第5章


第5章  幕開け

 8月1日午前0時
 狂気のゲームが幕を開けた。


「ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ」
 鳩の鳴き声が館内に響き渡る。
 24回鳴いた。どうやら鳩時計のつもりらしい。
 ただ、明らかに違っているのは、鳩の鳴き声が機械音ではなく、生音だということだ。
 もちろんテープに録音したものだろうが、その心休まるような鳴き声はどこか場違いで滑稽にさえ感じられる。
 時報ときっかりに客室のドアがひとつ開く。
 ドアが壊れるのではないかと思うほど勢いよく開くと、松本浩太郎が奇声を発しながら転がり出た。すばやく壁に張りついて左右を見渡す。その手には部屋に備え付けのハンガーが握られていた。
「さあ、どっからでもかかって来やがれ!」
 額に脂汗を滲ませながら、目暗滅法ハンガーを振りまわす。端から見たらただのバカである。松本は通路の奥の山口を認めて動きを止めた。
「あれ……俺だけか?」
「そのようで……」と、山口が肩をすくめてみせる。
 かちゃりと小さな、本当に小さな音がして、松本がハンガーを構えなおす。
 隣室の平一がそろそろと顔を出した。お互いに目が合って両者固まったように動かない。相手が【犯人】かもしれないわけだから当然のことだ。しかしその冷戦状態は数秒で破られた。さらに立て続けに3つのドアが開き、菅野と室町、そして螺子目が出てきたからだ。松本以外の面々も皆一様に最大限の警戒体制のもと通路に出てくる。そして、誰も自分の部屋のドアの前から一歩も動こうとしない。
 この中に【犯人】がいるのか……?
 そんな疑念を孕みつつ、男たちの視線が交錯する。
 この痛いような緊張感を解いたのは菅野祐介だった。
「皆さん、今はお互いに警戒しても仕方ないでしょう。ここに既に5人揃っている。仮にこの中に【犯人】がいたとしても、迂闊には手が出せないはずです。誰かを攻撃するそぶりでも見せれば、即刻告発の餌食ですからね
「それもそうだね。いくらなんでも男4人を一気に始末するなんて神業は、松本君でも難しいだろ」
 螺子目が5人の中で最も腕っぷしの強そうな松本を見てそう言った。
「ま、さすがの俺も、得物がハンガー一本じゃな」
 松本は強い男と認められ、まんざらでもない様子だ。どこまでのサルな男である。
 急速に広がっていく安堵の空気の中で、松本がふいにげらげらと笑い出した。他の面々もその笑いの元に気がつき失笑する。分かっていないのは室町だけだった。
「あんた、何持ってんだよ」
「え……?」
 室町が己の手に目を落とす。誰もが防具になる物を見つけられなかったらしくクロゼットに備え付けのプラスチック製ハンガーを手にしていた。菅野に至ってはハンガーのほかに冷蔵庫で凍らせた濡れタオルを棍棒代わりに使っている。これは技ありである。
 それらに比して室町の手の中に収まっている物はあまりに貧弱だった。
「室町さんよ、なんであんた便所スリッパなんだよ。ゴキブリでも退治するつもりか?」
「あ、しもうた。何やっとんねん、俺は……いやあ、参ったな、こりゃ、ははは……」
 と、汚いものでも捨てるようにスリッパを放り投げる室町。松本は笑いを堪えるのに必死だったが、逆に平などは猜疑心に満ちた視線を室町に送っている。
「いや、わざと間抜けなふりをして私たちを油断させようとしているのかもしれんぞ」
「違う違う、こいつは天然だよ。おっさんも心配性だねえ。そのうち禿げるぜ……って、もうかなりキテるか」
 松本は平の広い額を見て、またふき出す。
「ったく、私はもうこの部屋には入りたくないな。出入りするたびにこんな緊張感を強いられたんじゃ身が持たないよ」と、螺子目が言えば、
「せやけど、毎日これが続くンやで。せめて魚眼レンズくらいつけといて欲しかったわ」と、室町が泣き言を言う。
「普段はドアは開けっ放しにしておいた方がいいかもしれないな。どうせ【犯人】はマスタキーを持っているわけだし」と、これは平だ。
「そうだな。室内の防音は完璧なんだから、全員で開けておけば、部屋で誰かが襲われたとき、悲鳴でも上げればすぐに駆けつけられる」
 松本の言い分に菅野が皮肉混じりに牽制球を投げる。
「すぐに? 本当にすぐに駆けつけるのかい? ライバルは一人でも減った方がいいんじゃないか。一人やられるたびに賞金は跳ね上がる。君あたりは襲われた人が殺されるのを黙って見過ごして、告発になだれ込むってところだろ。まあ尤も、君が【被害者】ならの話しだけどね」
 松本はちっとも悪びれず、
「ちっ、読まれてたか。ってこたあ、菅野大先生も同じこと考えてたってことかい?」
「非道いやっちゃな。あんたら、血も涙もないんかい。死んだら地獄行きやで」
「ふん、あんたもな」
「お話中のところ申し訳ありませんが……」と、山口が口を挟む。
「規則4(1)エに記された午後10時から午前0時までの時間、各部屋はこちらで閉め切らせていただきます。さきほどもそうしたのですが、客室のドアは電子制御になっておりまして、3階の代理人詰所でロックをすることができるようになっています。そうしないと、【犯人】が安全に私に接触することが出来なくなりますので……もちろんこれはたとえ【犯人】であっても自由に操作することはできません」
「まあ、【犯人】にそれをされたんじゃ俺たち部屋に閉じ込められてしまうもんな。しかしそれにしても、すげえハイテクだぜ」
 つまりはドアの鍵を開け閉めする方法は3通りということになる。ひとつは構成員がそれぞれ持っているカードキー。ひとつは【犯人】が持つマスターキー。そして今一つは【代理人助手】が操作する電子ロック……。
「なるほど、確かにこの時間帯は【犯人】にとって【代理人】と打ち合わせが出来る貴重な時間ですからね。【被害者】にその状況を目撃されては元も子もない」
「と同時に【被害者】にとっても、【犯人】に襲われる懸念のないセーフティタイムというわけだ。この2時間だけは安心して眠れるってことだな」
「せやけど、毎日睡眠2時間じゃ体が持たんで」
「そこがミソだな。どうやって【被害者】は安全な睡眠時間を確保するか? 当面の課題はまずそれだな」
「まるで『野生の王国』だね」螺子目が冗談交じりでそんなことを言う。
「どーゆー例えだよ、そりゃ?」
「うん、言ってみれば、【犯人】はライオンで【被害者】はカモシカみたいなものさ。カモシカはジャングルでいつ肉食動物に襲われるか分かったもんじゃない。だから彼らは立ったまま眠る。しかも眠りは浅く、睡眠時間も実に短い」
「そりゃ、子々孫々、種を守るために自然と備わってきた本能みたいなもんやろ。いきなり俺たちにそれをやれって言われても無理な相談やで」
「そこは知恵でカバーするさ。人間はライオンほど強くもないし、カモシカほど足が速いわけじゃない。だがな、他の生き物より圧倒的に優れた頭脳をもっている。言わば人間はこの脳みそだけで生物の頂点に君臨しているわけだ。人間様なら頭使って窮地をしのぐんだよ」
 サル並みの知能しか持たぬ松本には不似合いな台詞だと皆は思ったが、あえて誰も口にはしなかった。
「ま、いずれにせよ、【犯人】にとっても【被害者】にとっても、この2時間は2者が完全に分け隔てられる特別な時間帯ってわけだ」と、平が締めくくり、話題を変えてきた。
「なあ、こんなところにいてもなんだから、食堂にでも行かないか」
「せやけど、まだ出てきてない人たちがおるで」
「ふん、残ってんのは女子供ばかりだろ。とろい奴らは、ほっときゃいいさ。俺たち5人が固まっていれば、とりあえず襲われる心配はないしな」
「松本君、あんさんは自分さえよければええんか?」
「当たり前だ。いちいち他人の心配なんかしてられっかよ」
「そうもいかんだろ。いや待てよ……」
 螺子目がふと首をかしげて逡巡した。
「もしもこの中に【犯人】がいないとしたら、残りの5人は危険じゃないか」
「なんでだよ。俺たちみたいに後の5人も固まって行動すれば問題ないだろ」と、松本が口を尖らせる。
「5人一緒ならね」
 と、今度は菅野が口添えする。どうやら、螺子目が言わんとしていることが菅野にも分かったらしい。いや、始めから分かっていたのかも……。
「例えば、僕たちが1階に降りた後、さらに3人の【被害者】が出てきたとする。そうすれば僕らと同じ理由で3人なら安全だということになる……山口さん、念のためお聞きしますが、【代理人】は【犯人】への協力を目的とした殺 人は行わないということですが、殺 人幇助もしないということですよね」
 山口は無表情に首を縦に振った。
「もちろんです。規則にあるとおり、特例を除き基本的に私や【代理人助手】は【被害者】に危害を加えないということになっていますから」
「ということは、やはり犯行そのものはあくまで【犯人】一人で行わなければならない。いくら不意をついたとしても女性や子供、ましてや足の不自由な老人に2人の人間をいっぺんに殺 害することは出来ない。つまり3人なら……」
「まずは安全ということやな。それで……」
 室町に先を促され、仮説を進める菅野。螺子目は黙って聞くことで、説明は君に任せたという意思表示をしている。
「あとは単純な引き算ですよ。残ったのは、【被害者】ひとりと、【犯人】ひとり」
 平が合点がいったという態で手を打った。
「そうか!【犯人】はあらかじめ【代理人】に指示しておく。自分以外の誰か一人だけが部屋に残っているようなことがあれば、自分の部屋をノックしてくれ、と……
「お見込みのとおりです。まあ、もし仮に僕が【犯人】なら、まず一番に【代理人】たちの使用しているインカムを調達してもらい、それを通じてそういった情報を得るという形を取りますけどね。インカムは自分の部屋の中に隠しておけば絶対に誰の目にも触れることはない。規則上、【被害者】は各々のゲストルームには入れないことになっていますからね」
 インカムの調達までは螺子目も考えが及ばなかったらしく、「ほほお、なるほどな、その手があったか」と、感嘆の声をあげる。
 【代理人】は知恵も腕も貸さない、凶器の調達さえしない、全くのお飾りだと思いがちだが、アイディア次第で相当の利用価値があるようだ。
「そこまで手札を晒すからには、菅野君、君はどうやら【犯人】じゃなさそうだな」
 菅野は軽く笑っただけで、否定も肯定もしなかった。
「ふん、結構なこった。とにもかくにも誰かに逝って貰わんことにゃア【被害者】には賞金を得る権利が発生しないわけだからな」
 松本の言い分は的を射ていた。【被害者】たちは、とりあえず誰か一人が犠牲になるまでは『待つ』の一手しかないのだ。少なくともこの場の4人は(若しくは5人全員)は同じ思いに違いない。
「まあ、残念ながら、そう思い通りにはいかないだろうがね……」
 例によって、またしても菅野が松本にいちゃもんをつけた。
「何でだよ。今自分で言ったばかりじゃねえか。自分がもし【犯人】なら【被害者】が一人だけこの2階に残った場合、事を起こすってよ」
「僕は殺すとは言ってないよ。インカムを調達して全員の動向を把握すると言っただけさ。むしろ、僕が【犯人】なら犯行はなるべく先延ばしにするな。誰かが死ねば【被害者】は告発することができるようになるわけだからね。君みたいな能無しでも、山勘で告発すれば1/9の確率で当たってしまう。いくら完璧な犯行をしても、万が一山勘で当てられでもしたら、それでジエンドだ……そうだな、僕なら、殺さずにじっくりと【被害者】を追い詰めて、第一の殺 人は二週間後あたりかな。その頃には皆かなり参っている頃だろう。逆に今は、まさにゲームが始まったばかりで全員神経を張り詰めているはず。そんな時期をあえて狙いはしない。ただ、【被害者】が一人になるという状況は【犯人】にとって好ましいことに変わりはない。しかし、今は殺してしまうよりも何らかの方法でその人物に精神的圧力をかけることを考えるな。できうれば、自ら規則違反をさせるようにね」
 松本は菅野の失礼な発言にも気を留めず、肝心の疑問を口にした。
「どうやってだよ? どうやって【被害者】にプレッシャーをかけるんだ? どうやって規則違反をするように仕向けるんだ?」
「そのくらい自分で考えるんだね」
 菅野はにじり寄る松本を冷たくあしらった。
「なにより、今言った状況下で殺 人など犯してみろ。アリバイの問題が残ってしまう。これは危険過ぎる」
「アリバイぃ?」
「そう、アリバイだ」
「……アリバイか、うん、確かにそれはあるね」
 螺子目が考えをめぐらせるように天井を仰いで、一語一語確かめながら言葉を紡いでいく。
「もし次の集合時間の午前7時までに一人だけが現れなかったとしたら、これはもう、その人は死んだということだ。規則違反をして殺されたという目もあるが、ゲームが始まったばかりで規則違反というのも考えにくい。となると、その人物は【犯人】の手にかかったということになるね。だとしたら午前0時から7時までの間にアリバイがなかった者があやしいわけだ。ほぼ0時きっかりに部屋を出てきた私たちは、朝までずっと行動をともにしていれば早くも容疑の圏外に置かれる。更に第2陣の3人も同じようにお互いのアリバイを証明できれば【犯人】はおのずと見えてくる」
「せやな一人死んで、8人に完璧なアリバイがある。ちゅうことは、【犯人】は最後まで部屋に残っていた人物……これはもう自分が【犯人】ですと言うてるようなもんやな」
「そのとおりです。つまり、構成員が何人かずつでも固まってさえいれば、今夜、殺 人が行われる可能性はきわめて低いということですよ」
 と、菅野が螺子目と室町の推理をまとめたが、平が「ちょっと待ってくれ」と割り込んできた。
「それは早計じゃないか。もうひとつ可能性があるぞ。つまり第一の【被害者】=【犯人】という可能性だ。【犯人】がいきなり途中退場で奇をてらうということも考えられるだろう」
「あ、そうだ! そいつはありえるぜ。平のおっさん、あんた冴えてるな」
 松本はここぞとばかりに彼を褒め称える。菅野の推測が初めて外れたものだからうれしくて仕方がないらしい。
「それはほとんどないでしょう。ゲーム初日で【犯人】が表舞台から去ってしまえば、【犯人】は迂闊に館の中をうろつくことは出来なくなりますからね。これからずっと【被害者】の目に晒されないように行動するのはかなり難しいと思いますよ」
 菅野が動揺することなく即座に切り返してきたものだから、松本はあたふたしだした。
「いや、しかしな……おい、おっさん、何か言い返せよ」
「うむ、言われてみればそのとおりだな」と、平はあっさりと己の推理を引っ込めるものだから、松本は目も当てられないほどお間抜けなピエロだ。
 会話が一区切りついたところで、またひとつのドアが開いた。6号室、石田サチコの部屋だ。
「ああ、よかった、皆さんいらっしゃったのね。わたくし一人だったらどうしようかと思いましたわ」
「けっ、よく言うぜ。あんたも抜け目ねえな。皆が出てきた頃合を見計らってたんだろ。0時になったら1階に集まろうって言ったの、確かあんただったよな」
 立ち直りの早い松本が凄みをきかせると、老婆はしわくちゃの顔を更にしわくちゃにして、
「そ、そういうわけでは……わたくし時計を持ってなくて、部屋にも時計がないし、たぶんさっきの鳩の鳴き声が時報なのかなとも思ったのですけど、でも間違って0時前にドアを開けたりしたら大変なことになると思って……」
「それやったら心配ないで。0時までは主催者側でドアを閉め切るそうやからな。仮に時間前に出ようとしても出られないっちゅうわけや」
 室町の助言を受けて、山口代理人がサチコに向かって、
「室町様のおっしゃるとおりです。それと念のため申し上げますが、あの鳩の鳴き声の時報は、時間の数だけ鳴くように設定してあります。ただ、鳴くのは1時間ごとではなく、7時、8時、12時、13時、18時、19時、22時、0時にだけ全館に放送されます。皆さんの中には時計をお持ちの方もいらっしゃると思いますが、その時計が進んでたり遅れてたりしたら命取りになりかねません。私どもとしては不用意なペナルティは極力避けていただきたいと考えておりますので、こちらで重要な時刻にだけ標準時刻をお知らせしているわけです」
「あれって結構な大音量やったもんな。目覚ましの代わりにもなるで」
「ふーん、そういうことね」
 と、言ったのは伊勢崎美結だった。
「げ、あんたいつの間に? あ、さてはドアを薄めに開けて俺たちのやり取りを聞いてたな」
 美結はすまし顔で、ふんと鼻を鳴らした。
「当然でしょ。いきなり出てきて【犯人】にぐさりとでもやられたんじゃかなわないものね」
「どいつもこいつも抜け目のねえやつらだ」と、松本が言えば、
「あんたが単純なだけでしょ」と、美結も負けずにやりかえす。
「まあまあ、お宅らそのくらいにしとけって……」
 室町が2人の仲裁に入ろうとした、その時!
 4号室のドアが勢いよく開いた。
 隣室のドアの前にいた石田サチコが吃驚して尻餅をつく。
 全員が、はっと息を呑み、4号室に視線が集まる。
 鱒沢遙は血相を変えて飛び出すと、他の連中には目もくれず通路を塞ぐように立っていた山口の脇を風のようにすり抜けていった。
「な、何だ? どうしたってんだ、彼女」
 螺子目は誰にともなく問うてはみたが、答えられる者などいるはずもなかった。
 松本は、ふいに気付いたように山口代理人に向かって芝居っ気たっぷりに言ってやった。
「見たかよ、今の。おーお、婆さんすっ転ばされて、さぞかし痛かっただろ。あの女、こんな年寄りにひでえことしやがる。骨折れてるかもしれないぜ」
 ただ転んだだけなのに大げさな言いようだ。しかしすぐに、松本が何を言わんとしてるのか一同は察しがついた。
「あいつとこの婆さんが【被害者】だったら、今のは完全にペナルティだよな。そうだろ、山口さんよ」
 説明会で菅野を殴ろうとして、逆に煮え湯を飲まされてしまった松本が、得意げに胸をそらしてみせる。
「あ、あたくしは平気ですから……何ともありませんから……」
 山口は少し考えてから、松本たちに言った。
「確かに今のは危害とは言えませんね。むしろ不可抗力といったところでしょう。何より本人が何ともないと言っておられるわけですから、鱒沢様が、【被害者】であろうとなかろうとペナルティの対象にはなりませんね」
「ちっ、何だよ」
 松本は短く舌打ちした。その間にも、老婆に一番近くにいた菅野が杖を拾ってやり、彼女を立たせてやっている。
「そんな議論より、早く遙さんを追わなければ。あるいはちょっと無謀なことを考えているかもしれない」
 菅野は石田老人の無事を確認すると、そう言い終わらないうちに階段を駆け下りていった。
「おい、待てよ」
 松本もわけもわからないまま菅野を追いかける。螺子目、平、美結もつられるように後に続く。
「ホンマ、どないしたんやろな、遙さん」
 室町は室町で、足の不自由な石田サチコの腕をとりながら、皆の後を追い1階へと向かう。
 誰もいなくなった2階通路で、山口がインカムを通して【代理人助手】に伝えた。
「私はこれから1階へ移動する。近くにいる者は客室を見張っていてくれ……特に1号室と2号室だ……そうだ。2人ともまだ部屋の中にいる……」


 森岡千夏は躊躇なく1号室のドアを叩いていた。
 4回目のノックでようやくドアが開く。
 堀切数馬が眠い目をこすりながら顔を出した。
「あ、数馬くんいたんだ。さっきのノックしたんだけど聞こえなかった?」
「あ……僕、寝てたから……」
 あの鳩時計の大音量でさえ目覚めなかったのだから、よほど熟睡していたらしい。まあ、子供だから仕方ないと言えばそれまでだが……。
「なんだか、食べたら急に眠くなっちゃって」
 千夏は思わず笑みをこぼして、
「そう、まあ仕方ないわね……でも、部屋で眠るのはやめておいた方がいいわ。なんだか様子がおかしいの。さっき皆の部屋をノックして回ったんだけど、私たち以外誰もいないみたいなの。まさか、寝てるってことはないと思うんだけど……どうしたのかしら?」
 千夏の疑問にまだ頭がぼおおっとしている数馬が答える。
「たぶん、下に下りたんじゃないの。さっきおばあちゃんが1階に集まりましょうって言ってたし……その人に聞いてみたら?」
 数馬が通路に彫像のように微動だにせずにいる【代理人助手】を指差した。
 千夏が慌てて数馬の口を塞ぐ。
「駄目よ。あの人は【代理人助手】なの。分かる? あの人には絶対に話し掛けちゃいけないの」
 千夏はまるで数馬を【被害者】だと決めつけているような口ぶりだった。
「そっか。あの人には話し掛けちゃいけないんだったね」
 数馬は無邪気に白い歯を見せて笑った。
 一方、千夏は腑に落ちない様子で小首をかしげている。
「困ったわ。てっきり全員揃ってから1階に行くものだと思ってたんだけど……部屋にいないとなると、やっぱり先に行っちゃったのかしら……ねえ、数馬君、とりあえず1階に降りてみましょう。あなただってここに一人で残るのは危険だし、眠かったら皆のいるところで寝た方がずっと安全よ」
「うん、分かったよ」
 中学生にしてはあまりにも幼く見える端正な面立ちの少年は、千夏の申し出に素直に従った。
「優しいんだね、お姉ちゃん」


「来ないでッ!それ以上近寄らないで!」
 鱒沢遙はヒステリックに声を荒げた。
 厨房に駆け込んだ遙は、出刃包丁を手にすると、その切っ先を前方に向けた。遙を取り囲んだ面々は迂闊に近づけないでいる。螺子目が遙に問いかけた。
「一体どういうつもりだい?」
 彼女は明らかに極限の興奮状態にあった。
「いざ、【被害者】のカードを見たら急に怖くなったのよ! もう法律はあたしを守ってはくれない。殺されても文句は言えない。自分の身は自分で守るしかない。もう、お金なんか要らない! 生きて帰れさえすれば!」
 遙は目にいっぱい涙を溜めて包丁を螺子目に向ける。怯んだ螺子目が一歩後退するのと入れ替わりに菅野が前に進み出る。
「落ちつくんだ、遙さん。冷静になるんだ。そんな状態で3週間も過ごせるわけないでしょう。そのままじゃ着替えも出来ない、食事も出来ない、風呂にも入れないんですよ」
「へっ、糞も出来ねえぞ。ま、そんなへっぴり腰じゃあ、あんたの得物を奪うくらいわけねえけどな」
 松本が余裕の態で、ぐっと遙との距離を詰めると、傍にいた室町が彼の二の腕をつかんで制止した。
「やめときって、松本くん。あんたもやで、遙さん。あんたが【被害者】なのはよう分かったわ。せやけどな、それやったら尚更やで。間違ってでも誰かを傷つけてみい、そこにおる山口さんの拳銃が火を吹くで」
 はっとして山口を見る遙。彼はまだ拳銃を抜くそぶりは見せていない。今度は石田サチコが彼女を説得にかかる。
「後悔してるのはあなただけじゃないんですよ。あたくしだって同じ。ねえ、協力しましょう。【犯人】の方には申し訳ないけれど、やはり生きていくためには一枚岩でいかないと……」
「イヤよ。絶対イヤ! ねえ、山口さん。あたしこのゲームおりるわ。ここで見たこと絶対誰にも言わないから……言いませんから、お願い、あたしを帰して! お願いします!」
 当然の如く山口は首を縦には振らない。
「ほら、俺をやれよ。ちょっとだけ切られてやるぜ。そうすりゃあんたペナルティだ。【犯人】はめでたく賞金を手にし俺たちにもチャンスが回ってくる」
 そうなれば彼女には死の制裁が待っている……。
「ヤだ。ヤだ。あたし……あたし帰りたい……」
 必死に懇願する遙を松本があざ笑い、彼女との距離を更に詰める。手を伸ばせばもう届くくらいの距離だ。
 松本はぎろりと彼女を睨みつけ恫喝した。
「往生際の悪い女だな。さあ、やれよ! 腰抜けが! どうした。やってみろよ、そんな度胸もねえくせによ」
 松本は無防備にも両手を広げて彼女を迎え入れる体制を取っている。よほど己の体術に自信があるらしい。
 遂に遙はその場にへたり込んでしまった。そして号泣。
 涙で化粧が崩れ、アイシャドウはぐちゃぐちゃ。まるでパンダみたいで実に笑える顔だ。しかし誰も笑う者はいない。むしろ痛々しかった。
 菅野がゆっくりと彼女の手を取りその指を一本一本外してやる。極度の緊張感から指先が硬直しているようだ。
 そこへ、数馬と千夏がやってきた。
 数馬が場の空気を壊すようなのんびりとした口調で尋ねた。
「あれえ、どうしてお姉ちゃん泣いてるの? お腹でもすいた?」


 ちょっとしたハプニングも一段落し、山口を含めた構成員全員が再び食堂に会した。堀切数馬はほほえましくも椅子に座ったまま静かに寝息をたてている。
「おい、山口さんよ。コーヒー淹れてくれねえか。眠くてしょうがねえよ」
 そんな松本の申し出を山口は毅然として断った。
「それは出来ません。規則にあるとおり、身の回りのことはすべて皆さんで賄っていただくことになっておりますので」
「規則規則規則規則……ああ、面倒くせえ、わーったよ。自分で淹れるよ」
 松本がそうぼやいて席を立つと、螺子目と室町が彼に声をかけた。
「すまないが私にも貰えるかな」
「あ、俺も頼むわ」
 松本、2人に向かって、
「人使い荒いね、お宅ら。まあ、いいか。毒が入ってても知らねえぞ」
 このブラックジョークには2人とも慌てた。
「あ、やっぱ、自分で淹れるわ」
「じゃあ、私も」
 と、厨房へ向かおうとする3人の背に平が苦々しく言う。
「君たち、よく平気でコーヒーなんか飲む気になれるな。私が【犯人】だったら真っ先にコーヒー、紅茶に毒を仕込んでおくがね。だってそうだろ? こんな遅い時間まで起きていたら、誰だって刺激物が欲しくなる」
「う……」
 立ち止まる3人、ぐうの音も出ない。
 平が酒棚から失敬してきたウイスキーのキャップをきゅっとひねる。
「まあ、私のように封の切ってないものを開けて飲む分には安全だろうがな」
「じゃあ、私たちも缶コーヒーか何か取ってくるか」
 このやり取りを聞いていた山口代理人が口を開いた。
「一応、補足説明させていただきますが、この会場には青酸カリや砒素といった非日常的な劇薬は置いておりません。とはいえ、知識さえあれば煙草一本からでも猛毒を生成することは可能ですが……」
「そっか、煙草ねえ……誰か吸う人いるかい?」
 松本の問いかけに誰もが一様に首を振る。どうやら愛煙家はこの中にはいないようだ。健康に気でも使っているのか? 今日にでも死ぬかもしれない面子に健康もへったくれもあったもんじゃないのだが……。
「いずれにせよ、食事は安心してできそうだね」
 螺子目がほっとして、冷蔵庫から持ってきた缶コーヒーのプルリングを引いた。
「あの、あたくし、ひとつ提案があるんですが……」
 控えめな老婆は、そう言って席を立った。一同、石田サチコに注目する。
「やはり、【犯人】に襲われないようにするためにも、まずは凶器になるようなものは一箇所に集めておいた方が良いと思いますの。そして、それらのリストを作ってあたくしたち十人が輪番で自分の部屋で保管する。そうすれば、【犯人】も滅多なことは出来ないと思うんです……だってもしそれが凶器に使われるようなことがあったら、その時それを保管していた人が怪しいということになっちゃうでしょう?」
 最初に螺子目がその申し出に同意した。
「ああ、それはいい。うん、悪くないと思いますよ。ただ、一つ気になるのが【犯人】だけが行けるという代理人詰所だな。あそこには銃刀類は置いてないのかな?」
「その点はご心配なく。代理人詰所には凶器となるようなものは一切ありません。まあ、ガラスの灰皿程度ならありますが」
「灰皿なんかが、凶器になるかよ」
 松本はそうは言ってみたものの、やはり「灰皿だって立派な鈍器だよな」と、己の感想を自ら打ち消した。この異常なる状況下ではフォーク一本さえも危険な凶器に見えてくる。してみるとどんな些細な物だって使い方次第では人の命を奪うことが出来たりするわけだから、凶器になりそうなものを一箇所に集めるなど全く持ってナンセンスということになる。
「何にせよ、【犯人】は出鼻でミスったわね」
 伊勢崎美結が場の全員を見回して、見えない【犯人】に宣告するかのようにそう言った。
「さっきの人傷沙汰未遂でも分かるとおり、まだ【犯人】は包丁を持ち去っていない。【被害者】たちが部屋から出られない間に持っていくことが可能だったはずなのにね! これを手落ちと言わずして何と言うの?」
「確かにそうね……一番危険と思われる厨房用品は一通り揃ってた……」
 遙はくだんの自分の無謀な行為を思い出し、身震いした。
「まあ、せっかくだから、包丁や鋏、ナイフの類くらいは石田さんの提案を尊重して交代に保管することにしましょう」と、菅野が折衷案を提示すると、
「なんやったら、どこかに捨ててしまおうか」と、室町が申し出た。
「あんたな、刃物はなきゃないでメシ作るとき不便だろうが……」
「あ、せやな」
「せやなじゃないよ。どこまで間が抜けてんだかね、お宅は」
 松本と室町の漫才みたいな会話の中、森岡千夏がおずおずと手を上げた。これに目敏く反応したのは、やはり松本浩太郎だった。
「お、何か言いたいことでもあるのか? 遠慮すんな、添い寝なら付き合ってやるぜ」
 千夏は松本を完全に無視して、
「この中の誰が【犯人】であるかという問題は置いておいて、当座は安全に睡眠をとることが先決だと思います。数馬くんも、もう眠っていることですし、私たちも交代に眠ることにしたらどうでしょう? 例えばこの中の5人が自分の部屋で寝ている間は、残りの5人はそれぞれの部屋の前でお互いを監視する。3時間もしたら、今度は眠っている人たちを起こして監視を交代してもらう。これなら【犯人】も迂闊に手出しは出来ない」
 千夏の案に異を唱えるものはいなかった。皆眠いのは同じなのだ。
「ったく、どいつもこいつも、気にくわねえな。仲良しこよしじゃねえって言ってんだろうが」
 と、文句を言う松本も、あくびをかみ殺してる。
 これはもう嫌が上にも同意せざろう得ない状況であった……。


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