第1章


第1章  選ばれし者たち

 鱒沢遙(ますざわはるか)は人気のない裏通りをひとり歩いていた。7月最後の日。日は長く、午後6時はまだ明るい時間帯である。それでもやはり人気のない道を歩くのには軽い緊張感を覚える。強盗、痴漢、通り魔……どこにいるか分かったもんじゃない。自分は強盗にあうほどお金持ちではないし、痴漢にあうほど若くはない。頭では認識していてもやはり怖いものは怖いのだ。
 今日は会社の上司に飲みに誘われたのだが、ありていにお断りして家路につこうというところである。遙は会社では酒が呑めないことになっている。呑めないのではなく呑めないことにしているのだ。遙は非常に神経質な性格のため「ご返杯」というのが生理的に受けつけなかった。
 どうして他人の口のつけた杯で平気でお酒を飲めるのかしら?
 他人の唾液がべっとりとついた杯で何人もの人間が酒を酌み交わす。考えただけで鳥肌がたってしまう。お酒が苦手というわけではないがそういった諸々が厭で、飲み会(特に会社関係)は基本的にパスすることにしていた。
 そんなことを考えているとき、いきなり後ろから肩を叩かれたものだから口から心臓が飛び出しそうになった。
「あ、ごめんなさいね。驚かすつもりはなかったの」
 振りかえると、40過ぎと思われる女性が人懐っこい笑みを浮かべている。相手が女性だったので少し緊張感を解く。
「あの、何か?」
「鱒沢遙さん……ですよね?」
「あ、はい……」
 誰だろう? 自分の知らない人に自分の名前を知られているというのは、あまり気持ちのいいものではない。遙は一旦解いた緊張の糸を再び張りつめる。
「あのう、あなたは?」
「私のことはどうでもいいのよ。それよりあなた、お金に困ってるでしょ」
「はい?」
「とぼけても駄目。あなたのことは何でも知っているわ。あなたの借金の額、言ってみましょうか」
 遙は思わず目をむいた。
 な、何者なの? 確かにあたしは浪費癖がありカード破産寸前である。欲しいものがあると絶対手に入れなければ気がすまない性分だ。取り立ての電話が何度か会社にまで掛かってくるようになり、正直どうしようかと困り果てていた。最悪、田舎の親を頼るしかないのだろうが、できることならそれだけは避けたい。
「あなたの浪費癖、相当のものね。買ってはすぐ飽きて質に入れ、それを繰り返している。そもそも普通のOLが家賃25万円のマンションに住んでるってとこから無理があるのよね。男運も悪いようだし、お金で男を繋ぎ止めようなんて考えが浅はかよ。そういうのは自分に自信のない女のすることよ」
 見知らぬおばさんはあくまで人懐っこい笑顔を崩さずにずけずけとものを言う。本来なら不愉快極まりないと思うところだが、それ以上に自分のことを異常なまでに知り尽くしている目の前の婦人が不気味でたまらなかった。相手はおばさんひとりだ。走って逃げれば、逃げられないこともない。されど遙は蛇に睨まれた蛙の如く身体が硬直して動かない。遙のリアクションに満足そうに頷いたおばさんは声を落として彼女の耳元で囁いた。
「あなたにとっておきの良い話があるの。短い期間で大金を手に入れることが出来るのよ。あなたはね、選ばれたの。ねえ、やりなおしのきかない人生なんてないのよ。借金ちゃらにして生まれ変わってみない?」
 遙は別世界にいた。あたしは何を言われているの? 感覚が麻痺していた。具体的なことは何一つ聞かされていないのに、この話にのらなければならない強迫観念に囚われていた。そうしないと自分の人生は終わってしまう。そんな気さえしていた。臆病で堪え性のないあたし。自分自身が世界中で一番嫌いだった。自分を変えることが本当に出来るのなら悪魔にだって魂を売りたい。ああ、人生の転機は突然やってくると言ったのは誰だったっけ?
「あたし、何をすれば?」
「簡単なことよ。成功率は1/10。だけどリスクも1/10。詳しいことはついてから説明するわ。きっとこれがあなたにとって幸せ行きバスの最後の便よ。ね、一緒に来るでしょ?」
 おばさんの口ぶりには直に聞かされたものにしか分からない妙な説得力があった。遙にはおばさんの一言一言が、空から垂れてきた蜘蛛の糸のように思えた。それはとても細くてささやかな欲望の重みでふつりと切れてしまいそうな、そんな細い糸であった。けれど……。縋らなければならない。縋らなければこの場所から脱出できない。あの合成糊のように粘っこくて、赤子の涎のように甘ったるい日常から抜け出すことはできない。遙は倒錯的な眩暈を覚えつつ、おばさんの次の言葉を待った。
「さ、立ち話もなんだから、車の中で話しましょう」
 おばさんはそう言うと傍に停めてあった黒塗りの車に遙を促した。


 伊勢崎美結(いせざきみゆ)は促されるままにその車に乗り込んだ。
 可愛いだけが取り柄の馬鹿で愚図でわがままなモデルたちの世話でくたくたの身体を引きずるように帰り道を歩く途中、人気のない路地で若い女に声を掛けられたのがきっかけだった。
「いい儲け話があるんですけど」
 単語で見ると誠にもってうさんくさい言いまわしだ。通常ならそんな奴、鼻にもかけないところである。しかし、その女は毎日見飽きているモデルの娘たちとは違う雰囲気を持っていた。うまく表現できないが洗練された利発そうな目を彼女は持っていた。儲け話と言われても別にお金に困っているわけではない。しいて欲しいものと言えば僅かな休息の時間ぐらいだろうか。社長は自分をぼろ雑巾のようにこき使う。やれ車を出せ、やれ弁当頼め、やれモデルの機嫌をとれ……体のいい雑用係だ。それでも美結はモデル事務所のマネージャーと言う仕事を放棄しようとはしない。一体なぜ? それは本人にも分からない。ただ、彼女には幼い頃から強いコンプレックスがあった。ひとことで言えば肥満、つまり太っているということだ。強度のコンプレックスは時に全く反対のベクトルに感情を押しやることがある。細く美しい女性を常に見つづけることで己を徹底的に打ちのめす、言わばMの感情だ。そんな彼女がついさっき声を掛けられた。いい儲け話があるんですけど……と。
 目の前に現れた女は確かに感じの良い娘だった。しかしそんな言葉だけではまだ美結の心は動かない。大事なのは次の言葉だ。
あなたは選ばれた人なんです
 やはり単語だけ見れば怪しげな宗教の勧誘か何かだと思うところである。しかし、彼女の人生において何かに選ばれるなどということは一度もないことだった。決して人に注目されることのない自分。平凡な、いや平凡以下の生きてる価値もないような自分が選ばれたのだ! しかもこんな若くて可愛い娘に。(と言っても、美結も三十路にはまだ3年の猶予があるのだが……)これから先何が行われようとしているのかはまったく分からない。でも、不思議と不安はなかった。
 なにしろ私は選ばれたのだから!
 確かにお金は貰えるものならいくらだって欲しい。そこに魅力が全くないと言ったら嘘になる。しかしそんなことより自分の存在理由が欲しかった。生まれてすみませんってほどネガティブではないが、美結には潜在的に心細さを感じていた。見つけたい。自分の存在価値を! 自分が選ばれし者ならばそこで何かを見つけられるはずだ。そうして美結は自らの意思で車に乗り込んだ。
 美結は車の中で目隠しをするように言われたが何の抵抗も覚えなかった……


 室町祥兵(むろまちしょうへい)はどうしようもないくらいブルーな気分になっていた。
 もうどのくらい走ったんやろ? 5時間? いや、実際は2時間くらいかも知れへんな。
 無理もない。車に乗り込んでからずっと目隠しをした状態で時計を見ることさえもかなわない。視界が奪われるとこうも時間の感覚が鈍くなるものかと思う。静寂に包まれた車内で彼はひどく胸騒ぎがしていた。
 俺は一体何をやっとんねん。こんなけったいなことにまきこまれて……
 最近逃げてばかりの室町は今日も今日とて逃げ回っていた。もうあかん、これ以上走れないというところで、彼の前に急停止した黒塗りの車のドアが開く。
「さあ、早く乗って!」
 渡りに船とばかりに乗りこんでふうと一息つく室町に助手席の男がアイマスクを渡した。これをつけてくれとのことらしい。なんだか知らないがここで降ろされたんじゃ堪らない。室町は男の指示に素直に従った。
 ったく、あのやくざ紛いの借金取りに間一髪のところで救われたまではよかったが、いきなり目隠しせえって何もんなんや、こいつら。俺がなにしたっちゅうねん。大体が俺の人生外れっぱなしや。特に東京出てきてからは最悪やな。かみさんには逃げられるし、借金抱えた同僚は夜逃げしてそのお鉢が連帯保証人の俺のところに回ってくるし……ああ、子供の頃にかえりたい。そう言えば子供の頃の親友。よく川原で一緒に遊んだ……あいつ、名前なんやったかなあ。30半ばでボケたもないけど最近ど忘れがひどい。
「もう少し我慢してくださいね。室町さん」
 助手席の男がやたらとそわそわしている室町を振り返って声を掛けた。
 ……! 何でや? 何でこいつ俺の名前知ってんねん。助けに入ったタイミングといい、ずっと俺を尾行てたんちゃうか? せやけど何のために……
 室町はその疑問を口にしたが、助手席の男はもうすぐ分かりますからと言って教えてくれない。
 もうええわ。しゃあない。どうにでもなれだ。煮るなり焼くなり好きにせえ。最悪、俺が死んだところで悲しむ人間なんて誰一人おらんのやからな。


 松本浩太郎(まつもとこうたろう)がアイマスクを外すと空は完全に闇に包まれていた。完全に、という表現は厳密に言うと正しくはない。車から降ろされた場所にはすぐ目の前に3階建ての洋館がそびえている。その窓の明かりはほとんど全部が灯っていたからだ。
 腕に巻いた時計に目をやると針はちょうど8時を指している。松本は顎を撫でながら考えた。
 この洋館、昔風のホテルか何かか?
 しかし、松本はその案をコンマ5秒で却下した。洋館を取り囲む高い塀、そしてそのうえにびっしりと張り巡らされた有刺鉄線を見たからだ。
 こういうの映画か何かで見たことがあるぞ。確か精神異常者とかが収容されている病院を舞台にした物語だった。ふん、精神異常者ね。まあ、健全な一学生である俺にはカンケーねえけどな。スポーツ万能で度胸も据わっている。ルックスだってそう悪くはない。多少女遊びは過ぎるかもしれないが、ま、若いうちは大概そんなもんだろう。
 ここまで連れてきた男の案内で館に入ると、だだっぴろいホールで持ち物検査をされた。おいおい、ここは秘密クラブか何かか? ここで松本はいつも携帯しているサバイバルナイフを没収される。護身からりんごの皮むきまでなかなか重宝する代物だ。時にはちょっと小遣いが足りないとき道行くおじさんにお金を恵んでもらうときにも一役買ったりする。何の権利があって俺のものを取り上げるんだ、と文句を言うと、館内では危険な私物は厳禁だとのこと。後で必ず返します、と言われて松本もしぶしぶ引き下がる。なにしろ相手は屈強な黒服の大男3人だ。腕力は多少の自信はあるものの、この場は勝ち目がありそうもない。ここまで松本を連れてきた小男はいつの間にか消えている。どうやら奴はお役御免らしい。
  それにしてもなんだよ、この薄ら寒い空気は……俺をこんなとこまで拉致ってきてナニしようってんだ? これから何かどんでもねえことが起きそうな気がする。いや、起こるに違いねえ。どうしようもなく心が踊る。頼むぜ、おい、俺をがっかりさせないでくれよ。なんと言っても俺の信条は太く図太くだ。危ねえこと大歓迎。だってそうじゃねえか。大成するためにゃリスクを冒すか、ズルするか、他人を蹴落とすかしなきゃならねえ。なあ、そうだろ?


 平一(たいらはじめ)は館の一室でベッドに腰を下ろし思案にふけっていた。
 あなたにぴったりのゲームがありますよ、などと言われてここまで来たものの、一体この私に何をさせるつもりなのだ? そしてここはどこなんだ? 個室に通され部屋のカードキーを渡され、あとは何の説明もなく言った台詞は「指示があるまでここを出ないでください」だと。まともじゃない! これから行われるゲームとやらもおそらくまともなものではないだろう。ふっ、私にぴったりとはそういうことか。どうせ私は変わり者の人間嫌いさ。これでも若い頃は天才画家誕生などと持て囃されたものだが今じゃ酒浸りの毎日。しばらく筆も取っていない。スランプなんてもんじゃない、もう私の才能は枯渇してしまったのだろう。描けなくなった途端、誰もが手のひらを返したように冷たい態度になり私の前から去っていった。そして私は誰も信じなくなった。人間嫌いは最近特に強くなった。酒だけが私の孤独を癒してくれる。
 平は改めて部屋の中を見渡した。標準的なビジネスホテルよりやや広めの造り。壁は頑丈そうだ。ユニット型のバス、トイレにパイプベッド、机、いす、冷蔵庫にクローゼット。壁のパネルスイッチは二つ。部屋と浴室の照明だ。二重窓は……はめ殺しだ。冗談じゃない。私は囚人じゃないぞ。それに何だ、天井の隅に設置されたビデオカメラは。まさか、これ、いきてるんじゃないだろうな。監視されているようで気持ちが悪い。お、動いたぞ。何てこった。やはり、誰かがどこかでこの部屋を見ているんだ!
 平が不快感を露にすると、館内放送が聞こえてきた。
「ゲストの皆さんへお知らせします。机の引出しを開けていただくと封筒が入っていますので中身をご覧ください」
 ゲストの皆さん? 今、皆さんって言ったな。他にも私のように訳も分からず連れてこられた者がいるのか? まあそれはともかく今は指示に従うのが賢明だろう。
 封筒を開けるとA4版の用紙が5枚入っている。さっと目を通すとタイトルが「規則」と書かれたものが3枚。「誓約書」(始めから読む気が失せるようなやたらと小さい文字がびっしりと並んでいる)が1枚。建物の図面が1枚(おそらくこの館のものだろう)だった。
 平の頭上に?マークが無数に浮かぶ。うまく間を計ったかのようなアナウンスが再び聞こえてくる。
「それらをお読みになった上でゲームに参加する意思のある方は、その封筒を持って10時までに1階の食堂にお集まりください」
 「さて、食堂はどこだ」
 平が図面に目を落とすと、硬質の男声が更にこう言った。
「なお、ゲームに参加しない方は、指示があるまでくれぐれも部屋を出たりなさらないようお気をつけ下さい。指示に従ってさえ頂ければ私どもが責任をもってご自宅までお帰しいたします」
 平は半ば呆れていた。この慎重さはどうだ。言葉遣いこそ丁寧だが言っている内容は極めて過激。勝手な行動に出れば身の安全は保証しないというわけだ。つまるところ、このゲームとやらはよほど組織的で且つよほど違法なものなのだろう。まあ、言うとおりにしていれば手荒なまねはしないというのは本当だろう。でなければ、わざわざ目隠しをさせて連れてくる必要はない。そう、言うとおりにさえしていれば、ちゃんと家に帰してもらえるのだ……
 平は自問自答する。
 おい、一。お前はこのまま帰るつもりなのか? 何にもない空虚で緊張感のない元の生活に……まあ、待て。10時までまだ時間はある。その規則とやらを読むだけ読んでみようじゃないか。
 平はそう一人ごちて、自前のポケットウイスキーのキャップをひねった。


 堀切数馬(ほりきりかずま)はゲームの規則を手に当惑していた。
 こんなの読めって言われても困るよ。僕、漢字の読み書きは苦手なんだ。まいったなあ。
 数馬は部屋の中をうろうろ歩き回り、しばらく思案した末ひとつの結論に達した。
 そうだ!誰かに読んでもらおう。
 数馬は躊躇なくドアを開けて廊下に出た。無理もない。なにしろ彼には放送の後半部分は全く耳に入ってなかったのだ。もっとも彼の部屋だけ放送障害があったわけでもない。ただ単に彼の脳には多くの情報を一度に処理するだけのキャパがなかったに過ぎないのだ。
 廊下に出ると黒服の大男が門番のように仁王立ちしている。数馬は空を仰ぐように首を大きく曲げて彼を見上げ、そして思った。
 この人何だか怖いや。誰か他の人に聞こう。数馬はてくてくと歩き出す。15歳という年齢にもかかわらず小学校低学年と言っても通りそうな風体の彼の脳裏にふと母の姿が浮かんだ。
 ママ、今ごろ心配しているかなあ。帰ったらきっと叱られるだろうなあ。だって、おじさんがおもちゃ買ってくれるって言ったんだもん。しょうがないよね。ママが買ってくれないのがいけないんだよ。知らないおじさんにはついていっちゃ駄目ってずっと前に先生が言ってたけど、おもちゃ買ってくれる人に悪い人はいないよね。おもちゃ買ってくれないママよりずっといい人だ。それにママはよく僕をぶつしなあ。ママは僕がパパに似てきたからと言っていつもぶつけど、そんなの僕知らないよ。パパなんて顔も見たことないんだから。
 あ、そう言えば、あのおじさん、どこに行っちゃったのかなあ。何かのゲームに勝ったらお金あげるから、それで好きなだけ欲しいものを買いなさいって言ってたっけ。僕、ゲームは得意中の得意なんだ。椅子取りゲームで一番になったこともあるんだもんね。
 数馬が階段を降りると、やはり上の階で見た黒服の大男が立っている。数馬は男を避けるようにして通りすぎると吸いつけられるように観音開きの扉の前で立ち止まった。
 大きなドアだなあ。ここに誰かいるも知れない。
「誰かいないのお?」
 と、呼びかけながら薄めに扉を開ける。
 そこが食堂だとも知らずに……


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