第三章


第三章  閃く御厨

 カッチコッチカッチコッチ……
 メトロノームが規則正しいリズムを刻む。
 患者の眼球も、その動きに呼応し往復運動を続けている。
 カッチコッチカッチコッチ……
 空虚な部屋。バドミントンくらいできそうな広い空間。
 しかし、そこにあるのはメトロノームと一客の椅子、そして三人の人間。患者と精神科医とその助手。
「さあ、気持ちを楽にして……そう、その調子です。その一点だけをずうっと追いかけていてください」
 精神科医が椅子に腰掛けている患者の耳元で囁く。
「あなたは、どんどん過去に遡っていきます。20歳、19歳、18歳……どんどん戻ります。15、14、13、12……」
 精神科医は催眠療法を施していた。
 この患者には何らかの重大な過去がある。現在の歪んだ人格を形成する要因となった事件がきっとある。いわばトラウマ。精神科医はそう睨んでいた。
「まだまだ戻りますよ。8、7、6」
 そこで、異変が現れた。
 患者は椅子に座ったまま身体を硬直させ、頬の筋肉をぶるぶる震わせている。精神科医は患者の正面に回って相手の目の高さにしゃがむと、そっと優しく語りかけた。
「6歳。そう、あなたは今6歳です。あなたの目の前には何が見えますか?」
「赤い……赤い屋根のおうち、裏庭から神社が見える……」
「……他に何か?」
「うう……血が……血がいっぱいでてるよ」
「何の血かな?」
「パパ、ママ、お姉ちゃん……ダメだ、止まんないよ、タオル何枚当てても、すぐに真っ赤になっちゃって……白いタオルがみんな真っ赤に……パパたちの顔、どんどん白くなってく……まるでタオルの色を吸い取ってるみたい……」
 両手で己の肩を抱きすくめ、椅子から落ちて横になり膝を折り曲げ、小さく小さく丸まって……ひどく怯えた様子で震えている。
「そこはどこ? どうしてパパたちは血を流しているの?」
 キンッ。
 ふいに頭のてっぺんに突き上げるような痛みが走り、精神科医はこめかみを揉んだ。この患者に接するようになってから時々正体不明の偏頭痛に見舞われるのだ。
「誰! 誰なの! ひどい、ひどいよ、どうしてこんなこと……」
 助手が屈みこんで患者を起こし、その肩を大きく揺さぶる。
「君が刺したんじゃないの? パパやママやお姉さんを刺したのは君自身じゃないのか? そして、それに味をしめた君は罪なき人たちを次々と殺していった。血に飢えた狼のようにね」
「ひぃぃぃっ!」
 患者が思わぬ素早さで部屋の隅っこに這っていく。
「違う、違う、違うよッ!」
「君はただの社会不適格者じゃない。凶悪無比な殺 人者なんだ」
 更に追い詰めようとする助手の肩に精神科医が手を置く。
「もうやめないか、ひどく怯えている」
「しかし、先生」
「あとは私がやる」
「……分かりました。でも先生、くれぐれも気をつけてください。奴はマトモじゃない」
 精神科医の強い意志を含んだ視線に射すくめられ、不承不承指示に従う助手。
 助手が退室するのを目の端で確かめた精神科医はゆっくりと患者のもとへ歩み寄る。
 そして、再び耳元で囁く。
「猿芝居はそこまでにしたらどうだ」
 はっと目を見張り相手を見る患者。
 精神科医は唇の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「君の魂胆は分かっている。私に精神異常者の太鼓判を押させ、裁判で優位な立場を得ようとしているんだろう? つまり、君は私に犯 罪の片棒を担がせようとしているわけだ」
「…………」
「だが、そうはいかないよ。君は極刑に処されなければならない。それだけのことをしてきたんだ。君はいつだって冷静だ。わざと狂人を演じてみせる余裕さえある。思考能力自体は何ら問題ない。いや、人並み以上と言っていい」
 精神科医は患者の額を人差し指で軽く突いた。
「問題は君の思想だ。非常に危険。もって生まれたカリスマ性。赤の他人を悪の道に引きずり込む能力に長けている。だが、俺は取り込まれない。君のような奴になど……」
「へえー」
 さっきまでの怯えた表情は霧散し、挑戦的な瞳で精神科医を見据える患者。服についた埃を払い悠然と立ち上がる。
「随分お高いところから見下ろしているようだけど、あなたと私でどれだけの違いがあるというのです? それともまだ気付いていないんですか、私たちは同類だということに」
「貴様……」
 ぐいと患者の胸倉を引っつかむ精神科医が手をあげた。
「ふーん、その手で何をしようというのですか? あなた、お医者さんなんでしょう。その手は病んだ者を癒すためにあるんじゃないんですか」
 パシン!
 広い部屋に患者の頬を打つ音が響いた。
「貴様は! 貴様は! 貴様は!」
 精神科医はたがが外れたように何度も何度も患者の頬を叩いた。しかし患者は逃げようとしない。叩かれる瞬間さえも目を閉じず、狂気を宿らせた相手の目を見つめている。
「そんな目で見るなァ!」
 平手打ちを続ける精神科医。
 先刻出て行った助手が駆け戻ってきて精神科医を羽交い絞めする。
「な、何やってるんですか、先生!」
「離せ! 離してくれ!」
「しっかりしてください。落ち着いてくださいよ」
 離せ離せと喚きながら、助手に引きづられていく精神科医。
 そして、部屋の中に一人取り残された患者が呟く。
「ふっ、もう一押しってところかな」


「はいッ! 休憩入りま〜す」
 スタッフの掛け声で張りつめた緊張が一気にほどけた。
 ここはドラマ「CAN NOT」の撮影スタジオ。
 精神科医を演じる春日彰信の大遅刻のため2時間押しで始まった撮影だったが、NGが少ないことも手伝って本日最後のシーンを残すばかりとなっていた。
 そんな中、夏目沙織がスタッフに配給された弁当を携えて、ぱたぱたと歩いてくる。
 彼女の向かったその先では、患者役の御厨ひかるがパイプ椅子に腰掛けて一息ついているところである。
「ひかる、これ夜食のお弁当だって」
「おおっ、おにぎり弁当だ。サンキュー、沙織ちゃん」
 無邪気に喜び弁当の蓋を開けたひかるが急に真顔になって言う。
「このおにぎりって、梅干入ってないよね」
「それはおかかと鮭。ひかるが梅干嫌いなのくらい知ってるわよ。何年の付き合いだと思ってんの」
「それは祝着至極……はぐっ♪」
「ったくもお」
 沙織は腕に巻いた時計を見ながら大きくため息をついた。
「それにしても一体何時までかかるのよ、この撮影。もう11時過ぎちゃってるよ」
「あとワンシーンだけだから、もうちょっと待っててよ、沙織ちゃん。馬波さんがちゃあんと家まで送ってくれるっていうしさ」
「それもこれも春日さんが遅れてくるからいけないのよねえ。だいたい、か弱き女子高生をこんな遅くまで引き止めておいていいと思ってんのかしら、もお」
 誰も沙織ちゃんのこと、引き止めてるわけじゃないんだけどなあ……。
 ひかるは、おにぎりをもしゃもしゃ頬張りながらそんなふうに思ったものだが、もちろん口に出して言いはしない。
「そう怒らないでよ。ほら、沙織ちゃんもおにぎり食べない? お腹すいてるとイライラするっていうしさ」
「結構です!」
 そこへ噂をすれば影、主演俳優、春日彰信がやってくる。
「ひかる、大丈夫か? さっきのビンタ、痛かったろ」
 と、スポーツタオルで汗を拭きながらひかるの隣りに座る春日。
 すると、ひかるはお茶でご飯を飲み下し、春日に向かってぶーたれた。
「痛かったですよー。台本には〈平手で2回、続けざまに打つ〉ってあるのに、6回もぶつんだもん。春日さん、ボク何か悪いことしましたっけ?」
「いやあ、悪い悪い。そんなつもりじゃなかったんだけどさ、つい熱が入っちまってよ」
 と、本当にすまなそうに両手を合わせる春日にひかるは思わず吹き出してしまった。
「ぷっ……やだなあ、冗談ですよ。むしろ、あのくらいやった方がいい絵になったんじゃないかなあ。それよりも、今日の春日さん、何だかすごいですね。鬼気迫る演技っていうか、いつもより気合入ってるでしょ。あ、後輩のボクが言うのもおこがましいか」
「そうかねえ、いつもと一緒だぜ、俺は」
 そんな二人のやりとりに沙織が口を挟む。
「あ〜、春日さん、何かいいことあったんだ。だから張り切ってるんだ」
「……いや、っていうか逆かな」
 と、悲しげに目を伏せる春日。
 その様子にひかるは何かを察したらしくさりげなく話題を変えてきた。
「春日さん、いよいよ明後日から最終回の撮りですね」
「ああ、そうだな」
 春日は「CAN NOT 第10話」と書かれた台本をぽんと放り投げ、後ろポケットにねじ込んだ第11話(最終話)の台本を引っ張り出して感慨深げにめくった。
「ひかる、ありがとうな。このドラマがヒットしたのはお前のお蔭だよ。ホント感謝してる」
「なんですか、それ? 春日さんが誉める時ってな〜んか魂胆あるんだよなあ」
「ぎく。やっぱな〜」
 とたんに春日はニカッと笑うと、いきなりひかるにヘッドロックを決めた。
「な、何するんですか、春日さん」
「今度さあ、芸能人だけでシークレット合コン企画してんだよな。お前もちょっと顔出してみない?」
「え〜、でもボク未成年ですよ。お酒呑めないし……」
 困惑するその隣りで沙織がおっかない目をして睨んでいたが、幸か不幸かひかるは一向に気付く気配がない。
「酒は呑めなくてもうまいもん好きなだけ食わせてやるぜ」
 きらり〜ん☆
 〈うまいもん〉と聞いて、ひかるの目が一気に輝きを増す。
「うまいもんって、エビチリとかあるんですか」
「あるさ、エビチリでもトバッチリでも好きなだけ食わせてやる」
 そんなオヤジギャグを交えながら、ひかるをその気にさせんと画策する春日。むろんそれは半分以上から元気の冗談であり、ひかるも重々承知していたのだが、沙織だけはマジに受け取っちゃっていたりする。
「ダメダメダメ〜〜っ! 春日さん、ひかるに変なこと吹き込まないでください! ったく、春日さんといい、飯方さんといい、ひかるのまわりにはロクな大人がいないんだから……」
「あん? 誰だよ、そのイイガタって? そんなへんてこな名前の人、この業界にいたっけ?」
 春日の問いにひかるが百万ドルの笑顔で答える。
「飯方先生は芸能界の人じゃなくて、神経科のお医者さんですよ。馬波さんの紹介でドラマの役作りのためにいろいろと勉強させてもらってるんです」
「へえ、馬波さんがねえ。しかし、お前ンとこのマネージャー殿の熱意には頭が下がるなあ」
「ボクもそう思います。あの人はすごい人です。日本一のマネージャーですね」
「ふ〜ん、日本一ねえ」
 春日はなんとも言えず複雑な表情をつくると、「それはともかく」と切り出した。
「ひかるよお、前からお前に言おうと思ってたんだけど、その喋り方、なんとかならねーのか」
「ええっ! そんなにおかしかったですか? あの患者役だと、あのくらい抑揚のない話し方のほうがリアリティが出るかなって思ったんですけど」
「だーっ、違うって! 芝居の話じゃねーよ。お前自身の喋り方のことを言ってンの。お前のその話し方ってさ、ルックスとのギャップがありすぎるんだよなあ。なっ、沙織ちゃんだってそう思うだろ?」
「あたしはもう慣れちゃってるから……」
(そんなところも含めて、ひかるのいいところなのよねえ)
 沙織は内心そう思っていたのだが、さすがに口に出して言う勇気はなかったようである。
「それもこれも御厨ひかるの魅力なのよ」
 と、沙織の心の声を代弁したのは、他でもないマネージャーの馬波熊子だった。
 ひかると同じくらい長身の馬波が、いつの間にやってきたのか春日の背後に仁王立ちしている。
 ブラウン系のスーツをびしっと着こなし、片手には分厚いシステム手帳。アップにした黒髪、逆三角形の縁なし眼鏡、化粧っ気のない顔にかろうじて紅が引かれている。もう少し化粧をしっかりしていれば、やりての社長秘書といった風体である。
「悪いわね、ひかる。こんな遅くなっちゃって」
「ううん、ボクは構わないよ。どうせ明日は学校休みだし、もう朝までだって大丈夫だね」
「へえ。やっぱり若い子には敵わないわね」
 そんなやりとりを交わしていると、ふいに春日が席を立った。
「さてと、俺は外で煙草でも吸ってきますかねえ」
 そう言ってスタジオから春日が出て行くのを見送ると、さっきまで春日が座っていたパイプ椅子に馬波が座る。
「ひかる、アレ見たわよ」
「え、アレって?」
「ほら、昨日言ってたじゃない、ひかる小説館
「ああ、もう見たんだ」
「あの小説、なんていうか不気味な感じよね……変なところでぷっつり終わってるし……」
 そんな馬波の言葉を受けて、ひかるが頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。
「でも、昨日は連載中じゃないの、とかって言ってなかったっけ?」
「あ、昨日のは前言撤回。あれは間違いなく完結しているわ」
「ふうん、どうしてそう言い切れるの?」
「簡単なことよ。物語の最後にしっかりエンドマークがふってあるんだから。でも、あれで終わりっていうのはどうなんだろう? 読んだ人は後味悪いでしょうね」
「うっそー、すご〜い。一晩で全部読んじゃったんですか? もしかして速読法とかマスターしてるんじゃ……」
 沙織がまんまるオメメを更に丸くして感嘆の声を上げる。
「バカねえ、沙織ちゃん。いくらなんでもあたし、そんな暇人じゃないわよ。要するに最初の方と最後の方だけを読んだのよ」
「あー、そりゃひどいなあ。馬波さんも作者泣かせなことするよね」と、笑うひかる。
「こら、苗字で呼ぶなって言ってるでしょ!……って、まあいいか。とにかくね、しょうもない話よ。【犯人】も分からずじまいで終わってるし。全部読んでるわけじゃないから何とも言い切れないけど、【犯人】が分からないまま終わってるミステリーなんて聞いたことないわ……」
 馬波は白けたように短くため息をついた。
「ひかる、やめときなさいよ。あれは真っ当なホームページじゃないんだから」
「そんなことないよ。あの小説の作者だって飯方先生の知り合いだっていうし」
「あのね、ひかる。メールアドレスさえ公開していないホームページが怪しくないわけないじゃないの」
 そう言われて初めて気付いたようにあっと声を上げるひかる。
「そっか、メアドねえ!」
「そうよ、普通どこのホームページだって、管理者のメールアドレスくらいは書いているものよ。それすら明記してないというのは、ある意味信用がおけないってことでしょ」
「な〜るほど。言われてみれば確かに……さすが、目の付け所が違うなあ」
 と、手放しに誉められるも大して嬉しくもなさそうにして、ひかるに台本を押しつける馬波。
「当然でしょ。いずれにせよ、あまりのめり込まないことね。そんな暇あったら台本でも読んでおきなさい」
 これにはひかる、ぷーっと頬を膨らませて抗議する。
「分かってるよ、もお。別にいいじゃない、小説くらい読んだってさ。そんなんでボクの身が危険がさらされるわけじゃあるまいし」
 ぐいと端正な顔を馬波に近づけるひかる。美顔を目の前に寄せられて思わずうろたえる馬波が身をを引いた。
「そ、そりゃそうだけどね」
「台本もちゃあんと頭に入ってるし」
 ずずずいっと更に真剣そのものの顔を近づけるひかる。もう2、3センチで鼻がぶつかりそうな距離だ。馬波は更に身を引き椅子から落ちそうになる。
「ま、まあ、それならいいんだけど……」
「やたっ♪ 馬波さんのお許しが出た」
 バンザイして無邪気に喜ぶひかる。
 馬波は腕組みをして、ふっと笑みを浮かべる。
(ったく、しょうがない子ね……)
 それは、母親のような姉のような親友のような、そんな親しみと慈しみを称えた笑みだった。
 そして、お約束のように、おいてけぼりの沙織が申し訳なさそうに問い掛ける。
「あのお、『めえるあどれす』ってなんですかあ?」
 天晴れ!夏目沙織、である……(汗)


 翌朝。
 夏目家、食卓。
 テーブルの上には、純日本チックな朝食が並んでいた。
 鮭の焼きもの、味付け海苔、ひきわり納豆、厚焼き玉子、茄子と大根のお新香、そして、ほかほかのご飯に豆腐と油揚げのお味噌汁が湯気を上げている。
 食卓を囲んでいるのは、御厨ひかる、夏目沙織、夏目香織の夏目家オールスターキャストである。(沙織の父親は海外赴任中である)
「おばさん、おかわりッ!」
 居候、三杯目はそっと出し。
 しかし、ひかるの辞書にはそんな言葉はなく、「そっと」じゃなく「威風堂々と」空っぽの茶碗をさし出していたりする。そして香織の方も別段気を悪くするわけもなく、むしろ嬉しそうに茶碗を受け取って言ったもんである。
「はいはい、どんどん食べてよ、ひかるちゃん。ご飯たくさん炊いてあるからね」
「おばさんの作ったご飯はおいしいからなあ。ついつい箸が進んじゃうんだよねえ」
「あらあ、ひかるちゃん、嬉しいこといってくれるじゃないの。でもこの間、あなたが作ってくれた肉じゃが、あれも結構おいしかったわよ」
「いやあ、ボクの料理なんて、おばさんの足元にも及ばないですよ」
 香織はニコニコ笑顔を絶やさず、ひかるの方ばかりを見ながら愚痴をこぼす。
「それに引き換え沙織ときたら料理のひとつも満足に出来ないんだから困ったものよね。あれじゃ嫁の貰い手もないわね」
 ニコニコニコニコ
「おばさん、そこまで言っちゃ沙織ちゃんがかわいそうですよ」
 ニコニコニコニコ
「かまやしないわよお、あの子、神経だけは人一倍太くできてるんだから」
 ニコニコニコニコ
「あ、ひどいなあ、それ」
 ニコニコニコニコ
「でも事実だしねえ」
 ニコニコ笑う二人にひとりだけ蚊帳の外の沙織がぶつくさと文句をたれる。
「あー感じ悪い。そういうのは本人のいないところで言ってよね。そういう配慮のない一言が思春期の青少年を非行に走らせるんだよ」
「なんだか、テレビとかの受け売りみたいねえ」
 と、切り捨て御免の母親に、怒りの沸点赤丸急上昇の沙織は、その矛先をひかるに向けてくる。
「でもさー、ひかるってば、いつもながら呆れた食欲だよねー。そんなに食べてどうして太らないんだろ」
「不思議なんだよね、我ながら……」と、ひかる、ぽりぽり照れ笑い。
「いいのよ、食べれるだけ食べといたほうが。だって昔から言うでしょ。食べる子は育つって」
 それを言うなら寝る子は育つである。食べる子が育つのは当たり前だのクラッカーである。
 しかし、ひかるは敢えて訂正はしなかったし、沙織に至ってはその過ちにさえ気付いていない。そういう天然っぷりも親子ならではといった感じである。
「ったくう、ひかるはそれ以上育ってもしょうがないじゃないよ……う〜〜、それにしても今朝は冷えるなあ。冬のバッカヤロー!」
 超低血圧の沙織ちゃんはパジャマにカーディガンを羽織り、ヒーターに手をかざしてながら今度はあろうことか気候にまで八つ当たりをかましている。冬が寒いのは日本に住んでいる以上やむを得ないことなのだが、何かに当たらないことにはすこぶる面白くないのだ。
「寒い寒い寒い寒いよ〜〜〜っ」
 そんな娘に母、香織が緑茶を啜り、一言。
「沙織、ちょっとはひかるちゃんを見習ったらどう?」
 ぐさぐさっ!
 いつもひかると比べられ、いい加減コンプレックスの塊となりつつある沙織のやわなハートに矢が刺さる。
 奥州の果て、総身に矢を受けて仁王立ちしたまま絶命した武蔵坊弁慶の如く、である。
「ほうはよ、もふちっとは、ホクみはいにもりもりたへて……」
「食べながら喋んないでよ!」
 ご飯粒を飛ばしながら、香織に同調するひかるを叱咤する沙織の声が虚しく響く。
 と、まあ……
 夏目家の三角関係はいつもこんな感じである。
 香織、ひかる組VS沙織。
 そう。夏目家における沙織の立場はひじょ〜に肩身の狭いものであった。
「ねえ、ひかるちゃん、今日は学校休みなんでしょ」
 ひかる贔屓の香織が4杯目の茶碗を渡しながら訊く。
「うん。仕事も今日は完全オフなんで一日ゆっくりできるんですよ」
「あ、そう。そりゃあ良かったわね。やっぱり日本一忙しい高校生にも骨休めは必要だもん。あら、ひかるちゃん、読書でもするの」
 食卓の脇に置かれた一冊の文庫本に目をとめた香織が訊く。
―――アガサ・クリスティ著『そして誰もいなくなった』
「いやあ、これはずっと前に読んだものなんですけどね」
「あ、そうなの?あたしも、昔読んだことがあるわ。お医者さんとか裁判官とか軍人とか、とにかくいろんな職業の人が出てくるのよね。たしか探偵役の人っていうのがいなくて、結局最後まで犯人が捕まらないまま終わっちゃうんだっけね。あのラストはかなり衝撃的だったわ……あっ、あと、アガサといえば『アクロイド殺し』なんても印象深かったなあ。推理小説としてはアンフェアぎりぎりのところにいる犯人ってのが見どころよねえ」
 と、饒舌に語る母親に沙織は素直に感心した。
「ふーん、ママ結構詳しいんだ」
「あったり前よ。こうみえてもその昔は文学少女だったんだから」
「へえ、ママがねえ、ちょっと意外だなあ……って、ひかる、どうかした?」
 ふと、視線を移すと左手に茶碗、右手に箸を持ったまま銅像のように固まっているひかるがそこにいた。
 沙織が目の前でパッパッと手を振ってみるが、その眼球は全く動かない。
 やがてひかるがすっと目を細めて喉から搾り出すような声を出す。
「……そうか、あの違和感の正体はこれだったのか」
 今度は文庫本を手にとり、ぱらぱらとページを捲ってみる。
 そして、何かを見つけたらしく満足げに頷くと「おばさん、ありがとう」と言い残し、階段を駆け上っていった。
「いいえ、お粗末さま」
 香織は怪訝そうに応えると沙織に向き直って、「ひかるちゃんも変な子よねえ」と漏らした。
「普通、食べ終わったら『ご馳走さま』じゃない? それを『ありがとう』だなんて……」
 夏目香織、マジボケである。
 それに対して、娘、沙織がきっぱりと言った台詞がコレ。
「あれ、ママ知らないの? 『ありがとう』は『ご馳走さま』の丁寧語なのよ……たぶん」
 天晴れ!夏目親子、である……(大汗)


 ひかるはパソコンの電源を入れると、早速「1/10の悪夢」に目を通し始めた。
「あっ……やっぱりだ! でも、これって何か意味があるのかなあ……」
 と、鼻の下に鉛筆を挟んで、椅子に凭れかかり思惟をめぐらせる。
 そして、ふと昨夜の馬波熊子の言葉を思い出す。
―――メールアドレスさえ公開していないホームページが怪しくないわけないじゃないの。
「うーん、この『ひかる小説館』が一個人で運営しているものだとしたら、そういうこともありえるのか……まあ、どこかの出版社から発売されている本とは違うんだもんなあ。しかもメールアドレスが公開されていない。ただ一編の小説が置いてあるだけ……と。つまり、このサイトから配信される情報は完全に一方通行ってわけだ」
 次に主な検索エンジンをいくつか使用し、『ひかる小説館』『1/10の悪夢』と入力するが、全て該当なしで返ってくる。
「ふう、どこにも引っかからないのか。ったく、これ作った人って、ホントに見せる気あるのかな……まさか、特定の人だけに見てもらうために? でも、それならネット上で公開するって手段は不適切だよな。だけど、もしも……」
―――これがボクが見るためだけに作られたサイトだとしたら……だから敢えてメールアドレスの公開も省略しているのだとしたら……
 そこまで考えたひかるは、昨日の続き「第14章 アリバイ検証」をディスプレイいっぱいに開いた。
 馬鹿げた話かも知れないが、自分ひとりのために書かれたのかもしれない小説かと思うと、少し緊張さえしてくる。若しくは、映画館を貸し切って鑑賞するようなちょっと贅沢な気分もあって……。
 飯方弓人という掴みどころのない精神科医は何を自分に求めているのか? 以前本人自ら言っていたとおり、ただ単に【犯人】の正体を知りたいだけなのだろうか?
 否、やはりそれだけではないだろう。何かある。何かあるはずだ。
「ようし、今日は一気に読んでしまうぞ!」
 ひかるはマウスに手を置き、本格的に文章の洪水に飛び込んでいく態勢をとった。
 願わくば、なるべく一人きりでじっくりと読みたいものだと思いながら……。
 しかししかしだがしかし、神様はほとほと残酷なものである。
「ひかる〜〜〜」
 宿題の山を手にやってくる同居人の聞きなれた声を耳にするひかるのその表情。
 それはあまりの複雑さに、とても言葉では表現しきれるものではなかった。


「どう? 気持ちは固まったかな」
「気持ちも何も……あたし、あのことは聞かなかったことにするって言ったでしょ」
「でも、あのニュアンスは断るというより、考えさせてくれって感じだったけどなあ……」
「そんなことないわよ、自分のいいように解釈しないでくれる」
「まあ、こっちもすぐに回答が欲しいってわけじゃないんだ。とにかくゆっくり考えてみてよ。そっちにとっても悪い話じゃないんだから」
「あんたね!」
「じゃあ、また後で」
 静寂に包まれた部屋。
 外の冷気と中の暖気が窓ガラスに汗をかかせている。
(何を迷っているんだろう、あたしは。答えは決まっているというのに……。あたしがもし、あいつの誘いに乗ったとしたらどうなる? ひかるはどう思うだろう? 悲しむ? 嘆く?)
―――何を思い上がったことを!
 やがて、ふっと苦笑いをこぼし、ストレートの髪をかきあげると、淹れたての熱いコーヒーを傾ける。喉を下りていく灼けるような感覚。体中に熱が染み込んでいくようだ。
「どうかしてるわね、あたしも」
 馬波熊子はひっそりと呟く。
 そしてもう一度、「今日のあたしはどうかしてる」と繰り返したのだった……。


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