同じく目の前の中年男は刺されても傷ひとつ負うことはないだろう。
 準備が整ったところで、カレが眼帯男から先刻使った日本刀を受け取り、それを鞘から引き抜いて彼女の手に持たせてやった。
「アナタが最も苦手とし、最も懼れ、そして最も憧れるものは何ですか」
 遙は軽い違和感を覚えたもののそれはすぐに霧散した。なにより自分がこんな茶番につき合わされていることへの腹立たしさが膨らんでいったからである。とにかくもう一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
 しかし、どういうわけか暗示にかかったように逆らえない。
 カレの言葉は子守唄のように続く。
「それは信じること。人を信じることです。ではなぜそれが苦手で怖くてまた憧れるのか。それは人の心が見えないから。失敗を恐れるから。裏切られたくないから。そうでしょう? でも構わないのです。アナタにとって相手を信じることが実は最も重要なことなんです。アナタが人を信じるという事実。それこそが誰にも侵されない神の領域、いや聖域といっていい」
 目を見てはいけない。
 遙は直感的にそう思った。これは暗示なんだ。催眠術にかけられているに違いないのだ。
 遙は唇をかみ締めて痛みで気をそらそうとした。
 さっきのだってやはりトリックに違いない。暗示にかけられているのならそう見えるように仕向けることもわけないだろう。もちろんこの刀にもなんらかの仕掛けが施されているハズ。だったらお望みどおりさっさと刺して終わらせてしまおう。
 スラリと抜いた日本刀。
 もちろん偽物には違いないがやけに重たい。それに間近で見ても本物に思えて仕方がない。
 しかしそんなハズはないのだ。
 すうっと両手を広げ、いつでも来なさいとばかりに悠然と構える中年男。
 あたしは所詮俗物なのだと思えてしまうほどの懐の深さを一瞬だけど感じてしまう。
 否! こんなもの信じるほうがどうかしている。
 遙は地面に対し平行に構えた刀をまっすぐ突きだした。
 ねちゃっ、という手ごたえ。
 スジ肉に包丁を突きたてたような重い感触。
「ぐえ……」
 蛙を潰したような呻き声。
 パッキンの緩んだ蛇口のようにぽたぽたと滴りおちる紅いモノ。
 あ…………あ…………
 どうしたことだ、これは! さっきとは明らかに違う。
 目隠しした中年男は口から血の泡を吐きながらグエッグエッと苦渋に顔をゆがめている。
 その手が胸に刺さった刀身を掴み引き抜こうとしていた。
 なんなんだ、これは。
 ウソだ、こんなの。
 演技だ。演出だ、お芝居だ。
 だけど、どくどくと流れ出る血はトマラナイ。
 え…………ええっ…………!
 そこから先はよく覚えていない。
 気がついたら朝だった。
 一瞬、ゼンブ夢かと思った。
 でもテレビをつけて一気に現実に引き戻された。
「―――のガード下で身元不明の中年男性が胸を鋭利な刃物で刺され死亡。目撃者はなく警察では通り魔殺 人として捜査を進めています」
 あの男だ!
 遙は歯が噛みあわないほどガタガタ震えていた。
 アタシガコロシタ、アタシガコロシタ、アタシガコロシタ、アタシガコロシタッ!
 だけど目撃者がいないってどういうこと?
 やっぱり全員がサクラだったってこと?
 だけどアレは狂言なんかじゃなかった。こうして実際にニュースにもなっているわけだし。
―――そうか、復讐だ!
 遙は自分にとって最もネガティブな考えに思い至った。
 信者が警察に対して口を噤んだのは、自分たちで師を殺した人間、つまりあたしに死の制裁を加えようとしているのだ。
 でもちょっと待って。
 たしかにあの男はあたしが殺した。
 でも殺意はなかった。それはギャラリーも理解していたはず。
 トリックが成立しなかったのはなにかの手違い。
 そこにあたしの関与はない。
 間違えたのはカレか眼帯男か、あるいは被害者である師と呼ばれた中年男自身にある。
 あたしはなにも関係ない。
 どうもしっくりこない。なにかがおかしい。
 キモチワルイ。ムカツク。ハキソウ。
 これが夢ならどんなにいいか。
 それから数ヶ月、夜もろくに眠れぬ日々が続く。
 あの男を刺したときの感触が鮮明に蘇り、胸に刺さった刀を必死に抜こうとする男の苦痛に歪んだ顔が何度も何度もリフレインする。そしてなにより、いつカレらが報復に現れるのかと怯えていた。相手はカルト宗教集団だ。実行犯である自分は警察に助けを求めることもできない。ただただ膝を抱えて震えるだけの時間が延々と積もっていく…………。


「結局そのあと、警察に疑われることもあいつらに襲撃されることもなかったわ。不思議ね、やっと忘れられたと思ってたのに。あれはやっぱり夢だったんだって自分に言い聞かせて、あの呪縛から逃れられたと思ってたのに。また同じ思いをする羽目になるなんてね」
 ひととおり話しおえた遙がため息とともに呟く。
「この手が……この手が忘れないの。この手の感触、人を殺したときの感覚がね、ついさっきしてきたばかりみたいにハッキリと……」
 と、己の手のひらを何か怖いものでも見るようにみつめ、その手で口をふさぐ。
「月はどこまでも追いかけてくる。逃げても逃げても、どこまでもどこまでも。そう、あの連中は月……いつも静かにあたしを見下ろしている」
「遙さん」
 ずっと黙して聞いていた菅野がゆっくりと口を開く。
「それは錯覚です。車に乗っているときに見る窓の景色を思い浮かべてみてください。そこから見える近いものと遠いものの違いがわかりますか。それは遠いものほどはっきり見えるということです。たとえば月が山際にあったりすると普段より大きく見えたりする、そんな経験あるでしょう。それは位置の基準が違うためにおきる錯覚なんです。あなたはずっと月が追いかけてくると言った。でもそれはあくまでそう見えるだけのことで、それだけ月との距離があるということなんです。追いかけられると感じるのはあなたの心の中にある後ろ暗い気持ちがそうさせているだけなんですよ」
「でも、あたしもみんなと一緒で人を殺している」
「遙さん、あなたは騙されたんです。あなたに過失はまったくない。そしてあなたがその教団から命を狙われることもおそらくないでしょう」
「おい、先生、そりゃあどういうこった?」と松本が尋ねる。
「たしかにうさんくせえ話だが、今の遙さんの話がすべて事実だとするとどういう仕掛けがあったんだよ」
「事実から得ることができる結論はひとつ。これはカレと眼帯男の共謀による計画殺 人です」
「なっ……」
 菅野の言葉に目を見開く遙。
「じゃあ、あれは事故じゃなかったの?」
「ええ、遙さんが師と呼ばれる中年男を刺し殺したのは、カレらにとってまったくの計算どおりだったと思います」
 菅野が水を満々とたたえる池の前に座り小石を投げ入れる。
「どういうことだよ、そりゃ。あんた現場も見てねえクセにそこまでわかるのか」
 近くのベンチにドッカと腰を下ろした松本が説明を求めると、いつものように菅野の独壇場がはじまった。
「まず第一点。それは遙さんが暗示にかけられていたという事実。これは遙さんご自身もそう思っていたようですが、遙さんには明らかになんらかの催眠術がかけられていたと思われます。刺した後の記憶がないことから考えても、これはカレがあらかじめ、中年男が刺されるということを想定して暗示をかけていた可能性を示唆しています。僕はまずここに計画性を感じました」
 菅野が人差し指に続いて中指を天に向かってつきたてる。
「第2に刀の仕掛けです。最初に中年男と眼帯男がステージでやってみせたトリックはおそらく玩具などでよくみかける『引っ込むナイフ』の応用でしょう」
「それならあたしだって考えたわ。でも、それってナイフだからできることじゃないの? 刀身の短いナイフならそれを柄の中に仕舞うことができる。だけどあのとき使われたのは日本刀よ。とても柄の部分に仕舞うことはできないわ」
 当然のごとく遙がムキになって反論するが菅野は間髪いれずに回答する。
「それは刀身そのものが短く格納できるような設計にでもなっていたのでしょう。ちょうど釣竿や授業などで使う差し棒のようにです」
「だけど、あの刀にはそんな仕掛けなんてなかった。そのくらいいくらなんでも近くで見ればわかるわよ。たしかにあたしがあの男を刺した。ちゃんと手ごたえはあったもの。それともそこまであたしが暗示にかかっていたっていうの」
「そうは言いません。言いませんが、そこでニセモノとホンモノのすり替えが行われていたと考えれば筋は通るでしょう」
 松本がベンチを離れてふたりの元に歩み寄る。
「おいおい、そりゃあムリだろう。さっきの彼女の話じゃ衆人環視のもと、一度も刀は引っ込められてないんだぜ。どこでそれをすり替えるんだよ?」
「だからこそさ」
 菅野はズボンについた埃を払って立ち上がり松本に対峙する。
 菅野の3本目の指が立った。
「3点目。刀のすり替えが可能だったのは誰か? それはずっと刀を所持していた眼帯男だったのか。違いますね。差し替えたのはあなたのそばにいたカレですよ。遙さん、あなたさっきこう言った。『準備が整ったところでカレが、眼帯男から先刻使った日本刀を受け取ると鞘から引き抜いて自分に手渡した』と。すり替えはここで行われたんです。この動き、どこか不自然だとは思いませんか。なぜカレはあなたにわざわざ鞘から抜いた刀を渡したのでしょう」
「あっ……」
 遙はようやくあのとき感じた違和感に気づいたようだ。
「そう、普通ならば鞘に納まったまま渡して自分で抜かせるハズなんです」
 遙はそのときの様子を慎重に思い起こしているかのように空を仰ぎ、やがて得心したようにパンと手をうった。
「たしかにそうだわ。抜き身の刀を手渡しっていうのは、ちょっと不自然だった」
「ではなぜカレが自ら刀を抜きあなたに手渡したのか。理由はきわめて単純。カレにはそうしなければならない理由があった。それは、鞘の中に2本分の刀身が入っていたから。一個の柄に、ニセモノとホンモノ、それぞれ一本づつ刀身がついていて、鞘から抜くときどちらかひとつが外れる仕掛けになっていたとしたらどうです。もしそうだとすれば、カレと眼帯男は少なくとも共犯の関係にある。しかも……」
 菅野が4本目の指を立てる。
「4点目、目隠しです。最初はしてなかった中年男の目隠し。眼帯男曰く、何も仕掛けが施されていないのを証明するためとのことですが、どうも釈然としません。そこまでいうなら最初からそうすればよかったはず。いや、そもそも目隠しすることでどんな仕掛けを防げるというのでしょうか。おそらくカレと眼帯男には中年男にぜひとも目隠しをしてもらわなければならない事情があったんです」
「それがすり替えね!」
 遙の反応に菅野はすぐさま呼応して、
「そうなんですよ、遙さん。被害者が目隠しをさせられたのは、刀を鞘から抜く前でしたよね。これは狂言などではなかった。少なくとも被害者は数分後に自分の体が真剣で貫かれるなどとは努々思っていなかった。だからこそカレらは鞘から抜いた刀身を被害者に見せるわけにはいかなったんです」
「もし、それを見られたら異常に気づき被害者は警戒する、あるいは逃げ出してしまうかもしれない」
 あとを引き継ぐ遙に大きく頷き肯定の意を示す菅野。
「これでだいぶ事件の背景が見えてきたんじゃありませんか。あなたに近づいてきた男と眼帯男は共謀して師と呼ばれる髭の中年男を殺したんです。自分たちの手を汚さずにね。動機はおそらく信仰宗教にありがちな利権争いかなにかでしょう。教祖をその座から引きずりおろし自分たちがその後釜に収まりおいしい汁を吸おうとかそういうことではないでしょうか。カレの身なりの汚さと教祖の身につけた派手な貴金属を比較すればその待遇の違いは明らかですしね。衆人環視のもとでイベントに失敗して死ぬ教祖。信じることは万能ですと主張した男が身内に諮られるとは実に皮肉な話じゃないですか。だが誰も彼の死を悼むものはいなかったでしょう。信奉者たちは新たな指導者をすんなり迎え入れたはずです。頼れる者なら誰だって構わない。その手の宗教を拠り所とする者は往々にしてそういった傾向がある。しかも一度死をもって失敗してみせることで逆にインチキなどではないと、イベント自体に信憑性および神秘性を付加することもできる。遙さんはそんな策略の片棒を知らず知らずに担がされた哀れな被害者にすぎません。ようするに、あなたは罪悪感はもとより、御身の危険など感じる必要はない。誰もあなたに復讐しようとする者はいないのだから」
 菅野の長口上が終わると、遙の表情が今までにないほどに緩んでいた。
「そうだったんだ……」
 ホッとした気の緩みと睡眠不足があいまってか眩暈とともに全身の力が抜ける遙。
 松本がすばやく反応し、倒れる彼女の身体を後ろから支える。
「みろよ先生、この寝顔。すっかり安心しきってら。ま、一瞬の気のゆるみが命取りだが、あんたのお陰で遙さんの無駄な荷物がひとつおりたってわけだ」
「いやしかし、むしろこのまま起きないほうが幸せなのかもしれないな」
 慈愛に満ちた表情とはウラハラにガラス玉のように冷たい目で見つめる菅野。
 それはあたかもはるか上空からすべての事象を無機質な目で見下ろす月のように……。


 遙を担いで館に戻り、娯楽室のソファーに寝かせた松本が、暢気に玉突きをはじめた菅野の背中に声をかける。
「いつもながらご立派な講釈だったな、大先生。話を聞いただけで真相を見抜いちまうなんてよお」
「それはどうも」
 礼と一緒に玉をつく菅野。
 しかし松本は今ひとつ浮かない表情。彼は何か釈然としないものを感じていたのだ。
「だがな、先生。冷静に考えればさっきの推理、実は穴だらけだったんじゃねえのか。たしかに状況を分析するとそういう結論もありなんだろうが、そいつはあくまで極めて可能性の高い選択肢の一つに過ぎないってこったろ。なにしろ証拠が何もないんだからなあ」
 菅野はホウと感心したふうに振り返る。
「珍しく鋭いことを言うものだな」
 と、手玉の近くに回りこみ、
「彼女が使いものにならなくなりそうなのをとめることができたわけだから今回はそれで充分だろう。僕たちが追っているのは、人間教教祖の殺 人犯ではなく、僕ら構成員を次々と鮮やかに屠っていったこのゲームの【犯人】じゃないか。そうだろ? なあ、松本君、さっきのインチキ宗教家もひとつだけ良いことを言ってたじゃないか。ええと、なんだったかな」
 菅野がポケットから手帳を出してページを繰る。この男、なんでもかんでもメモをとっているらしい。
「ああ、あったあった。これだよ、いいかい。『神がいるという事実を僕が知っている』という事実は誰にも否定できません……つまりこういうことさ。あの教祖殺しのトリックを暴くこと云々より、今最も大切なことは、あの事件は遙さんの責任下にはなかったと彼女自身に認識させることなんだよ。彼女がそれを信じこみさえすれば、たとえ事実が僕の推理したものと違っていたとしても、『自分に責任はないという事実を彼女が知っている』という事実は誰にも否定できないわけだ。これで遙さんも戦意喪失することなくゲームに没頭できるってものさ。まあ、尤も……」
 手帳を仕舞い、キューを構えて菅野が続ける。
「それは彼女のためばかりではなく、僕自身のためでもあるんだがね」
「ふん、やっぱあんたこそ教祖様にでもなったらいいんじゃねえのか。宗教家とペテン師は紙一重ってね」
 さすがの松本も当初ほどの元気はなくなってきていた。
 緊張と眠気。
 精神という名の糸が張りつめては緩み、緩んでは張りつめる。
 急激に疲弊していくカラダとココロ。
「なあ、先生よ」
「ん?」
「笑うなよ」
「なにをだ?」
「あのさ、こんな状況で訊くことじゃねえかもしんねえけどよ」
「だからなんだ」
「人生ってそもそもなんなんだろうな」
「ふっ……」
 クールな菅野が思わず吹きだすと松本は赤くなって怒る。
「笑うなっつったろッ!」
「いや、すまない。だが人間少なからず死を意識すれば、そういうことを考えてみたくもなるものだ。ただそれを君の口から聞くとは思わなかったがね」
「悪かったな、らしくなくてよ。今のハナシ、忘れてくれ」
 短い沈黙の後、菅野が手玉を取りあげ台の上を転がした。
 ゆっくりと転がる白い玉が松本のいる近くのポケットにストンと落ちる。
 菅野が重く呟いた。
人生とはやり直しのきかないもの…………命がけの双六みたいなものさ
 答えを期待していなかった松本が驚きとともに菅野を見る。
 松本はその言葉の意味を自分なりに咀嚼しようと逡巡し、やがてポケットに落ちた玉を取って菅野に手渡した。
「つまり早くあがったほうが方が勝ちってわけか。じゃあ、俺たちの方こそ負け組だな」
「どう捉えてもらっても結構だが、僕は宗教家じゃないからね。そうそう含蓄のある言葉は出てこないよ」
 そして話題は自然と今後の【犯人】の動向に移っていく。
「ところで先生、【犯人】はまた動いてくるかな」
「まず間違いないだろう。【犯人】はまだまだ仕掛けてくる。全員がいなくなるまでね」
「ふん、どうあってもパーフェクトゲームを狙ってくるってことかい。じゃあ、先生よ、ここまでは【犯人】にとって順調にきてるってのは間違いないとして、俺たち3人が残ったってことまで含めてヤツの計算どおりだったと思うかい?」
「客観的に見て僕や君はどちらかというと10人の中でも厄介なタイプだ。あとでじっくり料理しようと思われてもおかしくない」
「じゃあ遙さんが残ったのはなぜだ」
「それに関しては僕らとは全く逆だな。彼女ならいつでも殺せる。彼女には告発する勇気もないし、知恵もない。おまけに行動力もない。いわば安全牌。あるいはほうっておいても自滅すると踏んでいるのかもしれないな。なんとかマトモな世界へ引き戻しはしたが、実際のところ彼女はもう限界だろう。肉体的にも、精神的にもね」
 相手が眠っているとはいえ、年上の女性を目の前にして辛辣で容赦のない批評を下す菅野。
 しかしその無情なまでの切り捨てるような言い草は、松本の神経をひどく逆なでした。
「てめえ、そんな言い方ねえだろ。遙さんだってガンバってると思うぜ、俺は」
「またそうやってすぐ熱くなる。僕はね、事実を客観的に述べているだけだ」
「おい、先生よ。俺は覚えているぞ。遙さんにこのくそったれなゲームに参加するように後押ししたのはほかならぬあんただった。誓約書に署名するのを躊躇う彼女にあんたはなんて言った? この世に平等なんてない。しかし事はあんたに有利に働くことだってありえる。そう言ったんだぜ。何が有利に働いたよ、適当なことぬかしやがって」
「ここまで生き残ったのも考えようによっては有利に働いたといえなくもないと思うが、まあいい。いずれにせよ、それは彼女の望んだことだ。彼女自身が選択したことなんだよ」
 と、菅野が呆れ顔で頭を掻く。
「しかし松本君、君はこの数日で随分人が変わってしまった。金のためならゲームと割り切って人を殺すのも辞さないんじゃなかったのか。人間というのはそんなに簡単に変われるものなのかな。それともその甘っちょろい人格こそが君の本性なのかい」
 菅野の半ばからかうような口調に松本は苛立ちを募らせる。
「うるせえ! 黙れよっ!」
 松本の剣幕に動じることなく眼前の男をなじりつづける菅野。
「いいや、黙らない。僕はこれでも君を高く評価していたんだ。頭の回転は遅いが、そのぶんどんな状況にも素早く対応してみせている。このゲームで最後まで生き残るのは君かもしれないとさえ思っていた。もちろん、君が【犯人】ではないという仮定での話だがね」
 松本は珍しく自分が褒められているにもかかわらず、この冷徹な男に強い畏怖の念を抱いた。
「あんた、そこまで自信があるんならよ、自分の身は自分で守ったらいいだろ。どうやらあんたは【犯人】じゃなさそうだしな。いや少なくとも俺はそう信じるぜ」
「僕を信じるだって? 根拠もなしにかい」
「ああ、わりいかよ」
 菅野は松本の目をまっすぐに見つめ言葉の真贋を図っているようだった。やがて菅野がため息とともに肩をすくめ、
「ったく、どこまでも失望させてくれるな、君という男は。今の君なら【犯人】も躊躇するまい。次の犠牲者は冗談抜きで君かもしれないぞ」
「ああ。もしかしたらあんたかもしれねえけどな」
 松本は眠る遙を指さしてカメラに向かって呼びかけた。
「遙さんもたぶん【犯人】じゃねえよ。だから俺はこの人をずっと守る。このくそゲームが終わるまでずうっとな。【犯人】だってもう充分だろ。もう充分に殺したろ」
「松本君、君は告発をしないつもりなのか?」
 菅野が冷淡に尋ねる。
「ああ、俺はこのゲームをおりたぜ。これからは時間切れまで徹底して守備にまわる」
 松本の決意は固そうにみえた。菅野が無表情に頷く。
「そうか、君は生存者への道を選んだわけだ。勝者でもない敗者でもない、宙ぶらりな生存者への道を…………ま、たとえ首尾よく生き残ったとしてもそれが君の人生の天井ってことだ。君の今後の人生はただただ中庸。どっちつかずのその他大勢。所詮はその程度の器
 一方の松本もここまで言われて黙っている男ではない。売り言葉に買い言葉、勢い語気も荒くなる。
「へっ、あおったってムダだぜ。なにせ命あってのモノダネだからな。まったく、あんたってヤツは好き放題言ってくれる。だったらこっちからも言わせてもらうがな、あんたはブレーキの壊れた車みてえなモンだよ。はたから見りゃあ命知らずの走りを見せる一流のレーサーだが、その実、内情はただ単に整備不良のマシンに乗ってるってだけのド素人。いいか、よく覚えとけよ。勝負事には波ってもんがあるんだ。時には強く攻め、時には潔く引く、そうやってトータルで浮かべば勝ちってことなんだよ。すべてにおいて勝ちを拾おうとするのはあまりにも無謀。それこそド素人の所業だ」
「ブレーキの壊れた車ね。君のほうこそ好き勝手言ってくれるじゃないか。まあここは素直に受けとめておくよ。そういう考え方もあるんだな、とね」
 と、こちらは一切挑発には乗らず、大人の余裕すら見せて部屋を出て行こうとする菅野。
 そんな彼の背中に松本の怒声が飛ぶ。
「じゃあな、先生! せいぜいガンバレよ!」
 松本には菅野の背中がひどく小さく見えた。
 思わず彼は心の中で付け加える。
―――まっ、一寸先は闇ばかり、だけどな。
 窓の外に視線を向けると、空はむかつくほどに蒼く晴れわたっている。
 一方、いつの間にかソファーに横たわる遙の目がぱちりと開いている。
 その様子は他のふたりからは死角になっていて確認できなかったのだが、鱒沢遙はたしかに覚醒していた。
 そしてふたりのやりとりを途中から聞いていたのだ。
 微動だにせず、ただただ黙々と…………


 8月9日19時数分前。
 無事、夜のタイムチェックを終える3人。
 菅野祐介はたいした食事も摂らず早々に自室へ引きあげていた。
 残されたふたりは所在なげに沈黙を共有している。
 食堂には山口代理人のほか4人の【代理人助手】が微動だにせず影のようにそれとなくふたりの動向を監視していた。
 突然、19時の刻と報せる鳩の鳴き声が食堂内を統治していた静寂を容赦なく蹂躙する。
「もう、いやああ!」
 ビクリと頬を引きつらせ過敏に反応する鱒沢遙が聞きたくないとばかりに耳を塞ぎテーブルに突っ伏す。
 衰弱しきっていた。憔悴しきっていた。
 チューブの歯磨き粉の最後の最後を搾りだすように様々な思案をめぐらせてみるも、どうしても【犯人】を示す手がかりには触れることさえできないでいた。苛立ちが加速する。
 松本浩太郎が厨房から持ってきた板チョコをひとかけらだけ割って口の中に放り込む。
 そして鳩時計が鳴り止むのを待って遙に問いかけた。
「なあ、遙さん、あんたの借金って一体どうやってこさえたんだ? 室町の旦那と一緒で、あんたも誰かに騙されて連帯保証人にされちまったクチなのかい」
 しかし遙は面をあげると、はっきりとした口調で返答する。
「まさか! あたし、彼ほどお人好しじゃないわ。それに誰もあたしに保証人なんて頼んだりしないわよ」
「じゃあ、金のかかるような趣味でもあんのか」
「あたしの趣味ね、海外旅行とブランド品集めなの」
 何か話しでもしていないとやりきれないとでも思ったのか、こんな特異な状況で意外と話は弾んでいく。あたかも沈黙の悪魔から逃れようとするかのように。
「へえ、ま、たしかに金のかかりそうな趣味だわな。けどよ借金してまでやるかな、普通」
「やるのもんなのよ、普通。自分を着飾ることで自分のステイタスをあげる。単なる見栄っぱりって言っちゃえばそこまでなんだけどね」
 もう化粧のひとつもしていない痛々しいスッピン顔の遙にとっては実に皮肉な発言であった。もう恥も外聞もないということか。見栄など死と隣り合わせの状況ではあまりにも無為ということか。
「ブランド品を買う人の言い訳って面白いの。たとえ値段が高くてもそのぶん品質が良くて物持ちがいいから、決して贅沢ではない。むしろお得な買い物をしてるって言うのよね。でもそういうことを言う人に限って、バックとか靴を20も30も持っていて、そのほとんどを押入れの中で眠らせてるの」
「それって、もしかして自分のこと言ってんのか?」
 ズバリな指摘を受け、屈託なく笑ってみせる遙。
「あたり! でもいいじゃない、好きなんだから。誰に迷惑かけてるわけじゃないし、法に触れてるわけでもないしね。それにあたしだって―――」
―――けど借金まみれになってるんじゃ、身内に迷惑がかかるんじゃねえの。
 松本はそんな思いをあえて口に出さずに飲み込んだ。
―――そんな台詞、さんざん悪さをしてきた俺には似つかわしくない。なにより形だけでも彼女が饒舌になっている。元気になっている。それに水を差すようなマネはしたくない。もう少しこのハリボテの平和に付き合ってやろう。
 松本は思い出していた。
―――子どもの頃、学校で芥川竜之介の蜘蛛の糸という物語を読まされた。せいぜい十分程度で読み終わるような短い話だったと思うが、細かい内容までははっきりと覚えていない。たしかカンダタとかいう悪党が行ったたったひとつの善行を神様が認め、地獄に堕ちた彼に極楽行きのチャンスを与える、そんな話だったような気がする。これってまるで今の俺みたいじゃねえか。ここで遙さんを救おうとしている俺に正義感なんてない。そうだ、これは贖罪なんだ。罪滅ぼしなんだ。明日死ぬかもしれない我が身を憂い、あろうことか神に媚を売っている、この松本浩太郎がだ。情けねえ、小せえ、俺は最低だ。こんな俺に蜘蛛の糸なんか降りてくるワケがねえ……考えてみりゃあ昼間の遙さんの言い分も一理ある。みんながグル。それは俺にだって当てはまる。俺を恨んでるヤツが金を出しあってこんな大掛かりな芝居を打ち、俺に復讐しようとしてる。かなり強引な推理だが全くない目ではない。それが怖い…………そうか、これが恐怖ってヤツか。自分の意思とは無関係にひどく寒気がする、震えが襲う。畜生、カラダってやつはホントばか正直だな。ああ…………けど、あのカンダタって男、結局最後はどうなったんだっけ…………?
 フト我に返ると遙はオルゴールのようにひとりで喋りたおしていた。まるで喋りつづけることで不安を押しつぶしてしまおうとしているかのように。
「―――あたしがよく行くのはイタリアね。ミラノでブランド品で買い漁るのが一番の目的だけど。グッチ、フェラガモ、プラダ、コーチ、フェンディ、ベルサーチ、ミュウミュウ。やっぱり本場はいいわよ、安く手に入るしね。でもあっちって結構治安が悪いから夜のひとり歩きは厳禁。それにあまり華美な服装もターゲットになりやすいのよ。とにかくスリとかめちゃくちゃ多いから、気をつかうの」
「ふうん、あんたホントに詳しいんだな。俺が知ってるブランドつったらアルマーニくらいなもんだな。いや、だからって持ってるわけじゃないぜ。名前を知ってるってだけなんだけどさ」
「じゃああなた、これ知ってる? ジョルジオ・アルマーニとエンポリオ・アルマーニの違い」
「わかるわけねえだろ、ンなもん。まあ、どっちも名前くらいは聞いたことはあるけどよ。おおかた片っぽがニセモノとかってこったろ」
「ぶー、ハズレよ。どっちもれっきとしたブランド。だけどその違いはね―――」
 思わず目を細め苦笑してしまう松本。興味のない話題に正直ちょっと辟易気味の彼だったが、彼女の喋るに任せ適当に相槌を打つ。
 そうしながら、またチョコレートをひとかけら口に運ぶ。
 それを目ざとく遙が指摘する。
「松本君ってチョコ好きなの? なんだかあなたにお菓子なんて似合わないわよ」
「疲れてるときには甘いものがいいんだよ。別に好きなわけじゃねえ」と、憮然とする松本。
「じゃあケチケチしないでもっと食べたらいいじゃない。夕食だってロクに食べてないんだし。それに食料は潤沢にあるんだから」
「そうじゃねえよ、わざと少しずつ食ってるんだ。食いすぎたら眠くなっちまう。眠くなれば集中力が殺がれる。そして緊張の糸が切れれば…………」
―――ぷつん。
 極楽への糸はたった今切れました。
 あなたはまっさかさまに地獄へ堕ちていく。
 でも悲観してはいけない。
 もともとここがあなたの居場所。
 本来いるべき場所だったハズなのだから。
 松本は一瞬なにか嫌な感じのする得体の知れないものに纏わりつかれた気がしたが、それでも動揺を隠しつつ話しつづけた。
「とにかく腹八分目どころかちょっとすいてるくらいがちょうどいいんだよ。あんたも覚えといたほうがいい。それから熱い風呂もご法度だ。あれは強烈だ。すぐ睡魔にやられてしまう」
「まるで水を得た魚じゃない」
 遙がおどけて手を叩く。
「さすがサバイバルゲームが趣味なだけあるわねえ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あんた、なんで俺の趣味を知ってるんだよ!」
 松本はうろたえた。
―――今の俺の格好は白のTシャツにストーンウオッシュのジーンズ。決してそれらしい格好というわけでもない。まさか見た目が体育会系だからってか。
 しかし遙の回答はいたってシンプルなものだった。
「なに言ってるの。自分で言ってたじゃないの、あたしたちが会った最初の日に。サバイバルゲームをよくやるんだって」
「そうだったかな……」
 10人の構成員たちが邂逅した運命の7月31日。
 それが9日後の今、3人しかいない。
 松本にはそれはとてもとても遠い昔、遥か昔のことのように感じられた。
 ふと空気が動いた。
 遙が席を立ったのだ。
 【代理人】たちの注視の中、ゆっくりとテーブルを回り込んだ彼女が、以前堀切数馬の座っていた松本の隣りの席に腰をおろす。
 そして彼女は松本の肩に頭を凭れ、祈るように呟いた。
「あたしたち、助かるよね…………きっと生き残れるよね…………」
 声が震えそうになるのを必死で抑えようとしているのがひりひりと伝わってくる。
 松本は心の中でムリだと言った。
―――ベストは尽くす。けどムリだ、絶望的だ。俺は、俺たちは……
 下腹部がきりきり痛む。
 俎板の上で生きたまま身を切り刻まれる活け造りの魚のような気分だ。
 しかし!
 松本は奥歯を噛みしめて踏みとどまった。
 不安は伝染する。
 俺がしっかりしなければ!
 最悪俺が死んでもこの人だけは守ろう。
 松本には遙に対し異性としての特別な感情はなかった。むろん遙も同じだろう。だがこの異常極まりない状況下で支えあわずにはいられなかった。信じあわずにはいられなかった。
 あの塀の向こうへ出て行くまでは死ねない。死なせられない。
―――言葉はすげえ力を持っている。うろ覚えだが、たしか言葉には霊力が宿ると聞いたことがある。霊力、それは発せられた言葉の内容どおりの状態を実現する力。そういう魂の吹きこまれた言葉を言霊(ことだま)と呼ぶ。
 松本はこれから発しようとする言葉に霊力を吹きこんだ。
―――俺の言霊を聞け。俺を信じろ。俺も……信じたいッ! たとえそれが見え透いた嘘でも、根拠のない憶測でも、それはときに人を癒してやることができるんだ。俺のようなクズの言葉でも……
 松本は遙の肩を強く抱き寄せ、彼もまた念じるように言いきった。
 「ああ、絶対生き残るよ、俺たち」と……


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