第四章


第四章  調べる御厨

「7日目、ゲームは再び動き出した……か」
 御厨ひかるは、ふうと大きく息を吐くと2時間ほど凝視していたパソコンから離れて瞼をもんだ。
 朝食の後、オンライン小説『1/10の悪夢』の続きを読もうとした矢先、夏目沙織がもってきた宿題の山に阻まれたひかるだったが、それでもめげることなくちゃっちゃと片付けて、構って欲しそうにしている沙織をほっぽりだしてから、ずっと『1/10の悪夢』を読みふけっていたのだ。
 『第14章 アリバイ検証』から読み始めて、『第19章 震える日々』まで駆け足で読み終えたところ。
 時計を見ると、きっかり12時。
 まだ読後の余韻が残るひかるの頭の中で鳩時計が12回鳴いた。
 ディスプレイに映し出される黒い背景にびっしりと埋まった白い文字の塊。
 文字も比較的小さめで、他のテキスト系サイトのように、行間を広げたり、文字の大きさや色を変えてみたりなどといったユーザーに優しい配慮は微塵もない。
 そんな味も素っ気もない文字列を長時間追っていると、これが結構、目に負担がかかってきたりして、沙織のように印刷して読めばよかったかな、とさえ思えてくる。
「5人が消えて、5人が残る。あと何人、いなくなるのかな」
 ひかるは、薄曇りの窓の外に視線を移し、そんな物騒なことを呟く。
 そこへ……
「ひかる〜、おっひるだよ〜」
 階下から余韻をぶち壊しにするニギヤカな声が届く。
 階段をぱたぱたと駆け上がる音。
 ノックと同時にドアが開く。
 沙織は『1/10の悪夢』をプリントアウトした用紙を手にしていた。
「ねえ、ひかる、どこまで読んだ?」
 せっつく沙織にひかるは厭な顔ひとつ見せず、椅子を回して向き直る。
「今ちょうど第19章まで読み終わったところだよ」
「19章? あれ、またまたあたしと同じじゃない」
「へえ、沙織ちゃんって結構読むの速いんだね」
「えっ……ま、まあねー」
 と、ひたいに汗を浮かべる沙織嬢。実は昨夜のうちに第18章あたりまで読み終えていたのだ。ひかるが試験勉強だ台本読みだなどと忙しなくしているときに、である。そのくせ、朝になってひかるが読もうとするのを妨害して宿題のヘルプを頼んじゃったりするのだからヒドイものだ。尤も、彼女には爪の先ほども邪気はないのだが……。
「ねえねえ、ひかる。お昼食べたら、また推理ごっこでもしよっか?」
「うーん、それもいいけど、折角だから飯方先生のところに行ってからにしない?」
 ひかるの提言に沙織は眉に針を立てた。
「うえ、また飯方先生とこ行くの?」
「うん、一昨日借りてきた傘も返しに行かなくちゃならないしね」
「それだったらさ、全部読んでからのほうがいいんじゃない? 傘なんていつでもいいでしょ」
 沙織が人差し指を立てて、ご尤もなことを言う。
 果たしてそのココロは、あの髭もじゃの不良医師にひかるを近づけたくないという意図が99%を占めている。
 ありていに言えばある種の嫉妬である。ひかると飯方の仲の良さは沙織がはたから見ていても羨ましくなるほどだった。
(知り合って間もないのに……ふたりの間にはとても共通点らしいものは見当たらないというのに……どうしてあんなに仲がいいんだろう?)
 そんなことを思いつつ、結局ひかると共に飯方のところへ行くこととなる夏目沙織18歳だった。


 ところ変わって、飯方神経科医院。
 トレードマークともいえるよれよれの白衣に身を包んだ飯方弓人が、両手のマグカップをひかると沙織に差し出しながら、ふたりを歓待した。
「いやあ、よく来たね」
「すいませんね、お仕事中」
 ひかるが型どおりの挨拶をすると、飯方は肩をすくめて苦笑いをもらした。
「なあに、今日も今日とて開店休業だよ」
「ったく、これでよく病院が傾かないものですねえ」
 と、沙織が軽く皮肉をのたまうも、飯方は胸を張って言ったものである。
「夏目君、確かにこの建物はだいぶ老朽化しているがね、これで案外と丈夫なつくりなんだ。昔の建築物というのは実にしっかりできていて、ちょっとやそっとの地震じゃ傾きゃあしないよ」
(あのォ、そういう意味で言ってるんじゃないんですけど、あたし……)
 沙織のこめかみに大粒の汗がひとつ。天然か、はたまた計算か、飯方のボケに呆れる沙織の心の声をひかるが代弁する。
「先生〜、沙織ちゃんが言ってるのはそういう意味じゃなくて、こんなに患者がいなくてよく経営が維持していられるなあってことですよ」
「おいおい、御厨君、そんなことは百も承知さ。軽いジョークだよ、ジョーク」
 というわけで、どうやら今のボケは『計算』だったらしい。
 飯方は顎に蓄えた髭をさすりながら、意味深な視線を天井に向ける。
「心配ご無用。ウチは外来がなくてもちゃあんと成り立っているんでね。なにしろお得意様、っと、失礼。つまり、ウチには長期の入院患者がいるものでね」
 どこまで本気でどこまで冗談なのかよくわからないのが飯方弓人という男。しかしその言葉、ハナからデタラメだと一笑にふすこともできなさそうだ。
 というのも、この建物は3階建てになっていて、1階は外来患者用の診察室と待合室、2階が入院患者の個室、3階が飯方の居住スペースになっている。ひかるたちも何度かここへ足を運んでいるが、プライバシーの問題があるからと、2階より上へは絶対に入れてもらえなかった。
(もしかしたら、2階にはワケアリのお金持ちの患者さんがわんさとお泊りしてたりして……)
 沙織が、フトそんな想像を膨らませる。
(んでもって、ひかるのドラマに出てくるような一癖も二癖もありそうな危ない患者さんたちとかがいたりして……)
 さすが妄想魔人こと夏目沙織。飛躍しすぎにもほどがある。
 だがしかし、今回の彼女の妄想はあながち当たらずとも遠からずだったりするのだが……。
「で、御厨君、なにか掴めたかな?」
 診察室の事務椅子に座る飯方が、対面で患者用の丸椅子に腰掛けているひかるにぐっと身を乗り出して尋ねた。主語は省略されているが、当然一昨日紹介したひかる小説館のオンライン小説『1/10の悪夢』を指していることは言うまでもない。
 一方、所在なげにパソコンの置いてあるOAチェアに腰掛けている沙織が今にもくっつきそうなほど顔を寄せ合っているふたりに割って入る。
「ひかるは、まだわからないと思いますよ。だって、まだ全部読んでないんだもの」
「え、そうなのかい?」
「実は……まだ第19章までしか読んでないんですよ。第28章で終わっているから、単純に計算して、あと3分の1ってところですね」
 意外そうに目を丸くする飯方に、ひかるが照れくさそうに頭を掻いて付け加えた。
「何を隠そう沙織ちゃんもボクと同じところまで読んでるんですけどね。いずれにせよ、この謎解きは手強い。一筋縄ではいきそうもありませんよ」
 ひかるの消極的なコメントに心なしか落胆の表情をつくる飯方だったが、しかしすぐにニヤリと笑って応じる。
「ふむ、すると『震える日々』までは読了ってわけか。そこまで読んで、思うほど単純な話ではないと君は判断したわけだ」
「さすが、飯方さん。章タイトルまで覚えてるなんてすごいなあ。やっぱりホントは飯方先生が作者だったりするんじゃないですか」
「ははっ、それはないって前も言ったじゃないか、御厨君。それに君ほどではないにしても俺だってそこそこの記憶力の持ち主なんだよ」
「こりゃまた失礼しました」
 と、おちゃらけて舌を出すひかる。
「ま、でも、途中までしか読んでないにも拘わらず俺のところに来たってことは、何かそれなりに気になることがあったってことだろ」
 これには、ひかる我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「お察しのとおりです。いろいろと見えてきましたよ。断片的にではあるんですけどね」
「ほう、これは興味深い。ぜひお聞かせ願いたいね」
 と、飯方が新聞の折り込みチラシを裏返し、耳に挟んだちびた赤鉛筆を構える。
「そうですね、まずオーソドックスなところからいきますか。まずは【代理人】こと山口維知雄について」
「ふむふむ」
「ボクが読んだ範囲内でも数少ない【代理人】の心理描写にこんなのがありました。そう、あれは第13章です。【犯人】が説明会のあと、【代理人】に対してカードの交換を申し出るとともに、2つの物品の調達を依頼してますよね。ひとつはどこの家庭にもありそうな電化製品。もうひとつはある事態を想定して代理人詰所に準備していたもの。ここまでの展開から順当に考えれば、答えは自ずと導かれます。ひとつ目はテープレコーダー、そしてもうひとつは停電を想定しても暗視スコープ。ともに既に本編の中でひとつの推理として登場しています。テープレコーダーは伊勢崎美結退場の際に使われたアリバイトリックとして、暗視スコープは平一退場の際の足止めとして。この【代理人】の心理描写の必然性は、菅野祐介のそれぞれの推理が正解であったことを裏づけるためのストーリー上の伏線と思われます。暗視スコープを使う際、【犯人】は【代理人】に『会場内のある設備について※※はついているか?』と尋ねています。たぶん、会場内のある設備とは監視用のビデオカメラを指し、※※とはおそらく赤外線装置かなにかじゃないかと思います。ゲームの規則5(3)では、ビデオカメラに映る範囲内で殺 人を行わなければならないと謳っていますから、【犯人】は照明を落とした暗闇の中で犯行に及べるか否かの確認をしようとしていたのでしょう。これに対し、【代理人】は※※はついていると答えたのですから、【犯人】は安心して暗闇の中で事を起こせたというわけです」
「ほう、立て板に水だね。規則の項目までそらで言えるとは、さすがは本家本元卓越した記憶力の御厨君だ」
 口笛を吹いて冷やかす飯方に軽くはにかんだひかるがどうもと応えて先を進める。
「で、問題はここから先です。この2つの物品については、【犯人】はともに使用済みなわけですから、この問題は既に完結しているといって差し支えないでしょう。どちらも構成員たちの推理の中で出てきてしまったんだから、もうこれ以上の利用価値はないといっていい。さて、これらのことから容疑者を除外することはできないか……」
「ああっ、そっか!」
 ひかるの話を遮って沙織がポンッと手を打った。ここからは沙織でもわかる。
「うーんと、つまり、この2つの物品が絡んでいるときの退場者、伊勢崎美結と平一は【被害者】として確定できるってことね」
「うん、まあ、そうとも単純には言いきれないんだけどね……まあ、そういう可能性は高いと思うんだ。普通の推理小説だとしたら」
「普通の推理小説?」
「そう。ボクもあまり詳しくはないんだけど、犯人当ての推理小説だったら、このシーンは消去法で【犯人】を推理するために用意されたものと考えるのが妥当なところだと思えるんだけど」
「御厨君、なんだか引っかかる言い方だね。君の言い方はまるでこの小説が普通の推理小説ではないみたいに聞こえるなあ。それとも、これが普通の推理小説ではないという根拠がなにかあるのかな? というか普通じゃないってどういう意味なんだい?」
 と、飯方が水を向けるも、大事なところでひかるは身をかわした。
「いや、そこはほら、まだ全部読んでないし何とも言えないですよ。とりあえず、これは一旦おいといて、次に移りますね」
「え〜! ひかる、ケチケチしないで教えてよ〜」
 と、沙織がぶーたれるが、ひかるはお構いなしにバッサリ話題を切り替える。
「そんなことよりボクが今朝からずっと注目しているのは、なぜ『1/10の悪夢』がオンライン小説なのかってことなんです」
「またしても妙なところでひっかってるね、御厨君。それが何か問題なのかい?」
 果たしてひかるは、飯方の揶揄に真剣に答えた。
「昨日、検索エンジンを使って【ひかる小説館】とか【1/10の悪夢】とか調べてみたんだけどどこにもヒットしなかったんですよ。それがどうしても不自然な気がして……こういう場合考えられるケースは大別してふたつあると思うんですけどね……」
「あ、あの、ひかる……ケンサクエンジン……って何?」
 蚊の鳴くような声で申し訳なさげに問うのはもちろん沙織嬢。このあたりから彼女は早くも落第組である。インターネットもメールも使えないんだから、検索エンジンなるものも当然の如く承知していない。
(エンジン使って調べもの? エンジンって車とかを走らせるための機械なんじゃないの?)
 沙織がとんでもない方向に勘違いしている傍らでひかるはどんどん話を進める。
「出来たてほやほやのサイトだから検索エンジンに登録したもののまだ巡回ロボットに拾われていないか、そもそも登録していないか、この2つです。前者なら話はそれで終わりだけど、もしも後者なら作者のスタンスがはっきりします。要するに身内だけに見せたいサイトということ。広く万人に見てもらいたいという意図がないからこそ検索エンジンに登録しない。ここまではいいですか?」
「うーん、それはどうかな」
 飯方が上唇をペロリと嘗めて反論する。
「そういう身内だけに知っておいて欲しいサイトというのは、掲示板とかチャットとかいわゆる交流系サイトだろう。創作小説を公開するサイトには相応しくないような気がするがなあ」
「そうなんですよ、飯方さん。ボクがひどく気になっているのはまさにそこなんです。なぜ、作者は積極的に自分のサイトの宣伝をしないのか? ボクの持つこの一番の疑問には飯方さんが答えられるんじゃないですか」
 直球ド真ん中の問い掛けに飯方は逆質問でツバメ返し。
「待ちなって、御厨君。君はどうしてそう確信するんだ? 君が言ったようにサイトが開設されたばかりで、登録はしたもののまだ検索エンジンに引っかからないってだけかもしれないじゃないか」
「ええ、確かにそうかもしれませんね。でもやっぱりその可能性は薄いんですよ」
「それはまたどうして?」
「メルアドです」
「メルアド?」
「そう、作者のメールアドレスが公開されていないんですよ。それに掲示板もね。検索エンジンに登録するってことは、さっきから言ってるように多くの人に見てもらいたいという気持ちの表れでしょ。ではなぜ、多くの人に見てもらいたいのか? それは極論すれば感想が欲しいからです。ついでに言えばアクセスカウンターもないですよね。これは作者が自分のサイトにどのくらいの人が訪問しているかというデータに対してあまり興味を示していないということだと思うんです。もちろん、作者がそれらの類いの設置方法をまだ知らないビギナーであるという可能性だってありますよ。でも可能性を検証していたらキリがない。ボクは客観的に判断して最も妥当性の高い説で話を進めたいんです。というかそうしないと何も進まないような気がするんです」
 やたら力説するひかるに些か気圧されながら飯方が手をひらひらさせた。
「わかったわかった。それならそれでも構わないよ。しかし、どうも納得いかないな。どうして君はそんな周辺の情報ばかり重要視するんだ」
「だから、ゲームの規則ですよ。作中でも何度となく言われているように、このゲームの規則は一見よく出来たものにみえるけど、冷静に考えればやっぱり【犯人】にとって絶対有利だと思うんですよね。むしろ【犯人】はわざと手心を加えてゲームを演出しているかのようにさえ感じる」
「何のためにだ? 菅野祐介のようにゲームを楽しむためにかい?」
 飯方の顔から知らず笑みが消えていた。それはひかるがこの物語の核心に迫りつつあることを示している。
 飯方のリアクションに確かな手応えを感じたひかるが、ここできっぱりと宣言した。
「それは違いますね。正確には読者を楽しませるため。そして、謎を解かせるため。そのためにワザと演出している」
「じゃあ、【犯人】は何かヘマを犯しているということか。読者にも謎が解けるように【犯人】自ら【犯人】である証拠を残しているとしたら、それは一体なんだい?」
「残念ながらそれらしきものは今のところ何も見つかっていません。もしかすると、そもそも伏線なんてものはないのかもしれない。なにしろ普通の推理小説じゃないのだから。でも、10人の中に必ずひとり【犯人】がいるわけでしょう。たとえ【犯人】が最後まで尻尾を出さずゲームに勝利したとしても、9人の【被害者】を確定できれば、自ずと残ったひとりが【犯人】ということになる」
「ひとりの【犯人】を見つけるのではなく、9人の【被害者】を確定させる。これは随分遠回りな推理方法だね。そこでくだんの2つの物品にリンクしてくるわけか。それにまたしても普通じゃないときた。どこがどういうふうに普通じゃないというんだ?」
 髭を撫でながら再度問う飯方にひかるは唇を歪めて黙殺し、またしても唐突に話題を転じた。どうやらひかるはその答えをここで明かすつもりはないらしい。
「ねえ、飯方さん。【本屋で売ってる小説】と【オンライン小説】の違いって何が考えられますか」
 はぐらかされた飯方が露骨に顔をしかめるも、ひかるの質問に律儀に答える。
「う……うん、そうだな、素材に着目するならば、本屋に置いている方は紙でできてるし、一方のネット小説は特に紙などは必要ない」
「ええ、それから?」
「本屋に並ぶ小説はプロが書いているが、ネット小説は大抵の場合、素人が書いている」
「はいはい、ということは?」
「プロの書いたものは当然有償だが、ネット小説はほとんどの場合において無償……ってとこかな」
「ですよねー」
 飯方の回答にひかるは嬉々として何度も頷いた。
「ねえ、ひかるは結局何が言いたいわけ?」
 禅問答をはたで聞いていた沙織がしきりと首を捻っている。むろん、飯方もそれはご同様だ。
「つまりね、【本屋で売ってる小説】は複数の人間の手によって作られていて、【オンライン小説】の場合はだいたいはひとりで作られているってことなんだよ」
「どうも俺にはいまいち話が見えてこないな。複数の人間が作っているってどういう意味だい?」
「作家は一人でも、本を出版するためには、いろんな人が関わっているってことですよ。主に出版社の人間とかね」
「それって、原稿を催促したりする編集者のことかい?」
「それだけじゃありません。製本するためには印刷業者の手を借りなければならないだろうし、装丁にはデザイナーとかが必要でしょう。そういう人たちひとりひとりに報酬を払って、初めて一冊の【本】ができあがる。紙だってタダじゃないし、だからこそ無償で配布されることはない。それにくらべてオンライン小説というのは簡単なものです。いまや、無料でしかも簡単にホームページが開設できる時代ですからね。多少の通信料、そして時間と労力の出資でもって、自分の小説を全世界に公開することができるんです」
「ああ、心得ているよ。それで?」
 途中までメモをとっていたが、あまりに分かりきったことばかり言うのでメモする手を止めてしまう飯方が先を促した。
「文章力においてはプロとアマチュア、歴然たる違いが見られるのは間違いないとして、それとは別に、ひとりで全部やってしまうゆえの弊害が発生することに気づきませんか」
「弊害?」
「そう、たとえば推敲ですよ。有償の本はお金を貰う以上、誤字脱字や誤った用法は許されない。だから作者のみならず、編集者やら校正担当者やらが文章に誤りがないか厳しくチェックする。ストーリーに手を加えるのではなく、あくまで単純なミスを丁寧に探すという単調だけど重要な作業。オンライン小説にはこれがなきに等しい。この『1/10の悪夢』だって長いわりには誤植が少ないほうだと思うけど、ところどころ細かいところでタイプミスらしきものがある。よく探せば用法の誤りや漢字変換のミスもあるでしょう。まあ尤も、ストーリーを追っていくうえでの支障はほとんどないようなホントに些細な間違いばかりだろうけど」
 そこでひかるは、一息ついてコーヒーを啜り、さらさらヘアーを掻きあげる。
「それでもまだ、メールアドレスを公開していれば、あるいは掲示板を設置していれば、親切な読者が誤字脱字を指摘してくれたりする可能性もあるかもしれない。でも、このひかる小説館の情報はサイトオーナーからビジターへの完全なる一歩通行。オフでのスタッフがいるかもしれないけど、基本的には推敲をする協力者は少ないあるいはいないと考えられる。まっ、だからこそタイプミスがあること自体は然したる問題ではない。あって当然なんですから……だけど、一部大きな誤り、そして混乱させるような表記がある」
「それは……」
「つまり作者はこんな大事なシーンをなぜ書き誤ったのか? あるいは、故意に誤って書いたのか? どちらなのか判断に迷う部分が無きにしも非ずなんですよ」
「ほう、たとえば?」
「そうですね、これはもう少し整理してから話したいんですけどねえ」
 ひかる下唇突き出して考える仕草をする。どれを例にあげようか迷っているかのようにもみえる。
「第19章の最後の方で菅野祐介が缶コーヒーを開けるシーンで、『プルリング』と書いているけれど、いまどき『プルリング』はないでしょう。ここは『プルトップ』の誤植です。既に時代背景が現代であるとハッキリしてるわけですからね」
 そしてひかるは先に沙織と共に、物語の設定が1999年である結論に達した経緯を飯方に説明した。
 その隣りで沙織がプルリングって何? などと小声で聞いてくる。ひかるはこれにも丁寧に説明してやった。昔の缶ジュースは栓を開けるときにその栓が外れる仕掛けになっていて云々といったことを……。
「まあ、この手のものは大したことじゃない。作者が『プルリング』を自然に使ってしまう程度の年齢の人だということがわかるってくらいのことですから」
(それを知ってるひかるもスゴイ!)
 沙織は素直に感心している。
「飯方先生は作者と同姓同名の人物が登場人物の中にいるって言ってたでしょ。それって謎を解く上ですごく重要なことだと思うんですよ。とにかくボクは作者の人物像に拘りたい。だから、そういう誤植からも作者の人物像が見えてこないかなって。作者が【犯人】であるか否かはとりあえず後で検討することにしてもね。もちろん、それだけじゃないですよ。どういう状況で誤字脱字が発生するかってことにも一応着目したいところです」
「どういう状況?」
「平たく言えば、それはどうでもいいシーンに限ると思うんですよ。だってそうでしょう。重要なシーン、特にも【犯人】を指し示す伏線となるシーンなんかは慎重に書くだろうから、その手のシーンでは間違いはおかさないだろうし……」
「またまた君はまどろっこしいこと考えているな。伏線を探すのではなく、伏線ではないところを探すか……そんなことで【犯人】を看破できるのかな」
 そんな飯方の否定的な感想とは裏腹に、その態度はなぜかひどく興味をひかれているようだ。
「そうでもないんですよねえ、これが。だって、それを逆手にとることだってできるじゃないですか。過ちをおかすはずがない重要なシーン。それを別の角度から捉えてみるんですよ
「ははあん、君が言わんとすること、だいたい読めてきたぞ。つまり作者は御厨君がこの小説を読むことを前提にして書いていると言いたいわけだな」
「不遜ながら……でも、当たりでしょ」
「さあて、それはどうかな」
 飯方がわざとらしくスッとぼけてみせると、ひかるは悔しそうに指をパチンと鳴らした。
「ちぇっ、ひっかからなかったか」
「ちょ、ちょっとぉ〜、ふたりだけで話を進めないでよ! あたしにもちゃんとわかるように説明して!」
 と、そこへ沙織が立ち上がって抗議する。彼女に『ちゃんと』わかるように説明するのは、この謎を解き明かす以上に骨が折れそうだ。
「まあまあ。沙織ちゃん、そう怒らないで。じゃあ今度は沙織ちゃんの意見を聞かせてよ」
「え、あたし?」
 急にふられた沙織が、己の鼻を指差してきょとんとする。
 うまく問題をすり替えられてしまったことにはどうやら気づいていないようだ。
「ズバリ、沙織ちゃんは誰が【犯人】だと思う?」
「えっと、そこまではわかんないよ。ひかると同じで途中までしか読んでないんだから」
(全部読んでもわかんないかもしれないけどね……)
「じゃあさ、訊き方を変えるよ。【犯人】が誰かはともかくとして、メインの10人の登場人物の中で、一番重要なキャラって誰だと思う?」
「え、えっとお……」
 ひかると飯方の視線を集める沙織がゴキュッと唾を飲み込んだ。
「やっぱり、森岡千夏さんあたりかな。千夏さんは4人の女性の中でも生き残り組に入ってるし、正義感が強くて優しい性格からしても、主役クラスっていうか、ヒロインよね。彼女に罪の告白をして消えていく人たち。ストーリーの鍵を握っていることは間違いないんじゃない」
「間違いない? どうしてそう断言できるの?」
「え、え、だってそうじゃない、ふつう?」
「だーかーらー、普通じゃないんだってば、この話は。先入観は全部捨てて考えてみようよ」
「そ、そんなこと急に言われても……」
 沙織は最後まで読んではいないものの、ここまでの展開から察して最後まで生き残るのは森岡千夏だろうと信じて疑わなかった。加えて、彼女のほかに生き残る者がいるとしたら、菅野祐介あたりだろうかなどとなんとなく見当をつけていた。なにしろ菅野は物語の牽引役、探偵役といってもいい。【犯人】をギャフンと言わせられるのは、きっとこのふたりのどちらかしかない。もちろん、ふたりとも充分にアヤシイ存在でもあるからどちらも容疑者からは外せないけれど……。しかし、ひかるの反応からして、次に重要人物だと思えるのは菅野だなんて言ったらまた頭から否定されそうな気がしてくる。
(じゃあ、誰が一番重要だっていうのよ!)
 沙織はオコゼのようにぷうっと頬を膨らませて抗議しようとした。
 そこへ……
「あの、よろしいですか?」
 ひとりの老婦人が診察室のドアから恐る恐る顔を覗かせている。どうやら患者さんらしい。
 それを見てとったひかるはすぐに席を立った。
「じゃあ、飯方先生、ボクたちはこれで失礼します」
「そうか、悪いな」
「こっちこそ、なんだかすいませんでした。作者の重箱の隅をつつくみたいなことばかり言って……」
「そんなことないさ」
「彼にもそう言っておいてください」
「了解。何かわかったらまたいつでもおいで」
 飯方はそう言って、老婦人の方を見ると、手を差し出して中に入るよう促した。
 老婦人と入れ違いに診察室を出ていくひかるたち。
 ちらりと振り返ると人懐っこい飯方が一転してキリリと表情を引きしめ、老婦人に対し先ほどまでひかるが座っていた椅子を勧めているところだった。


「にゃはははは」
 玄関を出たひかるが、出し抜けに笑い出した。
 沙織は急におかしくなっちゃったひかるを見て慌てふためいた。
「ど、ど、どうしたのよ。ひかる」
 ひかるは笑いすぎて浮かぶ涙を拭きながら言う。
「いやあ、こんなにあっさりひっかかってくれるとは思わなかったな」
「もう、なんのこと言ってんのよお! ひかる、変だよ」
「誘導尋問さ」
「へ……」
「さっきもちょっと話したけど、一昨日ボクたちがここに来たとき、飯方先生が言ってたよね。『1/10の悪夢』の作者は飯方先生の患者で、作中の人物のひとりと同姓同名だって。ついでに言えばそれはボクの名前ではない、ともね
「うん」
「それ以上のことは患者のプライバシーに関わることだからって教えてくれなかったじゃない」
「うん、そだね」
「で、今日はストレートに訊かないで、ちょびっとばかしカマをかけてみたんだよ。ボクが、帰り際に飯方先生に言った言葉を思い出してみて」
「う〜ん、と……」
 はっきり言って沙織には思い出せない。
(ひかるってば、何か大事なこと言ってたっけ?)
彼にもそう言っておいてくださいって、そう言ったんだよ。そしたら飯方先生、躊躇うことなく『了解』って答えてた」
「うわっ! そーいえば……」
 ここでようやく沙織の頭上に豆電球が灯った。そりゃもう灯りまくった。
作者は男の人!
「ビンゴ! まあ、作者=【犯人】と断言できる要素は何もないけれど、これで一歩前進だよね。それにその作者は飯方先生と話すことができる環境にあることもわかった。つまり、作者は生きていて、飯方先生と会話することができる環境にあるってこと」
「すごいじゃない。ってことはよ、10人のうち6人が男だからその中に作者と同姓同名の人物がいるってことよね」
「6人じゃないよ。【代理人】や【代理人助手】だってみんな男だろ。でも、【代理人助手】はすべて苗字だけでしか登場してないから同姓同名といった以上【代理人助手】は全員除外だね。ま、今後の展開で【代理人助手】のフルネームが表記されてくる場面もあるかもしれないから、そこは何ともいえないところだけど……」
「じゃあ、今のところ山口維知雄を含めて全部で7人ってことになるのかな」
「違う違う、8人だよ、8人。もうひとりいるでしょ。新谷恭介さん」
「ええっ、あの人も含めちゃうの? 新谷恭介って現実に存在する人じゃない。っていうか、話題にのぼってるってだけで登場人物の中に入れちゃっていいの?」
「まあ、あの人が作者だったら大穴ではあるけどね。一応……さ」
「でも、新谷恭介って神経科に罹るような人かな。ちょっとイメージ違うなあ」
「沙織ちゃん、テレビとかで見るイメージほどアテにならないものはないよ。このボクがいい例じゃない。まあでも、あくまで一応だよ。たぶんその目はないと思うけどさ」
「でもさ、ひかる。こんな途中経過報告するためにわざわざここまで来る必要なかったんじゃない。電話だって済むことだろうし。それともホントに傘を返すためだけに?」
(もしかしてホントのホントは単に飯方さんに会いたかっただけ?)
 沙織は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「そんなわけないでしょ、沙織ちゃん」
 沙織の気持ちを知ってか知らずか、ひかるはニコニコ笑いながら沙織の頭をナデナデする。
「ここまで来て黙って帰るわけないじゃない。ボクの勘が正しければ、『1/10の悪夢』の作者はこの建物の中にいる。それも、きっとあの2階にね。作中でもゲストが泊まっていたのは館の2階だったでしょ。なにか通じるものを感じるんだよねえ」
「ま、まさか、ひかる……」
「ボクが何のために、飯方先生とだらだら議論していたと思う? 半分以上は患者さんが来るまでの時間稼ぎだよ。飯方先生が手が離せなくなるこの時を待っていたのさ」
 と、悪戯っ子のように笑うひかるが、えへへと揉み手をしながら好奇心一杯の表情で裏口へ回る。
「さあて、ぼちぼち禁断の地へ足を踏み入れてみますかね〜」
「ひ、ひかる、やめとこうよォ。飯方先生に見つかったら叱られちゃうよ」
 沙織がその袖を引っ張って制するも、ひかるは全くお構いなしだ。
「大丈夫だって。最悪叱られるだけでしょ」
(叱られるだけですむンならいいんだけど……)
 ひかると共に裏口に回ると、なぜか塀の上に有刺鉄線が張られている。こちらへは初めて来たが、見ようによっては『1/10の悪夢』の舞台に似ていなくもない。作者がこの建物から出ることなく作品を書いていたとしたら、この建物自体が舞台のモデルになったと考えられなくもない。まともに考えればそうだ。ただ、それだけだ。でも……。
 それでもいや〜な予感は拭えない。
 沙織にとって、ここの2階へ足を踏み入れることはすなわち、あの血なまぐさい作品の中に入っていくような、そんな気がしてならないのだ。
 そんな沙織の不安をよそに、ひかるは彼女を振り返ってさわやか〜に微笑みかけた。
「あ、沙織ちゃんは先に帰ってていいよ。飯方先生に叱られるのイヤだもんね。だけど、このことは先生には絶対内緒だよ」
 そこまで言われて我らがヒロイン、ハイそうでやんすか、と引き下がるはずもない。
 沙織はどんどん先に進むひかるに追いついて、その肩をぽんと叩いて言ったもんだ。
「あたしも行く!」
 かくして、俄か編成の御厨ひかる調査隊は、まだ見ぬ飯方神経科医院の2階へ続く階段にその第一歩を踏み出したのだった。


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