姉弟5



     第5話  僕が最後に泣いたのは


 僕と姉との間で、両親の話題が出ることは滅多にない。
 お互い特に意識しているわけではないが、長い年月の中で自然とそれはタブーになっていた。

「げっ、何で歩かせんのん?男らしないなあ、このピッチャー」
 と、ビールをあおりながら、テレビでナイター観戦と洒落こんでいる姉。
「それは満塁策っていうんだよ。わざとフォアボールにしてゲッツー狙ってんの」
 茹でた枝豆を炬燵の上に置きながら解説してやる僕。
 姉は基本的に働き者なのだが、酒が入るとたちどころに怠け者に変身する。
「でも、何か卑怯ぽくない?勝負避けるなんてさあ、高校球児はようせえへんよ」
「この人たちはこれで御飯食べてんだ。要は勝てばいいんだよ」
「そんなもんかなあ?あ、ところで俊ちゃん、ゲッツーって何?」
 全く、姉の野球音痴にも困ったもんだ。テレビの画面のすみに出ているスコアを見ないと、どっちが勝ってるのかも分からないというのだから救えない。そのくせ大のタイガースファンときている。
 7回裏ツーアウト満塁という場面でアナウンサーは無情にも放送時間の終了を告げた。
 姉はすでに4本目のビールを空けてしこたま酔っ払っていた。
 義兄と会えなくて本当はすごく寂しいのかもしれない。
「くう、ええとこなのにィ、テレビ局に文句言うたる」
「やめとけって。ルールも知らないくせに」
 僕がやんわりと窘めると、姉は赤いとろんとした目で僕をねめつけた。
「あ、いけね。バイトの時間だ」
「嘘やん!」
 退散とばかりに立ち上がろうとする僕の袖を姉ががっちりと掴む。
「酔っ払い、早く義兄さんとこ帰れ」
 僕の言葉に姉が手を離し、頬を膨らませる。
「俊ちゃん、お姉ちゃんいるの、そんなに迷惑なん?」
「迷惑だよ」
「うう、たった一人の弟に何という言われよう。お姉ちゃん悲しい」
 浄瑠璃みたいな節回しで、嘘泣きしてみせる姉。お茶目という年でもなかろうに・・・
「ったく、姉さん、何で義兄さんと喧嘩なんかしたんだよ。ワケを言えよ、ワケを」
「ふんだ。子供は知らなくてええの」
「すぐ子供扱いする。ああ、わかったわかった。いいからもう寝ろよ」
「・・・はい」
 姉はやけに素直に首を縦に振り、僕があらかじめ敷いておいた布団に潜り込んだ。
「俊ちゃん」
 姉が布団の中から首を出し、真顔になって僕を見る。
「言いたいことあったらなんでも言うてや。我慢したらあかんよ。せめてお姉ちゃんにだけはほんまのこと話して」
「何だよ。あらたまって」
「俊ちゃんももう大人なんやね。なんかお姉ちゃんなあ、俊ちゃんずっと遠いとこ行ってしまうような気がするねん」
「何言ってんの。電気消すよ」
「・・・うん、おやすみ」
 明りを消してカーテンを開け放つ。
 月が出ていた。
 月がいつもより大きく感じられてちょっと怖かった。
 やがて姉が寝息をたてはじめる。月明りに青白く照された姉の寝顔を見た。
「姉さん、少し太った?」
 いらえはない。
 ふと子供の頃を思い出す。僕の家庭がまだ平穏だった頃、庭で雑種の犬を飼っていた。
 名前はゴロ。ゴロは家族のみんなから愛されていた。その風貌は決して格好いいものではなく、頬は垂れ、二重顎、毬のような体。ありていに言えば太っていた。やがて我が家は借金苦でペットを飼うどころでなくなり、ゴロは近所の家にもらわれることになった。
 ある日、久しぶりにゴロに会いに行くと、骨が透けて見えるほどがりがりに痩せていた。餌はちゃんと貰っているようだが、それにはあまり口をつけていないようだった。ゴロは僕の顔を見ても無反応だった。尻尾を振るでもなく吠えるでもなく、ただ無機質な眼で僕を見るとつまらなそうにそっぽを向いてしまった。僕はその時なぜか、ゴロは僕を無視しているのだと思った。僕のことを知っているくせに、自分を捨てたかつての主人を知らんぷりしているのだと。
 僕はその日、泣きながら家に帰った。
 その後、色々なことがあったけれど、僕が最後に泣いたのはその時だったと記憶している。
 僕は姉の枕元に胡座をかいて、眠っている姉に語りかけた。
「姉さん、幸せなんだな」
 姉の頬に思いがけず一筋の涙が伝った。
「お父ちゃん・・・お母ちゃん・・・」
 何か悲しい夢を見ているらしい。いつも明るい姉だけど、僕と同じように両親がいない現実にずっと向き合ってきたのだ。
 僕には人間として何か大切な部品が欠けている。それがなくても生きていく上で支障はないが、人間らしく生きることは不可能な、そんな厄介であり、また、どうでもいいような代物だ。
 例えばそれは涙であったり、笑顔であったり、打算のない感情であったり、透明な心であったり、人を思いやる気持ちであったり、生きる希望であったり、きっとそんな不確か何かなんだと思う。
 僕たち姉弟の決定的な違いがここにある。ポジティブな姉とネガティブな僕。表裏一体の危ういバランス。砂の城のように脆い関係だからこそ、僕らは今までやってこれたのかもしれない。姉さん、教えてくれよ。僕はどうしたらいい?

 規則的に繰り返される姉の寝息がやけに重たい夜だった・・・


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