沙粧妙子―薔薇の誓い―

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ACT7 復活の赤い薔薇
 
 黒井初子は自分の部屋でビデオを見ていた。
 タイトルは当然、【悪魔のレバー】。
――帰りにもう一度寄ってみてよかった。また誰かの手に渡っていたらこの苛立ちはどうしようもなかった。
 初子は部屋の明かりを消して、体育座りで画面に集中していた。
 手の届く位置には半分ほど減った焼酎のお湯割りが待機している。
 彼女はヘッドホンを着けてビデオを鑑賞していた。
 本当はこんなもの使いたくはない。できることなら、大枚はたいて購入したサラウンドスピーカーシステムを使って臨場感を堪能したいのだが、以前そうして観ていたら上階の住人からクレームがきたのだ。
 その人は50前後の品のなさそうなおばさんで、聞くところによると息子が今年大学受験なので、あまり騒がしくしないでほしいとのこと。こっちは普通の音量で観ているのだ。とても騒がしいとは思えない。それでも初子は控えめに音量を絞って引き続き観ていると、今度は天井からドンドンと音がする。階上のおばさんがわざとこちらに向かってうるさいとでもアピールしているかのようだ。ヒステリックに床を踏み鳴らしているおばさんの姿を想像し、初子は寒気を覚えた。
 試しにテレビを消してみたら階上の音は止み、またつけたらドンドンドンドン。
 これは明らかに嫌がらせだ。
 しかも、向こうの言い分も酷いものなのだ。
 「みんなが寝てるようなこんな時間に大きな音を出すなんて非常識じゃないの!」
 初子は言ってやりたかった。非常識はおまえのほうだ!まだ夜の9時だぞ。みんなが寝ている時間なワケがない。だいたい、あんただって起きてるじゃないか。そんなんじゃビタ一文だって説得力がないぞ。息子の受験勉強だと?知らねえよ、んなもん。ぼうやはクソしてはよ寝ろっつうの。
――ああっ、思い出したら無性に腹が立ってきた。
 このヘッドホンのジャックを引っこぬいて、音量つまみをMAXにしたい衝動に駆られる。
 だけど、初子はそうはしなかった。いや、できなかった。
 その代わり、仮想の世界ならいくらでも強気で残酷な女になれる。
 よし、決まりだ。
 今夜のターゲットは上階の住人に決定。
 ビデオ屋の店員も職場の上司も捨てがたいが、今夜の生贄は階上のおばさんにしよう。
 初子は映画の中の殺 人鬼シルビアになりきっていた。
 画面の中は、今まさにシルビアが一人暮らしの老婆の家に押し入り、逃げ惑う相手をじわじわと追い詰めていくシーン。
 殺 人鬼視点のカメラワークが臨場感を増し、感情移入の度合いも一気に増していく。
 初子には小さな老婆の背中が上階のおばさんに見えた。
――けけけけけ、あと2分05秒後におまえは死ぬのだ。
 老婆がリンゴを投げつけ抵抗を試みる。
「無駄無駄無駄無駄ァ」
 老婆がコードに蹴躓く。なんというぶざまな姿か!
「死ね死ね死ね死ねェ」
 クローズアップされる老婆の眼球。その瞳に映るのは美しき殺 人鬼シルビア。さあ、やれ、やるんだ、やってしまえ!
「えっ!」
 初子は思わず声をあげた。
 何が起こったというのだ。
 一番イイ場面で突然の砂嵐。ノイズだらけの無味乾燥な画面。ナニコレ?
 初子はヘッドホンを外し、ビデオデッキを覗き込んだ。デッキは正常に稼動している。
 誰かの悪戯だろうか。前に借りた人がわざとおいしい場面を消したのかもしれない。だとしたらなんて幼稚なことをするヤツなんだ。昔、子どもが図書室で推理小説の解答編の頁をこっそり破り捨てたりしたような、そんな救いがたく稚拙な悪戯。されど、許しがたい悪戯でもある。
 ふいに砂嵐が消えて画面が復旧した。
 だがそれは、【悪魔のレバー】ではなかった。
 初子は再びヘッドホンを装着し、瞬きもせず食い入るように画面を見つめる。
 明らかに画質が落ちている。まるでハンディカメラで撮ったホームビデオのような映像だった。
「これは・・・・・・!」
 初子はその映像を最後まで見終えると、再び巻き戻して再生した。これを繰り返すこと3回。
 初子はこの映像を保存しておきたいと思った。しかし彼女の部屋にはデッキは1台しかなく、ダビングは不可能。なによりも、この映像を他の者には見せたくないという強い意志が沸きあがる。
 初子は気がついた。
 これがリアル。
 これこそがリアル。
 私が心から求めてやまなかったもの。
 手直にあったツメきりで人差し指の先を挟むと、簡単に皮膚が割れ、傷口が開き、血の玉が膨らんだ。軽い痛みと深い赤。
「これだ。これこそがリアル」
 そう呟いて傷口を口に含むと、初子の目に黒い狂気の光が宿る・・・


 マンション1階のエレベーターホール。
 【▲】ボタンを押した沙粧妙子は短くため息をついた。
 深夜のエレベーターホールは照明だけがやけに明るいが、人っこひとりいやしない。
 まるでマンション全体が寝静まってしまったかのような静謐。冷たく無機質なドアだけが沙粧と向き合っていた。
 そんな彼女の背後に音もなく忍び寄るひとつの影。
 それは紛れもなく今まさに沙粧が追っている男、力丸禅太だった。
 6・5・4・・・
 ゆっくりと降りてくる箱。
 力丸は気配を押し殺しつつエレベーターの到着を待つ沙粧の真後ろに立った。
 3・2・1・・・
 チン。
 エレベーター到着の音と同時に力丸の太い腕が沙粧に襲いかかる。
「妙子、危ない!」
 鋭い叫び声。
 ドアが開く。
 声に反応し、沙粧が背後を振り返る。
 背後には巨漢の男、力丸禅太が今まさに沙粧の首に手をかけようとしていた。
 さらにその後ろでは梶浦圭吾が優雅に佇んでいる。
「油断は禁物だよ、妙子」
 沙粧はすばやく力丸の膝頭に蹴りをいれ、エレベーターに乗り込むと【閉】ボタンを連打した。
「サショーさぁん」
 タフな力丸が体制を立て直し、閉じかけた扉に肩をねじいれてくる。
「ひとりでいっちゃだめだよお」
「あなたは・・・!」
 混乱する沙粧の脳裏で、目の前の男と卒業アルバムの男がシンクロする。
「力丸禅太っ!」
 沙粧はドアを強引にねじ開けてくる力丸を蹴りつづけるが、ほとんど効いていないようだ。
「すてきだ。サショーさん、俺のことを知ってるのかい」
 ついにエレベーターの中に入ってきた力丸が沙粧の細い腕を掴み戦利品のように持ち上げる。万力のような腕の力で打撲に近い衝撃が沙粧を襲う。
「くっ・・・!」
「やっぱり俺のサショーさんだ」
 沙粧が身悶えながらも、力丸の背後で傍観を決め込んでいる梶浦に呼びかける。
「あなたも見てないで手伝いなさいよ」
「なにッ?」
 思わず振り返る力丸。しかし少なくとも彼の目には誰も映っていない。
 梶浦が風のように沙粧のそばまでやってきて、悲しげに囁いた。
「無茶を言わないでくれ、妙子。ボクはもうこの世界の住人じゃない。こっちの人間に対する物理的干渉は不可能なんだ」
「なにを冷静に・・・」
「おい、サショーさん、なにごちゃごちゃ言ってんの。ちょっとおとなしくしててよ。言うことさえきいてくれれば乱暴はしないからさあ」
 どこからも呼び出しのかからないエレベーターは1階で停止したまま。その狭い箱の中には、2人の人間と1人の幽霊(?)が犇めいている。
 どうやら本当にこれ以上危害を加える気がなさそうな力丸に沙粧が問う。
「わかったわ。あなたの話、聞いてあげる。だからその手を離してちょうだい」
 しかし、沙粧を吊りさげる力丸は手を離そうとしない。
「なあ、サショーさん、どうして俺のことを知ってるんだよ」
「それはこっちのセリフよ。あなた、私のこと知ってるの?」
「おいおい、状況わかってんのかな。いいからこっちの質問に答えなよ」
 だが、沙粧は頑として答えない。体勢的に圧倒的不利な状況であるからこそ、精神面でイニシアチブをとらなければ、この危機は打破できないと考えていたのだ。
「あなた、何人殺せば気がすむの?毎週毎週、殺し続けて、ヒーローの真似事?ガキみたいね」
「ガキとはなんだよ!サショーさんなら俺のことわかってくれると思ってたのに」
「あなたのことを理解できる人間なんてこの世にはいないわよ。誰一人としてね」
「な、なんだとお!」
 力丸の心に風穴があいた。沙粧は力丸の心の揺れを機敏に感じとっていた。
「当然でしょ。意味もなく罪もない人を殺しつづけるレベルの低い犯 罪者の気持ちなんて理解できるはずがないわ」
 いい加減に腕が痺れてきた。早く抜け出さないと、このままではよしんば抜け出せてもすぐに次の行動に移れない。
「ば、ばかやろう!お、俺は萌子なんかと違うぞ」
――モエコ・・・麻生萌子のことか?
 沙粧は逡巡した。たしかに1年前、麻生萌子に対して同じような言葉を投げかけた記憶がある。しかし、なぜそれをこの男が知っているのだ。あの場には関係者以外誰もいなかったはず。麻生萌子は刑務所、百合岡貞嗣は死亡、竹本哲夫が誰かに話したとも思えない。
 そうしているうちにエレベーターが上昇をはじめた。
 マンションの住人の誰かが呼び出したらしい。
 ツイている。反撃のチャンスだ。エレベーターが開けば箱を呼んだ住人がこの状況を見て、助けを呼んでくれるはず。そして、それを阻止するべく力丸もまた動くはず。そこが勝負だ。エレベーターが開いたその一瞬で勝負が決まる。だが、どこで停まるかはわからない。この状態ではエレベーターが減速する微妙な動きを把握する自信もない。
「10階だよ」
 梶浦が短く言った。
「このエレベーターは10階で停まる」
「・・・・・・」
「ボクを信じて、妙子」
 沙粧は信じることができなかった。幽霊などいやしない。梶浦は自分自身の弱いココロが生み出した幻想、つまるところ己の分身にすぎない。そんな彼が沙粧に知りえない情報を知ることなどできようはずがない。論理的に考えれば行き着くところそうなる。
 しかし――
 沙粧は10階で停まることに賭けてみようと思った。それが彼女の意識の根底に横たわる切実なる願い、希望でもあったのだ。沙粧は梶浦の言葉に黙って耳を傾けた。
「妙子、チャンスは一度きりだ。いいかい、足元に君のバッグが落ちている。バッグの口は開き、その中身はほとんどぶちまけられた状態だ。そこにはスプレー缶も転がっている。君からは見えないが後ろの隅に転がっているんだ。それは、さっき寄辺管理監から貰った目潰しスプレーだよね。もちろん、そのスプレーで相手を失明させることはできないが、一定時間視界を奪うには充分だ。それで反撃するんだ」
 エレベーターが上昇を続ける。
 5・6・7・・・
――早く着いて!
 沙粧は祈った。力丸が途中の階のボタンを押すことに気がつけば、そこでジ・エンド。唯一の好機を逃すことになる。
 8・9・10・・・
 今だ!
 チン。
 ドアが開いた。
 ドアの向こうには痩せ気味で背の高い青年がひとりポカンとつっ立っていた。
 女の腕を掴んで、獲物のようにぶら下げている大男。
 目の前の光景がすぐには把握できないでいるようだ。
 慌てて【閉】ボタンに手をのばす力丸。
 しかし充分に心構えをしていた沙粧のほうが一瞬早い。
 上体を振り子のようにふりぬき、さっき蹴飛ばしたところと同じ膝頭を蹴とばす。
「うげ」
 たまらず手の力を抜く力丸から逃れた沙粧がドアとは反対側、エレベーターの奥へ回り込む。
――あった!
 スプレー缶は確かにあった。梶浦の教えてくれた場所に転がっていた。それはもう奇跡としか思えなかった。
 数秒遅れて振り向く力丸の顔面めがけてスプレーを噴射する。
「ぐわっ」
 たまらず目を覆う力丸。
 その隙を突いて、力丸の股下をかいくぐり、エレベーターから脱出する。
「ここは危ない。あなたは警察を呼んできて」
 沙粧は未だ呆然と動かない住人らしき男にハッパをかけると、男は弾かれたように携帯電話を掴んで駆け出した。
 その間に力丸が沁みる目をこすりながら、手探りでエレベーターのボタンを押す。
 ドアが閉まり、力丸ひとりを乗せて降下する。
「しまった!」
 エレベーターはあっという間に1階まで降りてしまった。それでも力丸は目をやられている。今からなら追いつけるかもしれない。そう判断し、急いでエレベーターを呼び戻そうとする沙粧を梶浦が呼びとめた。
「遅いよ、妙子」
「いえ、まだ追いつけるわ。だってあいつ、目が――」
「無理だ、諦めるんだ」
 梶浦が正面に回って沙粧を諭す。
「無理なんだよ、妙子」
 すると沙粧は、フッと息をついてその場に座り込んだ。
 落ち着いた途端、腕の痛みが襲ってくる。
 梶浦が気遣うように優しくそっと語りかけた。
「大丈夫かい、妙子」
 10階の住民たちは深夜の激闘に誰も気付かなかったようだ。
 シンと静まり返る通路には沙粧と梶浦ふたりきり。
「助かったわ」
「おや、姫のご機嫌がなおったようだね」
「あなたが助けてくれなかったらどうなっていたか」
「妙子、今夜はやけに素直だね」
 おどける梶浦が、やがて嘆息をもらした。
「さっき妙子、見てないで手伝えってボクに言ったよね。でもボクには何もしてやれないんだ。口惜しいよ。あんな力押しだけの低能な犯 罪者には、君に触れる資格さえないというのに・・・」
 梶浦は、痣になっている沙粧の腕をいとおしげに撫ぜると、次の動作で一本の赤い薔薇を差しだした。
「鮮明なまでの赤ゆえにその名がついたカーディナルさ。妙子、この赤い薔薇の花言葉を知ってるかい?」
「さあ」
 うすく笑う沙粧。梶浦の言葉に癒されていく自分に戸惑いながらその薔薇を受け取る。
「花言葉は、君にボクのすべてを捧げよう、だ」
「キザね」
 さらに今度は白い薔薇をその手に出現させる梶浦。
「この美しくも儚い純白の薔薇はマリアカラス。白薔薇の花言葉。それは・・・」
 見つめあうふたりの間に短い沈黙が流れる。
「君はボクに最も相応しい女性だ。そして君にとってもボクが最も相応しい――」
「ふっ、やっぱりキザ」
 揶揄する沙粧に真摯な態度を崩さない梶浦が言う。
「いつの日か、この白い薔薇も君に受けいれてもらいたい。ボクの想いとともに――妙子、ボクたちはもうひとつなんだ。ひとつなんだよ」
「ありがとう」
 それは沙粧の素直な気持ちだった。
 驚くほど無防備なココロ。
 警戒心や猜疑心など微塵もないハダカのココロ。
「大丈夫ですか!今、警察呼びましたから!」
 そう叫びながら、さっきの住民らしき男が戻ってきた。
 すると、梶浦が蝋燭の炎のようにフッと掻き消える。
 沙粧は手の中の赤い薔薇を棘ごと握りつぶした。
 それは悲しいほどに手応えがなく、彼女の手の中で雪のように消えてしまったのだった――





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