姉弟3



     第3話  水入らず


 両親が死んでからというもの、僕は学校が嫌いで嫌いで堪らなかった。
 参観日が嫌いだった。
 運動会も卒業式も嫌いだった。
 神戸から東京の学校に転校したのは小学4年のこと。その頃は同級生の中でも一番背が低くて、運動神経が鈍くて、おまけに関西弁で喋るものだからクラスの中ではちょっと浮いた存在だった。僕の発する言葉から関西弁が消えた大きな理由のひとつはこれだと思う。
 少しでも目立たないように生きよう、切実にそう思った。
 友達ができなくて最初は辛かったが、僕にはいつでも僕を守ってくれる姉がいた。学校での辛く孤独な時間は、じっと息をこらしてやり過ごしてきた。親がいないという防ぎようもない現実が、幼い僕を劣等感と猜疑心の固まりにさせた。
 徹夜明けのひんやりとした頭に過去の様々な映像が蘇る。思い出したくもないことばかりだ。瓶に詰めて蓋をして地中深く埋めてしまいたい、そんな忌まわしい記憶ばかりだった。


 
 雀の囀りを聞きながらアパートを見上げると、姉が部屋の窓を開け放ち布団を干している。
「あ、俊ちゃん、お帰り」
 聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらい両手をメガホンにして姉が大声で叫ぶ。
「御飯できてるよお」
 部屋に戻ると、室内は心なしか整頓されていた。
 朝餉のいい香りが鼻を突く。僕はコンビニのビニール袋を台所において炬燵にもぐりこんだ。袋の中には賞味期限の切れたサンドウィッチや弁当の類いが入っている。これは店長がいつも帰り際に僕にくれるものだ。
「えー、俊ちゃん、いつもこんなん食べてんの?死んじゃうよ、そのうち。最近よくあるんやてねえ。この飽食の時代に独りもんが自室で餓死なんて。これって結構惨めだよォ」
 姉が妙にはしゃぎながら、ジャーから御飯を盛っている。僕は炬燵のスイッチに手を伸ばしながら姉に問い掛けた。
「店に何しに来たんだよ」
「何って、買い物に決まってるやん。風邪ひけば病院行くし、遊びたければパチンコ、買い物したければコンビニ、せやろ?」
「子供じゃないんだから、いちいち弟の仕事ぶり見に来るなよ」
 僕はがつがつと炊きたての御飯をかき込みながら文句をたれる。姉は母親のような微笑を浮かべつつ僕の食べるのを見守っている。
「そういうこと言ってるうちは、まだまだ子供なんよ」
 今年成人式の男をつかまえて子供もあったもんじゃない。
「まあ確かに、姉さんに比べたら僕なんてまだまだ子供だろうね。姉さん、目元の小皺、目立ってきたよ」
「おのれ、言うてはいかんことを!」
 腕捲りをして、拳骨にハアーと息を吐き掛ける姉。そして二人して笑いあった。何だか久しぶりに笑ったような気がする。
 朝食を終えてお茶を啜っていると、姉がキッチンから声を掛けた。
「なあ、今日どうする?どこ行く?」
「寝るよ、疲れてんだ」
「こんなに天気がいいのに?」
「晴れの日は嫌いだ」
「日曜日だってのに?」
「こっちの仕事は日曜なんて関係ないの。だいたい休日なんて大嫌いだ」
「嫌いなもんばっかやね、俊ちゃんは」
 僕は人間が一番嫌いだ。
「いいから、義兄さんとこ帰れよ。一晩家出すれば気が済んだろ」
 背を向けて見えないはずなのに、一瞬姉の表情が曇ったのを見た気がした。肉親同士は意識の底のどこかで繋がっていると何かの本で読んだことがある。僕たちもそうなのだろうか?
 短い沈黙の中で水道水がシンクに流れ落ちる音だけがやけに賑やかに聞こえた。だけど姉はいつも明るさを失わない。
「そしたら耳掃除したげようか。耳垢溜まってるやろ」
 と、やってきて寝ている僕の耳の中を覗き込む。
「あ、ほらやっぱり。えらい汚いなあ。半年ぶんくらいか」
「やめてくれ。前に失敗してるだろ」
「男が一度や二度の失敗でぐだぐだ言わないの」
「知ってるか?耳ん中にかさぶたできると凄く痒いんだぞ」
「俊ちゃん、この頃やけに反抗的やないの?」
「とにかく眠いんだ」
 姉と漫才をやっていたらきりがない。僕は敵に遭遇した亀のように炬燵の中に避難することにした。姉が、おいこら、俊助出てこい、とガラの悪い声色を使いながら天板を叩いている。体を丸めて赤外線を浴びながら、ふと姉の嫁いだ日のことを思い出した。
 一人この部屋で眠った夜、この空間が無性に広く感じたっけ。この穏やかな時間がずっと続いたなら・・・


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