鏡の世界

鏡の世界


Written by かなこ  

 鏡の中に死んだ兄の姿でも見えただろうか。
 僕はかれこれ二時間と少し、鏡の前に立っている。時折覗くようにして体を傾かせ、眉を潜めて目を凝らす。

 兄が生前しばしば僕に告げていた言葉を思い出した。
「ユウイチ、俺は本当は鏡の中からやってきたんだ」
 幼いころ、よく僕に彼は言っていたのだ。学校の帰り道でも、家でテレビを二人で見ている時のコマーシャルの間も、また突然部屋に入ってきたときもだ。
 彼の言い分はこうだ。
「鏡の国の世界は、この世界の鏡写しで作られてる。で、すごいキレイなんだよ。ある特別な鏡からはこっちの世界を覗いたり、こっちの世界に入ってきたりできる。俺はそうやってこっちに来たんだ」
 自慢げに。
 何故か真面目な顔で。
 
 両親とも仕事で帰りが遅い我が家は、いつも僕と兄の二人だった。夕食は兄が作る。兄は、そのほかの家事もなんなくこなしていて、僕がやることと言えば食器を並べるくらいだ。兄の作る料理の味は、可もなく不可もなく、という感じだ。失敗こそしていないが爆発的にうまいわけではない。無難な味というわけだ。よく僕がそんなふうに言うと、兄は
「鏡の世界ではみんなうまいっていうんだけどなぁ」
 眉を寄せて。
 何故かまた、真面目な顔で。

 兄はまた勉強だってよくできたし、部活動は家を思ってやっていなかったけど、運動神経だって悪くない。クラスの女子にもよくもてて、男子にだって人気がある。そんなふうに何でもできた兄貴のことは学校でも知られていて、よく弟である僕にも「お前の兄貴はすごいな」と言われることがあった。最初僕はそんなふうに言われる兄を誇りに思った。しかしその誇りは、時が経つにうれて鬱陶しくなっていくものである。なんでも兄と比べられる僕は嫌気がさしたのだ。
 日に日に兄を嫌っていった。それは、今から思えばただ単に、あんなふうに何でもよくできる兄を羨ましがっていた、子供じみた感情だったのだろう。どちらにしろ、僕は、話しかけてくる兄の言葉に、何の反応を示さないことがあった。
 やがて兄は高校に進学し、僕は中学校に入学した。
 僕にとっては一番嫌いであった、授業参観という行事はやはりお決まりのようで、行われた。小学校のころも何度かあった授業参観では、一度も両親は来なかった。仕事でいけない、というのがその理由である。僕はでも、それはもう諦めていた。
 しかし、授業参観当日、授業が終わる五分か六分前に、息を切らして兄が駆け込んできた。格好は高校の制服のままだし、上靴なんてものを持ってこなかったらしく、学校のスリッパだった。事情を知っている先生は兄を見るなり優しく微笑んだ。
 僕はでも、凄くいやだった。
 だからその授業の帰り、
「ごめんな、遅れて」
 と僕に謝る兄に、ぶっきらぼうに、なんで来たの、と告げた。
「来なくていいよ。高校どうしたんだよ、ばかじゃねえの」
 告げて、逃げた。
 何から逃げたのかはよく分からないけど、とにかく急いで、息を切らしてどこかに駆け込んでドアを閉めたんだと思う。その日はもう、兄とは口を聞かなかった。
 何日か経った後、初めて話したとき、兄は申し訳なさそうな顔で告げた。
「ごめんな、ダメ兄貴で。所詮鏡の世界から来た人間だからさ」
 情けなく笑って。
 そしてまた、真面目な顔で。

 兄の様子がおかしいことに気づいたのは、確かある日の夕方だったと思う。
 いつものように一階の台所から、包丁で何かを刻む音が聞こえ始めた。しかし、その手が不意に止まったのだ。とても中途半端なところだったのだ。三回か四回。それからガタン、という大きな音が聞こえて、静まり返った。
 様子がおかしかったので階段を下りて下に見に行くと、キッチンの床でだるそうにうずくまっている兄を見つけた。
 僕が唖然としていると、兄は僕に気づくなり血相を変えて「悪い、もうちょっとで出来るから」と無理やり笑って言った。僕は具合の悪そうな兄に、何も言ってやれなかった。もしかしたらあの時、「休んでよ」とか「病院行けよ」ということができたなら、もしかしたら…

 それからの数ヶ月はまったくいつもどおりだった。僕が高校受験の勉強を遅くまでしているときも、よく夜食を作って僕の部屋に入ってきたことがあった。兄は僕が、「なんでもできる兄貴」を煙たがっているのを知っているのか、教えてやろうか、などと言ってくることはなかった。ただ、部屋に入り夜食を置いて、「がんばれよ」と告げて出て行くのだ。
 そのたび僕は昔、突然意味もなく入ってきて「鏡の世界」の話をしていた兄を思い出した。
 いつのまにかただ意味もなく、互いの部屋のトビラさえ開けることができなくなっていたんだな、と。

 ある日突然高校の先生から中学に電話がかかってきて、僕は授業中に担任の先生に連れ出された。
「お兄さんが今中央病院で治療をうけてるんだ、病状がすごく悪いらしい」
 その後はすぐさま僕は病院に行った。手術室のランプが点等する前の椅子に腰掛け、ただただ待った。
 待っているのが何なのか僕には整理がつかず、弱い僕はまたあの時のように逃げ出したくなった。
 両親の影は病院にはない。
 静かだった。
 静か過ぎた。

 化石になるくらい長い時間のあとで、手術室から出てきた医者は、何も言わなかった。
「お兄さんは亡くなってないよ」
 それでも、その顔はちっとも笑ったりしなかった。

 その後すぐに病室に運ばれた兄は、点滴をうたれながら、眠りについていた。かつて見たことのないくらいの青白い顔。いや、見たことがあるかと聞かれれば、もしかしたらあるかもしれないと思う。思えばいつも兄はこんなふうに、具合の悪そうな顔をしていた気さえするのだ。

 兄が起きたとき、僕は眠ってはいなかった。考えることが多すぎて寝るなんてとんでもなかった。
 医者から、いつまでたっても来ない両親の代わりに病状やら事情やらを説明されているときも上の空で、何を話されたのか覚えていない。
 予感だけがした。
 僕の予感は当たることなんて滅多にないのに、久しぶりにその予感は命中した。久々のヒットだ。
 起きた兄は僕の顔を見て微笑み、告げた。
「鏡の世界の絵を、昔描いたんだ。もう捨てたかな…すごく昔だからどこに行ったか分からない」
 僕は、初めて素直に頷いて相槌をうった。
「うん、その絵、持ってくる?」
「いや、探してみよう、家に帰ったら…」
 うん。
「うん、そうだね」
 僕の頬には、本当に、どうしてか、情けなくてどうしょうもなかったけど涙がぼろぼろこぼれた。そのまま顔を伝ってベットの白いシーツの上に落ちる。
「そうだね」
 兄は、僕の顔を見つめながら
「鏡の世界はさ、俺の逃げ道だったのかな」
 静かに、そう、告げた。

 何度か喀血して、兄は息を引き取った。
 結局両親が来たのは全てのことが過ぎてからだった。両親を、僕は気づかれないように小さく睨んだ。
 兄の病気は肺結核というやつらしい。
 どうしてこんなになるまで病院にこなかったのか、とか、両親を医者が強く叱り付けているのを見た。でもそんなことはどうでもいいのだ。顔一つ変えないで僕の面倒を見ていた兄の死で、変化する世界はそんなくだらなく小さなものじゃいけない。

 葬式にはクラスメイト全員が来た。誰一人として、辛気臭くない顔をしていないヤツはいなかった。僕は嬉しくて笑うわけでもなく、悲しくて泣くわけでもなく、ただ兄の代わりに礼をした。

 葬式から帰ってきたら、僕はふと思い出して一目散に物置をあさった。何時間も何時間もダンボールの中を出して一つずつ物色しては、他のダンボールを取り出すという作業をしていた。家にいる両親が、息子が突然狂った、とでもいうかのような目で僕を見ている。
 夜になって、やっと、僕はたどり着いた。古い画用紙が二枚、輪ゴムで止められているのを見るなり、僕はどきどきしてその輪ゴムをはずした。
 画用紙には、それぞれ下手くそな絵。
 銀色や白や黄色や青でぐちゃぐちゃに描かれた絵。
 思い出したのは、覚えてもいないくらい小さい頃の記憶だった。
 両親のいない部屋で、兄と二人絵を描いていた。兄が「鏡の世界」の本を読んだ後だった。僕は色鉛筆を手で力いっぱい握ってぐちゃぐちゃに丸やら四角やら三角を描いていく。
 兄は、僕の絵を見て「きれいだな」とこぼして、自分の絵と見比べた。僕は兄の絵を「ヘタクソ〜」とけなして笑って、愉快だったのを覚えてる。兄も笑っていた。
「鏡の世界にいきたいな」
 僕が言うと、兄は笑って、
「俺は鏡の世界から来たのさ」
 と言うのだ。
「うそだ〜本当に?」
「本当だよ、鏡の世界はね、きれいだよ、この絵と同じで」
「ほんとに?」
「ほんと」
「すげえ!!」
 にいちゃん鏡の世界のひとだ!
 はしゃぐ僕の前で嬉しそうに、兄が笑っていた。
 僕のはしゃいで興奮した顔を、嬉しそうに、兄が見てた。

 僕は葬式の黒い喪服のままで、鏡の前につったっていた。
 鏡の中に死んだ兄の姿でも見えただろうか。
 見えはしない。
 ただ、鏡の向こうに優しい嘘を見た。
 鏡の世界に、兄の優しい嘘を見た。
 
 兄の最後の言葉を思い出しては、思う。
 逃げていたのは俺のほうだったんだよ、にいちゃん。
 僕の涙を、静かに写す鏡の前で立ち尽くす。
 押し寄せる感情が悲しみなのか後悔なのか、
 どちらにしろ、

 僕はもう逃げることはないだろう。
 このきれいな鏡の世界を前にしては。
 


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