忘れ物

忘れ物


Written by 昼行灯  

改札口を抜けると、駅前広場は、いつもと違った雰囲気だった。
歓楽街のネオンが密集した方向へ流れていくサラリーマン達。待ち合わせをしているのだろうか、携帯電話を耳に当てている若者の姿も目立つ。誰もが一様に浮ついたムードのように見えた。
「そういえば、金曜の夜だな」と私は思う。
近頃は、ろくに休みもとっていないので、曜日の感覚が全くなくなってしまったらしい。
スーツ姿の三人組が、私の後ろからやってきて、浮かれ調子の会話を交わしながら通り過ぎていった。この連中も多分、歓楽街へと向かうのだろう。昔はよく誘われて行ったものだが、最近はそんな誘いにも乗らなくなった。年のせいだろうか。それとも仕事に忙殺されて疲れきっているからなのか。会社帰りに遊ぼうなどという元気はさらさらなく、家で一合か二合の晩酌をすれば十分満足するのである。
今日もまた、どこにも寄り道することなく、まっすぐ家路を急ぐことにして、私は駅前広場を後にした。

(会社に忘れ物をしてきたような……)
それに気づいたのは、駅から少し離れた、高架線下の薄暗い道を通っていた時だった。老眼鏡や電卓などの小物類ではないようである。何か、重大なものを忘れた気がする。会社の書類だろうか。しかし今日は、家に持ち帰る仕事はないはずである。では何を忘れたのだろう。全く思い出せない。本当に困ったものである。
この頃は、忘れっぽいところが、ひどくなったような気がする。朝、家を出るときも、雨が降りそうなのに傘を忘れたり、電車の中で週刊誌を忘れることもしばしば、社外のことならまだしも、仕事上のことで忘れっぽいのには困る。あまりにひどいので、用件をいちいちメモにしておくのだが、メモ用紙すら紛失する始末で、我ながら情けなくなってしまう。
これは、あまりにも、たくさんの仕事を抱え込んだせいで、私の脳の格納庫がいっぱいになってしまった結果であろうか。社の若い者が定時の間に、こなしきれなかった仕事を、全部ひとりで背負い込んでいるのだから無理もないのかもしれない。素直に断ればいいのである。しかしそれができない。会社では一番の古株であるプライドもあるし、それくらいの度量を若い者に見せたいという見栄もある。一番の理由はリストラのことだろう。いつリストラされてもおかしくない年である。上のものに、自分はまだ現役なんだというところを見せておきたいのである。
高架線上を電車が走りぬけ、辺りを一瞬、照らし出す。私は相変わらず考えながら進んでいる。いったい何を忘れたのだろうか。早く思い出さないと、取り返しのつかないことになりそうな予感がする。私は家に帰る道すがら、思い出そうと懸命になって考え続けた。

自宅は住宅街の一角にあった。どこにでもあるような、こじんまりとした建売である。
私は、家から数十メートルのところまで来ている。しかし忘れ物のことは、まだ思い出せずにいた。そろそろ考えるのにも疲れてきたが、このままにしておくと大変なことになりそうな予感はさらに高まっている。
なんとかしなければならならない。
そう考えながら家の前に、しだいに近づいていく。
ところが、私の思考が中断した。
家の前の様子がおかしいのに気づいたからである。なにやらただならぬ雰囲気である。いつも閉めてある玄関のドアが開け放たれ、その前では近所の主婦ふたりが神妙な顔つきで話し合っていた。
「会社で朝、倒れた」
「救急車が来たときには、もう遅かった」
「過労死ですって」
「本当に人柄のよい方だったのに」
「惜しい人を亡くしました」
断片的ではあるが、そんな会話を交わしているのが分かった。
なんということだ。家の誰かが死んだというのか。妻の顔が一瞬、頭をよぎる。パートの勤め先で倒れたのか。まさか!
忘れ物のことなど消し飛んでしまった。一刻も早く事の真相を知りたくてたまらない。
私は心の急かすまま、ふたりの主婦のところまで行き、尋ねた。
「いったい何があったんですか」
しかし、ふたりは私のことなど、けしらぬ顔で話している。
私はもう一度、尋ねた。
「誰か亡くなったんですか」
主婦たちは、相変わらず私を無視している。全く腹の立つ連中である。こちらが必死で尋ねているのに、何で答えてくれないのか。しかし今は腹を立てている余裕すらない。この連中のことなど放っておくのがよいだろう。
私は、状況をこの目で確認するために、家の中へ一目散に飛び込んでいった。

家の中は、死者を迎え入れた時の、あの特有の重く沈んだ雰囲気に支配されていた。
それが、最も強く感じられるのが八畳の和室だった。
和室へ行くと、死装束に身を包んだ遺体が安置されていた。私の勘は当たっていたようである。遺体の右横には、すでに枕飾りが、しつらえてある。左横には、手前から社会人の長男、大学生の次女、そして妻の順に座っている。
(ああよかった……)
私は思わず安堵した。家族全員が無事のようである。
しかし妙である。それでは一体、この遺体は誰なのか。顔には白布があるので分からない。
「おい、誰の仮通夜なんだ」
私は妻に尋ねた。
しかし妻は、かたくなな表情で俯いたまま、私の問いに答えようとはしない。悲しみをこらえるだけで精一杯なのだろうか。
今度は次女に尋ねた。娘は今にも泣き出しそうな様子で、私の声など耳に入らないようである。
仕方がない、中では一番、平静そうな長男に聞くことにしよう。
と、私が長男に声をかけようとした、その時である。感受性の強い次女の感情が、とうとう爆発したのである。
「お父さん!」
痛切な金切り声を上げて、次女は、いきなり遺体に飛びかかり、しがみついた。一瞬の間が空いたが、すかさず長男が立ち上がり、妹を遺体から引き剥がそうと羽交い絞めにする。妻も立ち上がり、次女の腕を引っ張りながら「やめなさい」としきりに叫んでいる。安置されていた遺体は、激しく揺さぶられ、そして顔にかかっていた白布が枕元に落ちた。
こんな場合、一家の大黒柱である私こそ、真っ先に娘を止めに行くべきだろう。しかし、それができなかった。どうしてもできなかった。白布で隠れていた遺体の顔を見た瞬間、あまりの衝撃のために、身がすくんで、動くことすらできなかった。
遺体の顔は、自分が五十年間、毎日のように付き合ってきた顔、そして、この遺体は紛れもなく自分の肉体だったからである。
どうやら忘れ物は、私より先に、家に戻っていたらしい。



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