悲しいニュースが多すぎる

 




【悲しいニュースが多すぎる】
新聞のラジオ欄って、もう必要ないのでは?
で、おなじみのヒカコラですよ、こんにちは!


日本中を震撼させた平塚市の5遺体事件をはじめ最近は本当に常軌を逸脱した事件が多い。

被害者が加害者の親族だったり、
犯行動機の深刻度が低かったり
殺 害方法の猟奇性が高かったり、
それでいて加害者の罪の意識が低かったり、
こと殺 人事件に関してはそういった傾向が顕著にみられる。

ニュースなどで近隣の住民にインタビューしているのを見ていると、
「普通に良い人でしたけどねえ……」
「まさかあの人が人殺しなんて……」
などという声が聞こえてくる。
地域社会のつながりが希薄になってきている昨今、実は被疑者の人物像についても表層しかみえておらず、結果として当たり障りのないコメントをするしかないのだろうという見方もある。
だが一方で、やはり狂人は常人の中に潜んでいるということではないかと考えるとなにやら背筋に冷たいものを感じてしまう。

そもそもこのような報道する目的、意義、必要性は何なのかといえば、
「これだけ多くの事件が起きているのだ。他人事と考えず常に危機管理意識を持て」
「悪いことをした人間はいずれは必ず捕まる。だから妙な気を起こすんじゃない」
といった被害者目線、加害者目線に対する喚起・牽制といったところだろう。
しかしながら後者に関しては、必ずしも犯 罪の抑制につながっているとは思われないフシもある。

・犯人は捕まることを恐れていない。
・ただ殺したいという欲望を抑えられない。
・逆に報道された犯 罪者を見て、自分はまだマシだと勘違いする。
・あるいは、あの人たちもやっているのだから自分もやっていいよねという身勝手なまでの集団心理に踊らされる。

そんな犯 罪者予備軍が醸成されているのではないかとボクは危惧している。
滑稽な話に聞こえるかもしれないが、それが絶対にありえないと誰に断言できよう。
ではどう対処すればよいのか。
はっきりいって特効薬なんてどこにもない。
あればとっくの昔に誰かが喋っているところだ。

ただひとつだけ言わせてもらえば、いろんな意味で生活していくことが困難な状況に陥っている現代の社会環境こそが、人を狂気に駆り立てる一番の要因なのではないかとボクは考える。
新聞は社会面のみならず政治、経済、国際、どこを眺めても明るいニュースは実に少ない。
不安な年金財源、生活を圧迫する税金、公金横領、既得権、ニート、天下り、アジア外交、拉致問題、マネーゲーム、劇場型政治、所得格差、リストラ、少子化、海外派兵、子どもの学力低下、産廃不法投棄、核開発――――
悲しいニュースが多すぎる。
切ないニュースが多すぎる。
最後にもうひとつ、切なくも悲しいお知らせがある。
残念なことに今回のコラムにはオチがないのだ。
that's all


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