虹館の殺 人(問題編)

虹館の殺 人(問題篇・中)


 虹館の食堂には、泊り客の全員が集まっていた。
 そして、虹の形を模したテーブルには実に豪勢な料理が並んでいる。
 麻雀は食後に付き合うからと約束し、ほうほうの態で厨房へ逃げてきた工藤箔嬰と、自ら手伝いを申し出た梅垣秋絵による手料理である。
 全員が揃ったテーブルでひととおりの自己紹介を終えたあと、一同はそれぞれ料理に舌鼓を打つ。
 片桐雄良がはしたなくも食べものを口に入れたまま感激の声を上げた。
「やあ、これはウマイ!工藤さんって結構料理上手なんですね」
「んだごどねえってば。それにほれ、あんだが今食ってんのは秋絵さんがつぐっだものだがらなあ」
「いえ、わたしはちょっとお手伝いしただけですから」
 と、謙虚な姿勢の秋絵に、今度は和服の似合う白髪紳士、菊池燐太郎が持ち上げる。
「確かに工藤さんの郷土料理もなかなかのものですが、秋絵さんの手料理はまた格別ですね。さすが女将の姪御さんですよ」
 ラフな服装に着替えてきたばかりの松本侑も快活に笑って、菊池の言葉に便乗してくる。
「そう言えば、女将に聞いたことがあるぞ。秋絵さん、栄養士の資格持ってるそうじゃないか」
「そうがあ、どうりで料理の手際がいいと思ったじゃあ」
「いえ、そんな……あ、わたし、コーヒー淹れてきますね」
 あまりに過分に褒めちぎられた秋絵が、居心地の悪さからかそんなことを言って席を立つ。
「あ、それはおらの仕事だから、あんだは座ってでけろ」
 そう工藤が申し出るも、秋絵は「性分ですから気にしないでください」と言い残し、続き間の厨房に向かう。
 秋絵が厨房に消え、一瞬の沈黙が訪れた。
 そこでふいに、虹館の設計者、萩原青司が土地の名物であるティラピアと呼ばれる熱帯魚の姿焼きにかぶりつきながら対面の菊池に尋ねる。
「ところで菊池氏、ここにいる7人は何か狙いがあって集めたのかい?」
 この言葉に最も過敏に反応したのは高柳麻耶であった。20代後半でイラストレーターを生業としている彼女は、どこかオリエンタルな雰囲気を称えた美貌の持ち主である。梅垣秋絵を「かわいい」と評するなら、一方の麻耶は「美しい」という表現がより適切であろう。
 ともかく彼女は萩原の言葉に目を剥いて、露骨な敵意を剥き出しにしていたが、それに気付いたものはこの場にはほとんどいなかったようである。
 さて、当の菊池は質問の意図が理解できないらしく軽く首を傾げている。
「それはどういう意味ですか?ここに集まってもらった人はみな私に近しい人ばかりです。まあ、厳密に言えば、雄良さんや工藤さんは些か違いますが……」
 萩原はへえ、と鼻を啜ると「なんだつまらん。これは単なる偶然か……」と誰にともなく呟いた。
「萩原さん、何か問題でも?」
「いやね……我々7人に面白い共通点があることに気付かねえかな?」
「あの、それって謎かけですか?ようし、それならこの僕が……」
 萩原の前でいい格好を見せようというつもりなのか、腕組みして沈思黙考の態勢をとる雄良。
「こうみえても、僕、建築マニアだけじゃなくてミステリマニアでもあるんですよ」
 純真無垢な少年のように真剣な表情で頭を捻っている雄良をみて松本が笑う。
「ミステリとは大げさだな。ま、とにかく、少なくとも秋絵さんはイレギュラーの参加だからね。この7人に共通項があるとしても、それは菊池が意図したものではないことは確実ですな」
「いいや、そうとも言いきれんぞ」
 そんな意味深な発言を残して、自ら話題を転じる萩原。
「それはともかく。見たかよ、あのレインボウゲート」
「あ、見ました見ました。きれいでしたよねえ。やっぱり暗くなってから見るのがまた格別ですよ。この部屋から見れないのは残念だけど」
 沈思黙考はどこ吹く風、雄良が真っ先にリアクションをおこす。
 暗闇の中で、煌々と発光するレインボウゲートは現在、鮮やかなオレンジ色を呈している。ちなみに雄良は食事前に赤とオレンジのレインボウゲートをしっかりと鑑賞済みであった。
「周囲が明るいとこうも綺麗にはいかなかったでしょう。やはり人里離れたこの山に建てたのは正解でした。いや、本当にいろんな意味で正解でしたよ」
 と、菊池燐太郎が感慨深げにもらす。
 その時、皆の目の前で食堂の窓が露に濡れた。
 そして、次の瞬間には、バケツをひっくり返したような大量の水が容赦なく打ちつける。
 いきなりの豪雨であった。
「うわ、ひどい雨だ。これじゃ折角の景色が台無しですね」
 雄良が眉根を寄せると、工藤箔嬰が執り成すように穏やかな口調で言う。
「まんず、山の天気はわがんねえがらなあ。けども、こういう突然の大雨っつうのはすぐにやむもんだ。安心してけさい」
 そこへコーヒーセットを盆に乗せて梅垣秋絵が戻ってくる。しかし、急の大雨に気をとられている一同は彼女の存在に気付かない。
 やがて、窓からいち早く視線を逸らした雄良が秋絵に気付いた。
「あ、すいませんね、秋絵さん…………あのぉ、秋絵さん?」
 思わず語尾が疑問形になる雄良。
 秋絵は皆の注目している窓には注意を払わず、ただ一人の人物に視線をとめていた。
 彼女の視線の先にいた人物は高柳麻耶。
 麻耶は秋絵の注目を浴びていることに全く気付いていない。
 そんな秋絵を不思議そうに見つめる雄良。
 ようやくその視線に気付いた秋絵がさりげなく麻耶から目を逸らす。
 そして何事もなかったかのようにコーヒーを配りはじめたのだった……


 菊池燐太郎が東棟奥の風呂場の引き戸を開けて出ようとしたとき、その向こうから来た人物とばったり鉢合わせになった。
「やあ、秋絵さん。あなたもお風呂ですか」
「いえ、わたしは後でいただきます。今はちょっと中を見て歩いているだけですから。あの、菊池さんは?」
「私は今あがったばかりです。いや、まだ見ていないかもしれないですが、ここの風呂はちょっと狭くてね。申し訳ないですがその辺は我慢してください」
 菊池は決して謙遜で言っているのではなかった。
 確かに虹館の風呂は狭い。脱衣所の奥にあるユニットバスは、人ひとり入れるのがやっとである。個室の広さを考えればアンバランスなまでに狭い風呂だ。これが大浴場では、虹館を俯瞰で見たとき虹の形を成さなくなってしまう。松本侑の言うところの〈機能性より芸術性を重視した〉萩原ブランドらしさがここにも具現化しているわけである。
「こんなに狭い風呂ならば、それぞれの個室に完備した方がまだましなのでしょうが、設計者はここに風呂を置いたのでね、私としては、もっと大きなものを作りたかったのですが……」
「設計者って萩原さんのことですね。そうですか、設計者の意思を尊重してというわけですか」
「……ええ、まあ、そんなところです」
 と、菊池は幾分寂しそうに曖昧な笑みを浮かべる。
「そうだ。帰りは温泉に寄っていくといいですよ。ふもとの金田一温泉はその昔〈侍の湯〉と呼ばれた歴史ある温泉地でしてね」
「でも、この雨ですから……明日、山を下りれるかどうかも怪しいですよ」と、秋絵が心配そうに呟く。
 すると、菊池が意外にも冗談ぽい返事をかえした。
「なに、心配はいりませんよ。なにしろ食糧は充分に蓄えてありますから」


 談話室では萩原青司、松本侑、片桐雄良、工藤箔嬰の4人が麻雀卓を囲んでいた。
 早くも半荘が終了し、萩原のひとり勝ちである。
「いやあ、萩原先生と卓が囲めるなんて思ってもみませんでした。ホント光栄です」
 雄良が上家の萩原にペコリと頭を下げる。
「まあ、そう固くなるな、青年。あんたが負けたのを俺との対局で緊張してたからってことにされてもかなわんからな」
 萩原は2荘目もトップを独走し、極めてご満悦だ。咥え煙草の灰が足元に落ちているのも構わずノリノリで牌を回す。
「あ、それポンだな。しっかし、おらも人のごど言えねえけど、雄良君も相当へだくそだな。こんなおいしい牌、切ってくるなんてよお」
 雄良の対面の座椅子に窮屈そうに身を収めている工藤が彼を指してそんな軽口をたたく。
 またしても自分の順番を飛ばされた松本は、すでに箱をかぶって少々不機嫌そうだ。
 そんな空気すら読めないのか、雄良は迷うことなくドラを切りつつにこやかに言う。
「ところで、萩原先生、最近新作発表してないですよね」
 すると、萩原の牌を掴む手がピタリととまった。
「雄良君。それは禁句だよ」
 松本がやんわりと彼を窘める。
「センセイはスランプなんだ」
「スランプ……ええっ、そうなんですか?」
 これには萩原、怒髪天。雄良の駄目押しにひどく立腹し、捨て牌を叩きつける。
「うるせえよっ。くそっ、酒はねえのか。工藤、酒もってこい!」
 そこへまたまた間の悪い男、片桐雄良が言ったもんだ。
「萩原先生、それ、ロンみたいです」
 バラバラに開かれた雄良の手牌はタンヤオのみだった。ちなみに親は萩原である。


 〈紫の間〉には高柳麻耶がいた。
 彼女はボストンバックのファスナーを開き、その奥に手を差し入れた。
 そして、その固くひんやりとした感触を確かめる。
 コンコン……
 ふいのノックの音に麻耶は必要以上に身構え、用心深くドアの向こうに問い掛ける。
「誰?」
「わたしです。秋絵です」
 相手の名を聞いてもなおドアを開けようとしない麻耶。
「何の用?」
「いえ、ちょっとお話でもと思って……すいません、寝てましたか?」
 邪気のない秋絵の口調に気が緩んだのか、ふうと一息つくと麻耶はようやくドアを開けた。
 ドアの前に立つ秋絵の両手は、ワインとチーズを乗せたトレイで塞がっている。
「厨房から失敬してきました。一緒にいかがです?」
「……つきあうわ」
 と、ぶっきらぼうに言って招き入れる麻耶。
「ありがとうございます」
「ワインは嫌いじゃないから」と、やはり不機嫌そうに応じる麻耶。
「それは良かった」
 秋絵が破顔し、そして「でも、わたしお酒飲めないんですけど……」と残念そうに付け加える。
 ずっと能面のように表情を固くしてた麻耶だったが、これには堪らず吹き出した。
「ふっ……面白い人ね、あなた」
「そうですか?」
 秋絵が不思議そうに小首を傾げ、テーブルにトレイを置くと、窓辺に近づきカーテンを開け放つ。
「雨、なかなかやみませんね」
「そうね」
「でも本当に綺麗ですね、あのレインボウゲート」
 暗闇の中に黄色く浮かび上がるアーチ状のオブジェに見入る秋絵が再び深いため息をつく。
「本当にきれい」
「あなた、こんなもののどこがいいっていうのよ!」
「え?」
「くだらない成金趣味じゃない!」
 吐き捨てるような、嫌悪感むき出しのあまりに強い口調に気圧された秋絵は、しばし返す言葉を失った。
 やがて秋絵は、敢えて反論はせず話題を転じる。
「そう言えば、麻耶さんって菊池さんの親戚の方でしたよね。一体どういうご関係なんですか?」
 麻耶は吃驚したように目を丸くし、やがて、唇の端を皮肉っぽく歪めて自嘲気味に笑った。
「私、隠し子なの」
「麻耶さん……?」
「カーテン閉めて頂戴。そんなもの見たくもないわ」


 麻雀は半荘3回目を迎えお開きとなった。
 松本と雄良が揃って抜け、残った萩原と工藤は萩原の部屋である〈青の間〉へ移動していた。
「ふたりじゃ麻雀できねえもんな。しょうがねえ、花札でもやるか」
 まだやり足らない様子の萩原が工藤に水を向ける。
「勘弁してけろっしゃ、先生。おら、もう眠てえだよ」
 そんな泣き言をいう工藤にも萩原は容赦しない。
「いいじゃねえか、もう少し付き合えよ」
「んだば、あど1時間だけですよ」
 言い争ってもしかたないと観念したのか、工藤は欠伸をかみ殺しながら棚の上の花札のケースに手を伸ばしたのだった。
 窓の外、緑色に輝くレインボウゲートは未だ雨に濡れそぼっている。
 緑の虹と窓明かりだけが、何も見えない闇の中に彩りを添えていた……


 〈紫の間〉
 1時間弱の秋絵との雑談を終えた麻耶は、ため息を漏らした。
 雑談といっても、ほとんど秋絵が一方的に話していたようなものだったのだが……
 麻耶はどちらかというと人見知りするタイプの人間であった。初対面の相手とすぐに気さくに会話できるほど、心の扉を開け広げてはいない。
 ましてや、今夜の彼女は実際のところ、呑気に女の子どうしの会話など楽しんでいるほどの余裕はなかった。
 彼女はある決意を固めていた。
 それを実行に移すため、ここへやってきたといっても過言ではない。
 サイドテーブルのボストンバッグを再び手繰り寄せる麻耶。
 その奥にしまったソレは、今もなお忠実にバッグの底でその存在感を主張している。
 取り出したソレが妖しく光る。
 サバイバルナイフ。
 麻耶はじっくりとその一度も使われていないナイフを眺める。そして我知らずその手に力がこもる。
 そのとき、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。
 各部屋には内線電話が設置されている。電話機のプッシュボタンもまた色とりどりで、7つの色のボタンが各部屋へ通じるものであることが直感的に分かる仕組みになっている。そして、自分の部屋の紫色のボタンには「食堂」と書かれている。
 麻耶はドアの横の壁に据えつけられたふざけたデザインの電話器に手をかけた。
「もしもし……」
 警戒するように受話器に向かって応える麻耶。
「私です」
 麻耶のもとに掛かってきた内線電話の相手……それは菊池燐太郎だった。
「麻耶さん、もう一度考え直してくれませんか」
 菊池の強張った声が受話器ごしに彼女の鼓膜を震わせた。


 麻耶の部屋を出た秋絵は自分の部屋には戻らず、誰もいない静かな廊下を歩いていた。
 それにしても虹虹虹虹…………足元の絨毯までもが特注の虹色である。
 やがて秋絵は〈緑の間〉の前で足をとめる。
 そして、ノックをしようと拳をあげたとき、中から微かな話し声が聞こえてきた。
 秋絵はしばらくドアに耳を当て、切れ切れに聞こえるその声を聞き、程なくドアから身を離す。
「今夜はやめておこう」
 秋絵は小さく呟き、また歩を進める。色とりどりのドアを見つめながら……
 ある種の狂気を孕んだ、まるで子供じみた造りのその館は、松本侑が評するように決して機能的ではないものだなと、秋絵は改めて実感していた。


 工藤箔嬰は、萩原青司から一杯付き合えと強要されながらも、酒の用意だけして〈青の間〉を逃げ出してきたところであった。
 そんな彼に呼びかける声が工藤の足を止める。
「ようやく解放されたようだね」
「松本さん!」
 開いたままの談話室のドアから、松本侑の姿を見てとった工藤が彼のもとへ歩み寄る。
 談話室の書棚から取った読みかけの本を閉じて立ち上がる松本が工藤を迎え入れた。
「ずるいだよ、松本さん。先に逃げ出してひとりのんびり読書ですか?」
「やあ、すまないね。萩原先生の博打好き、酒好きは有名だからな。まともに付き合ってたら、こっちの身が持たんよ。それに気難しい先生のお相手をするのもお世話役である君の務めだろ」と、松本が片目を瞑る。
「それにしだって、本なんてどごでも読めるじゃねえですか。おらあてっきりこの館の見物にでも洒落込んでるど思ってだだよ」
「はは、確かにこの館、インパクトは強いがね。すぐに見飽きてしまったよ」
「けんど、雄良君はそうでもなさそうでしたよ。萩原先生のファンみてえだし、おらなんかより彼に萩原先生のお守りを頼みだがったぐらいですよ。なのにあんだが無理やり雄良君さ、連れでさっさと引ぎ上げるもんだから、おらひとりで花札の相手するはめになっちまってよお」
 不平たらたら、愚痴をこぼす工藤が欠伸をする。
「ふああ、昨日も先生に付ぎ合ってほとんど寝てないんですよ。今日はもう風呂さ入って寝るだよ。あとは雄良君にバトンタッチだ。彼、まだ起ぎでますよね?」
「ああ、部屋にいると思うがまだ寝てないだろう。彼は私と一緒で夜型だからね。しかし、雄良君が萩原先生に会見した今もなおファンであるというのはどうも解せないな」
「なしてです?雄良君、あんなに嬉しそうに麻雀打ってたじゃねえですか」
「雄良君は、萩原青司という人物の人柄を知ってもなおファンでいるほど穏やかな人間じゃないよ。ただ、彼は人一倍和を重んじる青年だからね。場の空気を大事にするあまり自分の主張を全面には出さないんだな。いつもおどけているように見えて、その実、考えていることは深いんだよ」
「へえ、おらにはそうは見えねえけどなあ」
「そういえばさっき彼がミステリ好きだなんて言ってただろ。もしもこの館で殺 人事件が起こったとしたら彼は探偵役に適任だと思うよ」
「松本さん、そんなおっかねえこと、さらっと言わねえでけろっしゃ。ただでさえ、ここにゃあ妙な雰囲気あるんだがらよお」
「妙な雰囲気?」
「あんれえ?あんだは気づがねがったすか。麻耶さんと萩原先生、なんかワケありみてえですよ」
「ワケありって……」
「ま、詳しくはおらも知らねえけどよ。なんかあのふたり、昨日がら険悪な感じでしてねえ」
「そうだったかな?」
 首を傾げる松本の前で、また大きな欠伸をもらす工藤。
「駄目だ。もうほんとに眠ぐなってきた。んじゃ、おら、風呂さ、行ぐがらす」
「こういう時こそ、ゆっくり熱い風呂に浸かって疲れを取るといいよ」
 風呂へ行く工藤を見送った松本が再び読みかけの本を手にとり紐型の栞を引き上げたが、ほどなくドアの開く気配がしてそちらに目を向ける。
 暗い廊下にオレンジ色の灯りが漏れるのがうっすらと見えた。
「雄良君か?」
 松本がドアの開いた方向に呼びかける。
「あ、先生ですか」
 案の定というべきか、〈橙の間〉の宿泊客、片桐雄良が談話室のドアからひょっこり顔を覗かせる。
「雄良君、やっぱり起きてたか」
「そりゃあもう!あのレインボウゲートって本当に幻想的でかっこいいですよね。グリーンからブルーに変わっていく様なんて素晴らしかったですよ。今度色が変わるのは2時ですよね。これはもう絶対見逃せませんよ。というわけで、今のうちにお風呂いただいてきます」
「おいおい、風呂なら今、工藤君が行ったばかりだぞ。さっきここで彼と話していたのが聞こえなかったのか?」
 すると、雄良、きょとんと目を丸くしながら、談話室に入ってくる。
「いいえ、話し声なんてちっとも聞こえなかったですよ……ははあん、この館の壁って結構頑丈にできてるみたいですね」
「そのようだな。ま、とにかくここで工藤君が戻ってくるのを待ってればいいさ。必ずここを通るはずだから」
「はい」
 と、廊下が見える位置にある松本の席の隣りに座るよう勧められた雄良が素直に従う。
「ところで松本先生はお風呂もう入りました」
「いや、まだだよ。私は君の後にでも入ることにするさ。まだ全然眠くないんでね。むしろ工藤君のほうが心配だ。彼、相当眠そうだったからな、風呂の中で寝てしまわなければいいが」
「あはは、工藤さんらしいや。まあ、あまり長いようでしたら僕が起こしに行ってきますよ」
「なあ、雄良君」
 急に松本が真剣な表情になって言う。
「萩原先生には失望したんじゃないか?」
「……え?」
「彼はああいう男だよ。いろいろと黒い噂もあるし、しかも人間性がアレじゃねえ」
「松本先生……」
「いや、年寄りの愚痴と思って聞いてくれ」
「いえ、実は僕もそう思いました」
 と、意外にもあっさり同意する雄良。
「この館は本当に素敵です。夢があります。でも実際に建てるべきではなかったのかもしれませんね。雑誌とかで見てたときはすごいと思いましたが、実際来てみて分かりました。建物は本来、人が生活するためのもの。一般に開放する美術館のような施設ならともかく、これじゃ住む人がかわいそうです。菊池さんの部屋なんて見てくださいよ。あの部屋……〈緑の間〉には窓さえもないんですよ」
「雄良君、君は……」
 そして、雄良は寂しく笑った。
「館が泣いてますよ。これじゃ……こんなんじゃあんまりだ」
 静寂の館。雨はまだ降りやまぬ。
 まるで、虹館そのものが流す涙のように……


 その後、松本と雄良が30分ほど談話室でとりとめもない会話を続けた頃、工藤が体から湯気を上げながら戻ってきた。
 工藤と入れ違いに風呂場に向かった雄良が、廊下で梅垣秋絵とすれ違う。
「あれ、秋絵さんもお風呂ですか?」
「ええ、雄良さんも?」
「はい。でも秋絵さんも結構夜更かしですね。いつもこんなに遅いんですか」
「そんなことありません。今夜はたまたまです」
 そんな短い会話のあと、ふたりは男風呂と女風呂のそれぞれに別れていく。


「うわっぷ」
 脱衣所のドアを開けた雄良は、いきなり目の前を布のようなもので遮られた。
 よく見るとそれはパンツであった。相当大きなトランクスが突っ張り棒にぶら下げられている。こんな大きなものを穿く人物といえば工藤箔嬰ぐらいのものだろう。トランクスはじっとりと湿り気を帯びていた。
 どうやら工藤は先ほどの風呂のついでに洗濯したらしい。


「これは……」
 脱衣所のドアを開けた秋絵は、脱衣籠の上の棚を見て少なからず驚いた。
 そこはタオル置き場になっていて、大小7種類の色をしたタオルが置いてある。
 ここまで徹底していると、もはや偏執といった感がある。
 秋絵はしばし迷った末、藍色のタオルを手に取った。
 どうやら自分の部屋の色と同じという理由でそれを選択したらしい。


「松本先生、お風呂、お先にいただきました」
 談話室で本を読んでいた松本は、雄良に声を掛けられて視線を上げた。
「おいおい、ずいぶん早かったじゃないか」
 ものの15分程度で戻ってきた雄良は、濡れた髪を掻きながら照れくさそうに笑う。
「いやあ、だってもうすぐ2時になっちゃうでしょ。レインボウゲートの色の変わり目が見たくて」
 松本が腕時計に目を落とし、
「それは残念だったね。もう2時を回ってるぞ。あと3分早かったらな」
「えー!しまったなあ……まあ、でもしょうがないや。松本先生はもうご覧になったんですか?」
「いや、さっき青いのをチラッと見ただけだ。あんなものすぐ飽きるだろ」
「それもそうなんですが」
 無念じゃあ、とばかりに肩を落とす雄良に松本が提案する。
「そうだ、今度は私の部屋から見てみるかい?違った角度から見るのもまたいいものだろう」
 松本の申し出に雄良が断る道理もなかった。いやむしろ一にも二にも大賛成である。
「ありがとうございます!実はそれこっちからお願いしようかなって風呂の中で考えてたんですよ」
 そして、二人は松本侑の客室〈黄の間〉へと移動する。
「うわ、本当に部屋のレイアウト、まったく同じなんですねー」
「しかも全部が黄色系の色だ。目がチカチカしてかなわんよ」
「でも、オレンジ色ほどじゃないですってば」
 雄良が苦笑しながら黄色いカーテンを開け放つと、藍色に輝くレインボウゲートが見えた。暗闇の中に浮かび上がった毒々しいまでの虹が、今もなお夜露に濡れている。
「いやあ、こっちのほうが眺めいいですね。僕の部屋からだとゲートの真横からしか見えなくてちょっと味気ないなって思ってたんですけど。おや、東棟の皆もまだ起きてるみたいですよ」
 目を輝かせて身を乗り出す雄良の背後で、松本がちらりと窓の外に目をやる。
 東棟の窓はすべてカーテンが閉まっているが、雄良の肩越しに青、藍、紫色のカーテンが見える。それぞれの室内の明かりが灯っているからこそ見えるというわけだ。
「もう2時過ぎてるっていうのに呆れたもんだな。ここは夜型人間の集まりか?」
「そう言えば、萩原先生、部屋で何かぶつぶつ言ってたみたいです。ドアが少し開いてたから丸聞こえでした」
「ひとりでかい?」
「ええ、他の人の声は聞こえなかったから、たぶん独り言でしょう。声を掛けていこうかとも思ったんですけど、夜も遅いしやめておきました」
「それでいいんだよ。あの人、酒グセ悪いからな。すぐに近くの者にからんでくるんだ」
 と、松本が笑いながらドアを開け放つ。
「さて、私もそろそろ風呂に行くかな」
 すると雄良は慌ててカーテンを閉めて松本に従った。
「じゃあ、僕もおいとまします……っと、その前に電話ちょっと借りますね」
「おいおい、こんな遅くにどこにかけるんだ?」
 雄良が紫色のプッシュボタンを指差して嬉しそうに応える。
「麻耶さんのところですよ。あとで一緒にゲームでもしましょうって約束してたんです」
「へえ、あの偏屈そうな娘がよく承知したものだな」
「うーん、我ながら驚きましたよ。駄目もとでも言ってみるもんですねえ」
「しかし、君が年上が好みだったとはね。そっちのほうが驚きだよ。どちらかというと秋絵さんのほうが君と年が近いだろうし、とっつきやすそうだがなあ」
 そんなことをいう松本の前でプッシュボタンを押す雄良。しかし電話は繋がらないようである。
「あれっ?話し中みたいだ」
「残念だったね、雄良君。どうやらフラれたみたいだな」
「いや、まだわかりませんよお。ま、とりあえず談話室で本でも読みながら時間つぶしてまた掛けなおしてみます」
「なんだ、君はまだ起きてるつもりか?」
「だって、紫のゲート、まだ見てませんからね」
「明日、起きれなくなっても知らんぞ、私は」
 とかなんとか言いながら〈黄の間〉を揃って出るふたり。
 廊下に出て、雄良が食堂のドアを開けたとき、角を曲がったばかりの松本が「おっ!」と驚嘆の声を上げた。
「どうかしましたか?」
 角のところに立ち止まる松本を見て雄良がそばに近づく。
「いや、萩原先生の部屋がね……」
「開いてますね」
 〈青の間〉、萩原青司の部屋のドアが半分近く開いている。それだけなら別に問題はない。しかし妙なのは……
「明かりが消えてるなあ」
「これから寝るところなんですかね」
 いぶかしげに思いつつそっと中を覗いた雄良がハッと息をのんだ。
「萩原先生!」
 ただならぬ反応に松本も〈青の間〉を覗き込む。
 薄闇の中に、うつぶせに倒れている萩原青司のシルエットが見えた。
 松本が照明のスイッチをつけると、それが尋常ではない事態であることをいやがうえにも呈していた。
 首筋から肩にかけて血を流して倒れている萩原。そして首の後ろに深々とつき立てられた出刃包丁。
 松本が萩原の名を連呼しながらその体を揺さぶるが反応はない。雄良が青司の手首をとって脈を確かめる。
「死んでる……」
 萩原青司は死んでいた。間違いなく絶命していた。
「おいッ、雄良君、これを見たまえ」
「これって……」
 萩原の指先に血で書かれた文字らしきものが見える。
「【青】って書いてあるな」
「なんなんでしょう?」
 呆然と立ち尽くす松本と雄良。
 いずれにせよ―――
 状況はどう見ても他殺である。それは動かしがたい事実であった。


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