ココロもバラバラ

 




【ココロもバラバラ】
問題:毎年恒例、皇居での歌会始。
   今年のお題は「月」で来年のお題は「火」ですが、では再来年のお題は何でしょうか?
正解:少なくとも「水」ではありません。
   (STUDY・「水」は昭和61年に出題済)
で、おなじみのヒカコラですよ、こんにちは!


「夢がないね」と君は言う。
妹よ、君はちっともわかっちゃいない。
夢はね、誰もが持ってるものなんだ。
心の奥深くに密かに隠し持っているものなんだ。
人は夢を語るとき、ちょっと照れくさそうな表情を浮かべながら、それでもスゴク嬉しそうな幸せそうな顔をする。
だけどそんなピカピカ輝く宝石のような夢は、往々にして真っ黒な現実に塗りつぶされてしまうんだ。
ときにはそれを受け入れることがオトナになるための交換条件だったりもする。
ボクの夢はね、尊敬する父のような立派な歯医者になることなんだ。
でも過酷な現実は僕を歯医者ではなく敗者に仕立て上げる。
それでも僕は夢を捨てない。諦めちゃいけないんだ。
だから妹よ、お願いだから「夢がないね」だなんて言わないでくれ。
妹よ、君と話さなくなって、もうどれくらい経つのだろう。
幼い頃はかくれんぼやままごととかしてよく遊んだね。
君は兄より僕によくなついていて、どこに行くにも僕の裾を掴んで離さなかった。
まったく皮肉なものだ。
久しぶりにこうして兄妹水入らずでお風呂に入っているというのに、浴槽には湯が張られていない。
だから君はとてもフキゲンで口を利いてくれないのかな。
まったく皮肉なものだ。
僕はこんなに汗だくなのに、君ときたら氷みたいに冷たいのだから。
やっと素直になれたのに、やっと君と向き合えたのに。
なのに君はさっきからひとつも言葉を発しない。
僕ばっかり喋っていてバカみたいだよ。
そうか、明日で今年も終わりなんだね。
今年の紅白歌合戦はどっちが勝つのかな。
この浴槽の色のように赤組の勝利かな。
妹よ、僕はもうオワッテルのかい?
君の人生は確実に終わってしまったけれど、僕もやっぱりオワッテルのかな?
歯科医になれなかった僕と死界へ旅立った君。
まったく最悪の年の瀬だね。
ボウリングの球と大して変わらない大きさになってしまった君を軽々と持ち上げ語りかける滑稽な僕はもうどこへも行けないのかな。
首から切り離した君の頭を抱きしめ涙する今の僕の夢はただひとつ。
ほんの少しだけ時間を巻き戻してほしいんだ。
「夢がないね」と君が言ってたその時まで―――


兄が妹を殺し、妻が夫を殺し、あまつさえその身体をバラバラに切り刻む冒涜行為。
そんな殺伐とした事件が新年早々、暖冬もどこ吹く風とばかりに冷気をまとって日本全国を駆け抜けていった。
いつから肉親殺しが当たり前になったのか。いつからバラバラ殺 人が日常になったのか。
この手の事件を耳にするにつけ不思議と怒りや憤りよりも悲しみや遣る瀬なさに心が穿たれてしまう。
ずっと一緒に暮らしてきた家族である。良いところも悪いところもみんなわかっているだろう。
悪いところに目がつぶれない。そんなときもあるだろう。
だけど殺すか、ふつう?
バラバラに切り刻むか、ふつう?
ふとバラバラ殺 人について考えてみる。
なぜ加害者は被害者の身体を解体するのか。
その目的は大きく分けて4つ。
 A 運びやすくするため。
 B 身元を分かりにくくするため。
 C 強い憎悪ゆえ。
 D 異常な性癖ゆえ。
推理小説の世界ではこれに加えて、犯行時間を誤認させるため、被害者の人数を誤認させるためなど非現実的な目的がぼろぼろ出てくるが、現実的にはまあ上の4つに絞られるだろう。
そしてこれもまたさらに2つのタイプに収束することができる。
AやBのように完全犯 罪を遂行するための狡猾な手段とする知能犯 罪者タイプ。
CやDのように欲望の赴くままに行動する激情型犯 罪者タイプ。
しかしこれはボクの私見になるが、妹殺しにせよ夫殺しにせよ、いずれも複合型のように思えてならない。
己の罪を隠そうと策を弄する過程の中での必然的解体でもありつつ、憎悪や異常性癖の要素もまったくなかったとはいえないのではないかと、そう感じてしまう。
なぜなら、人が人を殺めるにはそれなりの理由が必要なのに、本件を見る限りとても殺さなければならないほど切羽詰った動機とも思えないからだ。
完全な計画的犯 罪ではなく、むしろ場当たり的な犯行。
普通の人間が人間の身体を切り刻むにはそれ相応の覚悟が必要なハズなのに、感情の赴くままに肉親を手にかけ、勢いだけでそれをサラリとやってのけてしまう加害者たちは、やはりどこか元から人としての最低限な一線を越えていた人種だったのではないかと勘ぐってしまう。
いやしかし、また別の見方もある。
そもそもバラバラ殺 人はそんなに異常なことなのだろうか?
人を殺してはいけないという倫理観が歯止めをかけているにすぎず、死んでしまった人間を切り刻むこと自体はさほど特別視しなくてもよいのではないかさえ思えてきたりもする。
子どもの頃を振り返ってみるとクラスに何人かはいたハズだ。
理科の実験でカエルの解剖をやったとき、引きまくる子どもたちの中で率先してナイフを振るっていた子どもが。
あるいは買ってもらったばかりのオモチャの電動ロボットや枕元の目覚まし時計を喜々として分解、解体していた子どもが。
それはありふれた子供のキャラクターのひとつとして確かに存在していた。
だがそのほとんどは大人になるにつれ、そういった趣向から徐々に遠ざかっていく。
思うにバラバラ殺 人をスンナリ実行できる人間というのは、子どもの頃持っていたナニかをずっと引きずってきているのではないだろうか。
それが堪え性のなさであったり、理性の欠如であったり、欲望に対する純粋さであったりするのではないかと考えてみたりする。
とはいえ、結局のところ加害者の数だけ詳細な事情がある。
彼らの本当のココロなんて実際に同じ立場になってみなければ真の理解は得られないだろうし、得たいとも思わない。
そもそも人間の感情の流れなど物語のように常に理路整然としているものではないのだから、それを訳知り顔で語ること自体ひどくマヌケな行為なのかもしれない。
that's all


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