姉弟6
第6話 人生なんて
「警察に届けた方がいいですよ」
開口一番そう言ったのは、檜山未散だ。
「いや、しかしなあ、額もそう多くないし。ま、何とか穏便に済ませたいんだよ、俺は」
思案顔で腕組みをしているのは店長の後藤。
昨夜、店に出ていたのが店長と佐久間だったのだが、店長が店を離れたすきに佐久間が店の金を盗んで逃げ出したらしいのだ。
朝、店長からそのことを聞いた僕は、すぐに佐久間のアパートに連絡を取ったが応答はなかった。佐久間は妊娠中の彼女とふたりで暮らしている。管理人は何も聞いてないと言っていたが、佐久間はもうこの町へは戻ってこないと直感した。
「いつかやると思ってたわよ、あたしは」
「よっぽど金に困っていたんだな。こんなことするくらいなら一言相談してくれりゃよかったんだが・・・」
「そんな呑気なこと言って。人が良すぎますよ、店長は。ほらっ、武田も黙ってないで何とか言いなさいよ」
確かに僕が責任者の立場であれば、警察に届けるだろう。店長のお人好しが過ぎるという未散の感想には僕も同感だった。
だけど。
「前に佐久間が言ってました。高校のとき友達に裏切られたけど、それでもそいつのこと今でも信じてるって」
「どういうことよ、それ?」
その問いに答えたのは店長だった。
「人にはそれぞれいろんな事情ってもんがある。やむなく人を裏切らなきゃならないときだってあるってことさ。むしろ信頼できる人間だからこそ安心して裏切れる。お前たちにだって身に覚えがあるだろ?」
「ないわよ、そんなもん!大体これはれっきとした犯 罪なのよ」
未散がムキになって反発する。まあ、店長の言っていることもわからないではない。しかしそれは屁理屈だ。被害者である店長が許すと言うなら僕らにそれ以上言う権利はないが、僕がもしもあの時、母に殺されていたら、きっと僕は母を許さなかっただろう。結果的に生きていたからこそ何の感情もない。
母に対する憎しみなど芽生えず、そのかわり強い猜疑心が僕の心に根を張ったのだ。
「とりあえず、店開けませんか」
未散がぶつぶつと文句を言うのを制すように僕が切り出した。
「そうだな。うん、そうするか」
店長がパンと膝を叩いて立ちあがると同時に電話が鳴った。一番近い僕が受話器を上げる。
「はい、こちら・・・え、佐久間?」
電話の主は確かに佐久間だった。
「佐久間なのか。今どこにいる?」
僕は努めて冷静に問いかけた。
「すいません、店長お願いします」
佐久間の声は気の毒なくらい震えていた。自分のしでかしたことに今更ながら怯えている様子だ。店長は3分程佐久間と話していた。電話を切った店長が僕らに向き直って言った。
「この件は片付いた。ふたりともこのことは口外無用だぞ、いいな」
「どうしてですか!」
案の定、未散が食ってかかる。
「あの金は俺が佐久間に貸したんだ。あいつは必ず返すと言ってた。返す気がないなら電話なんてしないだろ」
この人も損な性格だなと思った。店長に対し憐れな気さえする。
「でも、新しいバイト探さなきゃならないですね」
僕が話題を変えてやろうと水を向けると、店長は困ったように天井を見上げた。
「うーん、それが問題だなあ。どっかいい子いないかな」
「佐久間みたいな子ですか?」
皮肉交じりに言う未散に、店長が「うん、そうだな」と生真面目に応じた。
僕がやめろと言うのも聞かずに姉はまたしても店にやって来た。
しかもまた運悪く未散とのコンビの時だ。
姉の買い物を袋に詰めた未散が、突然姉に話しかけた。
「お姉さん?」
僕はぎくりとして未散の方を見た。
「はい?」
「武田くんのお姉さんでしょ」
「あらら、ばれちゃいました?やっぱり似てますか、あたしたち」
姉はしれっとしたもんだ。しかもへんに気取った標準語だし。
未散も面白そうに姉と僕とを交互に見比べている。僕は仕方なくふたりの会話に割って入った。
「あのな、姉さん。仕事の邪魔なんだよ」
「何言ってんの、あたしは客よ・・・あ、遅れまして、いつも弟がお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ」
深々と頭を下げる姉に対し、未散も得意のカマトトぶりを発揮して、姉に調子を合わせている。
「俊ちゃん、襟立ってるよ。だらしないなあ」
などと、お節介に僕の制服の襟を直したりなんかする姉。
「頼む。みっともないマネやめてくれよ」
はいはいとか言いつつも、口ばかりの姉はしばらく未散と世間話をした後、客が来たのをしおに、やっと帰っていった。
夕刻、帰る時間になり店を出ると、未散が「ほらほら、俊ちゃん、靴紐解けかかってるよ」などと姉の口振りを真似ながら僕の背を叩いてきた。
僕は黙って靴紐を結び直す。デイバッグを背負った未散が僕の周りをぐるぐる回る。
「みっともないのは武田の方だろ。いい年してお姉さんにべったり甘えちゃってさ」
僕は何も言わず早足で歩き出す。その後を未散が追い掛けて来る。
「武田、怒ったの?」
僕が急に立ち止まると、未散が僕の背中にぶつかって転んだ。
「あによお、急に止まんないでよ!」
僕は未散が起き上がるのに手を貸してやりながら言った。
「姉さんは僕の母親がわりでもあるんだ」
「何よ、それ」
「僕が九つのとき両親が死んだ。借金苦ってやつでさ、母親が気がおかしくなって一家心中をはかった。それまでノイローゼ気味だった母親がその夜だけ妙に明るくて、明日遊園地行こうなんて言い出してさ。幼い僕は素直に喜んだけど、父や姉さんは母の異常に気づいてたみたいで・・・」
僕は母が庖丁を振り上げたのを瞬きもせずに見つめていた。その時の僕に恐怖などなかった。
――やめて!お母ちゃん。
姉が二段ベッドの上から掠れた声で叫ぶ。
――お母ちゃん、俊ちゃん連れてかんといて!
母の手がピタリと止まる。
母は何ごともなかったように階下に下りていった。
姉がベッドから下りてきて小さな僕の躰を抱きしめた。
――もう大丈夫や。もう大丈夫やからな。
「結局死んだのは両親だけ。姉さんは僕も巻き込まれるところを救ってくれたんだ。だから姉さんは僕にとって命の恩人でもあるんだよ」
こんな話を他人にしたのは初めてだ。なぜだろう。僕の中でこの辛い記憶は風化しつつあるのだろうか。あたかも映画のストーリーを話しているかのように、何の拘りもなく言葉が口をついて出てくる。
「すごいな・・・すごい絆」
普段の揶揄するような口調とは裏腹に心底感心したように未散が嘆息をもらす。
「で、その借金はどうしたの?」
「身寄りのない僕たちは逃げるようにして故郷を離れた。借金は父の保険金で大半は返したけど、残りは姉がこつこつ働いて返していったよ。なのに姉さんは苦しい顔ひとつ見せないんだ。ときにはわざと無駄遣いしてみせたりして、僕の前では余裕だよなんて言ったりしてた」
実際20歳そこそこの姉にうん百万という大金を返済する能力などなく、利子を払っていくのがやっとだった。その後、紆余曲折があって、残りの借金を義兄さんが面倒を見てくれたわけだが、義兄も決して金持ちというわけではなく普通のサラリーマンだ。義兄は将来のために一生懸命貯めた金を僕ら姉弟のために使ってくれたのだ。
「でも姉さんも今は結婚して幸せに暮らしている。本当に良かったよ。自分の人生、犠牲にして僕のために頑張ってくれたんだから」
「人生か・・・」
未散が足元の小石を蹴るとプッと吹き出した。
「人生なんて言葉、あたし生まれて初めて使ったよ。結構重いもんかと思ったら口にしてみるとどうってことないんだね」
未散は人生、人生と一歩歩くたびに呟き、やがて、人生楽ありゃ苦もあるさァなどと歌いはじめる。これがまたかなりの音痴で、擦れ違う子供たちが彼女を指さし笑っていく。
「武田、元気出せよ」
彼女はやけに明るく僕の肩を叩いた。
「君に励まされたくないよ」
「ったく、素直じゃないなあ」
僕は彼女の陽気に当てられて、つい吹き出してしまった。
「お、やっと笑ったな。ネクラ青年」
僕はどうやら彼女のペースに乗せられてしまったようだ・・・
たぶん、それはいい意味で、だ。