第25章


第25章  共通点

 それから2日間、貴重な時間は大過なく過ぎていった。
 松本浩太郎も菅野祐介も退場することはなかったが、一方で【犯人】が告発されることもなかった。
 ただただ無為に過ぎていく時間。変化といえば鱒沢遙に切られた松本の傷が塞がったことくらいか。
 松本にとって、決して馬が合うとは言えない菅野とふたりきりで過ごす時間はひどく息が詰まった。むろん【代理人】になら話しかけることは可能だが、相手はロボットのようなものでおよそ情緒的な会話など期待できない。松本は自然と口数が少なくなっていった。
 そして迎えた8月13日の昼。食堂と部屋の往復ばかりで元来アウトドア派の松本はかなり参っていた。広い屋敷なので物理的な閉塞感はない。むしろ人が少なくて広すぎるくらいだったが、精神的なカゴの鳥状態に相当ストレスが溜まっていた。
「くそっ、もううんざりだぜ。おんなじところを行ったり来たりばっかでよお」
 3階へ行くことは出来ない。2階は自分の部屋だけ。ほかに動ける範囲となると1階と庭くらいのもの。まだ足を踏み入れていない場所などひとつもない。娯楽室には退屈を埋めてくれる様々な遊具があったが呑気に遊ぶ気分にもなれなかった―――どうしようもない袋小路。このまま残り9日間、じっと待つだけなのかと考えると、それだけで暗く沈み込んでしまう。
 菅野は食堂の指定席に座ったまま、腕組みしてじっと動かない。まるで【犯人】との根比べを決め込んだかのように。山口代理人もご同様だ。
 松本は我慢の限界に達していた。
 何かないか、何か……この両竦み状態を打破するような新展開は……
 何度も読み返してしわくちゃになった規則を血走った目で追う。縦横無尽に動く眼球がやがて一点で静止した。
「おい、山口さんよ」
 呼ばれた【代理人】のみならず菅野もまた、規則から目を離さない松本に首を向けた。
「梯子、調達してくれねえかな」
「松本君、何をするつもりだ」
 問われた松本は親指と人差し指で輪っかを作り、それを目のところに持ってきて答えた。
「規則には他のゲストルームのドアを開けてはならない、他のゲストルームに立ち入ってはならないとあるよな。だが、覗くことは禁止されちゃいねえ。見るだけならオッケーなんだ。ほら、この間、あんた縄梯子使って窓から脱出してみせただろ。それと逆に梯子を使って部屋を窓から覗くんだ」
 さながら世紀の大発見のように熱弁をふるう松本だが、対照的に菅野は白けムードだ。
「他人の部屋を覗いてどうしようというんだ?」
「決まってらあな。そこに死体があるかどうかを確かめるんだよ。ない部屋のヤツがズバリ【犯人】だ」
「そう簡単に事は運ばないだろう。どこに遺体を片づけたかまではわからないんだ。バスルームに安置されていれば、窓から確認することは出来ない。それに【犯人】は死体を演じて寝転がっているかもしれない。いや、きっと【犯人】のことだ、そのくらいの備えはしているはずだ」
「けど、確かめてみる価値はあるぜ」
「悪いが全くないね。無駄なんだよ。こうも自慢げに大声で話してしまっては、どの道【犯人】に筒抜け。仮に【犯人】の部屋以外に死体が見えるように置いてあったとしても、今から見に行ってもまず手遅れ、100パーセント対処済みだ。なんなら賭けたっていい」
「ぐっ……」
 いちいちお説ご尤もなので返す言葉もない松本。それでも自分のアイディアを捨てきれず抵抗を試みる。
「だったら、3階まで足を延ばすさ。代理人詰所も一度くらい拝んでおきてえしよ」
「どうせカーテンが閉まっているさ―――いや、待てよ」
 一旦は興味を失ったように席を立った菅野だが、何か閃くものがあったらしく四つ折にした規則を開いて確認するそぶりをみせた。
「うん、悪くないかもな」
「何がだよ?」
 ひとりで納得している菅野に松本が苛立たしげに問う。もう何度も見た光景だ。
モグラはどこから出てくるか―――」
「はあ?」
「モグラ叩きだよ。松本君、【犯人】は今どこにいると思う?」
「……どこって、俺の目の前にいるって可能性を除けば、3階の代理人詰所か2階の個室のどこかだろう。さっきも言ったようにそこは【被害者】の立ち入りが許されないエリアだからな」
「そこなんだ。モグラを叩きたかったら、出口でハンマーを構えておくべきなんだ。タイムチェックの都合があるから、今まで食堂を拠点に行動していたが、それは守りの論理であり、逃げの算段。攻めの理論を働かせれば、僕たちがいるべき場所はここではない。2階廊下の階段前だ。食堂のタイムチェックは交代で行い、最低ひとりが常に階段前に陣どり、【犯人】が顔を出すところを押さえる。これが正攻法なんだよ」
 たしかに【犯人】の潜伏している場所が1階や庭とは考えにくい。そうなれば必然、2階か3階。【犯人】の首根っこを押さえるのに、その場所は絶好のポイントだ。しかし―――
「待てよ。それじゃいよいよもって両竦みじゃねえか。逆に【犯人】を動けなくさせちまうだけだぜ」
「いや、そうはならない。【犯人】の狙いはあくまでも完全勝利、皆殺しだ。むしろ追い詰めることになる」
 加えて菅野が耳元で囁く。
「実は【犯人】にとってもチャンスなんだ。22時から0時の僕たちが自室に閉じ込められている間、【犯人】は自由に動けるわけで、そうすれば交代で食堂へ行く僕たちが一時的に分断されるそのときこそが狙い目となる。【犯人】側と【被害者】側、ともに新たなリスクを背負うことになるわけだが両竦みにはなりえない。うん、いい考えだ。これでゲームは再び動き出す」
 泥沼に足をとられた舟が緩やかに、しかし確実に動き出そうとする気配があった。それでもなお松本は一抹の不安を覚えていた。
「そいつはどうかな。前にも言ったが【犯人】は6人でやめたのかもしれない。なんつっても千夏や遙さんの死に【犯人】の関与はないんだからな」
「だが僕にはどうしても【犯人】がこのまま時間切れを狙ってくるとは思えないんだ」
「まあ、やってみる分には構わねえけどよ」
「そう、やってみる価値は充分にある」
―――俺の覗き梯子作戦もそれなりに価値はあると思うけどな。
 松本はそんなふうに思ったが、あえて口にはしなかった。言えば倍以上になって屁理屈が返ってくるのはわかっていたし、なによりこれ以上じっと待ち続けるのは耐えられなかったから。


 その夜。
―――俺の罪って、一体何だ?
 2階廊下の階段前、眠る菅野の横で護身用の果物ナイフを弄びながら松本は考えていた。
 俺以外の9人は何らかの形で殺 人に関与している。だが俺にはない。俺だけにはない。
 元々はなんでもやってやる、人殺しも辞さないつもりでゲームに参加したものの、今となっては本当にそんな覚悟があったのかさえあやしいところだ。ただ熱に浮かされていただけ、異様な空気に飲まれていただけ、そんな気がしないでもない。そんな俺が人殺しなどありえないハナシだ。
 俺たち10人の共通点。
 そもそも共通点なんてあったのか?
 もしあるとしたらもっと他に隠れた何かがあるんじゃないか?
 そう、菅野の言うとおりだ。だいだいからして、あなたは選ばれましたとか胡散臭いこと言われてノコノコついてくるものか? や、実際俺だってついてきたんだ、ノコノコとカネのにおいにつられてな。だが、そうじゃないヤツもいた。不穏な空気を嗅ぎとったとか、特に理由もなくとか。だが、つまるところ逃げ出したかったんじゃないのか。この息の詰まるような現実世界から。要するに半ば自暴自棄……違うか?
―――あるいは、孤独。
 気が置けない人間がいない。空虚な心の所有者たち。皆それぞれ当てはまるような気がする。
 最愛の夫を失い、心にぽっかり穴が開いてしまった石田サチコ。
 友もなく、周囲の人間にコンプレックスを抱いてばかりいた伊勢崎美結。
 内では冷えきった家庭、外ではしがない中間管理職だった螺子目康之。
 スランプに陥った途端、己を取り巻く全ての人たちから背を向けられた平一。
 唯一の拠り所である母親を見知らぬ男たちに奪われた堀切数馬。
 親友に裏切られ、かみさんにも逃げられた室町祥兵。
 自分がいなくなっても自分を探す人なんていないと言いきった森岡千夏。
 誰にも頼れないまま、現実逃避を続けてきた鱒沢遙。
 幸せなはずの家庭の中で誰とも心を通わせようとしなかった菅野祐介。
―――孤独。
 ゆえに心の奥底で消え往く場所を探していた人々。
 カネに釣られたように見えて、実は誰もが心の奥で奈落を求めている。破滅を渇望している。だからこの命がけのゲームに参加した。
 じゃあ、俺はどうなんだ?
 そうかもしれない。
 そうではないかもしれない。
 わからない……
 少なくとも俺には人を殺した覚えはないが、これならかろうじて納得がいく。
 仲間と呼べる連中はいるが、おそらく誰ひとりとして2週間近くも行方知れずの俺を心配し探したりはしていないだろう。それは確信がもてる。なぜなら実際、その仲間と呼べる連中の誰かが、俺のように行方知れずになったとしても、俺は心配もしないし探そうともしないからだ。
 そんなクソな人生なら早々に幕を下ろしてしまえばいい。そのほうがきっとラクだし、ある意味幸せってもんだ。
 だとすると、ひとりだけ仲間はずれがいる。
 ひとりだけ真に不幸な人間がいる。
 それは【犯人】だ。
 【犯人】は己の手を汚し、罪を深め、なおかつこれからも生き続けなければならない。日本銀行券という洟紙の役にも立たない紙切れを貰って……
 考えようによっちゃ、それだって厳しいペナルティともいえる。
 少しだけ【犯人】が哀れに思えてきた。


「本当に君にはないのか。僕のように人殺しと言われたことも」
 シンと静まり返る宵の間。日付が変わってほどない時刻。タオルケットに包まっている松本に菅野が問い掛けている。
「ねえよ、しつけえな。何度も考えてみたが思い当たるフシがまったくねえんだ。まあ、俺もそれなりに悪さはしてきたよ。万引きとかケンカとかな。けど俺、マジでコロシだけはやっちゃいねえ。あんたの言うような法に触れない間接殺 人もだ」
 松本は菅野に背を向けると、声のトーンを落とし自嘲気味に唇を歪めた。
「だけど俺は今ハッキリ自覚している。俺は殺してしまった。遙さんを殺しちまったんだ」
「それはおかしい。絶対何かあるはずだ。そうでなければ君はここへは招かれない。遙さんを殺したというのはいわばイレギュラー。それじゃない。松本君、思い出すんだ。君にも何かあったはずなんだ」
「じゃあ、何でも聞いてくれよ。俺は嘘なんか言ってない」
 しつこく尋ねる菅野に辟易する松本。顎に手を当てて天井を仰ぐ菅野。
「たしか君は大学生だったな」
「ふん、賢くなくても入れるところだよ」
「だったら、なぜ進学を?」
「母方の爺さんが、行けって言うんだ。大学くらい出とかないとってな。今どき浪人までして三流大学なんぞ卒業したところで、どうということもねえのによ。ったく、年寄りは考えかたが古くせえんだ。自分のコンプレックスを孫に押しつけんなっつうの」
「ご両親はなんと言ってたんだ?」
「親父は死んだ。お袋は蒸発した。今や爺さんが俺のたったひとりの肉親さ」
「そうか……君の父親はどんな人だった?」
「和菓子作ってる会社の社長だったよ。従業員は多いときで100人以上はいたのかな。俺、これでもガキの頃は坊ちゃんなんて呼ばれてたんだぜ。笑えるだろ」
 こんな話をするのは初めてだった。松本は感慨深げに言葉を紡いでいく。
「まあ、親父も2代目だったから生粋の坊ちゃん育ちだったんだけどな。ただ、経営の才覚は爺さんほどはなかった。俺が言うのもなんだが甘ちゃんの放蕩息子でな、ほんと妙なヤツだったぜ、俺の親父は」
 言葉とは裏腹にどこか懐かしそうに目を細めている松本に菅野が短く尋ねる。
「妙とは?」
「言動に一貫性がねえんだ。たとえば、会社じゃエレベーターは使わないでいつも階段を昇る。本人曰く健康に気を遣っているってことらしいんだが、そのくせ人間ドックを勧められると絶対イヤだとつっぱねる。じゃあ、病院が嫌いなのかと思えば、インフルエンザの予防接種は毎年受けに行ったりしてるんだぜ。なあ、わけわかんねえんだろ?」
「なるほど、たしかに妙だな」
 聞き役に徹する菅野が小さく頷く。
「しかもさ、音痴のくせに歌うのが好きで、バカみてえに広い風呂ン中で聞くに堪えねえ演歌をよく歌ってたよ」
「その家は古い家だったのかな?」
 質問の意図が理解できなかったが、松本は請われるままに回答する。
「いや、結構新しかったぜ。爺さん―――ああ、これは父方の爺さんな。この爺さん、稼いだ金のほとんどを会社のためにつぎ込んで一代で全国に展開する和菓子メーカーに押し上げた人だったんだが、そのせいか肝心の自宅は古くてぼろくて小さかったらしい。しかしまあ、折角倹約して会社を大きくしたのに、その息子に分不相応な邸宅を建てられ、財産を湯水の如く浪費されたんじゃ爺さんも浮かばれねえわな」
「なるほど。で、君のお父さんはどうして亡くなった? 死因は何だ?」
「ふん、やっぱりそこが気になるか。事故だよ。実は俺も親父の死に立ち会ってるんだ。だから間違いない」
 松本が神妙な面持ちでゆっくりと語る。
「あれは親父の会社が倒産してすぐくらいのことだったかな。家やら土地やら何もかも差し押さえられてよ、その中に親父の道楽のひとつだったクルーザーがあったんだが、それも抵当に入っちまった。まあクルーザーっていっても、モーターボートに小っせえキャビンがついてる程度のものだったんだがな。それで親父のヤツ、どうせ持っていかれるなら最後にクルージングしてえとか抜かしやがってよ、普段はロクに口もきかねえくせに、なぜかその日は俺を海に引っ張り出して、おまえも乗せてやるとか言いやがる。その日は雨が降ってたし、やめておいたほうがいいってみんなで引き止めたんだがてんで耳を貸さねえ。それでまあ、親子水入らずの航海にしゃれ込んだってわけよ。親父のヤツ、自分の代で会社を潰しちまって相当ヘコんでたけど、息子の前ではいつもいいカッコしたがってな、人のいいヤツはいずれ食われちまう。それがこの世の掟だ。騙されるより騙す側に回らなければ生き抜くことは出来ないぞ、なんて高校生の俺にわかりきったことをくどくどと並べたてるんだ」
 そこまで一気に喋った松本は一呼吸置いて洟をすすった。
「海の上で飲めない酒を飲み、あげく船酔いして折角飲んだもん、全部海ン中に戻したりしてよ。まあ、人生の落伍者の典型ってやつを見た心地だったな。ほんとに親父とはそれまでロクに会話したことがなくてよ、俺は親父のこと嫌ってたし、だから、親父も俺のこと避けてたと思うんだ。俺に軽蔑されてたの知ってたんだな。いや、俺だけじゃねえ、周りからも白い目で見られてたよ。所詮は2代目、社長の器なんかじゃねえなんて陰口を叩かれていたらしい。だから親父も実のところ会社がパーになってホッとした部分もあったんじゃねえのかな。これでやっと肩の荷が降りたってよ。まあ、養われの身の俺や社員たちからすりゃ無責任つうか、はた迷惑な話なんだけどよ。で、まあ、いろいろ話しているうちに俺の将来の話になった。それでちょっとした口論になってな。親父はへべれけに酔ってたし、雨も強くなってきて、俺もだいぶ苛立っていた。だから強引に親父をキャビンのトイレに押し込めて、俺は操舵室に行って舵を取ったんだ。もちろん無免許運転だったが、まあなんとかなるもんだ。かたや、親父は心棒を掛けられて閉じ込められたもんだから、トイレのドアをひっきりなしに叩いて、出せ出せとうるさくわめき散らす。出せばまた酒をくらうだろうし、小言がうるせえし、俺はしばらくほっといたんだ。そしたらドンッてものすげえ音がしてな、振り返ったら親父、海に飛び込んでた。トイレのドアは破られてたよ。あの酔っ払いめ、ついにトチ狂ったかと思ってな。俺、たも網の先っちょを親父に向けて叫んだんだ。はやくこれに掴まれってな。だけど親父は俺のことが見えてねえみたいに、そのままぶくぶく海の底に沈んでいっちまった」
 そう結んで松本が嘆息を漏らす。
「これが親父の死の一部始終さ。わかったろ、しょうもない事故だったんだ」
「だがなぜ、君は海に飛び込んで助けようとしなかったんだ? それほど海が荒れていたのか」
「いや、荒れているってほどでもなかったんだけどな、恥ずかしい話、俺、かなづちなんだよ。でも親父が泳げないなんて話聞いたこともないし、ただかなり酔ってたから危ねえとは思ったんだけどよ……」
 首を回すと、菅野の冷ややかな視線にぶつかり、松本は慌てて否定する。
「だからって俺が殺したわけじゃねえ! もちろん自殺とかとも違う。事故なんだよ、あれは。むしろ酔っ払って正体を失っている親父をトイレに閉じ込めておいた俺の処置は正しかったんだ。けど、親父はそのドアさえもぶち破って抜け出した挙句、まっすぐ海に飛び込んだ。舟を出したのも親父だし、酒を浴びるように飲んだのも親父自身だ。なっ、俺には何も責任はねえだろ」
「そういうことだったのか……」
 菅野が顎に手を当て、しばらく考えていたが、やがて重い口を開いた。
「松本君、君の言い分は理に適っている。だけど事の真相は君が思っているのと少しばかり違っていたのかもしれないな」
「おい、ちょっと待てよ。まさか親父が死んだのは俺のせいだとでも言いだすんじゃねえだろうな」
「その可能性はある」
「聞き捨てならねえな。一体どういうこった!」
 松本がタオルケットに包まったまま半身を起こし、胡坐をかいて菅野に向き合う。
「もしかしたら、君のお父さんはパニック障害を起こしたのかもしれない。トイレに閉じ込められたことによってね」
「な、なんだよ、そのパニック障害って」
「極度の緊張状態などが引き金となって発生する精神疾患のひとつでね、呼吸困難に陥ったり、ときにはやみくもに走り出したりすることもあるらしい」
「つまり親父はパニックを起こしたから、ドアを蹴破って海にダイブしたってのか?」
「あくまで可能性の話だがね」
「おかしいだろ。なんでトイレに閉じ込められたぐれえで、大の大人がパニくらなきゃなんねえんだ。別に死ぬまで閉じ込めようとしてたわけじゃねえし、それは親父だって織り込み済みだったはずだぜ」
「そこがポイントだよ。君の家のトイレを思い出して欲しい。豪邸に住んでいた時代のトイレだ。そこは普通より結構広かったんじゃないか。和室で言えば四畳半くらいとか」
「お、おう、たしかに広かったな。風呂だけじゃなくてトイレも広い。もろに成金趣味の家だったぜ」
「僕はそうじゃないと思う。浴室やトイレを広く設計したのは、むしろやむにやまれぬ事情だったんじゃないのかな」
「なんだと?」
 頬を引きつらせる松本の前で菅野が仮説を展開する。
「もしかしたら、君のお父さんは閉所恐怖症だったんじゃないか。浴室やトイレが広いのも、エレベーターを使わないのも全部そのためだ。それに人間ドックを避けていたのは、おそらくMRIが怖かったからだろう。とにかく狭い場所を極度に恐れる人だった。むろん、その原因までは知る由もない。先天性のものかもしれないし、幼少の頃に何かトラウマがあったのかもしれない。しかし君の言うところの妙な言動は、彼が閉所恐怖症だったとしたら一応の説明がつく」
「だからクルーザーの小さなトイレに閉じ込められたことでパニックを引き起こしたというのか。俺、聞いてねえぞ、親父にそんな病気があったなんて……」
「息子の前ではいいカッコをしたかったお父さんは、君に弱みを見せたくなかったんだろう。君がかなづちであることを隠していたのと同じようにね」
「じゃあ俺が殺したようなモンだってのか。ふざけんなっ! 死んでまで俺に十字架を負わせる気かよ、あのバカ親父」

―――おい、なにをやっている?
―――うるせえ、そこで少し酔いを醒ませ、このバカ親父!
―――やめろ、おい、浩太郎。開けろ、開けるんだっ!
―――ふん、やなこったい。

 親父とクルーザーに乗らなければ。
 親父と口論しなければ。
 親父が泥酔していなければ。
 親父が閉所恐怖症でなければ。
 俺が親父をトイレに閉じ込めなければ!

 現実は常に無数の偶然の上に成り立つもの。松本浩太郎は父の死にほんの少しだけ関わったに過ぎない。むろん悪意など微塵もない。認識不足ゆえの悲劇だった。それになにより、これは菅野が念を押したように可能性にひとつに過ぎない。過ぎないがしかし、あまりにも説得力がありすぎた。
「くそおっ!」
 松本は勢いよくタオルケットを振り払って立ち上がった。
「なんでだ。なんで今気づく。なんでこのタイミングで気づくんだよ。なんで今まで気づけなかった。俺はバカだ、最悪だ、最低だ……」
 髪をかきむしる松本の胴間声が2階廊下にこだまする。そして己の手のひらを信じられないもののように見つめる。
「認めるよ、俺が殺した、俺が殺したんだよな……」
 よく考えてみればむしろ知って良かったともいえる。明日散るともしれぬ身なれば、とにかく気づけて良かった。また、他の連中が自分の罪を告白した気持ちも少しだけわかったような気がした。そうか、俺が殺したのは親父だったのか……
 松本にとって、この事実―――厳密には可能性だが―――は相当ショックだった。だがその一方で、不思議と安堵感に似た感情も沸き起こっていた。この特異な状況下、自分だけが違うという現実に対する焦りのようなものを感じていたのだ。
 菅野が遣る瀬無いように首を振ってため息をつく。
「これでついに揃ってしまったな」
「ああ、これが俺たちの共通点……」
―――10人の殺 人者たち。
 されど、共通項がつまびらかになったとて、結局そこから得られるものは何もない。ただ虚しさだけが残滓となって松本の胸の奥底に貼りついていた。


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