第24章


第24章  屍の山を越えて

「思ったより傷は深かったな。なるほどこれならペナルティだ」
 菅野祐介がため息交じりにそう言った。薬箱を持ち出してきて、娯楽室のソファーで松本浩太郎に応急処置を施し終えたところだった。
「このぐらいなんでもねえ。それに利き腕でもねえしな」
 松本が大げさに包帯を巻かれた腕を振り回し、虚勢を張っている。骨には達していないとはいえ乱暴に扱えば再び傷は開いてしまうだろう。
「くそっ、今度ばかりは自分の不甲斐なさに心底呆れたぜ。マヌケすぎるよ、俺は。やっぱ俺が遙さんを殺したようなもんだ。これで俺も晴れて人殺しの仲間入りってわけさ。なあ、笑えよ、先生。いつもみたいに人を小馬鹿にしたように笑ってくれよ」
 しかし菅野は笑わなかった。ただ感慨深げに室内を見渡している。
「すっかり静かになったな。部屋が嘘みたいに広く感じるよ」
 キューを取ってビリヤード台に向かう松本が投げやりな調子で問うた。
「で、どうすんだよ、これから。あんたもビリヤードでもするかい。それとも麻雀? はっ、面子が足りねえか」
「とにかく僕は君と行動を共にする。君が【被害者】であることがわかった以上、残りの8人、いや遙さんも除けば残りの7人のうちの誰かが【犯人】なんだ。こうしてふたりだけになってしまったからには、今後は互いにフォローしていくしかないだろう。夜の2時間以外はずっと一緒にいることにしよう。それから武器になりそうなものを一箇所に集め、交代で最小限の睡眠をとっていく」
「ちょ、ちょっと待て。勝手にハナシを進めンじゃねえよ。俺は別にあんたを信じたわけじゃねえんだ。あんたの目の前で無防備にぐうすか寝てられっかよ」
 先刻、菅野の前でぐうすか眠っていたことは棚上げして抗議する。
「だったら聞くが、君はこれからずっと毎日2時間の睡眠だけで過ごせるというのか。体力自慢の君でもふらふらになるぞ」
「うっ……そりゃあ……」
 ぐうの音も出ない松本に菅野が追い討ちをかける。
「僕を信じろとは言わないが、しかし僕は【被害者】だ。それは僕が保証する。証明できないのは残念だがね。とにかく君には選択肢はない。菅野祐介は【犯人】ではない。そう決め打ちしてやっていくしかないんだ」
 松本は菅野に背を向けたまま球を突いたが、手が滑って強く突きすぎてしまった。突いた手玉は台を飛び出し床を転がっていく。
「それにしたって、あんたに主導権を握られるのは気にいらねえ。第一、守ってばかりじゃ【犯人】のやろう、7千万抱えて、ハイさよならだ。そんなこと絶対にさせたくねえ。だから俺は決めたんだ。断固【犯人】と戦うってな。あんたと一緒だよ。もう宙ぶらりんの生存者への道は選ばない」
「好きにするといいさ」
 菅野が手玉を拾い上げて台に戻しながら言うと、松本がキューの先を菅野の眼前に突きつけて尋ねた。
「で、何か具体策でもあんのかい? まさかいつまでも逃げ回ってるつもりじゃねえだろ」
「もちろんだ。いずれ僕は告発する。だが今はそのときではない」
 菅野は山口代理人のほうを向いて宣言した。彼よりもむしろ、その向こうに身を潜めているであろう【犯人】に対する挑戦にもとれた。
「そんな挑発したって、【犯人】はこれ以上行動を起こさない可能性だってあるんだぜ。特に7人目、8人目は【犯人】の手によるものじゃない確率が高い。実は6人で打ち止めのつもりだったのに勝手に自滅していったというのが実態かもしれないだろう」
 それは森岡千夏、鱒沢遥が続けざまに自爆したことを受けての感想だった。言うまでもなく彼女たちが【犯人】ではなかったらの前提である。
「そうだよ。もしかしたら俺たちが【犯人】を買い被りすぎているってことも考えられるよな。俺たちが勝手にスゲエと思い込んでたってだけでさ」
「楽観主義は感心しないな」
 と、まるで【犯人】を擁護するかのように、心外だととばかりに菅野が応じる。
「あんたは切れ者だからそこまで疑うが、けど【犯人】が俺みたいなヤツだったら違うだろ。勝手な浅知恵が深読みされてるだけとは考えられねえかな」
「バカな。何を言っている」
「へたすりゃ、【犯人】は誰ひとり殺していないかもしれない。今までの連中がペナルティやら告発やらで勝手に自滅していっただけで、【犯人】は死体を面白半分に切り刻んでみたり、串刺しにしてみたりして遊んでいただけ。言ってみりゃただのガキ。幼稚な犯 罪者よ」
「ありえない。愚弄する気か、君は。このゲームを……この【犯人】を……」
 珍しく語気を強めている菅野に松本が当惑した表情で宥める。
「おいおい、なにムキになってんだ。俺だってマジでそんなふうには思っちゃいねえよ。けど可能性がある以上カンタンには握りつぶせねえだろ。考えうるあらゆる可能性を検証する。あんただってそういうやり方だったじゃねえか」
「ありえない。そんなことはあってはならない」
「ホント、どうしちまったんだよ。そんな興奮すんなって」
 菅野は神経質に爪を噛みながら、忙しなく室内を歩き回る。
「君はこのゲームの価値が全くわかっちゃいない。ずっと言ってきた僕たちの共通点、それが過去に人を殺していることだというのなら、この殺 人ゲームは厳しい予選を通過してきた言わばファイナリストたちで構成されている。だから、そんな浅はかなものじゃない、そんな低レベルのはずがないんだ……いや、もしかしたら、それだけではないかもしれない。もっと深いつながりが僕たちにはあるのかもしれない。だってそうだろう。こんな人を食ったゲームに10人全員が参加したんだ。それだけでもう奇跡じゃないか。それが奇跡でもなんでもなく必然としたら……」
「だとしたら、なんなんだ? つうか今更あんたまで自分は人を殺したとか抜かすんじゃねえだろうな」
 一瞬フリーズした菅野だったが、問いには答えず3人掛けのソファーに横になり、肘掛に頭を乗せた。
「僕は少し眠らせてもらうよ」
「待てよ、コラ。たまには人の質問にちゃんと答えろっての。ていうか俺、ずっとここで見張ってたりしねえからな」
「いや、君はここにいるさ。いるしかないんだ」
 菅野はすぐに寝息を立て始めた。本当に眠ってしまったようだ。松本は鼻腔を膨らませて怒鳴りつけた。
「俺ぁ、いねえからな! どうなっても知らねえからな!」
 ……それでも菅野は起きなかった。


「納得いかねえ」
「何のことだ?」
 顔を顰めてむくれている松本に菅野が問いかける。
「何もかもあんたの思惑どおりってのが気に食わねえんだよ」
 間もなく22時を迎えようとする頃合。規則に従い部屋に戻るべく廊下を歩きながらの会話である。結局松本は、寝ている菅野が起きるまで忠犬のように娯楽室で辛抱強く待ち続けたのであった。無論そこはギブアンドテイク、18時のタイムチェックを済ませた後は松本もゆっくり眠ることができた。文句を言う筋合いではないのは自分でもよくわかっていた。
「それは嫌味のつもりか? 悪いが僕の思惑などまるで通ってはいない。すべては【犯人】の思惑どおりじゃないか」
「はん、生きてるだけでもめっけもんだろうが」
 そんな憎まれ口を叩きながら、松本の部屋である3号室の前で足を止める。
「ではまた2時間後に会おう。時間きっかりに部屋から出てきてくれ」
「ちっ、そういうのが納得いかねえっつうの」
 小声で不平を漏らしながら、自室へ向かう菅野を見送っていたが、ふと思いついたように彼を呼び止める。
「なあ、先生。暇つぶしにひとつクイズでもどうだい」
 菅野が立ち止まり首だけを横に向ける。彼が耳を傾けているのを確認した松本は声を張って謎かけた。
「上はあるけど下はない。前はあるけど後はない。これなーんだ?」
 菅野はそのままの姿勢で考えている。松本は少しばかり愉快な気分になり、菅野を指差し、言い放った。
「これは明日までの宿題だ。2時間ゆっくり考えてみな。なあ、山口さんはわかるかい、この問題の答え」
 背後に控えていた山口代理人が、「さあ、ちょっとわかりませんが……」とあっさり白旗をあげる。答える以前に考える気がないようにもとれるリアクションだ。
「それでは良い夢を」
 言い捨てて、自室に引っ込もうとする松本だったが、ふいにその肩を菅野に掴まれた。
「んだよ!」
「腕だ」
「はあ?」
「答えは腕だ。上腕はあるが下腕はない。前腕はあるが後腕はない」
 松本は無言で苦々しい表情をつくっている。正解だった。肩から肘にかけてを上腕と呼び、肘から手首までを前腕という。人間の身体には下腕もなければ後腕という部位もない。菅野は、こんな問題わかって当然だとばかりに包帯の巻かれた松本の右前腕を軽く叩き、続いて百円硬貨をポケットから引っ張り出した。
「今度は僕からの出題だ。表にあっても裏には決してないものはなんだ?」
 ピンと弾かれた百円硬貨が松本の目の前に落ちてくる。松本は左手でキャッチしたコインをかざしながら首を捻る。
「これは明日までの宿題だ」
 菅野は言い残すとさっさと自室へ向かう。
「おい、待てよ。時間までまだ3分あるじゃねえか」
 今度の菅野はまるで何も耳に入っていないかのように立ち止まることなく自室に消えてしまった。菅野の出した問題は結局22時になっても24時になっても解くことはできなかった。


 日付が変わり、8月11日。1日から21日まで行われるゲームのちょうど中日にあたる。もちろん中日とはいえインターバルなど与えられない。鳩の鳴き声で松本はまどろみから目覚めた。そしていつものようにドアを開けて外に出ようとした。だが、しかし―――!
「あれっ?」
 ドアが開かなかった。ロックは解除されている。鍵の外れる音は確かに聞いた。なのに開かない。肩をドアに押しつけてみると数センチほど隙間が出来た。ドアは外に向かって開く。どうやら何者かによってドアを押さえられているか、あるいは机などで塞がれているらしい。感触としては人為的に押さえられている気がした。【代理人助手】がまず頭に浮かぶ。あの男たちにふたりがかりでドアを押さえつけられたら、外に出るのはまずもって不可能。当然これは【犯人】の仕業に違いない。
 そのとき、けたたましいベルの音が鳴り響いた。火災報知器が作動したらしい。さらにドアの隙間から煙がもうもうと侵入してくる。
「おいおいおい……」
 ただでさえ寝起きで頭はパニクっているのに、そのうえ矢継ぎ早に起こるアクシデント。
―――【犯人】は俺たちを火あぶりにする気か?
 松本は一旦ドアから離れ、勢いをつけて激しくドアにアタックする。2度3度とチャレンジしたが隙間が少し開いただけでそれ以上はびくともしない。
 耳障りな警告音は鳴り止まない。部屋中に煙が充満していく。
 ドアからの脱出を諦め、体を低くして窓際に向かう。
 椅子を掴み上げ、はめ殺しの二重窓に叩きつける。ガラス片が煙とともに外へ逃げていく。
 真夜中、外は薄暗い。
 下を見下ろす。2階。飛べない高さではない。
 迷っている暇はなかった。煙と音に追い立てられるように松本は飛んだ。
 下手な落ち方をすれば捻挫くらいはしていたかもしれない。しかしそこはさすが抜群の運動神経の持ち主。怪我をした右腕を庇いつつ、うまく受身を取って無難な着地を決める。
 急ぎ館内へ引き返す。あいかわらず警報は鳴り響いているが、火の気配もなければ煙もない。
 火元は2階か? そんなことを考えながら階段を一段飛ばしに駆け上がる。
 そこで彼は意外な光景を目の当たりにした。
 ドアは【代理人助手】がふたりがかりで塞いでいる。菅野の部屋も同様だ。そこまではいい。
 予想外だったのは山口代理人の行動。彼は手に発炎筒を持っていた。火事などハナからなかったのだ。
「やろう、なめたマネしやがって」
 まんまと【犯人】に一杯食わされた。やはり菅野も窓から飛び降りたのだろうか。そう思っているとドアの隙間から菅野が顔を覗かせる。
「山口さん、そこにいますか」
「はい、ここに」
 いたって落ち着いた口調で【代理人】を呼び寄せる菅野。
「0時になってもドアが開かないのですが、何かのトラブルですか。それにこの煙は一体なんです?」
「ドアは【代理人助手】が押さえています。煙についてはお答えできません」
 【犯人】に口止めされているからとはいえ、自ら煙を焚いておきながらよく言ったものである。それでも菅野は意に介さず山口に依頼する。
「あなたたちが避難していないのであれば特に心配はなさそうだ。それではすいませんが、至急縄梯子を用意していただけますか」
「承知しました」
 インカムで指示を出す【代理人】。
 縄梯子を持って降りてくる【代理人助手】。
 ドアの隙間から差し入れられる縄梯子。
 ガラス窓の割れる音。
 菅野は松本よりも安全な方法で部屋から脱出してみせた。
「くそっ、それが正解かよ」
 通常、起き抜けに火事だと聞けば誰だって慌てる。だが今は通常時ではない。何があってもおかしくない命を賭けた化かし合いなのだ。松本は自分自身の備えの甘さに腹が立った。やがて裏庭を経由して戻ってきた菅野とともに食堂へ移動する。
「畜生、また【犯人】に踊らされちまった。とことんムカつくやつだぜ」
 そう悪態をついた松本だが、ふと思い立って素朴な疑問を口にする。
「でも、なんで最初からこれをやらなかったんだろうな。人数が多いときにやったほうが効果的だろうによ」
「昨日初めて思いついたのかもしれない。それよりも僕はなぜ【犯人】はこんなことをしたのかの方が気になるね」
 その理由だったいくらでも思いつく。精神的に追い詰めるためとか、俺たちを一時的にでも分断させるためとか。あるいは部屋に閉じ込めてタイムチェックを妨害するためとか。まあ、これが一番可能性が高いだろう。だが、それならば窓からも出られないようにするべきだが……。菅野もまた同じところに不審を抱いたらしく単刀直入に【代理人】に尋ねた。
「山口さん、一点教えてください。【被害者】のタイムチェックを妨ぐために【代理人助手】が【被害者】を個室から出られないようにすることはできますか」
 すると【代理人】は、あらかじめ準備していたかのようにすらすらと答弁する。
「ドアを塞ぐのは先ほどご覧になったとおり可能です。ただし、すべての出入り口を塞ぐことは出来ません。我々が食堂や個室のドアや窓をすべて塞ぐことによって【被害者】がペナルティとなれば、間接的とはいえ殺 人行為になってしまい、規則に抵触すると解します。なによりそれが出来るのであれば【犯人】がそれを指示した時点で実質ゲームは終わってしまいますので、やはり【被害者】を部屋に閉じ込めることは我々には出来ないということになります」
「なるほど、窓から逃げることが出来るのだからドアを塞ぐぶんには構わないというわけですか。でも、何のために火事のふりまでしたんでしょうねえ。別に火事じゃなくてもドアが開かなければ、どの道、窓から出るしかないというのに……精神的ダメージを与えたかったのか、あるいはなるべく速やかに窓から出て欲しかった、ということなのかな……」
 釈然としない口ぶりの菅野に松本がいらつく。
「速やかにって何のためにだよ? なあ、あんたさっきからちょっと考えすぎじゃねえのか。【犯人】は言ってみりゃ愉快犯。ただゲームを楽しんでいるだけ。俺たちの焦るザマを見物して悦に入っている。そんだけのこったろう。全部に意味や理由を求めてたらキリがないぜ」
 菅野は妙に【犯人】を買っているフシがある。あるいは猛烈に反論されるかなと松本は身構えたが、案に反して彼はその意見をあっさり受け入れた。
「確かにそうかもしれないな。まさにさっきのクイズと同じというわけだ」
「クイズって……ああ、忘れてたよ。そういえばあの答えって何だったんだ?」
 表にあっても裏には決してないもの―――聖人を気取るなら「人の心」とでも答えるところだが、菅野ほど性善説の似合わない人間はいない。果たして彼の提示した解答は実にシンプルなものだった。
「正解は裏だ。表には裏はあるが、裏の裏は表だから、裏には裏がない。まあ、達観したわけじゃないが、君の言うように考えてもキリがないように思えてきたよ。100%ロジックだけで【犯人】を指摘するのは難しいようだ。経験は最良の教師だな。どこかで運否天賦に頼らなければならない。だが賭ける段に少しでも勝ちの目が高くなるよう論理の積み重ねは必要だがね」
―――惜しいところを突いている。しかし。
 山口が上唇をペロリと嘗めて冷笑した。彼は内心で舌を巻いていた。
 【被害者】を個室に閉じ込めたのは、無論【犯人】の指示によるものだ。軽いジャブ、精神的に追い詰めるという目的もあった。だが、それだけではない。【犯人】は昨日、ある事柄をきっかけに自分が犯したミスに気がついた。自分の犯したたったひとつの綻びに青褪めた。だが、それを【被害者】に暴かれる心配はなかった。死人に口なし、そういうことだ。感心したのはそのミスをすぐさまプランに取り入れたこと。結果的には空振りに終わってしまったが、【犯人】は常に我々の期待に応えてくれる。このゲームはここまででも充分成功だったと言って差し支えないだろう。残った【被害者】もなかなかやるが【犯人】にはまだ遠く及ばない。
 【犯人】の完全勝利。山口にはこのゲームの結末が見えたような気がした……


 松本と菅野は山口代理人を伴って、夏の夜風が心地よい庭先に出ていた。【代理人助手】が立ち番をしている中庭を通り過ぎ、花のない花壇前のベンチに腰を下ろす。月明かりがすべてを青く浮かび上がらせ、星々が冷たく彼らを見下ろしていた。
「君は僕を冷血漢だと言う。人が目の前で死んでいるのに眉ひとつ動かさない血も涙もない男だと。だが僕は葬儀屋だ。僕にとって死は日常なんだよ」
 菅野が口を開くとすぐに松本が反駁する。
「何言ってんだよ。これのどこが日常なもんか。殺されてるんだぞ、目の前で人が、何人も、次々と」
「究極的には死はすべて同じ。過程が違うだけで結果はみなイコールだ。通り魔に刺されても死、癌に冒されても死、戦場で流れ弾に当たっても死、老衰で天寿を全うしても死。どれも等しく未知の世界に連れ去られることになんら変わりはない」
「だからって人の死にそこまでドライになれるもんなのか? あんたは自分さえよければそれでいいってのかよ?」
「松本君、本当に君はこの短い間にすっかり変わってしまったね。いや、それが君の本分、本来の姿ということか」
 菅野はぎこちなく微笑むと、財布の中から一枚の写真を取り出して見せた。
「僕の家族……妻と息子だ」
「へえ、あんた結婚してたんだ」
 小さな男の子を中心に3人が並んで写っている。背景は遊園地だろうか。満面の笑顔を浮かべている妻と息子。しかし菅野だけが無表情だった。
「ひとりだけやたらと無愛想だな」
「僕は写真が嫌いなんだ。写真はいつも過去ばかりを写している。そうやって昔を振り返ったり懐かしんだりすることがとても厭なんだ。だから日記やホームビデオの類いも好きじゃない。過去を振り返ることには何の意味もなければ価値もない。少なくとも僕はそう考えている」
「とか言いながらも、こうやって家族の写真を持ち歩いているわけだ。家族は大切。だから死にたくねえってか。なんか普通っていうか、あんたらしくねえな。妻子持ちだったのはともかく、あんたが家庭的とは思えねえもんな」
 松本は努めて軽い口調で話していたが、内心ひどく胸騒ぎがしていた。そんな彼が写真を持ち歩いているということは、既に会うことが出来ない状況にある。つまり死んだとか……まさか妻子を殺したとか言い出したりしねえよな―――
 これまでの展開からしたら充分にありえる。理屈じゃない、今はそういう気持ち悪い流れにあるのだ。
 そんな松本の憂いを汲み取ったのか菅野が先回りして釘を刺す。
「言っておくが僕は家族を殺めちゃいない。妻も子どもも健在だよ」
 松本は思わず胸をなでおろした。それはそれで安心だが、そうなると菅野が家族の写真を持ち歩いていることに何やら違和感を覚える。
「不思議だな。傍から見たら幸せな家族のはずなのに、僕にはまったく実感が沸かないんだ」
 3人の写真を魚のような目で見つめてポツリ呟く。
「こうして家族の写真を持ち歩いているのも単なるポーズさ。良い夫、良い父親をただ馬鹿みたいに演じているだけなんだ。ボランティア活動とカルチャースクールに熱心な妻。彼女には菅野葬儀社の社員として経理などを見てもらっている。よく働く明るい女だよ。どんなときでも他人の悪口は絶対に言わない。少々のんびり屋だが、家庭ではいつもニコニコ笑顔を絶やさない。いつだったか、なぜそんなに笑っていられるのかって聞いたことがある。そしたら彼女、こう言うんだ。葬儀屋さんは仕事のときは笑えないでしょ。だから普段笑えない分、家の中ではなるべく笑うようにしているの。それに本当に毎日の生活が楽しいから、ってさ。嘘には聞こえないんだよ、これが。僕には信じ難い話だけどね―――息子は小学1年生。家の手伝いは積極的にするし、言いつけはきちんと守る。"尊敬する人"というテーマの作文で僕のことを書いてくれた。とても僕のことを書いているとは思えないくらい良いように書いてくれたよ。僕があいつの作文どおりの人間ならベストファーザー賞ものだ」
「けっ、何かと思えばノロケかよ。まるで絵に描いたような家庭だな。それに何の不満があるってんだ」
「この間の父の日になんて、クレパスで描いた似顔絵に赤いリボンをつけてプレゼントしてくれた。僕は胡座をかいた膝の上に息子を乗せ、とびっきりの笑顔で前歯さえのぞかせて、ありがとうって礼を言ったよ。だけどね、全然似てないんだ、僕に。あれは僕を描いたんじゃなく、理想の父親像を描いたのかもしれないな。いや、でも似顔絵には耳がなかった。目が針のように細く描かれていた。子供にはわかるのかな? 感じるのかな? 僕は何も聞いていない、何も見ていない、家族にも自分自身にさえ関心を払っていない生きる屍だということに……」
「そいつは考えすぎだろ。子供の描く絵なんて大体そんなもんだぜ。鼻とかなかったりよ。似てねえのも当たり前だ。あんたンとこの子どもだけじゃないと思うがな」
「僕は一度だって……ついぞ一度だって幸せというものを感じたことがない。僕は手の届くものと手の届かないものを無意識のうちに選別していると君は言ったが、そもそも僕には執着という観念がないんだ。父が死んだときも泣かなかったし、おそらく妻や子が死んでも、ああそうか、逝ってしまったかぐらいにしか感じないだろう。ただの順番の問題だとしかね」
「そんなあんたが、なぜ家庭を持ったりしたんだ?」
「妻とは親の勧めた見合いでね。なんというか家庭を持っていると社会的な信用というものが得られるだろう。だったら結婚するのもいいかなとその程度の考えだった。それに断ったりしたら相手に失礼だろう。僕にだってそのくらいの分別はある。なに、見合いなんて向こうが断ればいいだけの話だと思ってね。だけど彼女は断らなかった。僕は彼女に愛していると言ったことがない。言葉で言うのは容易いが、どうしても偽善という名の霧がいつも頭の周りで霞んでいる。僕の苦悩の日々、君には到底わかるまい。実感がないんだよ。死と近い場所で暮らしているからばかりではない。僕には何かが欠けている。人として絶対的に必要な何かが……」
―――それはたぶん『淋しいと思う気持ち』なんじゃないのか。
 松本はそう思ったが口に出しては言わなかった。菅野は両手に顔を埋めていた。肩が小さく震えている。泣いているのかもしれない。丸めた背中が小さく見えた。
「だけど今なんだ……」
「何が?」
「今、僕は確実に満たされている。こんなに充実した気分になったのはきっと初めてだ。人が減っていくたびに興奮さえしている。これが生きているってことなんだ。僕はここに来るために産まれてきた。大袈裟かもしれないが、そんな気さえするよ」
「バカだろ、あんた。おかしいぜ、マトモじゃねえ」
 松本が腰を上げてベンチで俯いている菅野を見下ろした。感情に任せて怒りをぶつけていた。やっぱりこいつは甘ちゃんだ。幸せは失って初めて気づくもの。だけど、こいつは失ってもなお気づこうとしない。目を逸らし続けているダメ人間。腐敗した魂を卵のように後生大事に掻き抱いている人生の落伍者。
「松本君、君は"賢者の贈り物"という話を知っているかい?」
「知らねえな、んなもん」
「"最後の一葉"などを書いたオー・ヘンリーの小説だ。これは貧しい夫婦の物語でね、妻は夫へのクリスマスプレゼントのために、自慢の長い髪を切り売り、夫の懐中時計につける鎖を手に入れるんだ。 ところが夫は皮肉にもその懐中時計を売ってしまい、その金で妻にプレゼントする櫛を買う。相手を思いやり、自分を犠牲にしてまで心を込めた贈り物をする。それを賢い行為だと最後に結んでいるが、何が賢いものか。まったく救いようもなく愚かな夫婦だと思ったよ。そんなふうだからいつまでも貧困から抜け出せないのだとね。自分の大切な髪を売って鎖を買った妻。自分の大切な時計を売って櫛を買った夫。互いに役に立たないものを買ったけれど心だけは暖かいだと? くだらない! 本当にそう思うか? 自分を大切にできない人間に他人を幸せにすることなんてできないんだ。こんな仕様もない話は"愚者の贈り物"とでもタイトルを変えるべきなんだ」
「あんた、何が言いたい?」
「僕は何にも執着しない。何ものにも縛られない。そういうふうに生きてきた。誰かのために自分を犠牲にして生きるなんて真っ平御免だ。死への恐れは否定しないが、いつでも死ねる、そう思っていた。今まで死ななかったのは意味のない死を選びたくなかったからだ。だからこそ今なんだ。今なら価値のある死を選択できる。僕は絶対に愚者にはならない。僕は―――」
 松本は固唾を飲んで次の句を待ったが静寂のみが大きく横たわっていた。菅野は噴水の前までよろよろと歩み寄り、立ち尽くす松本を振り返った。そして何の前触れもなく話題を変えた。
「僕は人を殺してはいないが、一度だけ人殺しと罵られたことがあった」
「なっ……」
 思わず絶句する松本。やっぱりか……あんたまで……あんたまでその話をするつもりなのか!
 やめさせたかった。聞きたくなかった。しかし金縛りにあったかのように動けない。菅野の舌は滑らかに回る。
「ちょうど1年前、事故で妻子を失った男がいた。奥さんはまだ20代でね、娘も小学校に上がる前だった。旦那さんは気丈にも涙ひとつ見せず喪主を務めていた。まあ一般的にそういうものなんだ。通夜やら葬儀やら何かしているうちはその急がしさから悲しみの波はやってこない。家の中もたくさん人が出入りして賑やかだし寂しさもあまり感じない。交通事故という思いがけない死でもあり、現実感がないんだ。妻子はまだ実家に帰省しているんだくらいにしか感じないし、そのように心の底で願っている。だけど誰もいなくなったとき、初めて家の中に取り残された気分になる。いるべき人がいない。そこで巨大な悲しみに襲われる。脱力感と喪失感に心が塞がれる。特にも事故死なんて病気と違って、あらかじめ心の準備が出来ていなかったから尚更だ」
 ハナシが見えない。誰に誰を殺したと菅野は罵られたのか……
「後日、料金の精算で男のマンションに行った。ちょっとノブに手をかけたらドアが開いた。中に声をかけたが応答はない。近くに出かけたのだろう。そう思って、少し待たせてもらおうと時間つぶしに屋上に行った。そしたらいたんだよ、旦那さん。しかもフェンスの向こう側にだ。マンションは10階建て。落ちれば確実に死ぬ。でも彼はきっと死なないと僕は思った」
「なんでそう思ったんだ。遺書がなかったとか?」
「いや、結果として遺書は残されてなかったんだけど、僕が死なないと感じたのは、彼が靴を脱いでいなかったからなんだ。きっと感傷に浸っているだけなんだと思ったよ。愛する家族の元に行きたい。ふと魔が差したんだな。だが、あのフェンスを越えて足元に広がるコンクリートの谷底を目の当たりにしたらそんなことは到底できない、できるわけがないと思った。大の大人だ。冷静に考えればわかること。その死には意味はないし、価値もないからね。僕が声を掛けると彼は世にも情けない顔で振り返ったよ。眉を八の字に曲げて、顎に皺を寄せて、唇をぶるぶる震わせていた。やっぱりだ。その表情には恐れが見て取れた。来ないでください、と彼は言った。僕は言うとおりにしたよ。下手な説得して刺激するより何もしないほうがいいと考えた。何より煩わしかった。そんなことにまで関わりたくないと思った。遺族の悲しみを慰める、そんなアフターケアまでしてやる義務はない。それは僕の仕事の対象外だ」
「それであんた、そのままほったらかしにしたのか」
「ああ、そうだ。一旦屋上を出て、階段の踊り場で彼が戻ってくるのを待った。何もせずにじっと待った。だけどいくら待っても彼はやってこない。そのまま帰ろうかとも思ったが、また集金に来るのも面倒だ。だから僕は30分待って屋上に戻った。鉄の扉を開けたそのときだった。僕は彼が落ちる瞬間を見た。止める暇もなかったよ。自分の意思だったのか、それとも足を滑らせたのか、どちらともつかなかった。不思議と頭の芯は冷えていてね。フェンスに向かって歩きながら、また葬式か、忙しくなるな、なんてことを考えていた。慎重にフェンスを乗り越えて下を覗き見た。いたね。まるで蝿叩きにつぶされた羽虫のようだった。すぐに救急車を呼んだよ。無駄なのは一目瞭然だったけど、一応ね。それからが厄介だった。駆けつけた彼の両親からこっぴどく責め立てられた。なぜ助けようとしなかった、なぜ説得しなかったとね。年老いた母親は狂ったように泣き喚くし、父親は僕の胸倉を掴み、顔に唾を飛ばして猛抗議だ。まったく煩わしいったらなかった」
「……それがあんたの罪ってわけか」
「まあ尤も、当の僕には罪の意識なんて露ほどもないがね。あのときの僕の行動に間違いはなかった。仮に僕が説得していたとしても、どの道、彼は命を落としていたさ。そういう運命だったんだ」
 松本にはそれが本心かどうか図りかねた。己の死を前にした懺悔。誰かに話しておきたい。そんなふうに思ったのかもしれないし、あるいは言葉どおり、単なる不愉快な記憶なのかもしれない。だが、松本にその真意を確かめることは出来なかった。真実を確かめるのが怖かった。それに問い詰めたところで本当のことを話してくれるとも限らない。もしかしたら、今の話自体が丸々全部口からでまかせということだってあるわけだ。所詮、どうしたって他人の心なんて窺い知ることなんてできないのだから。
 これで、とうとう……
 ついに自分を除く9人の罪を知ってしまった。
 松本は暗い気分を振り払うように、菅野の傍へ歩み寄り、ことさらに明るい調子で話しかけた。
「あ〜あ、しっかし、あと何日こうしてなきゃなんねえんだろうな」
 菅野が噴水を見つめながら興味なさげに答える。
「最終日の21日から10日引いたら残り11日。わかりきったことを聞かないでくれ」
「へえ、計算速いねえ。いかにもあんた、理数系って感じだもんな」
 松本は理数系への偏見たっぷりにそんな皮肉を飛ばすと、菅野が律儀にまた答える。
「教科としての数学は好きだし、得意だったよ。国語のように答えが複数あったり、あいまいだったりするのは僕の性には合わない。答えはひとつ。普遍にひとつ。数学にはそういう潔さがある」
 たかが引き算のことにまじめくさって答える菅野を見て、松本は思わず吹き出した。こいつ、テンネンなところもあるんだな、と。
 そして―――
「見ろよ」
「ああ、すごいな。飲み込まれそうだ」
 松本は菅野と共に満天の星空を振り仰いだ。
―――この星空を見ればわかる。たぶんここは俺の住んでいる都会とは違う。俺の住んでいる街じゃ、こんな星空はまず拝めねえもんな。
 8人が消えた。少なくともこれまで7人が死んでいる。それでも俺は前へ進む。それがどんなに困難で不利な状況であっても、屍の山を越えて【犯人】を糾弾するその瞬間まで歩みを止めるわけにはいかねえんだ。


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